厳しくて、何が悪い。
今でも本気で、そう思っている。親しい友人のみならず、知人からも厳しい人だと云われることが多い。言外に厳しすぎると、咎められていることも、ままある。
確かに厳しいだけではイケナイことも分っているが、分っていてても中々和らげることが出来ずにいる。出来ない最大の理由は、やはり厳しいことが必要だと本気で信じているからだ。
私は欠点の多い人間だ。子供の頃から手間のかかる問題児であった。泣き虫で甘えん坊で、その癖短気ですぐに手を出すから、喧嘩が絶えない。しかも喧嘩が弱いくせに、簡単に切れるせいで先手必勝で勝つこともある。
勝っても、代償を求めるでもなく、成果を誇るでもなく、むしろ自己嫌悪に追われる難儀な子供であった。思い出すと、勝った喧嘩でも「御免、ゴメン」と謝っていた。首を絞めちゃったことが汚い手口だと自覚しているのに、負けたくなくて締めちゃったからだ。
つくづく、自分は馬鹿者だと、首をうなだれてトボトボと帰る気持ちの何と惨めなことか。
そんな私が成長するきっかけは、間違いなく厳しい体験であった。朝飯を吐いても許されず、再び走らねばならぬ厳しさ。先輩に怒鳴られ、しばかれ、傷む横っ腹を抱えながら走りぬいた最終日のランニング。
苦しくて、涙さえこぼれ、悲鳴を上げたいほどの辛さに耐え抜いたからこそ、今の自分がある。怠け者で、自分に甘いことが、これほど自分をダメにしていたとは思わなかった。厳しさに耐えられたからこそ、分った自分の情けなさ。
鉄は真っ赤に熱して、火花を飛ばすほどに叩かれてこそ酷Sになる。人もまた同じこと。
だから人生には厳しさが必要不可欠だと信じきっている。
優しさが不要だと思っている訳ではない。他人からの優しさなくして、今の自分がないことも分っている。でも、優しいだけではダメだとも思っている。厳しさの裏づけあってこその優しさだと信じている。
そんな私が、いささか後悔しているのは、ライバルを持たなかったことだ。私が青春の情熱を傾けた登山は、他人と争うのではなく、自然と対峙する自分自身との闘いであった。
共に山を登る友人は、ライバルというより同士に近い。友達は大切だが、人を成長させるにはライバルが必要だったのではないか。その点、私にはまだまだ厳しさが足りない。そんな疑念を拭いきれない。
だからこそ、表題の漫画は忘れられない印象がある。主人公である巴突進太(トモエ・トッシンタ)に師が叫ぶ「男を成長させるのは友ではなく敵である」と。
その信念ゆえに、師は突進太のライバルのコーチとして立ち塞がる。その師に対して母子で立ち向かう主人公の姿が清々しい。ちなみに、この主人公の母は、女三四郎と謳われ、シャチと呼ばれるほどの厳しいおふくろさんでもある。
ただ、その作品中で使われる必殺技は頂けない。なんだよ、あの天地返しって。そのせいか、TVで実写化された際の、柔道の試合の場面のしょぼさに幻滅した記憶がある。漫画だと迫力満点なんですけどね。
犬好きの私だが、犬って味音痴だと思う。偏食のワンコなら、けっこう居るが、グルメとは程遠いと思う。犬食いに代表されるように、味わうよりも飲み込むほうに力が入るのが犬だと思う。これでは、到底グルメとはいえない。
ところが猫は、いささか趣が異なる。偏食というには、いささか優美すぎる。もちろん、飢えた野良猫にグルメの気品を求めることはしないが、家で飼われた猫ともなると、こりゃグルメだと思わせる風情がある。
大食い、早食いならば犬だろうが、グルメとなると、やはり猫だと思う。
一方、ミステリーの世界だと警官が犬なら、探偵は猫かもしれない。忠実な捜査をやらせれば、犬が向いていると思うが、難問奇問を解きほぐすには猫の機転が役に立つのではないか。
そんな猫の代表例が表題の作品で活躍するシャム猫のココだろう。ココの活躍なくして、事件の解決はないというほどの活躍ぶり。
実のところ、猫が活躍するミステリーは案外多いが、ここまで活躍する例は稀だと思う。当然にシリーズ化しており、日本でも5巻ほど刊行されている。
正直、ミステリーとしての謎解き部分のレベルは、そう高くない。ミステリー好きな読者ならば、話の半ばで犯人がみえてくる。それでも面白いのは、その謎解きに猫が活躍するからだろう。
別に猫が好きでなくても、けっこう楽しめるミステリーだと思うので、機会がありましたら是非どうぞ。
歌うこと自体は嫌いではなく、むしろ好きだと思う。問題は、自分の声質に合わない歌をカラオケで歌おうと無理するから、殊更下手になってしまうことだ。
ちなみに、カラオケも自分の声質に合った曲だと、そう下手ではないらしい。学生時代の仲間内で、たまにカラオケをやる際、得点を競うことがある。
私はわりと点取り虫の気があるので、こんな時は気張って歌う。体調や曲にもよるが、平均して80点台後半は出るので、仲間内では高得点の部類に入る。
ただし、歌うより大声で騒ぐほうが得意な面々なので、下手な中では、まあ上手い程度のものだとは分っている。しかし、あの得点のシステムは、機械的な採点なので、情感までは採点してくれない。
私がこの人のカラオケは上手いと思っても、得点ははるかに低かったりすることがよくある。譜面どおりに歌わず、自分の声質に併せてアレンジしているから、得点が低いのだろう。でも、私はそんな情感を込めた歌い方が好きだ。
詰まるところ、カラオケの採点システムでは歌の上手い下手は測れないと思う。そう考えると、やっぱり私は下手だ。まァ、下手でも楽しければ良いので、気にしないことにしている。
別にカラオケに限らないが、私が好きになる曲は、自分が歌えない曲が多い。いや、自分が歌えるかどうかで好きになるわけではないが、気がつくと自然と自分では歌えない曲ばかり好きになってしまう。
最近だと「いきものがかり」が非常に気に入っている。CDも三枚ほど購入して、ドライブの時に良く聴いている。良い曲が多いが、まず間違いなく私には歌えない曲ばかりだ。
ないものねだり、なのだろうか。人には自分にないものに憧れる傾向があるのは確かだと思う。私は音域が狭く、しかも高いコードの曲はまず歌えない。
ところが、好きになる曲の多くが、そのような曲ばかりだから困る。まァ、聴いているだけでも楽しいので、それで我慢することにしている。
インターネットもブロードバンドの時代になると、ネットで好きな曲が聴けるのは確かに嬉しい。嬉しいけど、パソコンのスピーカーでは音質がイマイチだ。
単にスピーカーの性能だけでなく、音をデジタル化した段階で切り捨てられている音域があるようだ。私は目が悪い分、耳はかなりいい。十代の頃は、ステレオもお仕着せタイプでなく、自分で好みのアンプやスピーカーを組み合わせていた。
いわば音響マニアの気質が残っているので、パソコンの音質の悪さが無視できない。丁度いい機会だったので、ゴールデンウィークの時に、秋葉原を回って外部取り付けのスピーカーを買ってみた。
さっそく取り付けると、音質が格段に良くなっている。本格的なステレオには届かないが、ステレオタイプのラジカセ並みの音質が出るようになった。
今年のゴールデンウィークは、旅行にも行かず、ほとんど仕事で潰した。そんな可哀相な自分へのご褒美のつもりである。あまり安くはなかったが、満足のいく出費だったと思います。
最初に断っておくと、私は今の原子力発電は過渡期の技術レベルのものであり、原子力(核分裂)自体を十分にコントロールできていないと考えている。
つまり十分に制御できない技術を使っているのが、現在の原子力利用だと思う。従って、今回の東日本大震災のような想定外の事態が起きれば、大きな事故になってしまうのは必然だろう。
このような事故が起きると、原子力発電の廃止を訴える声が上がるのは、致し方ないと思う。気持ちは分るが、代替エネルギーが十分にない以上、簡単に原子力発電を止めることもできない。
風力発電や太陽光発電などは、発電効率が低いだけでなく、不安定であり産業用には向かない。現在の日本が電気を主としたエネルギー多消費社会である以上、社会が必要とする電気を供給することに、原子力発電は大きく貢献している。簡単に他の電力(火力や水力)に変えるわけにはいかないのだ。
でも、今の技術レベルでの新規の原子力発電所建設には、私とて賛成できない。やはり、現状以上の安全性を確保出来きるものでなければ認められまい。それが人情ってもんだ。でも、廃止は求めません。むしろ、今回の事故を活かして欲しい。
つまり、今回の福島原発の事故を踏まえたうえで、なお一層の安全向上への努力が求められると思う。この方向が本筋だと私は考えます。失敗は反省して、今後に活かされてこそ意味がある。止めればいいというのは、安直すぎる。
一方、気になるのが今回の事故による放射性物質の拡散被害だ。広瀬隆をはじめ心情的原子力反対論者が、さまざまな情報を過剰に、いや異常に垂れ流しているせいか、人々の間に不安が広まっているのは問題だと思う。
もちろん、心配すべき問題ではあるのだが、いささか煽動的に過ぎ、最初に反対ありきの教条的反原発論であることが、むしろ不快にさえ思っていた。
そんな折、産経新聞に興味深い記事が載っていた。つくば市にある気象研究所が発表した、降下した放射性物質の検出値を1955年からデーター化したものだ。
このデーターによると現在の一ヶ月当たりの放射性物質の検出値は、東京の4月で一日で一平米当たり最大170ベクレル、最小で一日4ベクレルだという。月換算すれば、4月で1000ベクレル近くになる。
この数値、実は1960年代と比較して、そう多いわけではない。なぜなら、あの冷戦の最中では米ソが核実験を繰り返していたので、現在よりも地球規模で遥かに多量の放射性物質が拡散していたからだ。
この状況は次第に減りながらも、シナが核実験を大幅に減らすまで続き、1985年以降になって、ようやく一平米あたり月の検出量が0.1以下になっていた。
驚かされるのは、私が幼少期を過ごした60年代から70年代にかけても、日常的に放射性物質は少なからず東京に降下していたことだ。
そういえば、小学生の頃に先生から「雨に放射能が含まれているから、濡れて遊ばないように」と注意された記憶がある。なんだ、あたしゃ放射能にまみれて育ったのか。
なお、このデーターを提供した気象研究所は、もちろん政府系の研究機関であり、人心を落ち着かせるための政治的意図をもって行われたものであることは間違いない。データー改竄の可能性はゼロではないが、割と反証しやすいデーターなので、意図的な改竄の可能性は低いと思う。
なによりも、実感として1960年代の核実験の多さを思えば、納得できるデーターでもある。なにせ、平然と空中で水爆を爆発させたこともあった。放射性物質が世界中に拡散するのも当たり前だ。
そうか、私は放射性物質の拡散した空気を吸い、放射性物質を含んだ食物を食べて育った人間だったのか。こりゃあ、広瀬をはじめとした反原発論者の言うように、癌や白血病で苦しみもだえながら死んでいくのだな、きっと。
わァ~タイヘン。さあ、原発廃止だ、原発もう止めよう。
って、手遅れじゃん。
ふん!人間って案外ふてぶてしいもので、原爆の爆心地で育っても、普通に健康に生きられる人もいる。原爆とも原発とも無縁の環境に育っても、癌や白血病で死ぬ人もいる。
もちろん、多量の放射性物質がある環境が、人体に良くないのは当然だと思う。でも、心配しすぎて、そのストレスで体調を崩し、あまつさえ癌を発症する人もいる。
恐怖を煽るような意図的な反原発記事には要注意だと思いますよ。
自粛という言葉の意味を分っているのか。自らの言動を慎むことであって、政治家様のご高説に従って大人しくしていることではない。
誰のことかといえば、ご存知首都を牛耳る頑固爺さんのことだ。この爺さん、国会でいくらご高説を唱えても、賛同者は少数に留まる現実に耐え切れず、地方自治体の首長に納まって、自らが正しいと思う政治を実現しようと目論んだ。
現在、国政を担う民主党のボンクラと異なり、それなりに実務能力はあるので、役人の力を借りて、それなりに東京都の行政をまとめていることは、私とて認めている。
しかし、時々その厭らしい独善的な性格が顔を覗かせる。
私だって、2万人近い死者と戦後最大の地震被害を思えば、私生活においてある程度慎み深くすることには同意できる。家族や近親者が被災したような場合は、なおさらだと思う。
しかし、いつまでも自粛なんてしていたら、震災復興なんて望めない。沈んだ気持ちを高めて、新しい未来に向かって力強く立ち上がる必要がある。
その意味でも、4月のお花見のようなイベントは、気持ちを盛り上げる意味で重要だと思っていた。ところが、この頑固爺さんが、自粛を求めるなぞとほざいたおかげで、復興の機運は凹んでしまった。
私なんぞ、断固自粛なんぞしてやるもんかと啖呵をきったが、如何せん右へ習えの大勢には抗しきれず、近場の店でささやかな散財をするに留まっている。
いや、散財したくても、肝心のお店が早仕舞いしてしまうのだから性質が悪い。電力不足は、もっぱら昼間が中心で、電気があまるはずの夜間に節電して、なんの役に立つ。
4月半ばから、この上半期の景気予測を大幅に下方修正しなければならない状況になってきた。とりわけ震災被害が、ほとんどないにも関らず、自粛ムードのおかげで消費が大幅に抑制されたことの悪影響が拡がっている。
銀座の飲食店の売上は激減しており、このままだと数百店が閉店しそうな情勢なのだ。冗談抜きで、震災被害よりも自粛被害のほうが遥かに大きい。これは関東地方全域で見られるから、間違いなく地方の方が被害が大きいでしょう。
自粛を言い出したのが、石原一人ではないことは分っていますが、真っ先に言い出した大バカの一人であることも分っています。
また震災のせいで流通が停滞したため、やむなく営業時間を減らしたお店があることも分っています。
それでも憤慨せざるえないのは、このような災害時において政治がなすべきことを分っていない馬鹿が多すぎる。震災被害を悼む姿をアピールしたくなるのは、政治家の本性に近い。それは分る。
だが、震災被害からの復興には、雰囲気から盛り上げる必要がある。そのためには、政治が先頭に立って復興の方向性を大いに打ち出す必要がある。
古来から、このような大規模な災害時において、賢明な治世者は自ら節制する一方で減税や減免などをして、世間の活力を沸かせるような政治を行った。
大きなイベントを開催したり、公共事業を大々的にアピールしたりして、世の中が沈み過ぎないよう気を配る。王家や貴族、富豪などが私財をなげうって、民間復興に一役買うこともあった。
少し歴史の教科書を紐解けば、いくらでも実例を知ることが出来る。
政治とは人を動かすことだ。自粛を強要することで、人心を冷え込ませた政治家の罪は重い。都庁の頑固爺さんは、そのことを深く自戒すべきだと、私は思います。