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最近、というかこの10年の間に他所の山に登ったことはわずか4,5回しかない。森林限界を超えたことは、2年前に早春の中央アルプス駒ヶ岳に行ったときの単独行、1度だけだ。
1日歩き続けた長い縦走路を振り返り、こみ上げてくる満足感や、終了点のクマ笹の中に埋もれながら味わったあの登攀のあとの幸福感や達成感を、忘れたわけではない。しかしもう、そういう感動がなくてもやっていける。
いつの間にか、年を取ってしまったのだ。「もう登らない山」という串田孫一の本を目にしたときの反撥心が、今は共感に変わり、納得もできる。そして、若いころは感じなかった森への愛着が生まれ、深まった。
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春の森は明るく軽快である。木の種類によって異なる緑の多彩な色合いに写真家は感動し、画家は戸惑うだろう。梅雨の時期、雨をたっぷり溜めた森は均一な深緑色に埋もれ、重く暗い。それでも渓の白濁した奔放な流れや鳥の囀りが、森の中の活気を忘れさせない。時折風に乗って現れる気紛れな霧も、森をより幻想的にする。
夏の森は乾き、虫の声はまさしく喧噪の域だ。無くした物でも探しているかのような1頭のクマが、小黒川の対岸をゆっくりと川下に歩いていったのは、昨年の夏のことだった。
秋の森はツタウルシの燃えるような赤い色で幕を開け、やがてつられるようにして森の中は絢爛さを競い始める。森の中では雄鹿が、あらん限りの精を1頭でも多くの雌鹿に射出する営みの季節でもある。吹く風に教えられ、アナグマやキツネ、あるいはタヌキも収穫の時期がそう長くはないことに気付くころには遠くの山に雪が来る。
冬の白い森は眠ってはいない。動物たちの足跡はそこらかしこにあるし、次の季節のために木々は固い蕾をいつの間にか用意して待っている。
突然銃声がして、猟師が走り、犬の声がする。森が久しぶりに沸く。今冬、芝平の谷から2頭のイノシシと1匹の犬の命が消えたときだ。
降ったばかりの粉雪に潜りながら、登行を再開する。雪に覆われた疎林を勘だけで行く。1時間が1年、ひと晩が一生のような深い長い夜が、その森の先には待っている。
山小屋「農協ハウス」とキャンプ場の営業に関しましては7月9,13日のブログをご覧ください。