岐阜/医大生が指導する明光義塾長良教室&芥見教室 Akamonゼミナール

医大生が個別指導する全国でも珍しい塾が明光義塾長良地区、芥見地区に登場。山県市、美濃市、関市からも通塾されています

★大学時代

2014年08月10日 17時56分21秒 | 日記

★出会いと別れ

 台風11号が猛威を振るっています。東海地区では三重県がかなり被害が出ているようですが岐阜県におきましてもかなり被害が出ているようです。外出は控えて十分にご注意ください。明日の岐阜新聞には被害が掲載されるでしょうが被害にあわれた方には心よりお見舞い申し上げます。

 夏期講習も前半は終わり今日10日(日)から17日(日)まで夏季休暇になっています(ただお電話につきましてはお休みでも通じるようになっています)。そういう意味では今日は授業は出来なかったでしょうから恵まれていました。
 
 さて、先般は高校時代の一面を書きましたので今日は大学時代のことを書いてみたいと思います。
 
 私は大学受験の失敗者です。ですからそうならないようにできるだけお話をしていますがそれはそれで話は取りようですのでそれぞれに解釈していただければいいかと思います。もしも、前後のわからない方は『高校時代』というタイトルのところを読んでみてください。これはそれの続編です。

 私は高校を卒業するについて大学に最初から行く予定でしたし親父も楽しみにしていたので何の抵抗もなく大学に行くものと考えていました。母親が学業に優秀だったにも拘わらず行けなかったことで私に期待をかけたというのが本当のところでしょうか。しかし、その母親も42歳で交通事故で亡くなってから時同じくして勉強をしなくなってしまったのですがこの辺は前回のブログを読んでいただければご理解していただけると思います。 

 私はW大が第一希望でした。ですから受験はW大とC大そして滑り止めはK大でした。ですが結果的にすべて落ちてしまいました。C大は受験に行かなかったです。ちょっと元気がなかったのが正直のところです。合格点はクリアしてたのです。K大も当然合格していたはずなのですが何故か駄目だったのです。それには原因がありました。当時足切り点があったのですが、その科目は英語だったのです。そうなんです
。日本文学に傾注した私はアメリカ嫌いになっていまして英語の勉強はしなかったのです。先生はK大は楽だろうに・・・って笑っていました。

 最初は浪人の予定でしたが父親が再婚することになりました。そこで私は家を出ることにしたのです。ですから行くところを探していたら友人が俺も受験するから一緒に行こうやってことで3月の20日過ぎに確か受験を香川大学でした記憶があります。浪人をするにも家には居れず、予備校に行くにも金がなく仕方なくM大に行くことになりました。

 大学の一番近くの寮がいいと思い同地番の寮を選択したら大変な寮で夜中の2時、3時に起こされて正座をさせられ(足が悪く正座ができないのですが・・・)先輩ずらをして意味不明なことを言ってるのです。要は先輩には絶対服従だということを言ってるわけで少し頭がいかれているのかと当時は思いました。半年で寮は出ました。1年間分の寮費を払えと言いますので払いますと寮長が後で返してくれました。当時大学に入った時には部活動は応援団の吹奏楽部でした。寮長がたまたま副団長だったのです。そんな経緯で入ったのですがよくぞ大学の応援団に・・・。こちらは知りません。花の応援団ではないですが当時はヤクザに近いものだったようです(人の話ですので真意はわかりませんが・・・)。そこでも失敗というか応援団がわからないので結局は文芸部に自然と足が向いたということです。部室はトタン屋根で床はなく地面でした。雨が降れば雨漏りはもちろんその地面が川になるのです。そんな中で朝まで酒を飲みながら議論をしていました。ただ話を戦わすだけなのですがそれがとても新鮮なのです。高校時代気が狂ったように勉強をせず本を読み漁り小説を書いていた自分が水を得た魚のように生き生きとしてきたのです。

 学校の教科書は最初買いましたが2か月過ぎには古本屋にみんな売ってしまいました。ですから恥ずかしいですが授業にはほとんど出ていませんし、教科書も卒業まで買いませんでした。すべてお酒に化けたのです。寮にいた関係上友人も多かったので代わりに出席をしてもらったり代弁をしてもらったりでまさに私の大学時代は起きるのは午後3時頃で寝るのは大体朝方の6時頃でした。4年間アルバイトもほとんどしませんでした。4年生の時卒業前にボイラーの会社に少し頼まれていった記憶がありますが授業は出ませんでした。県人会もなかったので同じ地元の法学部の教授にお願いしたら即了解を頂きました。後日その教授が大学の学長になったのは驚きでした。そういうことで法学部でしたのですべて優でした(笑)。後日会った時教授も笑っていました。
 
 卒業式は私は出席しませんでした。卒業は4年で出ることが唯一の親孝行だと思い何とか4年で卒業は致しましたが不思議と感動は何もなかったです。
 授業には出席しないが部室には毎日顔を出す。帰りたくないときは部室で寝てるかどこか麻雀屋で徹夜でよく賭け麻雀をやりました。結構を強かったというか相手が弱すぎたのか後輩と二人で知らない店でやりました。生活の一部分だったのです。

 その頃1年後輩にある女性が入ってきたのですがその彼女は気性の激しい魅力的な女性でした。私の大学時代はこの女生徒の話は避けることはできないのです。結果的に後輩と一緒になったのですが彼女をモチーフにした小説は随分と書かせてもらいました。同人雑誌の北斗や東海文学などや愛知県の大学サークルをまとめた愛知文学サークルという機関誌も作りましたがその頃から全共闘の話がもちあがり部活動が十分できなくなったのですが結局は私は退部をして自分一人で小説を書いていました。当時の部活は私は副部長という立場で部員は約70名ほどの大所帯でした。各大学の大学際には読書感想文や作家論について議論するのですが招待されるものですから仕方なしに出席していたのです。同伴はいつも彼女を連れて行っていました。いつしか、私たちは一緒になるのかなあと考えたりしていましたし、周りもそう見ていたようですが学生時代の恋愛については非常に空虚な部分がありました。

 大学時代授業らしきものはほとんど出ていませんが教職課程は取ったのですから驚きです。教育実習をしたことは覚えています。あの下村湖人の『次郎物語』をやったことは覚えていますがもともと世は景気がいい時代でしたので公務員などには目もいかなかったのです。元はといえば防衛大学が最初でそれから警察大学まで考えたのに行かなかった。権力というものに随分憧れるというかどうしても東京に行って権力を握りたいと考えていた私なのですが住宅メーカーに入ることになるのです。

 大学は70年安保で全共闘が私のクラブが中心になってやっていましたが先ほども言いましたがあの頃は無関心、無感動の時代で郷里の先輩大江健三郎の本をよく読みました。しかし、書くことは別で当時『第三の新人』と言われた吉行淳之介、三浦朱門、遠藤周作、児島信夫などの私小説、あるいは心境小説ともいわれましたがそういった書き方をしました。梶井基次郎の『檸檬』を一生懸命原稿用紙に書き写し書き方を勉強しました。それが後日教科書にも載るのですから大変で驚きました。

 そんなわけで大学は卒業をすることになったのですが部活のOB会は今も続いています。今やみんな年を重ねましたので2年おきに実施しています。今年がその年に当たります。また朝まで文学の話に花が咲くのでしょうか・・・。それとも全共闘の話になるのでしょうか・・・。

 彼女とは何故か卒業時別れました。別れたのは大垣城で別れたのです。ですからわざわざ四国に帰って就職したのに18回も転勤をしてまたこの東海地方まで戻り家まで建てて今や親戚まで出来墓地も実家から移転までして縁とは不思議なもので東京に行きたかったのですがこの東海地方はいい人との出会いが多かった。そして悲しい別れもあった。だけども未だに彼女との別れはなぞに包まれた気も致します。

 私は大学受験は失敗し本意でない大学に行きました。しかし、行けば行ったでいい友人や先輩、後輩が出来ました。要は自分がどう選択しどうかじを切るかだと思い案ます。勉強はできるほうがいいです。一生勉強ですし私も未だに若い講師の方や生徒の方に負けないように頑張っています。本も当時と変わらないほど読んでいます。
 
 社会に出たらもっと大変なことがあります。私は学生時代自分中心で世の中が回ってる感じでいました。社会とのつながりがないわけですからそうなるのです。会社に入ったらどんどん出世してやろうなんて考えていましたが2,3年は雑巾がけです。しかし、見るものは見ているのです。これが学生にはわからないのです。私はそのことに気が付いたのは社会人になって10年以上経ってからのことでした。

 大学時代今のようにパソコンもなく、携帯もなく、勿論ゲームもなく遊びはなかったですがそんなに苦労はしませんでした。最近は映画は見ないのですが当時は見ました。しかし、遊ぶことには若さがあれば苦労は致しません。 
 社会人になってからは瀬戸内文学の同人誌の仲間にさせていただきました。菊池寛賞の候補になったのが幸いでしたが文学界の同人誌評で『中間小説のツボを心得た面白い作品…』と久保田万太郎氏初め評して誉めていただいたのですが結局は私は純文学を目指していましたので才能の限界を知り以後作品は書かなかったのです。大学時代私の名前はそこそこ有名?でした。ほとんどの大学の文学仲間では知られた存在でよく部室まで足を運んでくれたことを思い出します。

 そんな4年間で何も残しことはできませんでしたが言えることは苦手な科目は作らないこと。そして行きたい大学には3年間での計画をきちんと作成して頑張れば行けるということです。中学の延長で野球をし、挫折し方向を変えて進んだのですが結果的に選択はすべて自分で決めました。ですから何も後悔はありません。
 
 今、受験に一直線の皆さんんはその先に何が待っているかわかりませんが兎に角目標に向かって進めるということは最大の幸福だと思わなければいけないと思います。受験は大変ですがその先にはきっといいことがあると思います。。
 私と彼女は別れてから1年後彼女は後輩と結婚したとの話を風の便りに聞きました。大垣で別れた時何も喋らず何時間も言い出せなかったことが若さであったのでしょうか・・・。

<今日の言葉>
『話すということは自分がすでに知っていることの繰り返しだけだ。でも、話を聞くということは新しい何かを得られるかもしれないのだ』
                         DALAI LAMA
<今週のYouTube>
狩人の『あずさ2号』を選びました。
https://www.youtube.com/watch?v=I0M1K_iZKmE


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長良教室 058-210-1730
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