期待はしていなかったが、観た後の印象はそう悪いものではない。
漫画がアニメ化されるのは、そう難しいことではない。原作のイメージを損なわぬ作画と、声優の選択を間違わなければ、そう失敗することはない。
しかし、漫画もしくはアニメの実写化となると、そう簡単ではない。これまで原作を超えて実写化に成功した作品はないと断言できるほどである。原作にほぼ忠実と評されれば上出来であるのが現実である。
実は表題の漫画あるいはアニメは私が中学生の頃に、一度実写化している。これは大失敗であった。あまりにチャチ過ぎた。アニメのルパン3世のイメージが強すぎるからでもあるが、なによりアクションシーンに漫画で誇張化された描写が実写化出来なかったのが大きい。
だから、当初ルパン三世の実写化されての映画化が宣伝された時、まず間違いなく失敗だろうと思い込んだほどだ。ところが案に相違して良く出来ていた。まず、実写では不可能と思われたアクションをCG技術の導入により実現していがゆえに、原作とあまり違和感を感じさせない。
おまけに日本の俳優に拘らず、アジアから出演者を募っているので、不思議な活気が感じられる映画であった。主役の小栗旬はこの役どころにかなり入れ込んだようで、ルパン3世の顔づくりを多彩に表現してみせている。これがそれほど違和感なく受け入れられるレベルなのに感心した。
おそらく出演者の多くがアニメのルパン3世を見て育ったのではないか、そして、それを自分が演じてみせることに誇りのようなものを感じているのではないか。そんな印象を受けるほど、出演者の熱意が伝わってくる映像であった。これなら十分楽しめる。
これ、多分続編が作られると思う。マーケットは日本に限らずアジア全域で、最終的には世界を目指すのか?そんな気概が感じられた映画であった。
ただ、一点だけ不満を云えば、この映画、子供が観れるように作られている。だから原作ファンの私には少し不満だ。お色気シーンが物足りないのはまだしも、原作のルパンの持つ暗い側面が薄れている。
これは原作の漫画を読んでいないと分からないし、多分少数派だ。多数派であるアニメのルパン3世で馴染んだ人には、むしろ違和感を抱かせてしまう。だから、これで正解なのだろう。
原作を超えたとは云わない。でも、原作を知っていても楽しめる作品だと思う。想像だけど、小栗を始めとして出演した俳優たちは、事前にルパン3世の実写化なんて無理だと、周囲から云われていたはず。
それを跳ね返してやろうとの気概があったからこそ、これだけの映画になったのではないかと思います。私的には十分合格ですよ。
嘘ついたっていいじゃないか。
原発は日本に必要ない。原発は危険だ、今すぐ全て廃炉にすべきだ。それなのに、金儲けしか頭にない資本家や政治業者どもが裏で画策して、原発を再稼働させようとしている。
なんとかして世論を喚起して、反原発運動を盛り上げ、安倍内閣を打唐オなければならない。
そうだ、福島原発で一躍ヒーローとなったあの吉田所長を利用しよう。どうせ既に故人だ。適当に発言をでっちあげてしまえ。
かくして、朝日新聞はあの吉田所長でさえ福島原発から逃げ出そうとしたと嘘を報じた。嘘も方便と思っているかどうかは知らないが、虚報であろうと反原発とう正しき目的のためなら、あらゆる手段は正当化されると考えていたのだろう。
すると真っ先に反朝日を鮮明にしている極右新聞である産経が噛みついた。それどころか、同じ路線の同志であるはずの毎日まで虚報だと云いだす始末。
高尚な理想を信じ、そのために愚民を教導することこそ、朝日新聞の務めと信じている以上、朝日新聞にとって虚報は存在しない。
あくまで正しい目的を果たすためのあらゆる手段の一つに過ぎない。嘘だって百回云えば真実になるのは、従軍慰安婦で立証されている。
ところが、今や日本を平和にするための自虐報道である従軍慰安婦が虚報であることが露呈し、しかも反原発のために利用した吉田所長の発言を捻じ曲げたことまで非難される有様。
愚かな日本人を導き従わせるはずの朝日新聞の崇高な立場はどうなる。
断じて過ちを認めてはならぬ。謝罪なんて、もってのほかだ。我が朝日新聞こそが、日本を平和に導く唯一にして至高の存在なのだ。愚民どもよ、我に従え、極右マスコミや帝国主義者の残滓である自民党政権などになびいてはならぬ。
朝日は正しい、とにかくも、なんでも正しいんだ。正しいはずなんだ。だから当然、朝日に反省はないし、謝罪なんてあるわけない。
そこで私から一言「馬鹿は死ななきゃ分からない」
朝日を生かしている(購読している)読者も共犯ですよ。
未だに代金をいただいたことがない。
ある東京近郊の山沿いにある農家の確定申告を請け負って、先代から数えて30年はたっている。毎年、所得税の確定申告をしており、無事終わると申告書の控えを請求書と共に返送している。
しかし、その代金をお金で頂いたことがない。私が佐藤事務所に入る前から、ずっとである。お金を振り込んでくる代わりに、毎年4月の頭に段ボール箱が送られてくる。これが代金となっている。
中身は野菜である。主に玉ねぎ、人参、ネギなどである。スーパーなどで買えば、ざっと計算しても一万円には足りないと思う。しかし、三越などで買えば、おそらく数万円にはなると思う。
実はこの野菜、滅茶苦茶美味しい。事務所ではあみだを引いて、スタッフで山分けしてる。ただの玉ねぎなのだが、味がまるで違う。スタッフの一人に言わせると、三越で買った玉ねぎより美味しいらしい。
だから先代の佐藤先生も、そして私も代金のことで文句を言ったことがない。後に直接お会いして聞いたら、農協に出荷するものとは別に自宅で食べるために作ってある野菜を送っているとのこと。
形は少しいびつだし、虫食いの痕もあるが、なによりも美味しいと伝える。すると、商品としてはダメだが、ほぼ無農薬で有機肥料で育てているから、美味しくて当然ですよと云われた。
農協に出荷する商品としての野菜は、形が整っていることや、虫食いの痕がないことが条件なので、どうしても農薬や化学肥料を使わざるをえないとのこと。わざわざ味を落とした野菜なのですが、このほうが売れるのですと、残念そうに話していた。
馬鹿げたことだと思うが、我を顧みればスーパーなどで形の良い野菜を選んで買っているのだから、偉そうなことはいえない。
表題の漫画は、北海道の開拓農民の出て、実際に朝から夜まで農作業、畜産業に奔走していたプロ農民である荒川弘の農業エッセー漫画である。あの大ヒット作「鋼の錬金術士」の作者が、実は百姓出身というのも驚きだが、「農家の常識は、社会の非常識」と言い切る農家の日常生活が面白い。
その経験から「銀の匙」という漫画を現在連載して人気を博しているが、こちらのエッセー漫画も楽しい。「水がなければ牛乳をお飲み!」とは、困った百姓貴族であるが、笑ってばかりでいいのかと自省させられる。機会があったら是非どうぞ。
犯人が誰かはすぐに分かる。
分かるけれど、その動機が分からない。分からないことだらけで延々と7百頁を読まされる。これが京極堂の世界である。
通勤電車が読書の時間となっている私にとって天敵に近い存在が、まさに京極堂に他ならない。まず本が重すぎる、おかげで手首が鍛えられる気がする。鞄がいつもよりも重くなるので、この夏の暑さが殊更堪えたのは間違いない。
おまけにこの本にかかりっきりであったので、この二週間ばかりブログの記事が映画と漫画に偏ってしまった。
正直言って京極堂のミステリーは、無理に読むような本ではない。ミステリーとしては過剰に饒舌に過ぎる。背景があまりに理屈っぽく、如何に論理が透徹していようと現実離れしている感が否めない。
だが、それでも私が読んでしまうのは、従来のミステリーにはない、まったく新しい視点からの切り込みに惹かれるからだ。今回、京極堂のまな板に据えられた食材は儒教である。
日本人にとって、儒教ほど分かりにくい宗教はないと思う。そもそも日本における儒教は本来的な意味での宗教ではない。むしろ教養あるいは知的鍛錬のための知識体系に過ぎないとさえ私は思っていた。
その認識の甘さを京極堂に引き裂かれてしまった。江戸初期における林羅山の深謀と仏教界の受容なんて視点は、私にはまったくなかった。死、あるいは鬼神に対する理解は、私の想像を絶していた。
ただ、今回で確信したのだが、京極堂のシリーズは日本でしか受け入れられないと思う。日本人の曖昧な歴史認識、宗教認識、文化認識を改める上でこそ、読む価値のあるミステリー、それが京極堂シリーズだと思います。
幸せは計れない。
私は根が能天気なのか、自分を不幸だと思い込んだことはない。その一方で、自分を恵まれている、幸せだと思っていたこともない。浮き沈みの激しい人生であったので、不幸だの幸福だのと考え込んでいる余裕がなかったせいでもある。
いや、正確に云うなら不幸だと落ち込んだことはあるし、幸せだと浮かれていたこともある。要するに気分屋であり、その場その時の状況で幸せなんて変わるものだと達観していた。
だから、自分は不幸だと思い込んでいる人に対して、どうしてもある種の違和感というか、理解できないでいる。自分は不幸だとの思い込みには、自分以外は不幸ではないとの思い込みもあるからだ。
目をよく見開いて、周囲を見渡せば、不幸も幸福も至る所にある。決して同じ場所、同じ時間に留まらないのも不幸であり、幸福である。そもそも幸せなんて、誰かと比較して測れるものではないはずだと考えている。
ところが、世の中には他人と比較することで幸せの度合いを確認したがる人が多い。外観だけで相手は自分より幸せだと思い込み、吾が身の不幸を嘆くのである。
幸せが心で感じるものである以上、外観から測れるはずもないと思うのだが、そうは考えていないようだ。傍目、幸せそうな人が心の奥底に深い闇を抱えていることは珍しくない。また暗く落ち込んでいるような人が、自分だけの楽しみを満喫して幸せだと思っていることもよくある話。
なかには不幸自慢というか、自分は不幸だ、不幸だと嘆くくせに、案外と平穏で幸福な人生を送っている人はけっこう多い。童話の青い鳥が教えてくれるように、幸せは自分の心の内にあるもので、それに気がついていれば幸福だし、そうでないといつまでたっても不幸のままである。
ところで表題の映画の主人公であるが、これまた典型的な自分を不幸だと思い込むタイプであるようだ。ネタバレになるので詳細は書かないが、本当は自分の傍に幸せがあったことに気が付かず、ただ不幸だと自分を追い込んでいたようだ。
マーニーはいつだって自分の傍にいたのに、それに気が付かずにいた。そして、マーニーの真相に気が付いて、自分を取り戻すストーリーなのだが、勘のいい人ならば前半でその真相に気が付いてしまうはずだ。
これは舞台を日本にもってきたことの弊害だと思うが、ミステリーではないので許容範囲だとも思う。映画として悪くないと思ったけれど、多分原作のほうが出来がよさそうな気がする。
児童文学のようなので、読む機会があるかどうか分からないが、見かけたら読んでみようと考えています。