往きは雪に隠れていた林道も、帰りには日当たりの良い所は幾カ所か路面が顔を見せていた。特に所の沢の大曲りを過ぎ、緩やかな登りが続く辺りではそういう所が3,40㍍もあって、スノーシューズを履いたまま通過するのが少々躊躇われるほどだった。しかし、そのまま歩き通した。
多少、底部に付いている爪だか歯が損耗したとしても、このスノーシューズに世話になることはもうあまりないだろうという気がした。だから大事に扱ってやろうという気持ちと、使用する者と一緒に終わればいいという思いとが半々あって、面倒でない方を選んだ。
ド日陰の大曲りを出発した時はツボ足で行くか迷ったがやはり今の時季、雪面は荒れていたがスノーシューズは有効だった。この辺りでも少しづつ気温が上がり始め、水気を含むことで締まった雪の上に前夜に降った雪が積もったせいで、日の光を遮ぎる効果があったのだろう、お蔭で昼になっても雪はその上を歩く者の体重を支えてくれた。
話は戻るが、その思いを一番強く感じたのは、林道から外れて小屋の前の踏み跡のない雪の原を横切った時だった。いつもなら、水気の多い重い雪に潜ったりするのだが、スノーシューズや靴の重さを忘れて、まるで素足で歩くような快適さを感じた。いや、本当に。
積雪量からすれば、3月というよりか4月初旬を思わせた。これも、それだけ温暖化が進んだ証拠だろう。そのうち里と同じように、この辺りの2000㍍近い標高でも、積もるほど雪は降らなくなるかも知れないが、そうなれば、この辺りに生息する鹿たちは喜ぶだろう。
特に、この時季の霧ケ峰に雪がなかったのはショックだった。子供のころは、スキーといえば霧ケ峰は憧れの地で、初めて行った時はあの広大な高原一面が雪の原で、その深さ多さにも驚いたものだ。
当時は違ったが、今ではもっと斜面が長くて、変化に富んだスキー場でなければ人は来ないし、雪の量ばかりか、スキーもスキー場も、そしてその人気も大きく変わってしまった。
東京では桜が開花したようだ。今年もまた同じことを呟かせていただくがまだ30代のころ、会社の近くに大きな桜の木があって、その花の咲くころに会社のエライ人と一緒に歩いていたら、「ボクはこの花を見るたびに、あと何回見られるのだろうと思うんです」と語りかけられた。何という情けないことを言う人だと思ったりしたが、いつの間にかそんな心情が分かるようになってきた。
昨日、きょうの写真、光が強くて何を撮ったかもよく分からず。本日はこの辺で。