入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’21年「春」(34)

2021年04月10日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 午前4時半、気温6度。目が覚めてからすでに1時間半ばかりが過ぎた。その間、布団の中で次々と妄念が湧いてきたので、それを是非呟こうとして起きてきたら、霧のように内容が薄れてしまって言葉にならない。ビールを飲んで思い出そうとしてみたが、さらに捉えどころのない漠々としたものになってしまった。恐らく、半分は夢の中にいて、その時はもっと自由な空想ができていたのだろうに、良かれと思って飲んだアルコールがさらに妄想の浮力を奪い取ってしまった。
 
 再度寝直して、それから目を覚ましたら、あの時どんなことを呟こうとしたかが少し思い出せた。人が思うこと、考えることは自由だが、それを言葉にしたり、実行することにはかなりの制約がかかる。それは属する社会、あるいは文化や宗教によっても微妙に違ってくる、というようないつにない内容だった。
 
 人を傷つけたり、不快にさせたり、嘘をついたりしてはいけないといったことは常識、規範である。しかし言葉にすれば簡単なようで、実際はそうでもない。だから、大丈夫だろうと思って発した言葉でさえ、思いがけない結果を招いてしまうことがある。ましてや論争となれば言葉は火となり、刃となり相手を殺すことさえある。「バカ」、「タコ」、「ブタ」、「死ね」の次元ではない。もっと、知力や能力の差をひけらかし、相手を貶める卑劣なやり方もある。しかしこの方はなぜか大目に見られ、口を尖らせる人たちが黙っている、いやいても少ない。
 
 文芸だったり、演劇であったりはもとより、映像の世界などはかなりの範囲まで、善悪を超えた想像力が認められる。それを描いたり、制作する側には世間離れした独特の才能があって、それに対して高い評価を受ける作品もあれば人もいる。しかし、これはあくまでも虚構であって、現実ではない。
 ところがややもすると、時代劇の衣装を着たまま令和の街に繰り出すような輩がいるから、言葉狩りの餌食にさせられるのだ。TVや週刊誌の業界では専らそういうネタ探しが行われ、見付けた獲物には容赦のない批判の集中砲火を浴びせる。評論家は世界の終わりでも来たかのように嘆き、顔をしかめ、たちまち小さなボヤでも燎原の火となり、それを批判するふりをして皆でまた面白がる。
 
 世の中は多様化がほめそやされ、それでいて調和が求められる。笑いを欲しながら、口やかましい監視も行なわれる。covid-19の感染防止はしなければならないが、経済は回していかなければならない。調和は掛け声ばかりか遠のくばかりで、益々難しく、窮屈な社会になっていくのだろうか。
 本日はこの辺で。明日は沈黙します。
コメント
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