現在、日本のマスコミが追及に熱心なのが、「森友学園への土地払い下げ」問題、「加計の獣医学部新設認可」問題、そして「防衛省のPKO部隊の日報」問題の三バカ問題である。
このマスコミの尻馬に乗る形で、野党が必死になって安倍内閣を追求している。この問題追及で安倍内閣を退陣に追い込みたいらしい。
馬鹿らしい、まったく時間の無駄だ。
この3つの問題をいくら追求しても、安倍首相への贈賄等利益供与が証明されない限り、安倍内閣は退陣しない。そして、安倍首相が強気なのも、利益供与を受けていないことに確信があるのだろう。
つまりマスコミの空騒ぎに便乗しての国会の空転が、今の日本の政治状況である。
本当に腹立たしい。私は安倍内閣が素晴らしいとは思っていない。むしろ問題山積だとさえ思っている。腰砕けのアベノミクスもさることながら、本来国政の場で議論すべきことが、お座なりにされていることへの不満は大きい。
高齢化社会が既に現実化している今の日本で、政治が考えて方向性を導かねばならないことは沢山ある。介護する人員の不足、介護施設の質の問題など、高齢者の受け皿となる施設では、どこも問題山積であり、少し給料を上げれば解決するような安易な状況ではない。
その一方で、少子化が進み、ますます教育の重要性が高まっているのに、広がる一方の教育格差は間違いなく将来に禍根を残す。子供の教育に十分な資金を投入できる家庭と、そうでない貧困者家庭では、必然的に子供の知力格差が生じてしまう。
日本語が満足に読解できない子供が増えていることを危惧する教育現場からの悲鳴は、政府に届いているのか。英語教育の低年齢化よりも、ずっと重要な問題だと思うのだが、今の国会では話題にさえ上がらない。
マスコミ様は長期政権化した安倍内閣を退陣に追い込むことこそ、社会の木鐸たるマスコミの使命だと思い込んでいる。その頑なさが、本来政治の場で議論すべきことから、政治を遠ざけている。
今の野党議員は、マスコミ様に取り上げてもらえないと、まともに喋れない愚人が多い。だからマスコミの関心が低いことには、国会の場で取り上げる気にはならないらしい。
今の若い人が政治に関心を持たないのも当然だと思う。
もっともマスコミ様は、賢明な自分たちが愚かな大衆を導いてやる必要があると信じている。だから、自分たちの正義の主張が、実は支持されず、それどころか関心さえ持ってもらえない現実は認めたくないのだろう。
日本の民主主義が衆愚政治に陥っているのは、マスコミによるミスリードが大きいと云わざるを得ません。
ハニートラップなのかと思った。
今週、朝から夕方まで一日中、病院で検査と診察で潰れた日があった。広い待合室で、壁掛TVをぼんやり見ていたら、とにかくやたら流されているのが、財務省の福田事務次官のセクハラ騒動である。
TVのワイドショーでは、もう一方的に福田氏のセクハラ批難に終始していたが、私はどうも違和感が禁じ得なかった。途切れ途切れの音声ではあるが、たしかに卑猥な会話である。
でも違和感を禁じ得なかった。
霞が関の官僚たちは、基本的というか本能的にスキャンダルを警戒する。特に酒が入る席だと、失言を恐れて滅多なことでは気を抜かない。最近はご無沙汰だが、以前は時折、キャリア官僚の方との食事や酒の席にお呼ばれすることがあったので、彼らの警戒心の強さはよく知っている。
だからこそ、あの録音された音声に疑問を持った。もちろん官僚といえども人間である。当然に性欲もあれば、下品な品性を持っていることもある。ぶっちゃけ、風俗店で評判の悪いのは、坊主と教師と役人である。日ごろ真面目であることを強要される職種の方々は、ストレスが鬱積するのか、スケベな店では、はっちゃけることが多いらしい。
だから、福田次官の発言だとされる、あの猥褻な発言もあるかもしれないと思う。そう思うけれど、その手の発言をするのは場所をかなり慎重に選ぶであろうと思う。
あの卑猥な発言を、女性記者とされる人物は、どうやって引き出したのだろうか。女性記者が肉体的魅力を武器に、取材相手の関心を買い、価値ある発言を引き出そうとしたのだろうと想像は出来る。
だが、いったいどこで、そんな大胆な取材を試みたのであろうか。少し酒が入った程度で、スケベな本性を露呈するほどキャリア官僚の警戒心は緩くない。第一、情報が訊きだせたのならば、自分が所属する新聞社なり雑誌社なりで、スクープとして発表するはず。
すると、スクープを取れなかった腹いせで、セクハラ発言を利用したのか?いずれにせよ、本当に不快なセクハラ発言だというのならば、警察に告発するのが筋であり、TVのワイドショーねたにするのは如何なものかと思う。
もっといえば、安倍内閣を攻撃するためのネタとしての、セクハラ事務次官批判ではないかと勘繰ることも出来る。だが、本当に悪意あるセクハラであるならば、堂々と告発することこそ本筋だ。
なにも具体的な情報をもっている訳でもないのだが、現時点で私はこの騒動を、かなり眉唾だとみています。
追記 ここまで書いていたら、突如飛び込んできた、福田次官の辞任の報。(平成30年4月18日)
もっとも、週刊新潮に対しては法的措置を取るとも報道されていたので、内容については納得していない模様。あくまで業務に差し支えると判断しての辞任らしい。
早期に幕引きを図り、国会運営及び財務省の運営を守る形での辞任なのだろうと想像は出来る。そんな最中に、件の女性記者がTV朝日の社員らしきことも、今さらになって報じられている。
では、なんでTV朝日は自社の番組でスクープとして報じないのだ?どうも、この問題、いろいろと裏事情がありそうです。
一番強い肉食動物は?
普通に考えたらライオン(雄)か虎であろう。どちらが強いのかは、生息地域が異なる上に、生態が異なるので一概には言えない。かつてローマ帝国で、あのコロッセアムにおいてライオン対トラの試合をやらせたことがあった。
かなり大雑把な記録なので、信頼性はイマイチだが、概ねトラのほうが優勢であったらしい。理由はトラのほうが少し大型であり、また攻撃の際に両前足で攻撃するのに対して、ライオンは片手での攻撃が多く、その結果傷の多さからライオンが引いてしまい、トラの優勢勝ちと判断されたようだ。
ちなみに、ローマ人がいくら工夫しても、最後まで殺しあうことは稀であったらしい。ライオンもトラも人間ほど殺戮衝動はないらしい。
トラ優勢としたが、噛み付き合いになった場合は、ライオンの優勢勝ちになることはよくあったらしい。両者とも相手を殺す時は首筋に牙を突きたてる方法をとるようだが、ご存じのとおりライオンの雄にはタテガミがある。
このタテガミがあるがゆえに、トラがいくら噛みついても致命傷にはならず、逆にライオンがトラの首筋に噛みつくと効果抜群で、トラが逃げ出す結果になる。あの長いタテガミは伊達ではないようだ。
ところで、そのライオンでも噛み切れない小動物がいる。それがラーテルである。日本語では蜜熊と書かれたことがあるとおり、蜂蜜が大好きなイタチ科の動物である。このラーテルの特徴は、毛皮がぶかぶかで、ライオンが噛んでも致命傷とはならず、毒蛇が噛んでも内側まで毒牙が届かない。
体重20キロに満たない小動物なのだが、その気の強さは動物界でも北米のグズリと並ぶ横綱クラス。相手がライオンでも、アフリカ水牛でも決して引かない。コブラやブラックバイソンのような毒蛇にも引かず、むしろ逆襲して殺してしまう。
ちなみに弱点は顔とお腹で、転がされて腹部を攻撃されるとライオンなどにやられてしまうこともある。でも、ほどんどの場合、辟易したライオンが引いてしまう。気の強いアフリカ水牛も嫌がるほどに、執拗に戦い続ける狂戦士でもある。
そのラーテルの特性を人間に活用し、獣人として活躍させたのが表題の作品である。原作者の村田真哉は、今私が注目している漫画原作者であり、かれが人気作の「アラクニド」「キャタピラー」の連載を強引に終わらせたのも、この作品に集中したかったからだと云われている。
私の想像だけど、原作者の村田真哉は子供の頃、仮面ライダーに夢中であったと思う。バッタの能力を活かした仮面ライダーの敵は改造人間である。蜘蛛男やトカゲ男など不気味な造形は敵役として素晴らしく、私なんぞは主人公よりも敵役の怪人たちに夢中であった。
そのうちに、物足りなく感じた私は小学生の頃、大学ノート一冊にまるまる私が勝手に考えた怪人の姿を描いていたほどに、私はこの怪人たちに惹かれていた。今となっては、どこにあるのか、あるいは捨ててしまったのか不明だが、仲の良い友達には非常に評判の良かった怪人ノートであった。
昆虫や動物の能力を活かした改造人間というアイディアの元祖は、この仮面ライダーの作者石ノ森章太郎である。そして、村田真哉は以前、ここでも紹介した「キャタピラー」ではその石ノ森章太郎をモデルとした人物を、主人公の師匠として登場させている。それどころか、あの手塚まで・・・
ネタバレは嫌なので、これ以上は書かないけど、間違いなく村田真哉の脳裏には、仮面ライダーがくっきりと刻まれていると思う。そして私も大好きであった。だからこそ、彼の原作漫画には惹かれてしまう。
読み手を選ぶ漫画だとは思いますが、機会があったら是非どうぞ。
寒さが緩み、コートを着なくても寒さを感じない春の日差しの柔らかな暖かさは、気持ちまでも楽しくなる。
まだまだ忙しいのだが、だいぶ余裕が出来てきたので、最近は都心を一人で散策している。緑が少ないとされる都心ではあるが、皇居周辺は案外と緑が多い。日比谷公園が有名だが、国会周辺も緑が多く、桜が散った後でも様々な花が咲いているのを見ることが出来る。
先週末も、日中は事務所に出て残務整理だが、いつもよりも早めに終えて、赤坂まで歩くことにした。日比谷公園の脇を抜けて、霞が関の官庁街を過ぎると、国会や首相官邸がある。
このあたりは結構、小さな公園などがあり、新緑の季節は美しい景色をみせてくれる。ここを抜ければ、赤坂見附に出るのだが、近づくにつれて何やら喧しい騒音が聞こえてきた。
なにかと思って見てみたら、「安倍内閣退陣」とか「不正を許さない」とかのプラカードを掲げた数百人のデモ隊が騒いでいた。毎度お馴染みの平和を愛するプロ市民たちであろう。
鬱っとおしいので、迂回して避けた。その後は、赤坂の某焼き鳥屋さんで小腹を満たして、いい気分で帰宅した。帰宅してPCで天気予報やニュースなどを閲覧していたら、思わず目が点になった。
朝日新聞系のサイトだが、「国会前に安倍退陣を求める市民15000人」
・・・私は近くで見かけただけだけど、どう見てもその十分の一程度の集まりだった。よくよく見ると、15000人(主催者側発表)と書かれている。
相変わらず偽装報道がお好きなのね、朝日は。
少数派は、少数派であることを自覚し、なぜに少数派なのかを真摯に反省しなければ、決して現状を変えられない。朝日新聞が、彼らを支援したいと考えるならば、事実を偽装して報じることは間違いだ。
むしろ、彼らを少数派のままに貶める結果になることは、ベルリンの壁崩壊後のヨーロッパを観れば明らかであったはず。嘘を真実だと報道することは、むしろ報道の信ぴょう性を疑わせてしまうことは、既に実証されている。
朝日新聞を始めとして、多くのマスメディアが発行部数の凋落や、視聴率低下に苦しんだのは、まさに事実を報じず、政治的に偏った真実を事実として偽装報道し続けたが故であろう。
いくら応援したいからといって、ウソを事実だと報じていては、結果的に信頼を失ってしまう。だからこそ、現在朝日新聞は販売部数が低迷しているのだろう。
何故に事実を直視しない。このままでは、報道への信頼性は低下するばかりだと思う。おそらく経営的に厳しいはずなので、いずれ新聞社では人員整理という名のリストラが始まるだろう。
この手のリストラを実行した場合、多くの場合、良質な人材ほど会社を去ることになる。それはマスコミにとっても、また読者にとっても不幸なことだ。なによりも、有権者にとって有益な報道が減ることは、決して好ましいことではない。
民主主義を採る国にとって、暴走しがちな政治権力を適切に監視するマスコミの存在は必要不可欠である。安倍政権を批難することに囚われて、自らを省みる姿勢がマスコミにみられないことは、決して望ましいことではないと思います。
私はマスメディアが客観性、公平性を持っているとは思ていない。取材をするのは正義感溢れる記者であり、その記事を報道するのは、熱意あふれる記者である以上、客観的で公平な記事なんてあり得ないとさえ思っている。
だから、その方向性というか、視点を明らかにしたうえで報道をしてほしいと切望している。このままだと、自滅の道を辿りかねないと思います。
かつて進歩的文化人と呼ばれた言論人たちがいた。
誰がわざわざ進歩的などと呼んだのかといえば、当の言論人たちである。いわゆる自分ageとでもいうのか。まァ、羞恥心に欠けていることは間違いない。
ちなみに、なにが進歩的なのかといば、社会主義こそが人類の未来に相応しい思想であり、未だに資本主義社会に甘んじている遅れた大衆に対して、賢明な自分たちを進歩的だと規定していたらしい。
その所謂進歩的な文化人としては大江健三郎が有名だが、スポンサーとして、またプロデューサーとして、岩波書店の月刊誌「世界」の編集長であった安江良介を挙げなくていけないと思う。
表題の作品は、雑誌「世界」に十数年連載されていたもので、「韓国からの通信」としてまとめたものだ。
今となっては、わざわざ読む価値のない作品なので、先に結論から言ってしまうと、これは安江が企画した情報工作である。進歩的文化人としての確固たる自覚のある安江にとって、朝鮮半島の南はアメリカの傀儡であり、朴大統領の支配下で軍事独裁体制をとっていることは悪である。
だから、あることないこと入り混ぜて、大手のTV、新聞が取り上げない悲惨な韓国の実情を告発したものとなっている。当の韓国人がビックリの内容なのだが、自らの正しさを盲信している安江にとっては、事実と遠く離れていようと気にしなかったらしい。
私が十代前半の頃は、右手に朝日ジャーナル、鞄の中には世界を入れてあることが、進歩的な学生のあるべき姿であるとされた・・・らしい。らしい、と書くのは、私の周囲でもそんな若者は少数派であったからだ。
もちろん、そのような若者は実在したが、子供であった私の目からは、理論先行で、現実についていけてない頭でっかちな若者が、知的流行に合わせようとして、粋がって装う姿に見えた。
なぜに少数派であったかといえば、当時既に韓国は台湾、香港、シンガメ[ルと並び経済的に発展を遂げており、TK生からの報告はかなり現実離れしていることが実感として分かっていたからだと思う。
なによりも、当時若者たちの間では、左翼活動=内ゲバとの印象が強く、左翼思想=進歩的というよりも、むしろ暴力的、あるいは現実離れとの印象が強かったからだ。
学校と云う箱庭の中で、左翼思想に未来を夢見るだけなら良かったが、いざ社会の荒波に洗われれば、左翼思想が上手くいっていないことが分かってきてしまうからだ。
それゆえに、左翼勢力は大衆からの支持を失い、少数派に堕ちてしまった。当然に進歩的文化人は姿を消したが、若かりし頃に彼らに影響を受けた心情的左翼は、未だ生き残っている。
労働組合とか、学校とかに棲息しているようだが、マスコミ業界にも少なからず生存している。決して過去形ではなく、今も脈々と生き残っている。
現実を観ずに、脳内お花畑で陶酔している彼らの愚かしさを知るには、表題の本はかっこうのテキストだと思います。まァ、わざわざ読む価値があるかは疑わしいのですがね。