昨日の午後、久しぶりに散歩に出た。距離にして8キロ強、歩数では1万1千歩ぐらいか。仙丈岳はまだ多くの雪を残していたし、開田や、二つの集落を分かつ小さな峠から眺めた景色も愛想のない冬の装いのままだった。ただ、明るい午後の光だけは違っていて、やがてこの景色にも若草の色や、桜の花の色が混ざり、華やいだ、生気に満ち風景へと変わっていくことを暗示しているようだった。
普段はさらにもう少し北に歩いて、それから左に折れ、今度は西山に向かって田圃の中の長い坂を下るのだが、そのうち福与城址(箕輪城址)の桜が開花すればもう少し北へと、歩く距離を延ばすことになる。
昨春はもっぱら散歩は夜だったから、誰もいない城址の夜桜を眺めるために何度かここを訪れたのだが、この福与城は、昨今流行りの人工的な光などで余計な演出はしていない。本来の花の姿を心行くまで眺めることができて何よりだった。
このことに関しては、これはまた後期高齢者の遠吠えに聞こえるかも知れないが、どうか酔狂などを起こして、この古城の桜を電飾などで汚さないで欲しいと切に願っている。そういう夜桜を見たいのなら、他へ行けばいくらでも見ることができる。例えばこの辺りなら高遠城址、春日城址、それで不足なら国宝松本城もある。
それでも、毎春に最も心待ちにしているのは、入笠の山桜である。里の花が葉桜になって、それからしばらくして、上ではゆっくりと周辺の山域に花の季節が拡がっていく。雷電様の近くの空木岳を背景にした古木、小入笠へ行く途中のこれも同じく古木、その他百本を超える山桜が明度を増した五月の日の光を浴びて花を咲かせる。
これらの花は、長いこと毎春咲いてきた。これからもまだ寿命の続く限りは咲くだろう。誰が見ようと見まいと関係なく、人の世にその存在を誇示することもなく、ひっそりと。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 本居宣長
太平洋戦争末期、この歌が軍部の上層部により、特攻隊を編成する際に利用されたことはよく知られている。「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」。
この歌が、後世こんな使われ方をされるとは、あの古事記の研究者にも想像できなかったであろうが、そうであってもしかし、この花を見ればこの歌を思い出し、この歌を口ずさめば遠く南冥の果てに散った若き勇士たちのことを思い浮かべる。
「匂ふ」とは、山桜の花が朝日を受けて少しづつ赤く染まっていく様だと、批評の神様がどこかで書いていた。日本人の心が、そのように澄んだ、気高い、しかし危うく、短命な美しさであるかは知らないが、山桜は間違いなくそうである、とは思う。
本日はこの辺で、明日は沈黙します。