大森書記は「どういたしまして、まことに不行き届きで、恐れ入ります。実は閣下を御泊め申すような相当な旅館がありませんので、恐れ入った次第では御座いますが、気賀半十郎と申しますものの家で、ご辛抱を願いたいのであります」と答えた。
乃木少将は、「それは、御手数であった」と言った。
すると書記は「それが、旅館では御座いませんので、充分にお世話申し上げる事も、なりますまいが、とにかく、屈指の富豪で御座いまして、財産の上では、かなりの家で御座います。同家に依頼しましたら、半十郎も大喜びで、外ならぬ閣下の御泊りを願える事は、家の名誉である、と申しまして座敷の掃除をするなど、大騒ぎをやっている位で、安心致しまして、早速、その旨を申し上げに参りましたので御座います」と言った。
乃木少将は「ははア、旅館ではないのか」と言った。大森書記が「ハイ、土地の富豪で、財産の点においては、とにかく、気賀の……」と言いかけた。
すると、乃木将軍は「まア、ちょっと、待ってくれ」と、今度は石田副官の顔を見て、「わしは、悪い事をした。気賀という所には古い知人の居ることを忘れていた。今、書記さんの話でようやく思い出したから、今度は、その知人の家へ泊まることにしよう」と言った。
石田副官は「そうなさいますか」と乃木少将に聞いた。乃木少将が「うむ、そうする」と答えたので、石田副官は「君が聞いていた通りだから、せっかくのご尽力であったが、その方はお断りしたい」と大森書記に言った。
大森書記は「へへー」と、なんだか変な様子なので、気抜けした人のようになってポカンとしていた。乃木少将は「いずれ、明日着いてから、その人へは、わしから挨拶することにしよう。郡長さんへよろしく言ってくれ」と言った。大森書記はほうほうのていで帰って行った。
乃木少将は「石田、今の話を、何と聞いた。わしは金を借りに行くのじゃない。財産家がどうしたというのか。実に怪しからぬ事を、聞かせる。自分の泊まる家を、人に捜させるようなことをすると、こういう恥を与えられるのじゃ」と言った。
書記が何回も財産家ということを繰り返していたので、乃木少将は不快に感じたのだった。そして次のように言った。
「近頃は、地方の財産家に泊まることを無上の名誉の如く、心得ている不都合の者が大分増えてきたそうじゃ。それというのも、畢竟は、桂のような奴が増長しているからじゃ」。畢竟(ひっきょう)は、「つまるところ、結局」の意味で、桂は、当時の名古屋の第三師団長・桂太郎中将のことである。
翌朝、石田副官は「奥山の半僧坊にお泊りになってはいかがでしょう。気賀よりは、さらに奥へ三、四里ありますが、俥(人力車)は通じますから」と乃木少将に言った。
乃木少将は「奥山の半僧坊といえば、全国へ響いている。わしは、元来が、寺院が好きなのじゃから、それへ泊まれるようになれば、この上もないことじゃ」と了承した。
そのあと、乃木少将は「しかし、先方へ使いを出すときに、信者並みの取り扱いで頼む、ということを、はっきり申し込んでおいてくれ」と石田副官に言った。石田副官は「ハイ、然るべく念を入れておきます」と答えた。
乃木少将、石田副官の両人は俥で気賀(現在の浜松市北区)に入った。船着場のある気賀の町は相当に繁盛していて、周辺では屈指の町だった。郡役所で用務を果たした後、気賀半十郎の家には石田副官が出かけて、丁寧に挨拶をした。
郡長が道案内をする、というのを、固く断って、両人は半僧坊へ向った。山門前で、俥を降りた両人は、急勾配の坂道を登り、宿坊の大玄関に着いた。乃木少将が楽しみにしていた住職は旅行に出て不在だった。
番僧が二、三人玄関で乃木少将を迎えて、声をかけ挨拶した。乃木少将は丁寧に敬礼して、「かねて申し入れておいた通り、今晩はお世話になります」と言いながら、番僧の容子をじっと見つめた。
住職がいないということに乃木少将は失望していた。大広間に入ると、金屏風を立てまわして、毛氈を敷いて、大きな座布団が二枚並べてあった。乃木少将たちを迎えるための特別な支度だということが分かった。
乃木少将は「石田ッ、少し様子が変だぞ」と言った。石田副官が「左様ですか」と答えると、乃木少将は「君は何と言うて申し込んだのじゃ」と聞いた。
石田副官が「閣下の仰せの通り信者並みにしてくれ、と申しておきました」と答えると、乃木少将は「しかし、これは信者並みではないぞ」と言い、「困った事を、やる人達じゃ」とつぶやいた。
両人が立っているのを見て、番僧たちは、変な顔をしながら、「さあ、どうぞ、これへ」と座布団を指差した。
乃木少将は、「それは、御手数であった」と言った。
すると書記は「それが、旅館では御座いませんので、充分にお世話申し上げる事も、なりますまいが、とにかく、屈指の富豪で御座いまして、財産の上では、かなりの家で御座います。同家に依頼しましたら、半十郎も大喜びで、外ならぬ閣下の御泊りを願える事は、家の名誉である、と申しまして座敷の掃除をするなど、大騒ぎをやっている位で、安心致しまして、早速、その旨を申し上げに参りましたので御座います」と言った。
乃木少将は「ははア、旅館ではないのか」と言った。大森書記が「ハイ、土地の富豪で、財産の点においては、とにかく、気賀の……」と言いかけた。
すると、乃木将軍は「まア、ちょっと、待ってくれ」と、今度は石田副官の顔を見て、「わしは、悪い事をした。気賀という所には古い知人の居ることを忘れていた。今、書記さんの話でようやく思い出したから、今度は、その知人の家へ泊まることにしよう」と言った。
石田副官は「そうなさいますか」と乃木少将に聞いた。乃木少将が「うむ、そうする」と答えたので、石田副官は「君が聞いていた通りだから、せっかくのご尽力であったが、その方はお断りしたい」と大森書記に言った。
大森書記は「へへー」と、なんだか変な様子なので、気抜けした人のようになってポカンとしていた。乃木少将は「いずれ、明日着いてから、その人へは、わしから挨拶することにしよう。郡長さんへよろしく言ってくれ」と言った。大森書記はほうほうのていで帰って行った。
乃木少将は「石田、今の話を、何と聞いた。わしは金を借りに行くのじゃない。財産家がどうしたというのか。実に怪しからぬ事を、聞かせる。自分の泊まる家を、人に捜させるようなことをすると、こういう恥を与えられるのじゃ」と言った。
書記が何回も財産家ということを繰り返していたので、乃木少将は不快に感じたのだった。そして次のように言った。
「近頃は、地方の財産家に泊まることを無上の名誉の如く、心得ている不都合の者が大分増えてきたそうじゃ。それというのも、畢竟は、桂のような奴が増長しているからじゃ」。畢竟(ひっきょう)は、「つまるところ、結局」の意味で、桂は、当時の名古屋の第三師団長・桂太郎中将のことである。
翌朝、石田副官は「奥山の半僧坊にお泊りになってはいかがでしょう。気賀よりは、さらに奥へ三、四里ありますが、俥(人力車)は通じますから」と乃木少将に言った。
乃木少将は「奥山の半僧坊といえば、全国へ響いている。わしは、元来が、寺院が好きなのじゃから、それへ泊まれるようになれば、この上もないことじゃ」と了承した。
そのあと、乃木少将は「しかし、先方へ使いを出すときに、信者並みの取り扱いで頼む、ということを、はっきり申し込んでおいてくれ」と石田副官に言った。石田副官は「ハイ、然るべく念を入れておきます」と答えた。
乃木少将、石田副官の両人は俥で気賀(現在の浜松市北区)に入った。船着場のある気賀の町は相当に繁盛していて、周辺では屈指の町だった。郡役所で用務を果たした後、気賀半十郎の家には石田副官が出かけて、丁寧に挨拶をした。
郡長が道案内をする、というのを、固く断って、両人は半僧坊へ向った。山門前で、俥を降りた両人は、急勾配の坂道を登り、宿坊の大玄関に着いた。乃木少将が楽しみにしていた住職は旅行に出て不在だった。
番僧が二、三人玄関で乃木少将を迎えて、声をかけ挨拶した。乃木少将は丁寧に敬礼して、「かねて申し入れておいた通り、今晩はお世話になります」と言いながら、番僧の容子をじっと見つめた。
住職がいないということに乃木少将は失望していた。大広間に入ると、金屏風を立てまわして、毛氈を敷いて、大きな座布団が二枚並べてあった。乃木少将たちを迎えるための特別な支度だということが分かった。
乃木少将は「石田ッ、少し様子が変だぞ」と言った。石田副官が「左様ですか」と答えると、乃木少将は「君は何と言うて申し込んだのじゃ」と聞いた。
石田副官が「閣下の仰せの通り信者並みにしてくれ、と申しておきました」と答えると、乃木少将は「しかし、これは信者並みではないぞ」と言い、「困った事を、やる人達じゃ」とつぶやいた。
両人が立っているのを見て、番僧たちは、変な顔をしながら、「さあ、どうぞ、これへ」と座布団を指差した。