陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

730.野村吉三郎海軍大将(30)アメリカ政府は海軍軍縮と太平洋・極東問題についての会議開催を日本に申し入れてきた

2020年03月20日 | 野村吉三郎海軍大将
 そういう状況から大正十年七月、アメリカ政府は海軍軍縮と太平洋・極東問題についての会議開催を日本に申し入れてきた。

 参加国は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアとその関係諸国だった。

 日本は、他の諸問題は別として、海軍軍縮に関する限りは内心考慮しつつあった矢先だから、直ちに参加を受諾した。

 大正十年十一月十二日から大正十一年二月六日まで、アメリカのワシントンD.C.で国際軍縮会議が開催された。ワシントン会議である。

 参加国は、日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの九か国だった。

 当時のアメリカ大統領は、ウォレン・ハーディング(オハイオ州コルシカ<父は博士で教師のち新聞社経営・母は医師>オハイオセントラル大学卒・新聞「マリオン・デイリー・スター」経営・オハイオ州議会議員・オハイオ州副知事・上院議員・アメリカ合衆国大統領・スキャンダル勃発・大統領として全国遊説中に一九二三年<大正十二年>八月二日食中毒・肺炎・脳梗塞で死去・享年五十七歳)だった。

 日本の首相は、高橋是清(たかはし・これきよ・東京<父は幕府御用絵師>・高橋覚治<仙台藩足軽>の養子となる・ヘボン塾<現・明治学院大学>卒・藩命でアメリカ留学・奴隷となる・文部省入省・大学予備門講師・共立学校<現・開成中学校・高校>校長・農商務省特許局初代局長・ペルーで銀鉱事業に失敗・帰国後ホームレスになる・日本銀行・日本銀行副総裁・貴族院議員・日本銀行総裁・大蔵大臣・立憲政友会入党・第二十代内閣総理大臣・農商務大臣・政界引退・大蔵大臣・昭和十一年二月二十六日二・二六事件で暗殺される・享年八十三歳・子爵・正二位・大勲位菊花大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)だった。

 日本は、ワシントン会議全権に、海軍大臣・加藤友三郎大将と、次の三人を任命した。

 貴族院議長・徳川家達(とくがわ・いえさと)公爵(東京<父は徳川慶頼=第十四代将軍徳川家茂の将軍後見職>明治維新・駿府藩主七〇万石・従四位左近衛権少将・従三位左近衛権中将・静岡潘知事・イギリスのイートンカレッジ留学・帰国後近衛泰子と結婚・公爵・貴族院議員・貴族院議長・ワシントン会議全権・恩賜財団済生会会長・明治神宮奉賛会会長・日本蹴球協会名誉会長・第六代日本赤十字社社長・第十二回オリンピック東京大会組織委員会委員長・昭和十五年六月五日死去・享年七十六歳・公爵・従一位・大勲位菊花大綬章)。

 駐米大使・幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう<父は豪農>第三高等中学校卒・首席・東京帝国大学法科大学卒・農商務省入省・外務省・仁川・ロンドン等の領事館勤務・ワシントン・ロンドン大使館参事官・オランダ公使・外務次官・駐米大使・ワシントン会議全権・外務大臣・幣原外交を貫く・満州事変の収拾に失敗・政界引退・内閣総理大臣臨時代理・終戦・内閣総理大臣・吉田内閣国務大臣・民主自由党・衆議院議長・昭和二十六年三月十日議長在任中に心筋梗塞で死去・享年七十八歳・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)。

 外務次官・埴原正直(はにはら・まさなお・山梨・東京専門学校卒・東洋経済新報社・「外交時報」刊行・外務省入省・中国・アモイ領事館補・駐サンフランシスコ総領事・通商局長・政務局長・外務次官・ワシントン会議全権・駐米大使・昭和九年十二月二十日死去・享年五十八歳・正三位・旭日中綬章・ローマ教皇庁サンシルペストル勲章グランクロア)。

 随員は次の通り(肩書は随員任命前のもの)。

 法制局長官・横田千之助、法学博士・立作太郎、外務参事官・林毅陸、外務省欧米局長・松平恒雄、在アメリカ大使館一等書記官・出淵勝次、外務官僚・有田八郎、在アメリカ大使館一等書記官・佐分利貞男、外務省情報部第一課長・高尾亨。

 陸海軍の随員は次の通り。

 海軍大学校校長・加藤寛治(かとう・ひろはる)海軍中将(福井・海兵一八期・首席・在英国大使館附武官・大佐・海軍兵学校教頭・巡洋戦艦「筑波」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第二艦隊参謀長心得・巡洋戦艦「比叡」艦長・少将・海軍砲術学校校長・第五戦隊司令官・横須賀鎮守府参謀長・欧米各国出張・海軍大学校校長・中将・ワシントン会議主席随員・軍令部次長・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・軍事参議官・議定官・昭和十四年二月九日脳出血で死去・享年六十九歳・正二位・勲一等旭日大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

729.野村吉三郎海軍大将(29)世界一、二位を争う造艦技術を体得した日本海軍は、果てしもなく建艦競争に邁進していった

2020年03月13日 | 野村吉三郎海軍大将
 野村吉三郎大佐が帰朝した翌日、大正八年八月十一日付けの朝日新聞に掲載された野村吉三郎大佐に関する記事は次の通り(抜粋・原文のまま)。

 「講和会議から」――野村大佐、昨朝ペルシャ丸で帰る――

 三月二十四日桑港を出版せし東洋汽船ペルシャ丸は昨日早朝横浜に帰港せり、先客中には講和会議委員として牧野特使に随行せる海軍大佐野村吉三郎氏あり、其談に曰く

 「講和会議に於ける日本委員の行動に関し内地では兎角の説をなす者があるが大体に於いて其目的を達した」

 「自分は講和会議中、海軍に関係しただけで単に会議の一半を知るのみであるから全般に関する話は出来ぬが、海軍会議に於いては独逸に於ける海軍力に制限を付し、単に偵察用として軍艦を在置するのみとなったから今後の同国の海軍は手も足も出す事は出来ない」

 「又残存せる独逸艦隊の処分に関しては仏国は分配を希望し、英米両国は解体して其材料を商船建造の材料に供せん事を主張し、未だ決定しない」

 「又戦争の結果は思想上の世界革命が起こり、人類の幸福を増進する事に各国共務めている」。

 この新聞記事中の談話にも見られる通り、野村吉三郎大佐の時代感覚というものは、軍人の殻を破って相当進んでいる。

 大正九年四月、野村吉三郎大佐は海軍省高級副官に補任され軍政方面で活躍することになった。

 当時の海軍大臣は、加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)大将(広島・海兵七期・次席・海大甲号学生一期・砲艦「筑紫」艦長・軍務局軍事課長心得・大佐・軍務局軍事課長・軍務局第一課長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・陸軍省軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・内閣総理大臣兼海軍大臣・大正十二年八月二十四日大腸ガンで死去・享年六十三シア・元帥・子爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功二級・ロシア帝国白鷲勲章等)だった。

 第一次世界大戦は、軍拡競争を引き起こした。日本、アメリカ、イギリスの三国の海軍は、大戦中に拡張された国内重工業施設の救助策も含めて、激しい海軍競争をスタートさせた。

 中でも、日本とアメリカの海軍競争は第一次世界大戦中からすでに開始されていた。

 この大戦で最も痛手をうけない、というよりは利益の多かった二大海軍国は、あたかも運命の神に導かれるように建艦競争に突入していった。

 日本の八・八艦隊、アメリカの八・四艦隊二群がそれである。イギリスはすでに八・八艦隊二群のデスク・プランを持っていた。

 だが、イギリスは大戦後の善後処理に追われて、直ちには日本・アメリカ両国との拡張競争に乗り出す余裕がなく、日本とアメリカのみが大型戦艦の建艦競争に邁進した。

 今や世界一、二位を争う造艦技術を体得した日本海軍は、果てしもなく建艦競争に邁進していったのだが、この海軍競争には莫大な国家予算が伴った。

 ちなみに、大正十年度の軍事予算は全歳出の実に四九パーセントを占めていた。そのうちの六三パーセントが海軍予算だった。即ち、国家予算の三分の一を海軍が独占していたことになる。

 これは、国家財政の上から見ても、到底永続し得るものではなかった。

 競争相手のアメリカにしても、いかに持てる国とはいえ、日本を上回る建艦を果てしなく続けることは、決して軽い負担ではなかった。

 日本とアメリカは、第一次世界大戦でせしめた利益を吐き出すばかりか、財政の均衡性を失い、国家の安泰を期するはずの海軍が、国家のガン的存在にならないという保証はなかった。




728.野村吉三郎海軍大将(28)「野村はイギリスの急行列車を止めた」と妙なことで感心された

2020年03月06日 | 野村吉三郎海軍大将
 今度(一九六〇年七月)アメリカ民主党の大統領候補に選ばれた四十三歳のケネディー氏は、受諾の大会演説において「現下の国際環境でアメリカは新しい国境精神、即ちアメリカ開拓当時の勇気ある精神にフレッシュさを加えたものが必要である」と説き、また「今日アメリカ国民は倫安をむさぼって明日の衰亡を撰ぶか、或いは真情勢に対応する新国境精神(new frontier spirit)により明日一層の繁栄発展の道を撰ぶか、これを大統領選挙で国民に問う」といって居るが、私はこれに関連して所感の一書を送っておいた。

 明治・大正期の日本には伊藤公、原敬氏のような傑出した信念の政治家が在ったが、鈴木貫太郎氏もまた閣僚中に二人の自決者を出しながらも、よく踏み切って終戦の大事を果たした。

 あの際、僅かの時機を失したならば少なくとも今日、北海道は北方よりの侵入で失われていたであろう。政治家の大所高所よりの達観は何時の時代にも国家民族のために最も要請されるところである。

 話が大分脇道にそれたが、これも老輩の一片の至情として許されたい。

 さて、話を講和会議へ戻すが、私は本省にベルサイユの情況を急ぎ報告するため一足先に帰朝を命じられたので、イギリスのサウザンプトンからカナダのハリフハックスに向かうイギリスの軍用船「オリンピック号」(三万数千屯)に便乗することになったが、この時一場のコント的失敗を演じたのを伝えておこう。

 出発の当日、ロンドンで駐在武官の塩沢幸一君(後・大将)と昼食を一緒に摂り、そこで別れ単身急行列車でサウザンブトンに向かった、ところが昼食の時、少々ワインをやっていたので眠気を催し、いい気持でウトウトしているうちに汽車がガタンと止まったので眼が覚め、新聞を買う気になりプラットフォームに降りて二、三の新聞を買い求め再び車中の人となった。

 汽車は間も無くその駅を辷り出たが、駅を離れ暫くして新聞から眼を放し、ふと窓外を見ると港に「オリンピック」号の巨体が横たわっているではないか「おや」と思ったが車中には私一人である。

 而もその客車は昔、日本の田舎の軽便鉄道などでも見受けた真ん中に通路がなく、座席は一つ一つ横からドアを開けて出入りするようになっている、頗る不便なものであったから、走って次の客車へ行き聞き合わせることも、車掌の許へ行くことも出来ないのである。

 「しまった!」と思ったがもう間に合わない。次の急行停車駅まで待っていたのでは「オリンピック」号の出帆に遅れるので、非停車駅に差し掛かった時、列車に取り付けてある非常用のベルの紐を力一杯に引っ張ったら列車は直ぐに止まったので、慌てて下車すると車掌が飛んで来た。

 かくかくの次第と事情を訴え、不法に非常ベルを鳴らした場合の罰金は五パウンドであるが、私は決して不法にベルを鳴らしたのではないことを釈明して、二パウンドを渡すと車掌は別に苦情もいわずに受け取った。

 こんなところは一見鹿爪らしいがイギリス人の融通の利く一面でもある。下車した非停車駅の駅長が同情して便宜を取り計ってくれ、折から来合わせた反対方面行の列車に飛び乗ってサウザンブトン港に駆け付けた時、もはや出帆時間は過ぎていたが、何しろ四、五千の兵隊が乗り込むため手間取り出帆が遅れていたので慌てて辷り込み、最後の乗客と成ることが出来てホッとした次第である。

 危うく大事な使命に支障をきたす危機一髪の場面であった。後々までこの事件は友人の間に語り伝えられ「野村はイギリスの急行列車を止めた」と妙なことで感心されたり、ひやかされたりして評判となったものである。

 飛んだ失敗の果てに乗り込んだ「オリンピック」号に満載されたカナダ兵の中に、アメリカ国籍の兵隊が数百人もいたので、「何故カナダ兵となったのか」と聞くと「アメリカの参戦が遅いので、それを待っていて欧州戦争参加のチャンスを失っては大変だから、カナダ兵を志願してやって来たのだ、お陰でヨーロッパも見物出来たし、戦争にも加わって働くことが出来て愉快だった」と至極呑気なことを言っていた。

 こういうところにもアメリカ人の気質が窺えるのである。

 以上が、野村吉三郎が、パリ講和会議の光景と、三大国巨頭について、自身が見聞した回想である。

 ヨーロッパを離れた野村吉三郎大佐は、カナダを経て大正八年七月二十四日、サンフランシスコ出帆の東洋汽船「ペルシャ丸」に乗り換え、八月十日早朝、横浜港に無事帰着した。


727.野村吉三郎海軍大将(27)政治家に信念を持つ傑物が居たら軍部に引きずり廻されることなどあろうはずがない

2020年02月28日 | 野村吉三郎海軍大将
 次に、野村吉三郎は、パリ講和会議の光景と、三大国巨頭について、自身が見聞した興味ある回想を次のように語っている。

 私が今日でも忘れることの出来ないのはヴェルサイユ宮殿“鏡の間”における平和条約調印式の光景である。

 式場に憤然として現れたドイツ全権の姿は恰も屠所の羊の如く、一語も発せず黙々として調印する様子は、まことに敗者の悲哀をそぞろに催わせるものがあった。

 それにつけても当時のドイツに鉄血宰相ビスマークのような傑れた人物の居なかったことが悲劇を更に大きくしたものと思う。

 それから私の最も興味を惹いたのは三巨頭(Big three)である。そのうちのウィルソンは在米中も時々演説を開いて居た。

 態度は荘重であったが所謂雄弁家という方ではなかった。その政治思想はリンカーンの“人民に依る人民の為の政治”(Government of the People by the people for the people)の信奉者であることは勿論だが、殊にリーダーシップ、即ち水先案内として国民の納得を得ること(With consent of the governed)に努力を傾けていた。

 大戦に際してはよくリーダーシップをとり、アメリカの参戦後は徴兵制を布き二百万の大兵を欧州に送り、軍艦、商船、飛行機を驚くべきスピードで而も多量に建造、勿ち産業を戦時体制に動員するとともに、敢然として食糧を統制し、ついには旅行までも規制するなど物心両面に亘り思い切った政策を採ったことは、駐米武官当時の話の中でも既に触れたが、講和会議に臨んでは国際連盟を起案して世界人類の共同繁栄を真剣に考えるなど、理想主義者としての彼らしい在り方であったと思う。

 忙しい委員会の合間を見ては出来る限り三巨頭会談に出て傍聴したが、ウィルソンは其処でもやはりアメリカ大統領の貫禄を充分に発揮していた。

 次にフランスのクレマンソーは議長であったが、国家を代表してこうした重大な場に臨んだ彼の言動は全く“虎”と呼ばれるに相応しい巨人ぶりだった。

 殊に議場の整理、駆け引きに至っては堂に入ったもので古強者の感を深くさせられたのである。あの老齢でありながらエネルギッシュな点では壮者を凌ぎ、会議期間中に拳銃で狙撃されて負傷したが、数日間を休養しただけで全快を待たずに出席するという元気さで一同を驚かせた。

 一国の運命を左右する重大時機であり、首相・全権としては当然といえばそれまでだが、強烈な国家国民への責任感の発露であると私は見たのである。

 軍の意見を代表するフォッシュ元帥などの強硬主張を押さえていたようだった。あれを思い出す時、政治家に信念を持つ傑物が居たら軍部に引きずり廻されることなどあろうはずがないと、今更のように感慨無量である。

 戦勝の偉勲に輝く連合軍総司令官のフォッシュ元帥すら、押さえるべきところは押さえつけるクレマンソーのことだから、ウィルソンに対しても決して屈して居なかった。

 ウィルソンが立って雑談をしていると槌を叩いてたしなめ、静粛を求める場面などもあった。

 それからイギリスのロイド・ジョージは第一番の雄弁家で、その演説は実に堂々たるものだと感心した。

 前首相で外相のバルフォアはそれと対照的に静かに側に居たが、首相不在の時はこの人が充分に代理を勤めていた。

 ロイド・ジョージはフォッシュ元帥の主張に反対する場合など諄々と説得するに当り、驚くばかりの軍事知識を持っていることが窺われた。

 その広い知識の上に立ち高い見地から、問題を飽く迄も政治的に解決するところなど、さすがに大英国首相の大器だと思われた。

 この第宰相がパリの街を腹心のハンケー氏を伴い、鞄を提げて悠然とホテルへ帰って行く姿を見受けたこともある。

 あの頃のビッグ・スリーの政治家としての在り方を見ても、政治家は時流を遙かに達観して一世を指導し、最終的に国民の納得を取り付ける見識が必要であると思う。

 近視眼的に何でも彼でも議論を手探りして処理していては時には方向を誤り、多くの場合は時機を逸して船は方向を失ってしまうのである。







726.野村吉三郎海軍大将(26)若い連中は冗談に「牧野さんはずるいな」とか「流石は慎重だな」と話し合った

2020年02月21日 | 野村吉三郎海軍大将
 次に、各界からの出席者は、次の通り。

 立作太郎(東京・東京帝国大学法科大学政治学科卒・東京帝国大学教授・東京帝国大学名誉教授・昭和十八年五月十三日死去・享年六十九歳)。

 近藤廉平(徳島・慶應義塾・大学南校卒・日本郵船社長・男爵・貴族院議員・大正十年二月九日死去・享年七十三歳)。

 深井英五(群馬・同志社英学校普通科卒・日本銀行理事・日本銀行総裁・貴族院議員・枢密顧問官・昭和二十年十月二十一日死去・享年七十三歳)、

 喜多又蔵(奈良・市立大阪商業学校卒・日本綿花社長・鈴政式織機社長・昭和七年一月三十一日死去・享年五十五歳)。

 その他、福井菊三郎(三井合名会社理事)などが出席している。

 野村吉三郎大佐は、パリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)では、海軍委員として竹下勇中将を扶け重要な役割を果たすとともに、世界の巨頭を集めた会議全般の模様を、つぶさに見聞して大いに得るところがあった。

 野村吉三郎は、後に当時を回想して、全権や出席者の人物像について次の様に語っている。

 初めて世界的な舞台に端役ながら登場することが出来たので、私としては渾身の力を傾けて働いた心境である。

 毎日が多忙をきわめる仕事の連続であったが、それでも偶々休養の一日を得ると年齢からいっても同輩格の吉田、松岡、有田等の外務省の連中や、陸海軍の同僚委員達が集まって大いに世界政局を論じ、また戦後の日本の国際的地位に就いて談論風発したが、時には花のパリでのお上り気分も大いに味わったものである。

 こういう会議に一国を代表して出張しているとお互いに親近感を増すもので、後年には立場や考え方を異にした者もあるが、いずれもが胸襟を開いて語り合い共鳴するところも多かった。

 吉田君にしろ松岡君にしろ乃至は畑君にしろ誰もが、その頃は躍進日本の将来を背負う者としての誇りを持ち、国家の将来に就いて相通ずる意見を抱いていた。

 ところがその所信も、その後に続く永い時代の浪に揉まれ変化して行ったのも已むを得ないことである。

 今、私の脳裏に蘇るものは首相吉田茂、元帥畑俊六、乃至は外相松岡洋介、重光葵ではなくして、これらの人々の少壮有為の鋭気に溢れた、その頃の面影である。

 全権のうちでは流石に西園寺侯は元老の貫禄充分であった。日本内地でも新聞などが侯の乗船に味噌から醤油まで日本料理の材料を積み込み、料理人として大阪“灘万”の主人公や例のお花さんまで、わざわざ随行させたことを書き立てたので、大名行列と言う評判が高かったようだが、随員のなかにも冗談半分に侯の大名行列の費用を云々した者があった。

 それがまた何時の間にか侯の耳に入っていたと見えて、随員一同と会食した席上で老侯は何気なく、「ワシの出張費用も贅沢に関する部分は自分持ちだ」という意味のことをチクリと言われたので、陰口を利いた男は兜を脱いでしまったものだ。

 何といっても住友が後に控えているのだから、政府の出張旅費で賄うようなケチな真似をせず悠々と振舞って居られたようだ。

 私が直接随行して行った牧野男は講和会議における日本側の事実上の中心人物だった。

 この人は若い連中を集めていろいろと意見を述べさせることの好きな人だったが併し、どの意見にもそれが良いとか悪いとか絶対に言わない主義を堅持していた。

 そうして後になるとチャンと採るべき意見は採り、日本の主張のなかに織り込み、また戦術として用いていた。そこで若い連中は冗談に「牧野さんはずるいな」とか「流石は慎重だな」と話し合ったものである。

 とにかく責任感の強い人で一言一句もおろそかにしないところがあった。従って他の意見に対しても自分一人では可否を直ちに表明されなかったのであろう。

 いずれにしても西園寺、牧野というような元老、大先輩の下で仕事をしたパリ講和会議は私に多くの教訓を与えて呉れ、且つ働き甲斐のある場であった。

 以上が、野村吉三郎大佐が海軍委員として出席したパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)の全権や出席者についての回想である。






725.野村吉三郎海軍大将(25)野村吉三郎大佐は、海軍、時には日本の主要舞台で注目を集める存在になっていった

2020年02月14日 | 野村吉三郎海軍大将
 有田八郎(ありた・はちろう)参事官(新潟・東京帝国大学法科大学独法科卒・外務省・パリ講和会議全権委員随員・亜細亜局長・オーストリア公使・外務次官・ベルギー大使・中国大使・外務大臣・終戦・衆議院議員・東京都知事選で落選・昭和四十年三月四日死去・享年六十五歳・正四位・旭日中綬章・ハンガリー王国メリット・オングロアーズ勲章プルミエール)。

 重光葵(しげみつ・まもる)参事官(大分・東京帝国大学法学部卒・外務省・在ドイツ公使館書記官・在英国公使館書記官・在シアトル領事・駐華公使・駐ソ公使・駐英大使・外務大臣・戦艦ミズーリ―甲板上で日本政府全権として降伏文書に署名・終戦・外務大臣・A級戦犯・衆議院議員・改進党総裁・日本民主党副総裁・自由民主党・外務大臣・昭和三十二年一月二十六日狭心症発作で死去・享年六十九歳・正三位・勲一等旭日桐花大綬章)。

 大正八年一月十八日から開催されたパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)への、陸軍側の委員は次の通り。

 奈良武次(なら・たけじ)中将(栃木・陸士旧一一期・陸大一三期・ドイツ駐在・砲兵大佐・陸軍省高級副官・陸軍省軍務局砲兵課長・少将・支那駐屯軍司令官・青島守備軍参謀長・陸軍省軍務局長・中将・パリ講和会議委員・東宮武官・侍従武官・東宮武官長・侍従武官長・大将・大日本武徳会会長・枢密院顧問・軍人援護会会長・昭和三十七年十二月二十一日死去・享年九十四歳・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・英国ヴィクトリア勲章ナイトグランクロス等)。

 二宮治重(にのみや・じゅうじ)中佐(岡山・陸士二三期・陸大二二期・恩賜・パリ講和会議委員・陸軍大学校教官・歩兵大佐・参謀本部総務部第一課長・近衛歩兵第三連隊長・少将・在英国大使館附武官・歩兵第二旅団長・参謀本部第二部長・参謀本部総務部長・中将・参謀次長・第五師団長・予備役・満鉄拓殖会社総裁・文部大臣・昭和二十年二月十七日病死・享年六十六歳・従五位・勲三等旭日中綬章)。

 畑俊六(はた・しゅんろく)中佐(陸士一二期・一一番・陸大二二期・首席・パリ講和会議委員・陸軍大学校教官・砲兵大佐・野砲兵第一六連隊長・陸軍野戦砲兵学校教導連隊長・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・中将・砲兵監・第一四師団長・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・教育総監・大将・中支那派遣軍司令官・侍従武官長・陸軍大臣・支那派遣軍総司令官・元帥・教育総監・第二総軍司令官・広島で原爆に被曝・終戦・A級戦犯・偕行社会長・昭和三十七年五月十日戦没者慰霊碑除幕式で倒れ死去・享年八十二歳・従二位・元帥・勲一等旭日大綬章・功一級)。

 藤岡萬蔵(ふじおか・まんぞう)少佐(陸士一六期・陸大二三期・四番恩賜・少佐・パリ講和会議委員・中佐・参謀本部・大佐・参謀本部演習課長・昭和四年八月十四日殉職・少将・享年四十四歳)。

 海軍側の委員は、次の通り。

 竹下勇(たけした・いさむ)中将(鹿児島・海兵一五期・三番・海大一期・第二艦隊参謀・大佐・第二艦隊参謀長・防護巡洋艦「須磨」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・軍令部第四班長・巡洋戦艦「筑波」艦長・一等戦艦「霧島」艦長・第一艦隊参謀長・少将・軍令部第四班長兼海軍大学校教官・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・第二戦隊司令官・中将・第一特務艦隊司令官・軍令部次長・パリ講和会議委員・国連海軍代表・第一艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・呉鎮守府司令長官・予備役・有終会理事長・大日本相撲協会会長・皇武会(現・合気会)初代会長・昭和二十四年七月一日死去・享年七十九歳・正三位・勲一等旭日大綬章・イギリスビクトリア勲章ナイトグランドクロスなど)だった。

 野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)大佐(和歌山・海兵二六期・次席・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・パリ講和会議委員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・枢密顧問官・昭和三十九年五月八日死去・享年八十六歳・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)。

 山本信次郎(やまもと・しんじろう)大佐(神奈川・海兵二六期・一七番・海大七期・在イタリア大使館附武官・大佐・パリ講和会議委員・東宮御学問所御用掛・東宮職御用掛・軍令部参謀・皇太子欧州出張随行・宮内省御用掛・少将・予備役・依願免宮内省御用掛・カトリック信者・公教会青年会設立・カトリックタイムズ創刊・昭和十七年二月二十八日死去・享年六十四歳・フランス共和国タカデ三―記章オフィシェ)。

 野村吉三郎大佐は、竹下勇中将に次ぐ委員であった。この頃から次第に野村吉三郎大佐は、海軍、時には日本の主要舞台で注目を集める存在になっていった。






724.野村吉三郎海軍大将(24)艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された

2020年02月07日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正七年九月二十九日、日本国に内閣制度が誕生してから、初めて無爵の政党人を首班とする純政党内閣が誕生した。

 大正七年十月十八日付けで、野村吉三郎大佐は、重巡洋艦「八雲」(九六九五トン・乗員六四八名)の艦長に転補され、久しぶりの海上勤務に出た。また、初めての艦長勤務であった。

 だが、野村吉三郎大佐は、重巡洋艦「八雲」(九六九五トン・乗員六四八名)の艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された。

 さらに十二月三日には、野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席する全権大使に随行する海軍側委員を命ぜられた。

 大正八年一月十八日から開催されたパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)への、日本の主要な出席者は、次の通り。

 首席全権大使・西園寺公望(さいおんじ・きんもち)元首相(京都・学習院・官軍参与・戊辰戦争・会津戦争・新潟府知事・開成学校・フランス・ソルボンヌ大学留学・侯爵・駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使・駐ベルリン・ドイツ帝国公使兼ベルギー公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・文部大臣・外務大臣・文部大臣・政友会総裁・内閣総理大臣臨時代理・枢密院議長・内閣総理大臣・パリ講和会議全権・公爵・昭和十五年十一月二十四日死去・享年九十歳・国葬・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

 次席全権大使・牧野伸顕(まきの・のぶあき)元外相(鹿児島・東京帝国大学中退・外務省・首相秘書官・福井県知事・茨城県知事・文部次官・イタリア公使・オーストリア公使・文部大臣・男爵・外務大臣・貴族院勅選議員・パリ講和会議次席全権・子爵・宮内大臣・内大臣・伯爵・昭和二十四年一月二十五日死去・享年八十七歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・フランスドラゴンドランナン勲章グランクロア)。

 駐英大使・珍田捨巳(ちんだ・すてみ・青森・米国アスベリー大学<現・デボー大学>卒・メソジスト弘前教会副牧師・外務省・イギリス・清国・オランダ書記官・領事・総領事・在サンフランシスコ日本領事・初代外務次官・外務総務長官・外務次官・男爵・子爵・ブラジル公使・オランダ公使・ロシア公使・ドイツ大使・駐米特命全権大使・イギリス大使・パリ講和会議全権委員・伯爵・枢密顧問官・東宮大夫・侍従長・昭和四年一月十六日脳出血で死去・享年七十三歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 駐仏大使・松井慶四郎(まつい・けいしろう・大阪・東京帝国大学法科大学英法科卒・外務省・イギリス公使館一等書記官・フランス参事官・外務次官・フランス大使・パリ講和会議全権委員・男爵・外務大臣・貴族院議員勅選議員・イギリス大使・枢密顧問官・昭和二十一年六月四日死去・享年七十八歳・男爵・正二位・勲一等旭日大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 外務省側の委員は次の通り。

 松岡洋介(まつおか・ようすけ)書記官(山口・アメリカ・オレゴン大学法学部卒・外務省・中華民国領事官補・首相秘書官・パリ講和会議随員・中華民国総領事・外務省退官・南満州鉄道理事・衆議院議員・国際連盟日本首席全権・南満州鉄道総裁・外務大臣・終戦・A級戦犯・昭和二十一年六月二十一日結核で病死・享年六十六歳・従三位・勲一等旭日大綬章・ロシア帝国神聖スタニスラス第二等勲章等)。

 佐分利貞男(さぶり・さだお)書記官(福山・東京帝国大学法科大学仏法科卒・外務省・外交官補・清国・ロシア・フランス駐在・外務省参事官・パリ講和会議全権委員随員・大使館参事官・通商局長・条約局長・駐支那公使・昭和四年十一月二十九日自殺<他殺疑惑>・享年五十歳・勲三等旭日中綬章)。

 吉田茂(よしだ・しげる)書記官(東京・東京帝国大学法科大学政治科卒・外務省・領事館補・奉天領事館・在米大使館附二等書記官・文書課長心得・済南領事・パリ講和会議随員・在英大使館附一等書記官・奉天総領事・駐スウェーデン公使・外務次官・駐イタリア大使・外務省退官・終戦・外務大臣・貴族院議員・内閣総理大臣(一次)・日本自由党総裁・衆議院議員・民主自由党総裁・内閣総理大臣(二次~五次)・政界引退・昭和四十二年十月二十日死去・享年九十歳・従一位・大勲位菊花章頸飾)。

 木村鋭市(きむら・えいいち)書記官(島根・東京帝国大学法科大学政治科卒・外務省・外交官補・外務省参事官・ベルギー公使館三等書記官・フランス大使館二等書記官・パリ講和会議全権委員随員・亜細亜局課長・ワシントン会議全権委員随員・アメリカ合衆国大使館一等書記官・同参事官・亜細亜局長・駐チェコスロバキア公使・南満州鉄道株式会社理事・第一次日蘭会商代表・忠清工業株式会社社長・台湾拓殖株式会社顧問・昭和二十二年七月二十一日死去・享年六十八歳)。

















723.野村吉三郎海軍大将(23)アメリカに関する戦力打診は当初大いに誤っていたことを率直に告白せざるを得ない

2020年01月31日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正六年四月一日、野村吉三郎中佐は、大佐に進級した。野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦当時のアメリカとアメリカ人について、次の様に述べている。

 駐在武官として赴任した私は恰もヨーロッパの大戦当時であったから働き甲斐もあったが、多忙でもあった。武官としての第一の任務は駐在国の軍事的視察であるが、この時はその他にヨーロッパ戦局に最後のイニシアティーブを執る、無疵の強大国アメリカを通じて連合国、同盟国双方の動きを観測することも重大任務であった。

 何といってもアメリカ自体の処女地的な戦力の検討評価が、私に与えられた最高の任務であることはいうまでもない。私は凡ゆる角度からアメリカの戦争能力を観察して東京へ報告した。

 ところがこの時の私の報告は実のところ米国という国を過少評価していたのである。当時としては私も自信を持って報告したし、受け取る東京のその筋も高く評価してくれたと見えて、私の大佐進級はその論功行賞をも含めて一年ほど早かったのである。

 ところがお恥ずかしい話だがアメリカに関する戦力打診は当初大いに誤っていたことを率直に告白せざるを得ない。

 それから当時印象に残ったのはアメリカの青年や学生はヨーロッパの戦争に対して、戦争なんか何処吹く風といった工合で、アメリカの参戦問題についても、当時は他所の国のために戦争なんかしてもつまらないといった表情を見せていたのが、いざ参戦となると格別嫌な顔もせず、動員されるとヨーロッパ見物にでも行くような呑気な調子で、鼻歌まじりの気楽そうな出征風景を見せたことだ。

 日本人のように出征に伴う悲壮感というようなものは少しもなかった。それでも結構、ヨーロッパの戦線では何処の国の兵隊にも劣らぬ勇敢さを示したのだから偉いものだと思った。

 一般の国民も参戦と同時に経済統制が行われ食糧の制限から旅行まで難しくなり、酒類の醸造などは早速中止させられたので、平常は豊かな生活を享楽しているアメリカ人だから、さぞかし不平を並べると思ったが、意外にも苦情を言う者は殆どなく積極的な戦争遂行への協力振りを見せていた。

 参戦前には遠い他国のために戦争なんか真っ平だという議論をしていたアメリカ人が、いざとなるとデモクラシーのために戦うのだと張り切って、いささかの不満も口にしないところなど大いに学ぶべきところがあると思った。

 そうした点にもアメリカ並びにアメリカ人の容易ならぬ底力が潜んでいたことを、今更のように想起するのである。

 以上が、野村吉三郎大佐の第一次世界大戦当時のアメリカとアメリカ人についての回想である。

 大正七年六月一日、野村吉三郎大佐は帰朝命令に接し、三年有余の駐米武官生活に終止符を打って帰国の途につき同年九月二日、無事に東京へ帰着した。

 その頃の日本の政情は、野村吉三郎大佐がアメリカに赴任した当時の大隈重信内閣は大正五年十月三日総辞職して、後継内閣が立っていた。

 後継内閣は、寺内正毅(てらうち・まさたけ)元帥(山口・戊辰戦争・函館戦争・明治維新・陸軍戸山学校・西南戦争で負傷し右手の自由をなくす・フランス駐在武官・陸軍大臣官房副長・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・日清戦争大本営運輸通信長官・歩兵第三旅団長・教育総監・参謀本部次長・陸軍大臣・陸軍大将・陸軍大臣兼韓国統監・朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・シベリア出兵を宣言・米騒動で辞職・大正八年十一月三日心臓肥大で死去・享年六十七歳・伯爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・イギリスバス勲章グランドクロスなど)を首班とする内閣であった。

 だが、この寺内内閣も、大正七年八月、富山県魚津町の漁民の妻たちの騒動を発火点として全国に広がった“米騒動”と、シベリア出兵の責任をとり、九月一日総辞職を取り決めた。

 その翌日の九月二日に、野村吉三郎大佐は日本に帰国したのである。

 九月二十七日、政友会総裁・原敬(はら・たかし・岩手・盛岡藩藩校「作人館」・カトリック神学校・司法省法学校退校・郵便報知新聞社・外務省入省・天津領事・パリ駐在・農商務省参事官・大臣秘書官・外務省通商局長・外務次官・朝鮮駐在公使・大阪毎日新聞社社長・立憲政友会幹事長・逓信大臣・衆議院議員・鉄道院総裁・内務大臣・立憲政友会総裁・内閣総理大臣・平民宰相と呼ばれる・大正十年十一月四日東京駅で暗殺・享年六十六歳・正二位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章など)に組閣の大命が下った。




722.野村吉三郎海軍大将(22)これが人類に幾多の貢献をもたらした発明王の老後を養う処とは考えられない

2020年01月24日 | 野村吉三郎海軍大将
 一九〇五年(明治三十八年)、フランクリンは第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)である、アナ・エレノア・ルーズベルトと結婚。

 結婚式には、第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わりに出席した。二人の間には六人の子供が生まれた。

 一九〇八年(明治四十一年)コロンビア大学ロースクール卒業。ウォール・ストリート法律事務所。

 一九一一年(明治四十四年)ニューヨーク州議会上院議員。フリーメイソンに加入。

 一九一三年(大正二年)三月海軍次官。一九二〇年(大正九年)民主党の副大統領候補として大統領選挙に敗れ、政界を引退。弁護士業に従事。

 一九二一年(大正十年)八月十日、フランクリンは、ポリオを発症し、その後遺症で、下半身が麻痺した。以後日常生活では車椅子を常用した。三十九歳だった。

 一九二九年(昭和四年)一月、ニューヨーク州知事。一九三三年(昭和八年)三月四日~1945年(昭和二十年)四月十二日、アメリカ合衆国第三十二代大統領。アメリカ合衆国史上最長の任期だった。

 大統領在職(四選)中の1945年(昭和二十年)四月十二日、昼食前に脳卒中で死去。享年六十三歳。第二次世界大戦の終結と勝利を目前にした死だった。歴代大統領唯一の身体障碍者の大統領だった。

 以上が、第三十二代大統領・フランクリン・ルーズベルトの経歴である。以後は、野村吉三郎の話に戻る。

 アメリカでの海軍駐在武官当時(大正四年~大正七年)の野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦中であったから、彼の武官としての活躍は頗る多忙を極めた。それで、よく車を走らせた。

 その頃の習慣であろうか、昭和三十五年当時、八十三歳の野村吉三郎のドライブ趣味は、ますます盛んであった。暇を見つけると郊外へ車を走らせることが唯一のレクレーションとなっていた。

 駐在武官当時、ドライブ好きの野村吉三郎大佐は、車を運転して、ニュージャージー州ニューワーク郊外オレンヂに住む、発明王エジソンを訪問した。

 野村吉三郎が訪れた、発明王エジソンの住宅兼研究所はまことに簡素なもので、「これが人類に幾多の貢献をもたらした発明王の老後を養う処とは考えられない」と、野村吉三郎大佐は思ったという。

 このアメリカ駐在中、野村吉三郎大佐の最大の収穫は、多くのアメリカ人の知友を得たことであった。

 そのうちでも、当時海軍次官をしていたフランクリン・ルーズベルトとは、海軍の関係で交際を重ねて、大いに友誼を厚くした。

 このほか、プラット提督など、後年のアメリカ海軍の将星の多くと、国境を超えたネイビーフレンドとしての交わりを結んだ。

 ウィリアム・V・プラット提督は、一八六九年(明治元年)二月二十八日生まれ。メイン州ベルファースト出身。一八八九年アメリカ海軍兵学校卒業。一八九八年米西戦争でキューバ封鎖作戦に参加。一九一一年アメリカ海軍大学教官。

 一九一七年アメリカ陸軍大学卒業。装甲巡洋艦「ニューヨーク」艦長などを経て、一九二五年アメリカ海軍大学校長。一九三〇年海軍作戦部長。

 退役後もウィリアム・V・プラット提督は、学術研究を行い、太平洋戦争開戦前にはドイツ潜水艦の脅威に対抗するため護衛空母や飛行船の研究に従事した。

 知日派で、太平洋戦争直前には、野村吉三郎在米国特命全権大使との会談も行っている。海軍大将。一九五七年十一月二十五日死去。享年八十八歳。

 第一次世界大戦において、大正六年四月六日、アメリカはドイツに宣戦布告した。同年十二月には、オーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。


721.野村吉三郎海軍大将(21)フランクリン・ルーズベルトも非常な海軍男で海軍の話を始めると時の経つのを忘れる程だった

2020年01月17日 | 野村吉三郎海軍大将
 このほかに三井、三菱などの支店はアメリカで、戦争中は目覚ましい活躍を見せていた。つまり軍需工業に関係したり、また第三国間の通運を大きく取り扱ったので飛躍的な発展を示していたのである。今日でいう弗をじゃんじゃんと稼いでいたようだ。

 私の駐米中は日本の政治経済的な国際進出の大飛躍店であったことを回顧して、転(うた)た感慨無量なものがある。

 第二次大戦中の大統領のフランクリン・ルーズベルトは、当時海軍次官をしていたので屡々(しばしば)往来して友好を結んだ。

 日露戦争の時の大統領テオドール(セオドア)・ルーズベルトも大の海軍好きだったが、フランクリン・ルーズベルトも非常な海軍男で海軍の話を始めると時の経つのを忘れる程だった。

 日本では伊藤公が海軍ファンだったが、アメリカでは二代のルーズベルトは共に海軍ファンだった。余談だが現在(昭和三十五年七月)大統領候補を狙う共和党のニクソン副大統領や、民主党のケネディー氏も第二次大戦中は海軍の将校であり、殊にケネディーは小艦艇の艇長として日本軍艦と戦闘を交え撃沈された経歴者である。

 以上が、アメリカでの海軍駐在武官(大佐)当時を述べた野村吉三郎の回顧談である。この回顧談に出てきたアメリカ合衆国の二人のルーズベルト大統領は次の通り。

 第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトは、一八五八年(安政四年)十月二十七日生まれ。ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区出身。ハーバード大学卒。

 セオドアの父はニューヨークの商人、板ガラス輸入会社の共同経営者。資産家であるが、慈善事業、政治活動も行っていた。

 第三十二代大統領・フランクリン・ルーズベルトとは、遠縁の従弟。

 一八八一年(明治十四年)、セオドア・ルーズベルトは、二十三歳の最年少議員としてニューヨーク州下院議員に選出される。その後、最初の妻、アリス・ハサウェイ・リーと結婚。

 一八八四年(明治十七年)二月十四日、妻のアリスが一人娘アリス(妻と同じ名前)を生んだが、その二日後に妻のアリスは死亡した。妊娠で診断が見落とされた腎臓病だった。

 だが、妻アリスが死亡する十一時間前の午前三時に、同じ家で、ルーズベルトの母が死亡していた。死因は腸チフスだった。

 ルーズベルトは、同じ日に、愛する妻と母を失った。日記に「私の人生から光が消え去った」と書き残して、娘を預け、ノースダコタ州へ転居し、一人きりで農場に住んだ。

 一八八六年(明治十九年)十二月、イーディス・カーロウと再婚、五人の子供が生まれた。その後、一八九五年(明治二十八年)、ニューヨーク市公安委員長に就任。

 一八九七年(明治三十年)海軍次官。一八九八年スペインに対する宣戦布告(米西戦争)の年、ルーズベルトは海軍次官を辞職し、陸軍中佐の階級で第一合衆国義勇奇兵隊を結成、大佐に昇進し指揮官となった。

 最前線で戦い軍功を挙げ、名誉勲章受章。米西戦争後、ルーズベルトは警視総監、ニューヨーク州知事を歴任。

 一九〇一年(明治三十四年)九月十四日~一九〇九年(明治四十二年)三月四日、アメリカ合衆国第二十六代大統領。

 日露戦争<一九〇四年(明治三十七年)二月八日~一九〇五年(明治三十八年)九月五日>で日本とロシアの調停をつとめ、この和平交渉斡旋の功績で、ルーズベルトは一九〇六年(明治三十九年)、ノーベル平和賞を受賞。

 一九一九年(大正八年)一月六日、ニューヨーク州ナッソー郡オイスター・ベイで、就寝中に心臓発作で死去。享年六十歳。ニミッツ級航空母艦の四番艦、「セオドア・ルーズベルト」は、彼にちなんで命名された。

 第三十二代大統領・フランクリン・ルーズベルトは、一八八二年(明治十五年)一月三十日生まれ。ニューヨーク州北部のハイドパーク出身。

 フランクリンの父は鉄道会社の副社長で、また、裕福な地主だった。第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトは、遠縁の従兄。

 一九〇四年(明治三十四年)、フランクリンは、ハーバード大学卒業。