大正十三年二月、少将(四十八歳)。大正十五年三月、満鉄(南満州鉄道)を守備する独立守備隊司令官(五十歳)。昭和三年六月、張作霖爆殺事件で無関係だったが、責任を負い、昭和四年七月一日重謹慎処分、八月一日待命、八月三十一日予備役編入(五十三歳)。
昭和七年十一月(五十六歳)から昭和十二年九月(六十一歳)まで、満州国軍中将として軍務についた。昭和三十五年一月九日死去。享年八十四歳。
野村吉三郎大佐は、明治十年十二月十六日生まれ。明治三十一年十二月、海軍兵学校(二六期)卒業(ニ十歳)。明治四一年三月、オーストリア駐在。九月、少佐(三十歳)。明治四十三年五月、ドイツ駐在(三十二歳)。大正二年海軍大臣秘書官、中佐(三十五歳)。大正六年四月、大佐(三十九歳)。
大正十一年六月、少将(四十四歳)、軍令部第三班長。大正十五年七月、軍令部次長、十二月、中将(四十八歳)。
昭和四年二月、練習艦隊司令官(五十一歳)。昭和七年二月、第三艦隊司令長官、十月、横須賀鎮守府司令長官(五十四歳)。
昭和八年三月、大将(五十五歳)、十一月軍事参議官。昭和十二年四月、予備役、学習院院長(五十九歳)。
その後、昭和十四年九月、外務大臣、昭和十五年十一月、在アメリカ合衆国特命全権大使、昭和十九年五月、枢密顧問官を歴任。昭和三十九年五月八日死去。享年八十六歳。
以上が二人の陸海軍駐在武官の軍歴比較だが、再び、大正七年初頭、野村吉三郎大佐が米国駐在当時の話に戻る。
陸軍駐在武官・水町竹三中佐が、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐に、「佐藤愛麿大使は不適任だから、本国に追い返そう」と申し込んできたのだ。
これに対し、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐は、「自分は海軍大臣から大使の下で働くことを命じられて来ているのだから、事の如何を問わず軍人として上長者の排斥運動には同じ難い」と断った。
すると、陸軍駐在武官・水町竹三中佐は単独に何事かを東京へ進言したらしく、間も無く佐藤愛麿大使は帰国を命じられた。
その頃、アメリカでは次の二人がアメリカ人の間でも非常に尊敬を受けていた。
野口英世(のぐち・ひでよ)博士(福島・済生学舎<現・日本医科大学>卒・医師・細菌学者・京都大学<医学博士>・東京帝国大学<理学博士>・ブラウン大学<名誉理学博士>・イエール大学<名誉理学博士>・パリ大学<名誉医学博士>・サンマルコス大学<名誉医学博士>・エクアドル共和国<陸軍名誉軍医カ監・名誉大佐>・黄熱病や梅毒の研究・ノーベル生理学・医学賞候補・昭和三年五月二十一日現在のガーナ共和国で黄熱病で死去・享年五十一歳・正五位・勲二等旭日重光章)。
高峰譲吉(たかみね・じょうきち)博士(富山・工部大学校<現・東京大学工学部>応用化学科を首席で卒業・英国グラスゴー大学・農商務省入省・専売特許局局長代理・アメリカに移住・タカジアスターゼを発明・アドレナリンの結晶化に成功・東京帝国大学<名誉工学博士>・帝国学士院賞・帝国学士院会員・三共<現・第一三共>初代社長・東洋アルミナム設立・黒部鉄道設立・黒部温泉株式会社設立・黒部水力株式会社設立・大正十一年七月二十二日腎臓炎によりニューヨークで死去・享年六十七歳・正四位・勲三等瑞宝章)。
当時(大正七年)、アメリカでの海軍駐在武官だった野村吉三郎大佐は、後に次のように回想している。
私が武官としてアメリカに駐在していた頃には、野口英世博士や高峰譲吉博士が既に優れた研究の結果を発表していたので、そうしたことには国境人種を超えて敬意を表するに吝(やぶさ)かでないアメリカの人の間では、とても信用され且つ尊敬されていた。
高峰博士などはニューヨークやワシントンの一流のクラブに出入りし、当時一流の人士と交際して敬愛されていた。
両博士ともに何回も会ったが、特に野口博士とは可成り懇意にして、日本へ品物を送ったり、また向こうから送って貰う場合に私の名義で取扱ってあげたこともあった。これは駐在武官は大使館員として、通関税を免除されるからである。……今回飛んだ打明け話で赤面の至りである……
昭和七年十一月(五十六歳)から昭和十二年九月(六十一歳)まで、満州国軍中将として軍務についた。昭和三十五年一月九日死去。享年八十四歳。
野村吉三郎大佐は、明治十年十二月十六日生まれ。明治三十一年十二月、海軍兵学校(二六期)卒業(ニ十歳)。明治四一年三月、オーストリア駐在。九月、少佐(三十歳)。明治四十三年五月、ドイツ駐在(三十二歳)。大正二年海軍大臣秘書官、中佐(三十五歳)。大正六年四月、大佐(三十九歳)。
大正十一年六月、少将(四十四歳)、軍令部第三班長。大正十五年七月、軍令部次長、十二月、中将(四十八歳)。
昭和四年二月、練習艦隊司令官(五十一歳)。昭和七年二月、第三艦隊司令長官、十月、横須賀鎮守府司令長官(五十四歳)。
昭和八年三月、大将(五十五歳)、十一月軍事参議官。昭和十二年四月、予備役、学習院院長(五十九歳)。
その後、昭和十四年九月、外務大臣、昭和十五年十一月、在アメリカ合衆国特命全権大使、昭和十九年五月、枢密顧問官を歴任。昭和三十九年五月八日死去。享年八十六歳。
以上が二人の陸海軍駐在武官の軍歴比較だが、再び、大正七年初頭、野村吉三郎大佐が米国駐在当時の話に戻る。
陸軍駐在武官・水町竹三中佐が、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐に、「佐藤愛麿大使は不適任だから、本国に追い返そう」と申し込んできたのだ。
これに対し、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐は、「自分は海軍大臣から大使の下で働くことを命じられて来ているのだから、事の如何を問わず軍人として上長者の排斥運動には同じ難い」と断った。
すると、陸軍駐在武官・水町竹三中佐は単独に何事かを東京へ進言したらしく、間も無く佐藤愛麿大使は帰国を命じられた。
その頃、アメリカでは次の二人がアメリカ人の間でも非常に尊敬を受けていた。
野口英世(のぐち・ひでよ)博士(福島・済生学舎<現・日本医科大学>卒・医師・細菌学者・京都大学<医学博士>・東京帝国大学<理学博士>・ブラウン大学<名誉理学博士>・イエール大学<名誉理学博士>・パリ大学<名誉医学博士>・サンマルコス大学<名誉医学博士>・エクアドル共和国<陸軍名誉軍医カ監・名誉大佐>・黄熱病や梅毒の研究・ノーベル生理学・医学賞候補・昭和三年五月二十一日現在のガーナ共和国で黄熱病で死去・享年五十一歳・正五位・勲二等旭日重光章)。
高峰譲吉(たかみね・じょうきち)博士(富山・工部大学校<現・東京大学工学部>応用化学科を首席で卒業・英国グラスゴー大学・農商務省入省・専売特許局局長代理・アメリカに移住・タカジアスターゼを発明・アドレナリンの結晶化に成功・東京帝国大学<名誉工学博士>・帝国学士院賞・帝国学士院会員・三共<現・第一三共>初代社長・東洋アルミナム設立・黒部鉄道設立・黒部温泉株式会社設立・黒部水力株式会社設立・大正十一年七月二十二日腎臓炎によりニューヨークで死去・享年六十七歳・正四位・勲三等瑞宝章)。
当時(大正七年)、アメリカでの海軍駐在武官だった野村吉三郎大佐は、後に次のように回想している。
私が武官としてアメリカに駐在していた頃には、野口英世博士や高峰譲吉博士が既に優れた研究の結果を発表していたので、そうしたことには国境人種を超えて敬意を表するに吝(やぶさ)かでないアメリカの人の間では、とても信用され且つ尊敬されていた。
高峰博士などはニューヨークやワシントンの一流のクラブに出入りし、当時一流の人士と交際して敬愛されていた。
両博士ともに何回も会ったが、特に野口博士とは可成り懇意にして、日本へ品物を送ったり、また向こうから送って貰う場合に私の名義で取扱ってあげたこともあった。これは駐在武官は大使館員として、通関税を免除されるからである。……今回飛んだ打明け話で赤面の至りである……