陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

450.乃木希典陸軍大将(30)旅順は海軍の陸戦隊だけでもやっつけられる

2014年11月07日 | 乃木希典陸軍大将
 だが、旅順要塞は、ロシア軍が十年の歳月と巨額の金をかけて最新科学の粋を尽くした大要塞で、その湾内には太平洋艦隊を擁し、四万二千人の精鋭が守りについている難攻不落の大要塞だった。

 しかも、これを指揮するのは勇名高きアナトーリ・ステッセル陸軍中将(サンクトペテルブルク・ドイツ系の男爵家・パブロフスキー士官学校卒・露土戦争で第一六歩兵連隊長・義和団の乱で第三東シベリア狙撃旅団長・陸軍中将・旅順要塞司令官・第三シベリア軍団長・軍法会議で死刑判決・乃木大将の除名運動で特赦となり禁錮十年・軍を追放される・モスクワで茶商人として余生を送る)だった。

 だが、乃木大将は、勝算があると確信していた。日清戦争のとき、当時も旅順は難攻不落と言われ、当時の軍事専門家たちが、十万人の強兵をもってしても、半年かからなければ陥落しないであろうと言っていたのを、日本軍は立った、半日で陥落させたのだった。

 その時の攻略戦に乃木大将も参加していた。乃木大将は、忠勇死を恐れぬ我が日本軍の攻撃の前では、支那軍が守ろうが、ロシア軍が守ろうが、結果は同じだと、堅く信じていたのだった。
 
 旅順総攻撃を前にした明治三十七年八月十六日、明治天皇は旅順の非戦闘員たちを死傷せしめることがないように、乃木大将に非戦闘員たちを安全退去せしめることを勧告するように命じた。

 そこで乃木大将は連合艦隊司令長官・東郷海軍大将と相談をして、連名で司令官・ステッセル中将に対して、降伏の勧告文を手渡した。このような状況から見て、日本軍の態度は、すでに敵のロシア軍をのんでいた。旅順はすぐに攻略できると考えての高飛車な勧告文だった。

 乃木大将自身も、ある程度の犠牲を覚悟すれば、一回の総攻撃で旅順の本防御線を突破して、旅順港の死命を制し得ると考えていたと言われている。

 だが、この判断の甘さは、乃木大将や第三軍司令部だけでなく、乃木の上部軍である満州軍総司令部も、広島の大本営でも、日本帝国海軍も、日本国民一般の人々も、皆同様な判断をしていた。

 日露戦争開戦前、日本国中は、悲壮な空気で押し包まれていた。「この戦争で、国が破れたら、日本は永久にロシアに隷属させられるかも知れない」という不安がみなぎっていた。

 ところが、開戦してみると、戦争は想像以上にうまく運んだ。陸に、海に、日本軍は連戦連勝で、ロシア軍を撃破していった。そこで安心感が出て、旅順のことなど、さほど重大に考えなくなっていたのだった。

 陸軍中枢部では、旅順は一部の軍団で押さえておけば、あんなものはほっといていい、どんどん北進できるものと考えていた。何といっても日清戦争のときの旅順戦の大勝利の観念が抜けきらなかった。

 ある日本海軍の将校が、次のように言っていたという。「旅順は海軍の陸戦隊だけでもやっつけられる。だから、陸軍は、我々に旅順を任せて、先に進んでもらってもよろしい」。

 あの知将と言われた満州軍総参謀長・児玉源太郎大将でさえ、楽観的であったと言われている。開戦前の三月上旬に参謀本部部長会議の席上で、当時参謀次長であった児玉中将は「今旅順の後方を竹の柵で囲むとすれば、どれだけの材料がいるか調べているところである。これは敵兵が脱出するのを防ぐために作るのである」と発言して、一同大笑いしたという話さえ伝わっている。

 さて、日本側の降伏の勧告文を手にしたステッセル中将は、翌日、日本側の軍使に「たとえ一兵たりともロシア兵が残っている限りは、旅順を日本軍の手にゆだねることはしない」という回答文を手渡した。

 そこで乃木大将は、いよいよ旅順に対する総攻撃を八月十八日と定めた。だが、天候が悪かったため、一日延びて、八月十九日に総攻撃は決行された。

 十九日と二十日に、砲撃戦が行われた。旅順要塞の各砲台からも一斉に反撃してきた。日本軍は猛砲撃を加えた。敵の堡塁の形が変わるほどだった。乃木大将の第三軍司令部では、これくらいたたいておけば、あとは、強襲で落とすことができると判断した。

 そこで、八月二十一日未明、三個師団に対して、突撃命令を出した。日本軍の将兵たちは勇躍して突撃に移った。だが、ロシア軍が使用した機関銃は極めて優秀だった。機関銃をよく知らない日本軍の兵士たちは、ワ~と雄叫びを上げて一団となって突進していった。

 待ち構えていたロシア軍は、多数の機関銃で、ほうきで掃くように、その日本軍の兵士たちを、なぎ倒した。肉弾に次ぐ肉弾で、日本軍の兵力はみるみる減っていった。

 日本側は、これは大変な要塞だと、感じ始めたが、もうどうしようもなかった。攻撃は、翌二十三日も繰り返された。二十四日の朝、乃木大将が双眼鏡でながめると、山の形が変わってしまう程に、日本兵の死骸で埋まっていた。

449.乃木希典陸軍大将(29)陸軍の部内がこのように腐敗していてはだめだ

2014年10月31日 | 乃木希典陸軍大将
 杉浦少佐は結局、嫌疑だけで罪にはならなかった。ほかの関係各師団でも戦争で功労を立ててきた者たちであるから、多少の事はあっても大目に見ようという態度であって、忌まわしい事件で彼らの将来を失わしめることのないように努力して事件は大きく発展しなかった。

 丸亀の第一二連隊長・斎藤徳明大佐は、杉浦少佐を弁明して、「嫌疑を受けたとはいっても、有罪になったのではありませんから、師団長が引責辞任されては、彼の罪を認めたという印象を世間に与えます。是非思いとどまってください」と乃木師団長に進言した。

 しかし乃木師団長は聞き入れなかった。「有罪になったとか、ならなかったということではない。軍人は嫌疑を受けたという事で責任を感じなければいけない。しかしお前が言うように、私が辞職をしたことで部下の有罪を認めたという印象を世間に与えるというのが面白くないというのなら、私は病気のためということで辞職しよう」と乃木師団長は答えた。

 乃木師団長は、表向きの理由は、リュウマチスで起居不自由につき、として辞表を提出した。しかしこのことはよく中央でもわかっているのでなかなか聴許がおりなかった。やむを得ず、乃木師団長は湯治湯に行って一か月半も司令部に顔を出さなかった。

 
 こうなっては軍上層部としても乃木師団長の依願免職を認めないわけにはいかなかった。こうして休職となって乃木中将は四度、野に下った。

 乃木中将は自分のものとなった時間を那須野に行って耕作をしたり、土地の人たちと地酒を酌み交わしたり、東京にあっては読書に日を送り、又旅行に出かけたり、戦死したかつての部下の墓標を書いたりして、穏やかな生活を続けていた。

 しかし陸軍部内では、乃木中将を知っている者も少なくなかった。乃木中将のような清廉潔白な勇将をこんなことで腐らしてしまってはならないという声が起こっていた。

 明治三十五年に陸軍大臣となった寺内正毅(てらうち・まさたけ)大将(山口・戊辰戦争・西南戦争・フランス留学兼駐在武官・陸軍士官学校長・日清戦争で運輸通信長官・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・教育総監・参謀次長・陸軍大臣・大将・子爵・第三代韓国統監・朝鮮総督・伯爵・元帥・首相・功一級金鵄勲章・レジオンドヌール勲章オフィシェ)は、乃木中将と同じ長州藩出身だった。

 寺内大将は乃木中将の隠栖(いんせい)を最も惜しむ一人だった。そこで乃木中将を官邸に呼んで再び現役に戻れと数時間に渡って説得した。

 しかし頑固な乃木中将は首をたてにふらなかった。乃木中将の言い分は、「陸軍の部内がこのように腐敗していてはだめだ。断固たる廓清ができない間は戻らない」と、かえって粛軍することを強く要望した。

 乃木中将の最後の休職期間は二年九か月だった。乃木中将が現役に復帰したのは日露戦争が勃発したからであった。

 日露戦争が、迫っていた。陸軍では近衛第一二師団をもって一軍を編成し、黒木為(くろき・ためとも)大将(鹿児島・戊辰戦争・広島鎮台第一二連隊長・西南戦争・大佐・近衛歩兵第二連隊長・参謀本部管東局長・少将・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・日清戦争・男爵・近衛師団長・西部都督・大将・日露戦争で第一軍司令官・伯爵・枢密顧問官・功一級金鵄勲章)が軍司令官となった。
 

 近衛師団が動員下令で出征が決まったので、乃木中将は留守近衛師団長として復職したのである。日本が国運をかけて大国ロシアと戦うというときである。この時乃木中将は五十五歳だった。

 明治三十七年二月八日旅順港のロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃で日露戦争は開戦した。この攻撃でロシアの艦艇数隻に損害を与えたが、大きな戦果はなかった。

 五月二日、乃木希典中将は第三軍司令官に任命された。そして、六月六日乃木中将は陸軍大将に昇進した。

 六月二十二日、第三軍司令官・乃木大将は、まず第一一師団を進めて、剣山、歪頭山を陥落させた。七月三日、敵の必死の逆襲を退け、営城子、偏石柳子付近、大白山付近を占領した。そして七月三十日には、はやくも敵の旅順第二防御線である大狐山東方の高地一帯も占領した。

 八月に入ると、八月七日、八日、九日の三日間の戦いで、大狐山、小狐山の要害が陥落した。十四日には干大山から北東溝北方高地、随家屯西方高地に渡る戦域を占領した。十五日には爺盤南方、小東満東北高地を陥落させた。これにより第三防御陣地も突破した。

 こうなると、旅順は目の前であった。旅順は裸にされたも同然だった。日本軍は旅順何するものかとの自信を大いに強くした。乃木大将も攻略に自信を持っていた。

448.乃木希典陸軍大将(28)曾根長官が桂大臣に働きかけて乃木中将の首を切った

2014年10月24日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木中将は、桂太郎陸軍大臣に会って、桂大臣とともに伊藤博文(いとう・ひろふみ)首相(山口県光市・松下村塾・英国留学・討幕運動に参加・初代兵庫県知事・初代工部卿、宮内卿等明治政府の要職を歴任・初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣・初代枢密院議長・初代貴族院議長・日露戦争・初代韓国統監・ハルピン駅で暗殺される・従一位・大勲位・公爵)と会見した。

 そのあと、乃木中将は井上馨(いのうえ・かおる)蔵相(山口県山口市・藩校明倫館・英国留学・・討幕運動に参加・大蔵大補・外務卿・外務大臣・農商務大臣・内務大臣・大蔵大臣を歴任・三井財閥最高顧問・従一位・菊花章頸飾・侯爵)とも会見した。

 その会議に曾根長官も加わって長時間の密議が行われた。どういう話し合いがなされたのか、そのことは伝わっていない。だが、その翌日、乃木中将の台湾総督の依願免職が発令され、乃木中将は台湾には帰らず、そのまま休職となった。

 したがって乃木中将を知る人たち、台湾の事情に明るい人たちは、乃木中将が曾根長官に一服盛られたのだと噂した。桂大臣と曾根長官とは台湾時代からの相棒だったから、その線から曾根長官が桂大臣に働きかけて乃木中将の首を切ったとも言われたが、おそらく当たらずといえども遠からずの噂だった。

 乃木中将の台湾統治に対する見解は、次のようなものだった。

 「台湾の治績をあげるには、大いに官吏を精選してよいものを集めなければいけない。しかも日本から派遣する人員をできるだけ少なくして、小遣いとか給仕とか、下級官吏はなるべく台湾人を登用すべきである」

 「台湾に来ている日本の官吏は手当てが良いから贅沢をしているが、彼らの行動を見ると、台湾に赴任してきているのは贅沢をしたいためであって、本気で台湾のためになろうとか、骨を埋めるつもりで来ている者がない」

 「腰掛のつもりできているのだから真剣でない。したがって台湾の人民に対しても親切な情けを持っていない。こんなことでどうして新領土の民心を治めることができよう。粗末な大和魂なら台湾人の利欲心にも及ばない」。

 乃木中将は、当然この秘密会議で桂大臣に対して自分のこの考えを表明したであろうし、桂大臣の政治的な意見について乃木中将は耳を貸さなかったに違いない。そうした意見の衝突から休職が発令されたのであろうが、あるいは乃木中将の方から腹を立てて辞めさせてくれと言い出したのかも知れない。

 乃木中将が台湾総督を追われたので、児玉源太郎中将が責任を負って新総督として就任した。当時、児玉中将は第三師団長だった。児玉中将は乃木中将と違って政治的手腕もあり、智謀者であったから、曾根長官なんかに一服盛られるような下手なことはしなかった。彼は台湾総督に就任すると、すぐに曾根長官の首を切った。

 そして、後任長官に後藤新平(ごとう・しんぺい・岩手・福島洋学校・須賀川医学校・愛知県医学校勤務医・同学校長兼病院長・内務省衛生局・ドイツ留学・医学博士・内務省衛生局長・相馬事件で収監・臨時陸軍検疫部事務長官・台湾総督府民政局長・民政長官・南満州鉄道初代総裁・拓殖大学学長・初代内閣鉄道院総裁・内務大臣・外務大臣・東京市長・内務大臣・東京放送局初代総裁・貴族院勅選議員・勲一等旭日桐花大綬章・伯爵)をもってきた。乃木中将の敵を討ったのである。

 台湾総督を辞任して、休職していた乃木中将は、明治三十一年十月三日、香川県善通寺に新設された第一一師団長として復職した。師団長在任中の明治三十三年、清国に暴動が発生した。義和団事件とも呼ばれているが、北清事変である。

 このとき、乃木中将の第一一師団隷下の丸亀連隊からも杉浦少佐の指揮する第三大隊が派遣され、第五師団長・山口素臣(やまぐち・もとおみ)中将(山口・大阪陸軍教導団・二五歳で陸軍軍曹となりすぐに陸軍少尉・中尉・大尉に昇進・二十七歳で陸軍少佐・歩兵第七連隊長・三十五歳で大佐・東京鎮台参謀長・近衛参謀長・少将・歩兵第一〇旅団長・歩兵第三旅団長・男爵・中将・第五師団長・北清事変で勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章・大将・子爵)の隷下に入って参戦した。

 事変が平定して、翌年の明治三十四年、原隊に復帰してから馬蹄銀事件という汚職事件が明るみに出た。第五師団を中心とする出征部隊が、馬蹄銀という清国の銀貨を不法にぶんどって持ち帰ったという事件だった。

 だんだんと取り調べが進んでいくうちに丸亀連隊も多少やっていたらしいという噂が流れだした。潔癖な乃木中将は、師団長としてそう聞いて黙ってはおられなかった。早速、自ら出向いて丸亀連隊を徹底的に調査した。すると、ある古寺の床下に埋められてあった馬蹄銀六万両が発見された。

 乃木中将は「かような不名誉なことを部下がしでかしたのは、師団長として自分の指導に欠陥があったからである。陛下に対し奉っても、国民に対しても申し訳がないから辞職する」と言い出した。

447.乃木希典陸軍大将(27)乃木中将が台湾総督として赴任したのは、確かに失敗だった

2014年10月17日 | 乃木希典陸軍大将
 さて、桂中将が突然辞任したので、乃木希典中将が総督に性格的に向くとか向かんとかいうのは第二の問題で、とにかく台湾総督の椅子を空っぽにしておくわけにはいかなかった。

 そこで、陸軍の中央部は、乃木に白羽の矢をたてた。理由は簡単だった。乃木中将はかつて、台湾討伐(明治二十八年六月)をしているからで、乃木中将なら睨みがきくだろうということだった。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、桂中将が台湾総督を辞職して、間もなく、乃木中将は政府の命により、東京へ出てきた。

 その夜、親友の児玉源太郎少将(被服装具陣具及携帯糧食改良審査委員長・男爵)が訪ねてきて、「台湾総督として、君を推挙するつもりであるから、是非、承知してくれ」と言って相談を持ち掛けた。

 乃木中将はしきりに辞退して、「そういう事は、俺の適任でないから、平に断る。俺は、一生を、単純な軍人生活で、終わるつもりだ」と、固く断った。

 だが、児玉少将は「台湾の前途は、なかなか重大で、その経営の上についても、苦心があるのに、土匪の征討が、容易ではない。君のような者に行ってもらわなければ、これを成し遂げることは難しい。是非、行ってくれ。新領土としての経営の上には、民政長官というものが、別にあるのだから、そうひどく君に、心配をかける訳もなかろう。兎に角承知してもらいたい」と言って、色々説きつけた。

 このような押し問答が度々、重ねられ、また、各方面からも、しきりに勧められるので、遂に乃木中将も、承知して、台湾総督を引き受けてしまった。

 明治二十九年十月十四日、乃木希典中将は台湾総督に任じられた。ちなみに、この日に、児玉源太郎は陸軍中将に昇進し、臨時政務調査委員長に就任している。乃木中将は四十六歳、児玉中将は四十四歳だった。

 乃木中将が台湾総督として赴任したのは、確かに失敗だった。乃木の気質は、自分が引き受けてしまえば、誠実にそれを勤めて、己の力の続く限り真面目にやる。それで力が及ばなければ、己の罪である。職を辞めるなり、腹を切るなりする、というものだった。だから、政治的柔軟性が全くなかったのである。

 乃木中将は、明治二十九年十一月、家族とともに、台湾に赴任し、総督府官邸に入った。ところが、当初から、この官邸でも、乃木中将は、桂中将をにがにがしく思ったのである。総督官邸は二つあった。一つは最初から建てられている粗末な洋式の家だった。

 もう一つは、桂中将がこんなところに住めるかと言って、新築させたという日本式の立派な屋敷だった。乃木中将は桂中将のやり方を憤慨した。乃木中将は台湾統治について次のような考え方を持っていた。

 「植民地の政治は、そこに住む人々の心をまず、なごませることから始めなければならない。台湾に住む住民たちは、まだ日本人ではないのだ。新日本領土となって、表向きは日本国民になったとはいえ、本当は支那人ではないか。だから日本人に対するようにはいかない」

 「彼らは急に変わった環境から日本人に不安と不満を抱いているに違いない。統治する者としては、全ての行動に慎み、質素で公正、清廉潔白でなければならない。勝った者が負けた者を支配するというようなおごりがあってはならない」。

 乃木中将は、今後、台湾総督として、以上のような方針でやっていこうと考えた。当時、台湾にきていた公吏は給与やその他の待遇は内地の官吏に比べてはるかに良かったので、彼らは分に過ぎた贅沢な生活をしていた。

 乃木中将は総督として、まず、その悪習から改めにかかった。また、賄賂を取る習慣もついていた。乃木中将は贈り物を取ることを一切拒否し、またそうすることを禁止した。こうしたことから、乃木中将に対する反感が起こった。

 台湾の官吏の中で総督・乃木中将排撃の急先鋒になったのは、民政府長官である曾根静夫(そね・しずお・千葉・北条県<現・岡山県東北部>十五等出仕・内務省地租改正事務局・鹿児島県一等属・租税課長・農商務省・大蔵省主計局総予算決算課長・大蔵省国債局長・拓殖務省北部局長・台湾総督府民政局長<民政府長官>・同財務局長・山形県知事・北海道拓殖銀行初代頭取)だった。

 曾根民政府長官は乃木中将に対して、ことごとく反対する態度をとった。曾根長官は桂太郎と同腹の人間だった。曾根長官は中央政府に対して、色々と乃木中将の中傷を続けた。その遠距離射撃がきいたのか、乃木中将は突然に急ぎ上京せよとの電報を受け取った。

 この時、乃木中将の母、寿子はマラリヤにかかり、急に容態が悪化して、すでに世を去っていた。乃木中将が上京する時、曾根長官も同行した。曾根長官には上京の命令が出ていないから、行く理由はなかったが、彼は当然のことのような顔をして上京した。

 当時、内閣は第三次伊藤内閣になっていて、桂中将は、八方手を回して運動し、望み通り、陸軍大臣の椅子に座っていたのである。

446.乃木希典陸軍大将(26)桂師団長は悲鳴をあげ、乃木少将の混成旅団に助けられた

2014年10月10日 | 乃木希典陸軍大将
 園遊会で、仙台にあるだけの芸者を集めて、それに酒の酌をさせたり、色々な余興をやらしたりして、これを第一の御馳走として、乃木中将に喜んで貰おう、としたのであるが、それが、乃木中将の気に入らない、というのだから、そうなってみると、園遊会の組織を、根本から改めなければならぬ事になるのだ。

 一同は別室に下がって、相談をした。話がまとまり、一同は、乃木中将のところへ行った。

 市長「エー、甚だ恐れ入りまするが、唯今になりまして、閣下が、御欠席という事になりますと、発起人一同が、世間に会わす顔も、無いような訳で、まことに困りまするから、是非、御列席を、願いたいので御座いまして、それに就いては、唯今までの方法を、ことごとく改めまして、必ず閣下の思召しに、適うように致しますゆえ、是非、御出席を願いたいもので御座いますが、如何なものでございましょうか」。

 乃木中将「イヤ、今に至って、そういう事をされては、却って、わしの方が困る。園遊会は、最初の計画通りやって宜しいから、乃木は病気で出ない、と言うて呉れれば、貴下等にも、不都合な事は無かろう、と思う故、このまま、会の方はやって貰いたいものだ」。

 市長「それでは、我々の心が許しませぬから、是非、御出席を願いたいものです」。

 乃木中将は、様々に言って、断ったが、中々一同は承知をしなかった。乃木中将は言うだけの事を言ってしまえば、将来の戒めにもなるのであるから、もうこれぐらいでよかろう、と考えて、遂に出席を諾した。

 園遊会に、乃木中将が出席してみると、芸者は、少しはいたが、一切の趣向は一変していた。殆どの接待役は、県庁または市役所の役人が行っていて、来賓をもてなしていた。乃木中将は非常に喜んで、閉会までゆっくりと居た。それで発起人達も安心して、無事に園遊会を終えることができた。

 明治二十九年十月十四日、乃木希典中将は、仙台の第二師団長から突然、台湾総督に任じられた。乃木中将が、台湾総督に任じられた仔細は、「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、次のようなものであった。

 明治二十九年六月、初代の台湾総督であった、樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍大将(鹿児島・陸軍少佐・台湾出兵・西南戦争・熊本鎮台参謀長・警視総監・陸軍少将・海軍に転官・海軍大輔・海軍次官・海軍軍令部長・海軍大将・初代台湾総督・枢密院顧問・内務大臣・文部大臣・従一位・大勲位・功二級・伯爵)から、台湾総督が第三師団長だった桂太郎中将に移った。

 当時、桂太郎中将は武人としては、すでに落第点がつけられていた。日清戦争の海城の戦い(明治二十七年十二月~明治二十八年二月)では第三師団は苦戦し、桂師団長は悲鳴をあげ、乃木少将の混成旅団に助けられた。

 桂中将は将軍としては駄目だということになっていた。しかし、彼の政治的素質はすでに誰もが認めていた。桂中将自身も、将来軍人としてではなく、政治的に動こうとする強い野心を持っていた。だから、上層部は、桂中将の政治的手腕によって新領土となった台湾の統治をうまくやらせようとしたのである。

 桂中将が本気で台湾統治をやったら、必ずそこに成果が上がったに違いないが、なにしろ中央に野心を持っている桂中将は、植民地なんかにじっくり腰を落ち着けて仕事をする気などなかった。あくまで台湾総督は、桂中将にとっては腰かけであったのだから、絶えず中央に戻る機会をねらっていた。

 桂中将が台湾総督の椅子に座って三か月もたたない、明治二十九年九月十八日、第二次伊藤内閣が倒れて、後継内閣の首班に松方正義がきまった。この時、山縣有朋はすでに陸軍の長州閥大長老になっていた。

 そこで、山縣は松方内閣の陸軍大臣に、自分の子分である桂太郎中将を推薦した。これは桂中将からの働きかけがあったのではないかと言われている。

 台湾総督としてまだ席もあたたまらない桂中将を、山縣が一存で呼び戻すとは考えられないからである。山縣から言われて、松方も仕方なく内諾をした。話がほぼ決まったというので、桂中将は待望の陸軍大臣の椅子に座れると有頂天になっていた。

 ところが、この人事に薩摩閥から横やりが入った。長州の思い通りにはさせぬぞというわけである。

 すったもんだの末、とうとう高島鞆之助(たかしま・とものすけ)陸軍中将(鹿児島・薩摩藩藩校「造士館」卒・戊辰戦争従軍・陸軍大佐・西南戦争に第一旅団司令長官として出征・中将・子爵・勲一等旭日大綬章・大阪鎮台司令官・陸軍大臣・枢密顧問官・台湾副総督・拓殖務大臣・陸軍大臣・枢密顧問官・勲一等旭日桐花大綬章)が拓殖大臣の椅子と一緒に陸軍大臣も兼務するということになってしまった。

 この話を聞いて、桂中将は大憤慨をし、あてつけに台湾総督を辞めてしまった。内閣が代わってごたごたしている時であった。ちなみに、桂中将は、明治三十一年一月十二日組閣の第三次伊藤博文内閣で陸軍大臣になっている(五十歳)。それまでは、東京防御総督の職にいた。

445.乃木希典陸軍大将(25)、そういう風に、考えが違うのじゃから、ツイ行けぬ事にもなるのじゃ

2014年10月03日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木中将は出てくると、「ヤア、何か御用ですか」と言った。今日、呼ばれていて、今、断って来た人のようでもなく、園遊会のことはもう忘れているような顔付きで「何か用ですか」とは、ずいぶん厳しい聞きようだった。だが、相手が相手だけに、一同謹んで、態度を見ていると、やがて、市長が席を進んで、次のように申し出た。

 「ちょっと、お伺いしたいのですが、今日の園遊会へ、御出席が無い、というお知らせを承って、一同、驚きの余り、斯く打ち揃って参ったのでありますが、全体、どういう御都合で、御欠席に、なるので御座いますか、それを承りたいと、存じまする」。

 
 すると、乃木中将は、「イヤ、そう深い仔細は無いが、何となく、行くのが厭になったから、それで、御断りするのじゃ」と答えた。艶も無ければ、飾りも無い。思ったままの答えには違いないが、厭になったから断るとは、益々猛烈な断りようだった。それから、市長と乃木中将の間で、次のようなやり取りが行われた。

 市長「併し、その御厭に、御成り遊ばした、というに就いては、何か、仔細がなければなるまい、と考えます。どうせ、我々の計画した事で御座いますから、御気に召さぬ事は、沢山に御座いましょうが、発起人一同の苦衷は、御諒察を願いたく、また、県の有力者が、殆ど十里二十里の遠きを、厭わずに集まって来る、という、これ等の者に対しても、此の儘、将軍が、御欠席になる、という事があっては、来会者の失望は勿論、発起人の顔も立ちませぬので、何とか、御心を直して、御出席を願いたいので御座いますが、それに就いては、どういう点が、御気に召さなかったのか、それを御明かし下さいますれば、悪い点は改めて、御出席を願う事に致しましょう」。

 乃木中将「そう心配を掛けては、まことに相済まぬが、何となく、厭になったものじゃから、それで、断りを言うたのじゃ。集まられた一同に対しては、更に我輩から、御挨拶の書簡は、出しても差し支えないから、どうか、勘弁して貰いたい」。

 市長「それまでに仰せられるほど、御厭とありましては、猶更、どういう点が悪い、という事を、仰せを願いたいのです」。

 乃木中将「イヤ、別に悪い、という事はない。世間一般、そういう事に、なっているのじゃから、わしが一人で、嫌いじゃからと、言うたところで、致し方もないのじゃ。いっそ、参らぬが一番よい、と考えて、断ったのじゃから、そこは、よく察して貰いたい。併し、諸君の御好意に対しては、飽く迄も感謝する次第である」。

 市長「へー、そう致しますると、何か、今日の計画の中に、御気に召さぬところがあって、それが為に、御欠席というように聞き取られますが、左様で御座りますか」。

 乃木中将「ウム、実は、その通りじゃ」。

 市長「それを、承りたいのです。どういう点が、御気に召さなかったのですか」。

 乃木中将「我輩も、そう言われると、言わなけりゃならぬが……」。

 そう言いながら、乃木中将は、しばらく考えていたが、やがて独りうなずいて、次のように言った。

 乃木中将「よし、それじゃ、いっそ、言うてしまおう」。

 市長「ハイ、どうぞ、御聞かせください」。

 乃木中将「こういう訳じゃ。今朝、案内状を開いて見ると、催し事のプログラムが、出てきた。それを読んで見ると、今日の歓待は、実に至れり尽くせりで、我々如き者が、たまたま、赴任して来たから、というて、これまでの事をなさらずとも、と思う程に、立派な園遊会の仕組みに、なっているようじゃが、併し、その歓待の眼目が、芸者の接待に、在るように思われた。そうして見ると、わしとしては、一寸行けぬ事になる」。

 市長「ハハー、それが、何で悪いので御座いますか」。

 乃木中将「さア、そういう風に、考えが違うのじゃから、ツイ行けぬ事にもなるのじゃ。わしは、山口県人の、乃木希典として行くのではない。又それならば、君方も、これまでに我等を、歓待して呉れる次第もまかろう。我輩が、招ばれて行くのは、第二師団長として行くのであるから、軍人を迎えるような方法がいくらもあろうと思う。芸者の御馳走が、唯一の眼目に、なっている会では、どうも軍人として、一寸行く事が出来ぬじゃないか。もっとも、これは、わし一人の考えであって、折角、世間で流行っているのに、わし一人が嫌いじゃから、というて、他人までも、わしと同じような意見になれ、とは言わぬが、自分だけは、そういう意味の会合には、出ぬ事に極めているのじゃから、それでよんどころなく、御断りをしたのじゃ」。

 厳然として、乃木中将が、欠席の理由を語ったから、それを聞いた、発起人一同は、顔を見合わせて、しばらくは、何と答えのしようも無かった。

444.乃木希典陸軍大将(24)乃木は都合に依って欠席を致すから、諸君に宜しく申し上げてください

2014年09月26日 | 乃木希典陸軍大将
 山地中将は東京の第一師団長であったから、その下の、第一旅団長として、乃木少将を就任させた。

 乃木少将が歩兵第一旅団長に就任したのは明治二十五年十二月八日で、九ヶ月余りの休職だった。このとき、乃木少将は四十四歳直前であった。

 「将軍 乃木希典」(志村有弘・勉誠出版)によると、清国(後の中華民国)は、朝鮮を併合しようという野心を持っていた。それは日本帝国にとって、自分の首に縄をかけられるも同じことだったので、黙って見ている訳にはいかなかった。

 そこで、日本帝国と清国は度々談判をして、お互いに朝鮮から撤退し、力を合わせて、朝鮮の独立と平和を保つようにしようと、明治十八年四月一八日、天津条約を取り交わした。だが、清国は朝鮮に対する野望は捨てておらず、朝鮮での清国の主導権は依然として強固のものがあった。

 明治二十七年五月、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発すると、六月、天津条約に基づき、日清両国は朝鮮出兵を相手国に通告した。その後、朝鮮政府と東学農民軍が停戦しても、日清両軍は撤兵しなかった。

 やがて、朝鮮国内で日清両軍は衝突し、明治二十七年八月一日、日清両国は宣戦布告をした。これが日清戦争の始まりだった。開戦と決して、宣戦の布告を出してから、真っ先に乗り出したのは、第一師団だった。山路元治中将がこれを率いた。その下の、第一旅団は乃木希典少将が率いて、出征した。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、日清戦争の際、旅順攻撃の総指揮官は、鬼将軍、山路元治中将だった。山路中将と乃木少将は非常に深い交わりがあった。乃木と心を許して交わったものがあるとすれば、山路は、その第一人者だった。

 乃木少将は、その山路中将の下に就いて、第一旅団長として、旅順口に向かったのであるが、その時は、支那人を相手に戦ったが、さして苦労もなく、旅順口は陥落してしまった。

 凱旋の後、明治二十八年四月、乃木少将は中将に昇進し、抜擢されて、仙台の第二師団長に任命された。四十七歳だった。また、功三級金鵄勲章、旭日重光章を受章し、男爵を受爵した。

 乃木中将は仙台に赴任した。当時の宮城県知事は、勝間田稔(山口県萩市・藩校明倫館卒・戊辰戦争従軍・越後府軍監・山口県九等出仕・防長協同会社頭取・内務省書記官・警保局長・社寺局長・戸籍局長・愛知県知事・愛媛県知事・宮城県知事・新潟県知事・宮内省図書頭)だった。

 勝間田稔・宮城県知事は、愛知県知事時代、風流知事として、浮名を流していて、世間に知られた人物だった。勝間田知事は、詩も作れば、歌も詠んだ。そして不思議に女にもてた。一度関係した女は不思議に勝間田にほれ込んだ。勝間田は、金と権力で女に接したりはしなかったので、名古屋には、勝間田の女が沢山いたが、悪口を言う女はいなかった。

 なにしろ、このような勝間田が宮城県知事であるから、高名な乃木中将が仙台に第二師団長として赴任してくるにあたって、その歓迎会を、盛大に園遊会として歓待することに熱心だった。園遊会も、仙台中の芸者を残らず集めて、余興はもちろん、模擬店なども、一切、芸者を以って、担当させることにしたのだった。

 仙台に赴任した、乃木中将は、いよいよ歓迎の園遊会当日になって、先日に送られてきていた、その案内状を開いて見た。当日のプログラムが記してあり、段々それを読んでいくと、意外にも芸者の接待を以って歓待方法としてあることが分り、乃木中将は苦い顔をした。

 乃木中将は、しばらく考えていたが、やがて書生を読んだ。乃木中将は、書生に次のように言って、勝間田県知事と市長のところへ使えに行くように命じた。

 「今日は、お招き下されてかたじけないが、乃木は都合に依って欠席を致すから、諸君に宜しく申し上げてくださいと、言うてくるのじゃ」。

 書生は、妙な顔をして「へへー、御出席なさらないのでございますか」と言うと、乃木中将は「そう言うて、断ってこい」と答えた。

 仙台の市中にいる芸者を、二、三百人総揚げして、豪奢な園遊会を開くべく、その準備をしているところへ、肝心の乃木師団長から断りの使いが来たので、勝間田県知事や市長たちは、頗る面喰った。乃木師団長が来なければ、この園遊会を開く必要がなくなったのである。しかも、当日になって断ってきたのは、どういう事情なのか。

 市長と発起人の中から何人かが代表になって、乃木師団長の邸宅にやって来た。再三断ったが、どうしても会いたいというので、乃木中将は応接間へ通した。

443.乃木希典陸軍大将(23)乃木の奴、なかなかに難しい事を、言うので困る

2014年09月19日 | 乃木希典陸軍大将
 山地中将は昔流の軍将で、義理を重んじ、よく人の為に尽くし、戦陣に臨んでは、鬼将軍と呼ばれ、その武勇はよく知られており、誰もが認める生粋の軍人だった。

 乃木少将は、本筋からいえば、長州軍閥の軍人で、山縣有朋の系統ではないが、山縣とともに進んで来たことは事実だった。

 だから、乃木少将の方から、折れて出れば、山縣の方でも決して疎外するようなことはないのだが、乃木少将の気性として、それができなかった。

 乃木は山縣系の軍人にはなることができなかった。だから、山縣系の軍人たちは乃木少将を疎外したが、それ以外の軍将からは、かえって乃木少将は尊重されていた。

 山地中将は、東京の第一師団長であったのを、幸いに、休職中の乃木少将を引き上げようと思った。それには、まず、山縣有朋を説得しなければならなかった。

 当時、山縣有朋は、明治二十二年十二月に内閣総理大臣となり、第一次山縣内閣を組閣したが、明治二十四年五月辞任した。その後、元老として明治陸軍を牛耳っていた。当時の陸軍はまさに“山縣の陸軍”だったのである。

 土佐出身の山地中将は、維新前後からの戦友として一通りの交際はあったが、山縣の自邸を訪ねたこともなく、あえて親交のある間柄ではなかった。

 そのような関係の山地中将が不意に自邸に訪ねてきて、何か相談があるというので、山縣は、不思議に思った位だった。「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、元老・山縣有朋と男爵・第一師団長・山地元治中将のやりとりは次の通り。

 山縣「君がわざわざ訪ねて来るとは、珍しい事じゃ」。

 山地「少し相談があって、お訪ね致した」。

 山縣「全体、どういう事かな」。

 山地「他の事ではないが、乃木の身についてじゃ」。

 山縣「ふふ~む、乃木の事についてか」(山縣は意外に思った)。

 山地「あれだけの人物を、空しく遊ばせて置くのは、実に愚の至りじゃ。もう一度、引き出す事は、なるまいか」。

 山縣「さ、それは………」(何事にも用心深い人で、容易に口は開かなかった。特に、山地が乃木のために来た、という事に、何となく疑いもあるから、なお更、可否の返事はうっかりできないので、山縣は眉を八字にして、深い考えに沈んだ)。

 山地「簡単に言えば、我輩が乃木を預かりたい、というのじゃが、それには、君の承諾も受け、助言も、充分に無ければ、できぬ事で、是非、ウムと言うてもらいたい」。

 山縣「乃木を預かって、如何しようというのか」。

 山地「つまりを言えば、普通の者の下には付くまいが、我輩とは、多少の諒解もあって、何とか折り合いもつこう、と思うから、兎に角、乃木を呼んで、相談してもらいたい」。

 山縣「乃木の奴、なかなかに難しい事を、言うので困る」。

 山地「それも、よく知ってはいるが、君から話しさえあれば、我輩の方で何とか折り合いをつけよう」。

 山縣「左様か」。

 山地「一応は、君から話してもらって、後は、我輩に任せてくれたら、何とか抑え付けるつもりじゃ」。

 山縣「宜しい、そういう次第なら、乃木を呼んで、一応話して見る事にしよう」、

 山地「何分、頼む」。

 それで、話が済んだ。そのあと、用意の酒肴が出て、山縣と山地は、昔話に、時を移した。山縣の豪快と、山地の質実と、その対照が面白く、話は進んだ。

 それから、数日後、乃木希典少将は、元老・山縣有朋に呼ばれ、いろいろと懇談を受けた。乃木少将は容易に承知しなかったが、山地も大骨折りで、説きつけ、ようやく承知させた。

442.乃木希典陸軍大将(22)桂師団長から侮辱されたと知った乃木旅団長は、顔色をさっと変えた

2014年09月12日 | 乃木希典陸軍大将
 これを聞いた乃木少将は、すッと、立ち上がって、サーベルを腰に下げると、帽子を取って、「やァ、失礼した。都合によって出立します」と言った。

 呆気に取られた番僧たちを尻目にかけて、乃木少将は、ズンズン出て行った。石田副官も跡から続いて、出かけた。

 山門の前に立って、乃木少将は石田副官を待っていた。石田副官が「随分、礼を知らぬ輩(やから)であります」と言うと、乃木少将は「近頃の坊主は、大概、あんなもんじゃ」と答えた。

 そのあと、乃木少将は「それに、わしの額と、桂の額を並べて掛けるのじゃそうだ」と言った。石田副官が黙っていると、乃木少将は「桂の額と、並べられては堪(たま)らんからな」と言った。

 名古屋の第三師団長・桂太郎中将と、第五旅団長・乃木希典少将の仲はどうもうまくいかなかった。

 周囲の者もいろいろと気を使ってとりなそうとしたが、乃木少将のほうで桂中将を嫌っていた。それが桂中将にもわかるから、桂中将も乃木少将を嫌うということで、しっくりしなかった。

 とうとう乃木少将は病気と称して会議などにも出席しなくなった。つむじを曲げてしまったのである。

 ところが十一月三日がきた。十一月三日は天長節であった。各師団では観兵式(分列式)を行う。天長節の観兵式を仮病で休むことは、御上への畏れ、と乃木少将は考えて、旅団長として出て行かないわけにはいかなかった。乃木少将はすぐに全快届けを提出した。

 桂師団長は乃木旅団長に、その日の諸兵の分列式の指揮官を命じた。慣れている乃木少将には、それ位の役目は何でもないことだった。

 この頃、虫歯に悩まされていた乃木少将は、ついに、反対する歯医者に無理やり命じて、上顎と下顎の歯を一度に全部抜いてしまい、総入れ歯にしてしまった。乃木少将は、「これで虫歯に悩まされる事も無い。すっきりしたもんじゃ」と言った。

 ところが、この観兵式の最中に、乃木旅団長が馬上で指揮をしていて、大声で号令をかけた瞬間、この入れ歯がふっ飛んで落ちてしまった。それを見た桂師団長は声をあげて大笑いをし、幕僚たちもつられてクスクス笑った。

 観兵式がとどこおりなく終わって、乃木旅団長は、桂師団長の前に馬を進めて、指揮が終わったことを報告した。

 すると、乃木旅団長の顔を見ながら、桂師団長はニコニコしながら、左右に控えている井上参謀長や各団隊長に「乃木旅団長は、病気じゃというが、たとえ、病気でも、これ位元気があれば、大丈夫じゃ、やれば立派に務まるじゃないか、ハッハハハ……」と、暗に仮病だろうと、高笑いをした。

 入れ歯の落ちたくやしさの上に、さらに桂師団長から侮辱されたと知った乃木旅団長は、顔色をさっと変えた。乃木旅団長は、黙って挙手の礼をして、桂師団長の前を退くと、パッと馬を返して厩舎の方へ走り去った。

 乃木旅団長はそのまま駅へ行き、石田副官に、「おい、石田。俺は辞めてしまうから、あとは頼むぞ」と言って、東京行きの列車に乗ってしまった。

 東京に着くと、乃木旅団長は病気休職を願い出た。同郷の第一師団参謀長・寺内正毅大佐(山口・戊辰戦争・戸山学校卒・フランス留学・駐在武官・大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・少将・歩兵第三旅団長・教育総監・参謀本部次長・中将・陸軍大臣・大将・子爵・韓国統監・朝鮮総督・伯爵・軍事参議官・元帥・内閣総理大臣・従一位・大勲位・功一級)が乃木旅団長に、どうにか思いとどまるよう、なだめた。

 だが、乃木旅団長は首を振るばかりで、意志を変えなかった。それから、しばらくして、明治二十五年二月、乃木少将はとうとう休職を仰せ付けられた。

 休職になった乃木少将は、栃木県那須野に三反歩ほどの百姓家と、三町歩ほどの田畑、十三町歩ほどの山林を所有していたので、東京と那須野を往復して、晴耕雨読の生活をした。

 乃木希典は明治十八年五月に三十六歳で陸軍少将になってから、今回の休職(四十三歳)まで七年近く少将のままである。中将に昇進するのは日清戦争後の明治二十八年四月で、四十六歳のときである。十年間少将のままだった。

 乃木少将の不遇は、同じ長州出身の軍人の中にも少なからぬ敵がおり、重く用いられなかったのである。特に山縣有朋に睨まれて、後輩の桂太郎にさえ疎外されるという境遇だった。

 そんな状況にもかかわらず、当時、乃木少将に味方する者も多数いたが、その中でも、最も乃木少将に手を差し伸べて親交を尽くしたのが、乃木より八歳年長の男爵、第一師団長・山地元治(やまじ・もとはる)中将(土佐藩=高知・戊辰戦争・陸軍中佐・西南戦争に歩兵第四連隊長として出征・歩兵第三連隊長・歩兵第一二連隊長・少将・熊本鎮台司令官・大阪鎮台司令官・歩兵第二旅団長・中将・男爵・第六師団長・第一師団長・日清戦争に出征・子爵・西部都督・死去)だった。

441.乃木希典陸軍大将(21)とうとう乃木少将は「字を書かねば、泊めてもらえないのか」と言った

2014年09月05日 | 乃木希典陸軍大将
 すると、乃木少将は「わしは、こういう取り扱いを受けるつもりではなく、信者並みに願いたい、と申し込んだ筈じゃが、これでは困る」と番僧たちに言った。

 番僧は「別に、これと申して、特別の御取り扱いも出来ませぬ。何分にも、山の事で御座いまして、これが精一杯の事で、へへへ……」とへりくだった笑いを見せて答えた。

 乃木少将は「イヤ、こんな歓待を受けるのなら、来るのではなかった」と言った。

 番僧は「御立腹では、恐れ入ります。これ以上には、如何とも致し方が御座いませんので、どうぞ御不承を願います」と答えた。

 さらに乃木少将が「勝手な事を申すようじゃが、信者並みにしてもらいたい」と言った。

 番僧は「どういたしまして、閣下に対して、左様な事が、出来るものでは御座いません。何事も住職の不在で手回りかねますが、御勘弁願います」と言う。

 乃木少将が「それは、困った」と言っても、番僧は「さあ、お席へ…」と促した。乃木少将は止むを得ず、席に着いた。

 二枚並べてある座布団の間に座ったから、番僧は驚いて、「粗末なものでは御座いますが、それへ、どうぞお着き下さいませ」と座布団を乃木少将の方へ、寄せようとした。

 それを。押しのけて、窮屈そうにして、乃木少将は、「わしは、これが勝手じゃ」と座った。番僧が「まあ、どうぞ…」と言うと、乃木少将も「これで、よい」と言って引き下がらなかった。

 これは、乃木少将が故意にするのではなく、平生からの流儀だった。畳の上に、どんな敷物でもあれば、その上、座布団を用いる事はしない、乃木流とでもいうべきか、そういう事にしていたのだった。

 大演習に出かけて民家を宿舎代わりにするときでも、乃木少将は、特別の扱いをされるのが大嫌いで、その家の家族と同じ取り扱いを望んでいたのである。

 演習地へ出かける時は、大きな握り飯に梅干を入れて、竹の皮包みを腰にぶら下げるのが例になっていた。帰って来ると、くたびれた時は、床の間に新聞紙か風呂敷をかけて、それを枕に、ゴロリと寝るのも、乃木流の一つであった。

 そういう自分の流儀を、乃木少将が言葉に出して言っても、それを理解しようとしない番僧たちは、ひたすら“特別なおもてなし”を良かれと思って、押し付けていたのであるから、両者はいつまでも相容れることはなかった。

 さて、半僧坊の大広間では、石田副官も座布団を敷かずに、乃木少将と同じようにして、座っていた。主なき座布団はそのままにしてあり、見た目には変な情景だった。

 やがて、番僧は、絖(ぬめ=絹織物で日本画等に使用される)を五、六枚と、大きい硯に、筆を添えて、乃木少将の前に運んで、次のように言った。

 「お疲れ中、まことに恐れ入りますが、当寺の為に、一筆お残しを願いたいもので、大額を一枚、あとは掛軸に致しますつもりで、御座いますから、然るべきよう、願い上げます」。

 乃木少将は、いよいよ渋い顔をして、「これは何じゃ」と言った。「一筆、願いたいので御座います」と番僧は答えた。

 「わしに、字を書けと言われるのか」と乃木少将が言うと、番僧は「ハイ」と答えた。

 とうとう乃木少将は「字を書かねば、泊めてもらえないのか」と言った。すると、番僧はあわてて、「左様な次第では、御座いません」と答えた。

 乃木少将は「それならば、御免蒙ろう」と言うと、番僧は「併し、当寺の記念として、願いたいのであります」と重ねて言った。

 乃木少将は「字を書くことは嫌いじゃ」と言った。すると番僧は「そこを、御無理でも、願いたいのでありまして、ハイ」と引かなかった。

 さらに乃木少将が「わしは、書かぬ」と言うと、番僧は次のように言った。

 「先ほど、付近の有志の者へは、それぞれ通知をいたしましたから、そのうちに皆やって来ることと思いますが、それまでに、是非、一筆願いたく存じまして。実は桂師団長閣下にも先般、願い上げまして、あちらの座敷に掲げてございます。その額と、閣下の額と、二つを以って、当寺の誇りといたしたく存じますので、強いて願い上げます」。