陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

720.野村吉三郎海軍大将(20)水町竹三中佐は単独に何事かを東京へ進言したらしく、間も無く佐藤愛麿大使は帰国を命じられた

2020年01月10日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正十三年二月、少将(四十八歳)。大正十五年三月、満鉄(南満州鉄道)を守備する独立守備隊司令官(五十歳)。昭和三年六月、張作霖爆殺事件で無関係だったが、責任を負い、昭和四年七月一日重謹慎処分、八月一日待命、八月三十一日予備役編入(五十三歳)。

 昭和七年十一月(五十六歳)から昭和十二年九月(六十一歳)まで、満州国軍中将として軍務についた。昭和三十五年一月九日死去。享年八十四歳。

 野村吉三郎大佐は、明治十年十二月十六日生まれ。明治三十一年十二月、海軍兵学校(二六期)卒業(ニ十歳)。明治四一年三月、オーストリア駐在。九月、少佐(三十歳)。明治四十三年五月、ドイツ駐在(三十二歳)。大正二年海軍大臣秘書官、中佐(三十五歳)。大正六年四月、大佐(三十九歳)。

 大正十一年六月、少将(四十四歳)、軍令部第三班長。大正十五年七月、軍令部次長、十二月、中将(四十八歳)。

 昭和四年二月、練習艦隊司令官(五十一歳)。昭和七年二月、第三艦隊司令長官、十月、横須賀鎮守府司令長官(五十四歳)。

 昭和八年三月、大将(五十五歳)、十一月軍事参議官。昭和十二年四月、予備役、学習院院長(五十九歳)。

 その後、昭和十四年九月、外務大臣、昭和十五年十一月、在アメリカ合衆国特命全権大使、昭和十九年五月、枢密顧問官を歴任。昭和三十九年五月八日死去。享年八十六歳。

 以上が二人の陸海軍駐在武官の軍歴比較だが、再び、大正七年初頭、野村吉三郎大佐が米国駐在当時の話に戻る。

 陸軍駐在武官・水町竹三中佐が、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐に、「佐藤愛麿大使は不適任だから、本国に追い返そう」と申し込んできたのだ。

 これに対し、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐は、「自分は海軍大臣から大使の下で働くことを命じられて来ているのだから、事の如何を問わず軍人として上長者の排斥運動には同じ難い」と断った。

 すると、陸軍駐在武官・水町竹三中佐は単独に何事かを東京へ進言したらしく、間も無く佐藤愛麿大使は帰国を命じられた。

 その頃、アメリカでは次の二人がアメリカ人の間でも非常に尊敬を受けていた。

 野口英世(のぐち・ひでよ)博士(福島・済生学舎<現・日本医科大学>卒・医師・細菌学者・京都大学<医学博士>・東京帝国大学<理学博士>・ブラウン大学<名誉理学博士>・イエール大学<名誉理学博士>・パリ大学<名誉医学博士>・サンマルコス大学<名誉医学博士>・エクアドル共和国<陸軍名誉軍医カ監・名誉大佐>・黄熱病や梅毒の研究・ノーベル生理学・医学賞候補・昭和三年五月二十一日現在のガーナ共和国で黄熱病で死去・享年五十一歳・正五位・勲二等旭日重光章)。

 高峰譲吉(たかみね・じょうきち)博士(富山・工部大学校<現・東京大学工学部>応用化学科を首席で卒業・英国グラスゴー大学・農商務省入省・専売特許局局長代理・アメリカに移住・タカジアスターゼを発明・アドレナリンの結晶化に成功・東京帝国大学<名誉工学博士>・帝国学士院賞・帝国学士院会員・三共<現・第一三共>初代社長・東洋アルミナム設立・黒部鉄道設立・黒部温泉株式会社設立・黒部水力株式会社設立・大正十一年七月二十二日腎臓炎によりニューヨークで死去・享年六十七歳・正四位・勲三等瑞宝章)。

 当時(大正七年)、アメリカでの海軍駐在武官だった野村吉三郎大佐は、後に次のように回想している。

 私が武官としてアメリカに駐在していた頃には、野口英世博士や高峰譲吉博士が既に優れた研究の結果を発表していたので、そうしたことには国境人種を超えて敬意を表するに吝(やぶさ)かでないアメリカの人の間では、とても信用され且つ尊敬されていた。

 高峰博士などはニューヨークやワシントンの一流のクラブに出入りし、当時一流の人士と交際して敬愛されていた。

 両博士ともに何回も会ったが、特に野口博士とは可成り懇意にして、日本へ品物を送ったり、また向こうから送って貰う場合に私の名義で取扱ってあげたこともあった。これは駐在武官は大使館員として、通関税を免除されるからである。……今回飛んだ打明け話で赤面の至りである……


719.野村吉三郎海軍大将(19)佐藤大使は適任ではないから、排斥をやって本国に追い返そう

2020年01月03日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正三年十二月、野村吉三郎中佐は、在アメリカ国大使館附武官に補任された。三十七歳だった。

 当時の世界情勢は、大正三年六月二十八日にサラエボ事件が起きた。オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア人の青年により暗殺されたのだ。

 このサラエボ事件がきっかけで、ロシア、イギリス、フランスと、ドイツ、オーストリア、トルコの間で大きな戦争が勃発した。

 これが第一次世界大戦である。第一次世界大戦は、一九一四年(大正三年)七月二十八日から一九一八年(大正七年)十一月十一日まで、四年以上続いた大戦争だった。

 野村吉三郎中佐がワシントンに着いた大正四年二月十日、アメリカは大騒ぎであった。イギリスは盛んにアメリカの参戦を希望してきていた。

 当時のアメリカ大統領は、ウッドロウ・ウィルソン大統領(バージニア州・プリンストン大学卒・ニュージャージー州知事・第二八代アメリカ合衆国大統領<民主党>・ノーベル平和賞受賞・アメリカ歴史協会会長・一九二四年(大正十三年)二月三日死去・享年六十七歳)だった。

 第一次世界大戦中でも、デモクラシーの国アメリカでは、ウィルソン大統領が慎重で、議会の承認なしでは参加できないとしていた。

 こうした世界情勢の中で、国の方針に悩むアメリカに、野村吉三郎中佐は、赴任したのである。だが、野村吉三郎中佐は、待っていた大使の顔を見てほっとした。

 大使は、ドイツ大使館でお馴染みだった、有能な外交官、珍田捨巳(ちんだ・すてみ)大使(青森・米国のアスベリー大学<現・デボー大学>卒・メソジスト弘前教会副牧師・外務省入省・イギリス・オランダ等で書記官・領事・総領事・在サンフランシスコ領事・外務総務長官・初代外務次官・男爵・子爵・在アメリカ合衆国特命全権大使・パリ講和会議全権委員・枢密顧問官・皇太子祐仁親王訪欧供奉長・侍従長・昭和四年一月十六日脳出血で死去・享年七十三歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・イギリス帝国ブリディッシュエンパイア勲章グランクロワ・ローマ法王ピーヌーフ勲章グランクロワ等)だった。

 野村吉三郎中佐の米国駐在三ヶ年半の間に、大使は三代に亘った。

 珍田捨巳大使の後任が、佐藤愛麿(さとう・あいまろ)大使(青森・キリスト教の洗礼を受ける・米国のアスベリー大学<現・デボー大学>卒・美会神学校教授・外務省入省・在メキシコ特命全権公使・ポーツマス日露講和会議全権随員・在オランダ兼デンマーク特命全権公使・在オーストリア特命全権大使・兼在スイス公使・在アメリカ合衆国特命全権大使・宮内省入省・宮家別当・宮中顧問官・昭和九年一月十二日死去・享年七十六歳・正三位・勲二等旭日重光章・ロシア帝国星章付神聖スタニスラス第二等勲章等)だった。

 佐藤愛麿大使の後任が、石井菊次郎(いしい・きくじろう)大使(千葉・東京帝国大学法科大学法律学科卒・外務省入省・パリ公使館・仁川領事・清国公使館・電信課長・兼人事課長兼取調課長・通商局長・外務次官・在フランス特命全権大使・外務大臣・貴族院勅選議員・在アメリカ合衆国特命全権大使・在フランス特命全権大使・国際連盟日本代表・ジェノア会議全権委員・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権委員・枢密顧問官・昭和二十年五月二十五日東京山手空襲で死去・享年七十五歳・子爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・ロシア帝国アレキサンドルネウスキー勲章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)だった。

 佐藤愛麿大使時代の陸軍駐在武官は、水町竹三(みずまち・たけぞう)中佐(佐賀・陸士一〇期・陸大二二期・インド駐箚武官・陸軍大学校教官・在アメリカ大使館附武官・教育総監部附・大佐・近衛歩兵第三連隊長・第一二師団参謀長・少将・歩兵第五旅団長・独立守備隊司令官・予備役・満州国中央陸軍訓練処監事(満州国軍中将)・昭和三十五年一月九日死去・享年八十五歳・正四位)だった。

 大正七年初頭、佐藤愛麿大使時代に、ある事件が起きた。陸軍駐在武官・水町竹三中佐が、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐(大正六年四月進級)に「佐藤大使は適任ではないから、排斥をやって本国に追い返そう」と申し込んできたのだ。

 当時、水町竹三中佐は四十二歳、野村吉三郎大佐は四十歳で、同じ十二月生まれで、二歳違いの同世代だった。二人の軍歴を比較してみる。

 水町竹三中佐は、明治八年十二月十一日、生まれ。明治三十一年十一月、陸軍士官学校(一〇期)を卒業(二十二歳)、明治四十三年十一月、陸軍大学校(二二期)を卒業(三十四歳)。明治四十四年十二月、少佐(三十五歳)。大正五年、歩兵中佐(四十歳)、大正九年二月、歩兵大佐(四十四歳)。

718.野村吉三郎海軍大将(18)ピシャリと答弁して相手を悔しがらせるよりは、一寸スキをつくって向こうを得意がらせておく

2019年12月27日 | 野村吉三郎海軍大将
 海軍大臣・斎藤実大将は、野村吉三郎少佐に、議会の答弁について、次のように話していたという。

 「海軍大臣として議会の答弁に立つ時、一〇〇パーセント完全な答弁をするところを、わざと七、八〇パーセントに止めるのがコツである。完全無欠にピシャリと答弁して相手を悔しがらせるよりは、一寸スキをつくって向こうを得意がらせておく方が、安全というワケだ」

 斎藤実大将は、軍人には珍しく味のある人物だった。大正三年に海軍大臣を辞職すると、千葉県の九十九里浜の海岸沿いの別荘に引きこもり、草履をはき、手ぬぐいを腰にぶら下げ、松の枝おろしや、垣根を直したり、庭いじりの生活をしていたという。

 野村吉三郎中佐は、海軍大臣・斎藤実大将から、引き続いて海軍大臣・八代六郎(やしろ・ろくろう)中将(愛知・海兵八期・一九番・常備艦隊参謀・巡洋艦「宮古」艦長・大佐・防護巡洋艦「和泉」艦長・海軍大学校選科学生・装甲巡洋艦「浅間」艦長・在ドイツ国大使館附武官・少将・横須賀予備艦隊司令官・第一艦隊司令官・練習艦隊司令官・第二艦隊司令官・中将・海軍大学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・海軍大臣・第二艦隊司令長官・男爵・佐世保鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・枢密顧問官・昭和五年六月三十日死去・享年七十歳・男爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・イギリス帝国第一等聖マイケル・聖ジョージ勲章等)の秘書官になった。

 海軍大臣秘書官という職務上、議会開会中には大臣に従って議会に赴き、常に当時の状況を見聞した野村吉三郎中佐は、後に当時を回顧して次のように述べている。

 八代さんという人は清廉な人で、私の知っている通りでは貧乏な癖に他人に物を呉れてやることにかけては、この人の右に出る者はなかった。

 実に気前よく何でも遣って終う人だった。武人銭を愛せずとは八代さんのためにあるような印象を受けた。私なども随分と色々な物を貰ったものだ。

 併し、政治的な手腕ということについては山本さんや斎藤さんには遙かに及ばなかったように思う。

 山本さんは別格として私が仕えた斎藤海相は、前にも話したように議会の答弁でも十のところは七か八に止めて、相手を巧みに懐柔するあたり実に堂に入ったものだったが八代海相はその点、武人的にハッキリし過ぎていて政治的には乏しかった。

 けれども、これがまた、この人の良い処であったろう。後年枢密顧問官に成られたときに、もと副官や秘書官をした連中が星ヶ岡茶寮に招待して、一夕お祝いの縁を開いたが、その頃、軍令部次長になっていた私に「野村、お前もう中将になったのか」と相好を崩して欣んでくれる様子は、恰も田舎の小学校の校長が昔の教え子に接しているようで、全く学校の先生然としたところがあった。

 なお山本伯、斎藤子の予備役編入については、当時の海軍次官鈴木貫太郎氏(後・大将・首相)は八代海相を補佐して居た関係上、その理由として、

 一、シーメンス事件の如き不祥事に対し、海軍の大御所山本伯と海相斎藤子は責任を絶対に免れない。

 二、その結果として、海軍予算を不成立ならしめた責任は重大である。

 と語り、晩年においても決して間違った処置ではなかったことを繰り返し述べていた。

 シーメンス事件の責任は別として山本伯は偉傑で、個人的な生活は実に立派なものであった。薩摩武士の質実剛健を尚(たっと)び、何時でも職を賭して戦うだけの覚悟を持ち、俸給の半分で生活をして、且つ自助の精神を堅持され、晩年まで針箱を常に用意し、落ちたボタンや小さい綻びは自分で縫うくらいであった。

 公式の宴会以外、一切私的な宴席のために料理屋に出入りしたことはない。だから料理屋で伯の顔を見ることは殆ど無かった。

 また斎藤子は秘書官が機密費を預かっているので、時々百円持ってこいといわれ、差し出すと“金百円也右預かり候也、斎藤実”と書いた預かり証を呉れた。

 このほか私の仕えた八代六郎、加藤友三郎、鈴木貫太郎、財部彪等の諸提督はいずれも人格高潔であった。もって当時の海軍の気風を知るに足るのである。

 それから議会に行き見聞していて、強く印象に残っているのは大隈さんの豪傑ぶりだった。反対党の議員が何か半畳でも入れると一段と大きな声を張り上げて、「誰々君、声が小さい!もう一度そこのところやり給え」といった塩梅で、陣笠議員を頭から舐めてかかっていた。

 やはり、八太郎の昔から死生の巷を潜って来た豪傑だけのことはあると感心させられたものである。

 以上が大正二年から三年にかけて海軍大臣秘書官をしていた野村吉三郎中佐の、回顧談である。







717.野村吉三郎海軍大将(17)野村吉三郎少佐がオーストリアから転じた頃のドイツは、全ヨーロッパの台風の眼ともいうべき存在となっていた

2019年12月20日 | 野村吉三郎海軍大将
 オーストリアに二年駐在勤務をした後に、野村吉三郎少佐は、明治四十三年五月、ドイツ駐在となり、ベルリンに転勤した。

 当時のドイツもまた、オーストリアと同様に複雑な国家組織を持っていた。

 フランス帝国(第二帝政期)とプロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部が領土・首都はベルリン)の戦争である普仏戦争(一八七〇年<明治二年>七月十九日~一八七一年<明治三年>五月十日)は、プロイセン帝國の圧勝で終結した。

 フランス第二帝政は崩壊し、ドイツ統一が達成され、新憲法を公布したドイツ人は、初めて民俗的統一国家を持った。

 この新しい統一国家は“ドイツ帝国”と呼ばれた。だがこの民族的統一国家であるドイツ帝国の内容は、オーストリア以上に複雑を極めた。

 当時のドイツ帝国は、四王国、六大公国、五公国、その他合計二十二の君主国と三自由市、一帝国領から構成される連合複合国家といえた。

 このドイツ国家の強力な中心をなすものは、プロイセン王国であった。ドイツ帝国の元首は“皇帝”と称され、プロイセン王国の国王が兼ねた。また、ドイツ帝国宰相もプロイセン王国の首相が兼ねた。

 そして、この新ドイツ帝国の最も特質とするところは、最高の行政機関としての“帝国宰相は、単に皇帝にのみ責任を負い、議会に対しては責任を持たないことである。

 宰相は皇帝を補佐するのみであって、近代的な責任内閣の首班ではない。それでも“鉄血宰相”の在任中は、“帝国宰相”の権威は高かったが、ビスマルクが退いた後のドイツ帝国は、カイザー・ウィルヘルム二世の思うままで、一種の皇帝親政に近かった。

 だから、野村吉三郎少佐がオーストリアから転じた頃のドイツは、全ヨーロッパの台風の眼ともいうべき存在となっていた。ウィルヘルム二世一流の対外的積極政策がとられていたのだ。

 このドイツ帝国でも、野村吉三郎少佐は、ドイツ帝国の内情やドイツ帝国を取り巻くヨーロッパ各国の情勢を見聞し、さらに、二度のヨーロッパ旅行を行い、軍事、政治、外交について多大の収穫を得たのである。勿論、海軍に関する調査研究も行った。

 ヨーロッパ生活も満三年となった野村吉三郎少佐は、明治四十四年五月八日付けで帰朝を命ぜられた。

 野村吉三郎少佐は、オーストリア、ドイツ、さらに二回に亘るヨーロッパ旅行で仕入れた新知識をその巨体に詰め込み、一路帰途につき、八月十九日、無事に帰国した。

 帰国後の野村吉三郎少佐の最初の仕事は、九月十三日付けをもって、第二艦隊所属の防護巡洋艦「音羽」(三〇〇〇トン)の副長に補任された。

 その後、野村吉三郎少佐は、明治四十五年六月に海軍省軍務局局員になり、大正二年二月二十六日には、海軍大臣秘書官、十二月には中佐に進級した。三十六歳だった。
 
 野村吉三郎少佐が大臣秘書官に補任された時は、第一次山本内閣が発足(大正二年二月二十日)したばかりだった。

 内閣総理大臣は山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)海軍大将(鹿児島・海兵二期・大臣伝令使・海軍次官欧米差遣随行・大佐・巡洋艦「高雄」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍省主事・少将・海軍省軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・大将・軍事参議官・伯爵・内閣総理大臣・予備役・退役・内閣総理大臣兼外務大臣・宮中杖差許・昭和八年十二月死去・享年八十一歳・伯爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・ドイツ帝国赤鷲一等勲章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)だった。

 海軍大臣は斎藤実(さいとう・まこと)大将(岩手・海兵六期・三番・中佐・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「霧島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・海軍次官兼軍務局長・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・後備役・枢密顧問官・退役・朝鮮総督・内閣総理大臣・内大臣・昭和十一年二月二十六日暗殺・享年七十七歳・子爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・オランダ王国オランジュナッソー第一等勲章等)だった。




716.野村吉三郎海軍大将(16)事実、ウィーン駐在は、後日、野村吉三郎雄飛の基礎を養った

2019年12月13日 | 野村吉三郎海軍大将
 しかしながら、この寄せ集めてきな国家の存在が、当時の東部ヨーロッパの勢力均衡を保つことに役立っていたのである。

 さらに、日本にとって、当時のオーストリア帝国は、ロシアの隣国として、ロシア国内の内情を最も早く、かつ正確に伝える位置にあった。

 従って、オーストリア帝国に派遣される、日本の外交官や陸海軍武官は、ロシアの動きを常に観察することを前提として勤務していた。

 オーストリアに駐在していた野村吉三郎大尉が、ウィーンに着任した当時のオーストリアの国際的立場は、難しい様相を見せていた。

 当時のオーストリアは、ドイツ、イタリアと「三国同盟」(一八八二年<明治十五年>締結)を結んでおり、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」と対抗していた。複雑な国家組織と困難な国際的立場に板挟みになっていた。

 ちなみに、その数年後、さらに第一次世界大戦を勃発させる引き金となった大事件、サラエボ事件が起きている。

 サラエボ事件とは、一九一四年(大正三年)六月二十八日、オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア人の青年により暗殺された事件。

 七月二十八日、オーストリア=ハンガリー帝国は、セルビアに宣戦布告をした。するとロシアはセルビアを支援するため、七月二十九日、総動員令を出し出兵した。

 これに対し、八月一日、ドイツがロシアに宣戦布告をし、動員令を発した。こうして第一次世界大戦が勃発した。

 なお、サラエボ事件が起きた、一九一四年(大正三年)当時は、野村吉三郎少佐は、帰国(明治四十四年八月)後数年経っており、海軍大臣秘書官(中佐)をしていた。

 さて、話は元に戻って、明治四十一年(一九〇八年)九月、オーストリアのウィーンに駐在していた野村吉三郎大尉は、少佐に進級した。三十歳だった。

 当時のオーストリア駐箚特命全権大使は、内田康哉(うちだ・こうさい・熊本・東京帝国大学法科卒・外務省・通商局長・政務局長・清国駐箚特命全権公使・オーストリア駐箚特命全権大使・米国駐箚特命全権大使・外務大臣・枢密顧問官・南満州鉄道総裁・外務大臣・昭和十一年三月死去・享年七十歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・オーストリア=ハンガリー帝国レオパール大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)だった。

 陸軍駐在武官は、福田雅太郎(ふくだ・まさたろう)大佐(長崎・陸士旧九期・陸大九期・オーストリア公使館附武官・大佐・参謀本部情報課長・歩兵第三八連隊長・歩兵第五三連隊長・少将・歩兵第二四旅団長・関東都督府参謀長・参謀本部第二部長・中将・第五師団長・参謀次長・台湾軍司令官・大将・関東戒厳司令官・予備役・大日本相撲協会会長・枢密顧問官・昭和七年六月死去・享年六十五歳・従二位・勲一等旭日大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)だった。

 海軍駐在武官は、百武三郎(ひゃくたけ・さぶろう)中佐(佐賀・海兵一九期・首席・海大三期・軍務局局員・大佐・装甲巡洋艦「磐手」艦長・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・佐世保鎮守府参謀長・海軍教育本部第二部長・中将・第三戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・練習艦隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・侍従長・枢密顧問官・昭和三十八年十月死去・享年九十一歳・従二位・勲一等旭日大綬章)だった。

 陸軍駐在武官・福田雅太郎大佐と海軍駐在武・百武三郎中佐は、二人とも、先輩として、野村吉三郎少佐の世話をよくしてくれた。

 野村吉三郎少佐の仕事は、はっきりと定められたものではなく、要するに長期のヨーロッパ見学であった。

 若い海軍少佐、野村吉三郎は、あらゆる角度からオーストリアを中心とするヨーロッパ各国の動態を観察した。ある意味、彼は、このような広く豊かな立場に置かれ、恵まれた環境にいたともいえる。

 「海軍大学校などで、兵棋演習などしているよりも、列強の勢力が暗躍を繰り返している、このウィーンのほうが、よほど勉強になる……」。

 このように考えた野村吉三郎少佐は、ハンガリーの首府ブタベストをはじめ、ヨーロッパ各国を廻って見聞を広めた。事実、ウィーン駐在は、後日、野村吉三郎雄飛の基礎を養ったのである。

715.野村吉三郎海軍大将(15)ある批評家が、「ウィーンではバロン(男爵)以上でないと人間扱いにしない」と、嘆息した

2019年12月06日 | 野村吉三郎海軍大将
 野村吉三郎という人間が、そうした大言壮語の東洋豪傑型とは趣を異にしているのは、彼を知るほどの者の等しく認めるところである。

 野村吉三郎大尉は、明治四十一年三月三日付けで、オーストリア駐在を仰せつけられた。

 このオーストリアへの出発の二日前に、野村吉三郎大尉の妹・せいの夫、保田芳雄海軍少佐の知人の娘と、野村吉三郎大尉(三十一歳)は、結婚式を挙げた。出発の為、式を急いだのである。

 保田芳雄海軍少佐の知人の娘とは、奈良県郡山市で、以前は郡長等の地方官吏だった山岸鹿雄の三女、山岸秀子(ニ十歳)だった。

 秀子が、野村吉三郎と生涯を共にした四十余年の歳月は、如何なる家庭婦人にも劣らぬ質実で貞淑、かつ愛情あふれる婦徳一途の人生であったことは、他の誰よりも野村吉三郎自身が一番よく知っていた。

 野村吉三郎大尉が派遣された、オーストリアは、正確にいえば、オーストリア=ハンガリー帝国であった。ヨーロッパでもっとも古い伝統を誇る宮廷国家であり、貴族国家だった。

 アメリカのある批評家が、「ウィーンではバロン(男爵)以上でないと人間扱いにしない」と、嘆息したと伝えられている。

 それは、オーストリアの半面を物語っている。当時、ウィーンの社交界は、全ヨーロッパの伝統的な上流社会の、社交の中心でもあったのである。

 当時のオーストリアは、複雑極まる組織を持った複合国家でもあった。

 オーストリア=ハンガリー帝国は、その称号が示すように、オーストリア帝国(現在はオーストリア・共和国)とハンガリー王国(現在はハンガリー・第三共和国)の連合に、旧ポーランド王国領のガリツィア(現在のウクライナ・共和国南西部地域)、それからボヘミア(現在のチェコ・共和国西部・中部地方)、及びクロアチア(現在のクロアチア・共和国)を併合した複合国家だった。

 そのうち、ガリツィア、ボヘミア、クロアチアの三国はオーストリア帝国(ハプスブルク家)に征服されて、その領土に編入されることとなった国家だったので、統治には手を焼いていた。

 当時、明治四十一年(一九〇八年)のオーストリア=ハンガリー帝国の元首は、六十年余りの長きに渡ってハプスブルク帝国の皇帝として君臨してきた、フランツ・ヨーゼフ一世(七十八歳)だった。

 ちなみに、ハプスブルク帝国は、一九一八年(大正七年)のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊に伴い、六五〇年間中央ヨーロッパに君臨したハプスブルク家の帝国支配が終焉し、当時の皇帝カール一世は国外へ亡命した。

 さて、野村吉三郎大尉が駐在した当時のオーストリア=ハンガリー帝国は、他に類を見ない複雑極まる取り決めによって連合国家を形成していた。

 元首のフランツ・ヨーゼフ一世は、オーストリアにおいては「皇帝」、ハンガリーにおいては「国王」で、“エンペラー・キング”と称されていた。

 両国ともそれぞれ全く独立した国家形態を呈し、ただ、外交と国防だけは両国共同でこれに当たるので、それに伴う経費も両国協議して負担する。

 そのため、外務、国防、財務の三大臣は、両国の上に立って共同の政務を執行し、両国間の連鎖機関の役割を果たしていた。

 それ以外のことは、両国とも別々の機関によって、統治されているので、上記の三大臣によって執行される共同政務に参与せしめるために、両国の議会から四〇人ずつの代表委員が選出され、合計八〇人で委員会を構成していた。

 これは“デレゲーション”と呼ばれ、三大臣はこの“デレゲレーション”に対して責任を負い、“デレゲレーション”は、それぞれの議会に対して責任を負うという、実に複雑な仕組みになっていた。

 両国が対等の立場をとっていることを裏付ける為に、オーストリア皇帝は毎年一定の期間中は、ハンガリーの首府、ブタペストに移り、そこでハンガリー国王として執務し、外交団もブタペストに移るという全く奇妙な国家組織だった。


714.野村吉三郎海軍大将(14)当時、野村吉三郎大尉は、海軍大学校に行かなくてよかったとは、夢にも考えていなかった

2019年11月29日 | 野村吉三郎海軍大将
 藤井較一少将も、日露戦争では、第二艦隊参謀長(大佐)として、第二艦隊司令長官・上村彦之丞中将の下にいた。

 当時の藤井較一大佐は、明治三十八年五月二十七日~二十八日の日本海海戦の前、バルチック艦隊を迎え撃つため、鎮海湾の連合艦隊旗艦・戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)艦上で開かれた最後の軍議で、対馬海峡説を最も熱心に主張したことで知られている。

 当時の日本帝国海軍では、藤井較一少将は、日露戦争当時、連合艦隊参謀長(明治三十八年一月から第二艦隊第二戦隊司令官)であり、海軍兵学校同期の島村速雄(しまむら・はやお)少将(高知・海兵七期・首席・軍令部第二局長心得・大佐・軍令部第二局長・防護巡洋艦「須磨」艦長・常備艦隊参謀長・海軍教育本部第一部長・兼海軍大学校教官・一等戦艦「初瀬」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・第二艦隊第二戦隊司令官・第四艦隊司令官・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・中将・海軍大学校校長・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍教育本部長・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・大正十二年一月死去・享年六十六歳・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に次ぐ屈指の名参謀と言われた。

 野村吉三郎大尉は、この名参謀長、藤井較一少将の下に新任参謀として僅か四か月在勤しただけで、明治四十年十二月十八日には、第二艦隊所属の防護巡洋艦「千歳」(四七六〇トン)の航海長に転補した。

 この前後に、野村吉三郎大尉は、海軍大学校甲種学生の採用試験に最優秀の成績で合格し、あとは体格検査を待つだけとなっていた。

 ところが、その頃、海軍に海外派遣将校の予算が残っていて、野村吉三郎大尉は、その一人に選出されたのである。

 もしこの時に海外派遣がなく、野村吉三郎大尉が、海軍大学校に甲種学生として入校していたら、野村吉三郎の海軍軍人としての道は、軍政・軍令系統から、艦隊派系統になっていたかもしれない。

 また、軍主流派として徹頭徹尾の海軍屋になりきり、却って、単なる一提督として、海軍軍人の人生を終えた可能性もある。

 海外派遣になったため、野村吉三郎大尉は、オーストラリアやドイツに駐在して、当時複雑を極めたヨーロッパの国際政局をつぶさに見聞し、あるいは海外から日本の国情を眺めて、軍人がともすれば陥り易い偏狭的な世界観、国家観に眼を開いたことは、むしろ彼にとっては、その将来により広い沃野(よくや=肥沃な豊かな大地)を求めたことになった。

 野村吉三郎大尉が、海軍大学校の採用試験に合格していたにもかかわらず、入学せずに、オーストリア駐在の道を選んだことについての、野村吉三郎大尉の発言は、第一話で前述してあるが、次の様な補足を記しておく。

 「僕が大学に学ぶはよし、僕に教導せんとする先生ありや、敢て 衒う(てら‐う=知識・才能を見せびらかし誇らしげに振舞う)と言う勿(な=無)かれ、僕に教うるに足るもの唯、戦術教官秋山中佐あるのみ」。

 この文章は、連合艦隊の作戦参謀(中佐)としてバルチック艦隊の迎撃作戦を立案し、日本海海戦を勝利に導いた秋山真之(あきやま・さねゆき)中将(愛媛・海兵一七首席・常備艦隊参謀兼第一艦隊参謀・一等戦艦「三笠」乗艦・中佐・連合艦隊作戦参謀・日本海海戦で勝利・海軍大学校教官・一等戦艦「三笠」副長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・少将・海軍省軍務局長・欧米各国出張・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・以前から患っていた虫垂炎が悪化して死去・享年四十九歳・従四位・勲二等旭日重光章・功三級)の伝記に記されているものだ。

 だが、「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)によると、次の様に記してある(要旨抜粋)。

 当時、野村吉三郎大尉は、海軍大学校に行かなくてよかったとは、夢にも考えていなかったのである。

 ただ、こうした伝説が生まれたのは、恐らく野村吉三郎大尉の友人あたりが、酒席か何かで、「野村は、“大学に俺を教える者が居るかい?”と、言いおってのう……」と冗談話をしたことが広く伝わったのだろう。


713.野村吉三郎海軍大将(13)自分が手を引いたらどんなことになるか皇帝によく申し上げよ

2019年11月22日 | 野村吉三郎海軍大将
 その日、野村吉三郎大尉は、これらの上官とともに、初代大韓帝国皇帝・高宗に謁見し、その後の、天津楼での宴会(レセプション)では、伊藤博文統監と同席した。これらの出来事について、野村吉三郎は後に次のように回想している。

 当日の午前、伊藤統監に案内され、富岡司令官、三艦長、先任参謀斎藤七五郎、後任参謀田村丕顕と共に私(旗艦航海長)は李国王に謁見した。

 その時の伊藤さんの国王に対する挙措は、恰も我が天皇に対するように鄭重至極であった。富岡司令官は遠洋航海の状況を言上したが李国王は実に巧みに相槌を打った。

 常に諸強国の使臣と応対しつけているので習い性となったのであろうか、人を逸らさぬ外交辞令には舌を捲いたのである。
 
 謁見のこと終り控室に退いた後、伊藤さんは宮中の大官を集め、最近入手した朝鮮の密使がヘーグに現われ平和会議に日本を讒訴し、国際法廷に持ち出す運動を始めたという「ロイター」電を指摘して、「自分は朝鮮を扶殖興隆するためにこれ程日夜努力している。兵力をもって征服するのは易々たるものだが敢てそれをやらない。然るにこんな怪しからん運動をやるからには、自分はこれ以上責任を持つことは出来ぬ。自分が手を引いたらどんなことになるか皇帝によく申し上げよ」と時々英語を交え縷々と説得した。

 統監はゆったりと椅子に腰掛け卓上には三鞭(シャンパン)のコップが置かれている。此れに対して大官連中は起立し、ひたすらに恐縮の媚態を呈しているのを私は見た。

 さてその夜の宴会には京城に在る日本の官・軍の首脳部は殆ど列席していたが、宴まさに酣なわとなった頃、伊藤さんは我々の席へやって来られて、いろいろ歓談され、また時には眉をあげ国事を憂うなど、さながら俊輔の昔に還ったかのように若々しく元気に見受けられた。

 談偶々当時の朝鮮統治問題に及んだ時、向こうの席でひとかたまりになってやっている、軍司令長官長谷川好道大将等の一団を指し「あの連中は朝鮮に来ていると、朝鮮の物差しで尺度した考えしか持たない。あれでは国家百年の大計は建てられない。諸君は常に邦家百年の後に眼を放ち、軍人という立場だけに捉われず、日本人としての大局的な見地に立って考え且つ行動して貰いたいものだね、このワシの身に何か事が起こりでもしたら、日本は大いに儲かるぞハッハ……」と半ば冗談のように、そうして半ば真剣な顔付きをして語って居られた。
 
 正直なところ私にはその意味が半知半解で確実に把握することは出来なかったが、とにかく酒間談笑のうちに受けたインスプレッションは、やはり何といっても艱難幾度か、生死の巷を潜って今日に至った国家の元勲の偉大さが躰全体から電気のように伝わった感じであった。

 それから程なく私が墺・独駐在中に、ハルピン駅頭で朝鮮人安重根のために狙撃暗殺された兇報を聞き、胸を衝いて思い当たるものがあった。

 以上が、李国王に謁見した当時の、野村吉三郎の回想である。

 さて、野村吉三郎大尉が、旗艦である防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)の航海長として参加した練習艦隊は、それから鎮海湾、釜山を廻り七月二十二日、鹿児島に帰投してその任務を終わった。

 明治四十年八月二十日、野村吉三郎大尉は、二十九歳の若さで、横須賀鎮守府参謀に補された。

 当時の横須賀鎮守府司令長官は、上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)大将(鹿児島・海兵四期・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・一等戦艦「朝日」回航委員長・英国出張・少将・造船造兵監督官・海軍省軍務局長・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・常備艦隊司令官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・後備役・大正五年八月死去・享年六十七歳・男爵・従二位・旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)だった。

 野村吉三郎の後年の回想によると、横須賀鎮守府司令長官・上村彦之丞大将は、日露戦争では、第二艦隊司令長官としての功績で授与された功一級金鵄勲章を、武将最高の名誉として、事あるごとにそれを持ち出し歓んでいたという。

 また、横須賀鎮守府参謀長は、藤井較一(ふじい・こういち)少将(岡山・海兵七期・七番・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・台湾総督府海軍参謀・海軍省軍務局第二課長・軍令部第二局長・第二艦隊参謀長・少将・第一艦隊参謀長・横須賀鎮守府参謀長・第一艦隊司令官・佐世保工廠長・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・後備役・大正十五年七月死去・享年六十七歳・正三位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級)だった。







712.野村吉三郎海軍大将(12)野村吉三郎大尉もこの一行に加わり、伊藤博文韓国統監に案内され、大韓帝国皇帝に謁見した

2019年11月15日 | 野村吉三郎海軍大将
 当時の朝鮮を取り巻く国際情勢は次のようなものだった。

 ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため、明治三十八年十一月、第二次日韓協約を締結した。

 明治三十八年十二月二十一日、大日本帝国は、漢城(現・ソウル特別市)に韓国統監府を設置し、韓国統監を任命した。

 初代韓国統監には、伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口・松下村塾・兵庫県知事・岩倉使節団の一員として欧米歴訪・初代工部卿・宮内卿・初代内閣総理大臣・初代枢密院議長・第二次~第四次内閣を組閣・初代韓国統監・韓国統監を辞任・明治四十二年十月二十六日ハルピン駅で安重根に暗殺される・享年六十九歳・公爵・従一位・菊花章頸飾・仏国レジオンドヌール勲章勲一等・英国バス勲章勲一等など)が就任した。

 明治四十三年八月二十九日、大日本帝国は、「韓国併合二関スル条約」に基づいて、大韓帝国を併合して、支配下に置いた。

 さて、明治四十年六月八日、朝鮮の仁川に上陸した練習艦隊の乗組員、少尉候補生らは朝鮮の首都京城を訪問した。

 この時、練習艦隊司令官・富岡定恭少将を初め、参謀、練習艦隊の各艦長、士官ら一行は、初代大韓帝国皇帝に謁見した。

 野村吉三郎大尉もこの一行に加わり、伊藤博文韓国統監に案内され、大韓帝国皇帝に謁見した。

 初代大韓帝国皇帝に謁見した練習艦隊の士官は、野村吉三郎大尉の他に、次の様な主要な上級士官がいた。

 先任参謀・斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)少佐(宮城・海兵二〇期・三番恩賜・海大四期・首席・米国駐在・英国駐在・一等戦艦「霧島」副長・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・海軍省人事局第一課兼第二課長・装甲巡洋艦「八雲」艦長・第三艦隊参謀長・少将・呉鎮守府参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・練習艦隊司令官・軍令部次長・大正十五年七月軍令部次長在職のまま胃がんで死去・享年五十六歳・正四位・勲一等瑞宝章・功四級)。

 後任参謀・田村丕顕(たむら・ひろあき)大尉(東京・子爵・米国アナポリス海軍兵学校卒・海兵二七期として処遇・米国出張・第一艦隊参謀・皇族附武官<高松宮宜仁親王附>・大佐・族附武官<東伏見宮依仁親王附>・一等戦艦「三笠」艦長・巡洋戦艦「春名」艦長・少将・横須賀防備隊司令・予備役・横須賀人事部軍事普及事務嘱託・仙台地方人事部普及事務嘱託・森岡地方人事部軍事普及事務嘱託・岩手県立六原青年道場道場長・大政翼賛会岩手支部常務委員・岩手県翼賛壮年団団長・昭和二十年一月死去・享年六十九歳・子爵・正三位・功五級)。

 練習艦隊旗艦、防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・山縣文蔵(やまがた・ぶんぞう)大佐(山口・海兵一一期・一三番・戦艦「三笠」副長・台湾総督府海軍参謀長・砲艦「龍田」艦長・大佐・防護巡洋艦「新高」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・防護巡洋艦「笠置」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「常磐」艦長・海軍兵学校教頭兼監事長・少将・朝鮮総督府附武官・佐世保鎮守府艦隊司令官・中将・予備役・昭和五年九月死去・享年六十七歳)。

 防護巡洋艦「松島」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・野間口兼雄(のまぐち・かねお)大佐(鹿児島・海兵一三期・六番・海大五期・海軍省副官兼大臣秘書官・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・装甲巡洋艦「浅間」艦長・軍務局局員兼海軍省副官・少将・第一艦隊参謀長・佐世保鎮守府参謀長・海軍砲術学校校長・呉鎮守府参謀長・海軍省軍務局長・呉工廠長・中将・第六戦隊司令官・海軍兵学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・横須賀鎮守府司令長官・予備役・昭和十八年十二月死去・享年七十七歳・従二位・勲二等瑞宝章・功三級)。

 防護巡洋艦「厳島」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・名和又八郎(なわまた・はちろう)大佐(福井・海兵一〇期・一七番・舞鶴鎮守府参謀・大佐・海軍省人事局第二課長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・巡洋戦艦「生駒」艦長・軍令部第四班長・少将・呉鎮守府参謀長・第三艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・昭和三年一月死去・享年六十四歳・従二位・勲一等瑞宝章・功四級)。

 初代大韓帝国皇帝は高宗(ゴジョン=こうそう・李氏朝鮮第二十六代国王・大韓帝国初代皇帝・韓国併合後“太王”<王族>の称号を授与され徳壽李太王と称される・大正八年一月死去・享年六十六歳)だった。



711.野村吉三郎海軍大将(11)第三艦隊司令長官を務めた功績により功二級金鵄勲章を授与された

2019年11月08日 | 野村吉三郎海軍大将

 「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)には、野村吉三郎が、明治三十九年四月一日付けで、日露戦争の功により、功五級金鵄勲章、年金三百円、勲五等旭日章を授与されたとなっている。

 だが、「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年)によると、「陸海軍将官人事総覧」(外山操・芙蓉書房・385頁・1981年)には、金鵄勲章の記載がないと述べている。

 野村吉三郎大尉と海軍兵学校二六期の同期生に、清河純一(きよかわ・じゅんいち)大尉(鹿児島・海兵二六・一〇番・海大五・首席・海軍大学校甲種学生・伏見宮博恭王(中佐)附武官・少佐・防護巡洋艦「音羽」副長・東伏見宮依仁親王(大佐)附武官・横須賀予備艦隊中佐参謀心得・軍令部参謀兼陸軍大学校兵学教官・中佐・海軍大学校教官・第二艦隊参謀・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・軍令部第一班第一課長・兼海軍大学校教官・欧米各国出張・国連海軍代表随員・少将・国連海軍代表・軍令部参謀兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・予備役・昭和十年三月死去・享年五十七歳・正四位・功四級)がいる。

 清河純一大尉は、日本海海戦当時、連合艦隊参謀として、連合艦隊旗艦、戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)乗組みだったが、功四級金鵄勲章を授与されている。

 ちなみに、野村吉三郎は、後に功二級金鵄勲章を授与されている。これは、第一次上海事変(昭和七年一月二十八日~三月三日)の時、中将として第三艦隊司令長官を務めた功績により功二級金鵄勲章を授与された。

 日露戦争後、明治三十八年十一月、野村吉三郎大尉は、海軍兵学校教官(航海術)兼監事に補された。

 海軍兵学校教官を一年余り在職後、野村吉三郎大尉は、明治三十九年十月、練習艦隊旗艦である防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)の航海長に転補された。

 当時の練習艦隊司令官は富岡定恭(とみおか・さだやす)少将(長野・海兵五期・首席・海軍兵学校教頭心得・大佐・海軍兵学校教頭・装甲巡洋艦「八雲」艦長・一等戦艦「霧島」艦長・軍令部第一局長・少将・海軍兵学校校長・練習艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・旅順警備府司令長官・予備役・男爵・従三位・勲一等瑞宝章・功四級・大正六年七月死去・享年六十二歳)だった。

 明治四十年一月三十一日、旗艦・防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)以下、防護巡洋艦「松島」(四二一七トン・乗員三六〇名)、防護巡洋艦「厳島」(四二一七トン・乗員三六〇名)の三艦で、練習艦隊(司令官・富岡定恭少将)は、横須賀軍港を抜錨して遠洋航海の途についた。

 この時、乗組んだ少尉候補生は、昨年、野村吉三郎大尉が海軍兵学校教官として指導教育した海軍兵学校三四期生一七五人だった。

 この三四期には、後に連合艦隊司令長官になる、古賀峯一(こが・みねいち)少尉候補生(佐賀・海兵三四・一四番・海大一五期・連合艦隊参謀・大佐・在フランス国大使館附武官・ジュネーヴ会議全権随員・海軍省副官・一等巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・軍令部第三班長・軍令部第二班長・軍令部第二部長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・昭和十九年三月三十一日殉職・享年五十八歳・元帥・正三位・功一級)がいた。

 ちなみに三四期の首席・佐古良一(さこ・りょういち)少尉候補生(山口・海兵三四期・首席・海大一五期・軍令部参謀・中佐・フランス駐在・海軍大学校教官・大正十三年二月死去・享年三十九歳)は三十九歳で早世している。

 野村吉三郎大尉は、明治三十一年に海軍兵学校卒業後、少尉候補生として装甲艦「比叡」(二二〇〇トン・乗員三〇八名)で遠洋航海、明治三十四年に一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八三〇名)回航のためのイギリス出張に次いで、今回が三度目の海外渡航だった。

 練習艦隊は、ハワイ、ニュージーランド、シンガポール、香港などに寄港し、六月三日に台湾西方の澎湖諸島に帰着した。その後、清国沿岸、大連、旅順を回り、朝鮮の仁川に投錨した。