ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

世襲制限に思うこと

2009-06-23 12:43:00 | 社会・政治・一般
政治家に世襲が多いのは事実だ。

だが、民主主義の下、有権者が世襲を望んでいる事実を無視して、世襲を制限しようとするのは如何なものかと思う。最近の世襲制限の議論をみると、あまりに安易すぎる気がして嫌だ。

第一、世襲政治家が多いことを憂うならば、それを望んで投票した有権者を批難するのが筋だろう。そこを避けて、世襲議員たちを批難するのは卑怯だ。

それに世襲を支持する有権者だって、それほどバカではない。現・東京知事である石原氏が知事選挙に出た後、その選挙区を継いだのは三男坊だった。このお兄ちゃん、挨拶でいきなり「ボクのお父さんは都知事です」とやらかして、後援者たちをずっこけさせた御仁だ。当然にその後の初選挙は落ちた。

しかし、その後地道にドブ板政治活動をやり、次の選挙では当選を果たした。私は今でもこの御仁をボンボン政治家だと思っているが、この人が熱心かつ小まめに選挙区をまわり、多くの有権者の声を聞こうと努力していたことは評価している。だからこそ、有権者はこのお坊ちゃまに投票したのであろう。

ただし、私とて世襲の弊害は気を病んでいる。とりわけ問題なのが、政治団体を利用した資金の相続税逃れだ。

政治団体は民法上「人格なき社団」とされる。株式会社や財団法人などと異なり、法人格がないため取引の主体とはなれない。たいがいが代表者の個人名をもって預金口座を作り、事務所賃貸の契約等をして活動している。

政治活動は非課税であるが、収益活動は課税対象となる。この区分けの問題もあるが、最大の問題は、政治団体の管理する預貯金は相続税、贈与税の対象から外れてしまうことだ。

この抜け道を使って世襲議員たちは、親が蓄えた預貯金を堂々と非課税で相続してしまう。小沢一郎になると、政治団体の名の下に巨額な不動産を蓄えている始末だ。これは現行法では課税されない。最近の週刊誌の報道によれば、小渕優子はこの手で父親の政治資金を無税で世襲したようだ。

私は世襲の制限には反対だが、この政治団体を使った相続税の課税回避は規制すべきだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FX投資家のための賢い税金の本 インヴァスト證券

2009-06-22 12:24:00 | 
貯蓄から投資への転換を、霞ヶ関が宣してから早や10年。

投資にもいろいろあるが、2年くらい前から目に付くのが「FX取引」という奴だ。TVでのCMはもちろんのこと、電車のなかの吊革広告から、新聞雑誌の片隅にまで広告を頻繁に目にする。

ちょっとした金融情報を扱う雑誌などにも、何度となく特集が組まれて、書店に並んでいる。実際にFX取引で儲けて、それを適切に申告せずに、後日税務署から脱税として尻尾をつかまれたカリスマ・トレーダーなるニュースを読んだこともある。私自身は、FX取引は投資というより投機、ぶっちゃけ賭博だと考えている。

表題の本は、FX業者が書いた本で、我々の業界では著名な税理士の先生が監修している。先月のことだが、その先生の講演を聴いてきた。

開口一番、その先生は「私、FX取引はやりません」と断言する始末。まあ、多分そうだろうと思っていたので、別に驚きはしないが、よほど周囲からやっていると思われていたらしい。

講演の内容は、我々専門家向きの話なので割愛するが、話の節々に「FXなんて危ないよ」との思いがにじみ出ているのが、妙に可笑しかった。もちろん、講演の会場には、この本を書いたFX業者の方も来ていたようなので、直接駄目とか危ないとかは言わない。このあたり、さすがに気配りはしている。

まあ、私としては改めてFX取引の仕組みや、課税関係を確認できたので十分納得のいく講演であった。ただ、講演後あらためてこの本を読んでみると、FX取引を事業として申告できそうなことが書かれていた。これはどうかと思う。

講演では、その先生は説明を回避していたが、FX取引はまず間違いなく雑所得になると私は思う。たとえ年間の取引高が億単位であったとしても、過去の商品先物取引の事業所得の申告が取り消された事例等を鑑みると、やはり事業所得としての申告は無理がある。たぶん、FX会社サイドの主張だろう。

それはさておいても、なんだってこんな危ないギャンブルが堂々宣伝されているのか不思議でならない。乱暴な言い方だが、FXなんて丁半博打と大差ない。しかも借金して勝負する。

ギャンブルなのだから、儲かる時は猛烈に稼げる。そうでないと、ギャンブルとしてはツマラナイことになる。そして、損する時も凄まじく大損をこく。

広い意味で投資には投機が含まれると思う。また投資は自己責任である以上、なるべく自由であるべきだとも思う。しかしながら、FX取引は危険過ぎる。だいたい通貨の上げ下げなんて、その道のプロでも分らない。現物通貨ならまだしも、借金しての取引はリスクが大きすぎる。

やるのは自由。でもね、借金してまでしてギャンブルするな、と私は思うぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メガバンクの醜態

2009-06-19 12:11:00 | 経済・金融・税制
最近の流行の一つに、大盛りがある。

しかもただの大盛りではない。メガ大盛り、嬉しくって困ってしまう。いくらなんでも量が多すぎるだろうと思うが、食べられるんだよね。カロリー?・・・知りたくないな、怖すぎる。

で、話しが一転するが、最近の日本の銀行、とりわけメガバンクは、メガバカと化している。

ただのバカではない。世界有数の巨体を誇るオオバカである。規模は大きくなったが、銀行としての機能ははるかに低下したと私は考えている。

バブルの崩壊により大きなダメージを受けた日本の銀行は、その多くが破綻してもおかしくないはずだった。しかし、日本の金融界の破綻が、日本経済に与える影響を考慮した霞ヶ関は、公的資金と合併の強要により危機を乗り越えさせた。

その結果、世界有数の巨大銀行が生まれたわけだ。しかし、規模は巨大だが、企業としての経営力は巨大にはほど遠いものであることが次第に分ってきた。

まず今の銀行員は企業の業績評価ができない。決算書を財務診断ソフトに入力して、評価はコンピューターまかせである。おまけに融資の審査は、本店の審査部か関連会社にまかせっぱなし。だから現場を見ずに、数字だけみている。

私は以前、銀行員の方が会社を訪れ、在庫商品につもった埃をみて即座に粉飾を見抜かれた場面に遭遇したことがある。当時の銀行員は現場仕込みのノウハウを持っていて、その鋭い視線は脅威ではあったが、反面社長のやる気とか、上昇機運にある社員の雰囲気を読む目線も持ち合わせていた。

銀行の厳しい視線を耐え抜いた企業が、高度成長を支えてきたのは間違いのない事実だと思う。しかし、今の銀行員にはその視線はない。持ち合わせていない。

バブルの崩壊と不良債権に懲りた銀行は、銀行員と企業の癒着を疑い(実際、今もあるが)、現場を知る支店の銀行員を信用せず、決算書の数字だけで企業を判断するようになった。相次ぐリストラで、企業を現場で審査できる銀行員の首を切り、代わって投資信託や生命保険の販売員としての銀行員を育てた。

かつて銀行は、預金をあつめてそれを企業に融資することで食べていた。しかし、現在の銀行は為替手数料と金融商品の販売手数料で食べている。カナリアが歌を忘れたように、銀行員は融資のための評価を忘れた。

今も昔も不動産担保は融資の決め手であった。しかし、昨年来の不動産不況で土地が売れなくなった。おかげで銀行は、不動産の担保価値すら信じられなくなった。かつては時価の六掛けといわれたが、現在は路線価(時価の八掛け)の半値で評価してくれれば御の字だ。それでも不安で仕方ない。

だから、現在銀行は融資をしたがらない。苦労いらずの為替手数料とお気楽無責任な紹介手数料で満足している。企業に金を貸して金利で稼ぐ気なんて、さらさらない。だから貸し渋りが横行する。

不動産の時価が下落すれば、たちまち融資の回収にかかり、世間から貸し剥がしと批難されるが知らんふり。内心は怖くて仕方がないのだろう。本当にこの担保評価額で大丈夫なのか自信がない。だから剥がしやすい中小企業から資金を引っ剥がして堂々倒産に追いやり、決算で貸倒損失を計上して安堵している。

資金の供給者としての公的役割は、メガバンクほど果たしていない。企業の業績評価に自信がないから、融資することができないでいる。地元に密着する中小金融機関のほうが、足で歩いて目で見て、社長と直に話すだけ、まだましな融資をしているのが今の現状だ。

みかけの数字に騙されてはいけない。金融庁から指摘され、世間から貸し渋りと批難されて仕方なく融資を増やしているが、中味はごまかしだ。借りる必要がない優良企業のもとへ頼み込み、みせかけの融資で誤魔化す姑息な姿勢が今のメガバンクだ。

現在、銀行の企業融資の能力を向上させるためのプログラムが組まれ、研修が行われている。銀行だって分っているのだ。しかし、その講師を務めている方は嘆く。あと10年かけても、元の能力は戻らない。なぜなら銀行内部に、もはや企業融資の実地ノウハウをもった管理職がいない。だから部下の指導もできず、適切な評価もできない、と。

美味しい料理の大盛りは歓迎だが、アホな銀行の巨大化は願い下げだ。銀行の低能力化が、これからの日本経済の足を引っ張ることは間違いない。いやな予測だが、多分当たると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FAMOSO(雑誌) 所&たけし

2009-06-18 13:36:00 | 
買っちゃった~♪

北野タケシと所ジョージが作った、噂のオバカ雑誌FAMOSO。発売日には、近所のコンビニの書棚にたしかに並んでいた。昼時に立ち読みしながら、そのくだらなさから事務所に持って帰るのを躊躇ったのが運の尽き。

仕事を終えて件のコンビニに行ったら既に売れ切れ。銀座から渋谷までに、何件か本屋をあたったが、いずれも当日で売れ切れであった。

あんなクダラナイ雑誌、誰が買ったんだ!

くだらないのは分っていたが、買い損ねたことに不満が残った。その三日後のことだ。とある高級住宅街のクライアントのもとを訪れる途中、立ち寄ったコンビニにその雑誌はあった。

さすが高級住宅街。セレブな方々は買わなかった模様。あたしゃ、喜んで買いました。そして、そのくだらなさに脱力しつつも、笑い溶けましたね。ホント、クダラナイ。

流しの立ちション屋って何だ?んなもん、あるわきゃないだろうと雑誌に突っ込みながら、最後まで読んでしまいましたよ。この出版不況の最中に完売する雑誌なんて滅多にないが、このクダラナさで完売なのだから脱帽だ。上手い商売しやがるね。

タイトルをみれば分るように、某写真週刊誌をからかったものだ。全編すべてヨタ記事ばかり。しかも使っている紙は、高級雑誌でも滅多につかわぬ高品質な紙を使っている。それに反比例して下品な創作記事ばかり。

そのわりに他のメディアに対する警鐘とか、皮肉のような意図も感じられない。すべて、タケシと所のお遊び感覚だけで作られた雑誌。

呆れていいやら、感心していいやら、困ったもんだね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栗本薫の死に思うこと

2009-06-17 12:12:00 | 社会・政治・一般
先月末、新聞の片隅に作家・栗本薫の死が伝えられていた。

まだ50台後半であり、ガンによる死であった。未完の「グイン・サーガ」シリーズをはじめ、いくつもの未完の作品を残しての死でもあり、ファンの方々にとっては、さぞかし無念であったと思う。

もっとも、私にとっては評論家・中島梓の死といったほうが分りやすい。このSFファン上がりの評論家の文が巷に出回るようになったのは、私が中学生ぐらいだったと思う。

記憶間違いでなければ、雑誌「幻影城」であったと思う。あの時代、SF小説は不遇であった。小松、星、筒井の御三家を別にすれば、SFなんて子供の読み物と蔑視されていた。

だから、まともなSF評論でさえ、滅多にお目にかかれなかった。そんな時代だからこそ、中島梓の存在は目立った。私が高校生の頃には、SF評論の第一人者的ポジションにまでのし上がっていた。

ただ、この人なにかと舌禍が多かった。評論家の常と言われればそうなのだが、それにしたって思い込みの激しさと、共感のない独断に辟易した人は少なくなかったはずだ。かくいう私もその一人だった。

だから栗本薫の名義で作家をはじめたことを知っても、なんとなく読む気になれなかった。多分、短編を何本か読んだ程度だと思う。ただ、途中で放り出すことがよくあるらしく、そのせいで長編には手を出していない。

ところが、私の懸念とは裏腹に「グイン・サーガ」シリーズは一人の作家の作品としては世界最長を謳われるようになっていた。どうやら、私の見込み違いなのかと思っていた矢先の訃報であった。

ほとんど読んでいない私には、作家・栗本薫を評する文は書けない。

ただ、栗本の死により、大長編小説「グイン・サーガ」が未完に終わったことは確かだ。これは小説に限らず漫画にもみられるが、近年やたらと長編が目立つ。大風呂敷を広げるのはいいが、拡げた以上はしっかりと畳んで欲しい。それは作家の義務だと思う。

何度か書いているが、未完のままですませている作品が多い田中芳樹は、栗本の死を教訓として欲しい。年一回だけ集中的に「HUNTER×HUNTER」を連載する冨樫義博や、ほとんど単発でしか連載(?)が描けない萩原一至「バスタード」も同じだ。プロの作家としての自覚をもって欲しい。

寡作ではあるが、トマス・ハリスはしっかり完成させてから本を刊行する。途中まで書いておいて放り出すのは、作家としては恥ずべき行為だと私は弾劾したい。それでも待っているファンの気持ちを大事にして欲しいものです。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする