陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

440.乃木希典陸軍大将(20)それというのも、畢竟は、桂のような奴が増長しているからじゃ

2014年08月29日 | 乃木希典陸軍大将
 大森書記は「どういたしまして、まことに不行き届きで、恐れ入ります。実は閣下を御泊め申すような相当な旅館がありませんので、恐れ入った次第では御座いますが、気賀半十郎と申しますものの家で、ご辛抱を願いたいのであります」と答えた。

 乃木少将は、「それは、御手数であった」と言った。

 すると書記は「それが、旅館では御座いませんので、充分にお世話申し上げる事も、なりますまいが、とにかく、屈指の富豪で御座いまして、財産の上では、かなりの家で御座います。同家に依頼しましたら、半十郎も大喜びで、外ならぬ閣下の御泊りを願える事は、家の名誉である、と申しまして座敷の掃除をするなど、大騒ぎをやっている位で、安心致しまして、早速、その旨を申し上げに参りましたので御座います」と言った。

 乃木少将は「ははア、旅館ではないのか」と言った。大森書記が「ハイ、土地の富豪で、財産の点においては、とにかく、気賀の……」と言いかけた。

 すると、乃木将軍は「まア、ちょっと、待ってくれ」と、今度は石田副官の顔を見て、「わしは、悪い事をした。気賀という所には古い知人の居ることを忘れていた。今、書記さんの話でようやく思い出したから、今度は、その知人の家へ泊まることにしよう」と言った。

 石田副官は「そうなさいますか」と乃木少将に聞いた。乃木少将が「うむ、そうする」と答えたので、石田副官は「君が聞いていた通りだから、せっかくのご尽力であったが、その方はお断りしたい」と大森書記に言った。

 大森書記は「へへー」と、なんだか変な様子なので、気抜けした人のようになってポカンとしていた。乃木少将は「いずれ、明日着いてから、その人へは、わしから挨拶することにしよう。郡長さんへよろしく言ってくれ」と言った。大森書記はほうほうのていで帰って行った。

 乃木少将は「石田、今の話を、何と聞いた。わしは金を借りに行くのじゃない。財産家がどうしたというのか。実に怪しからぬ事を、聞かせる。自分の泊まる家を、人に捜させるようなことをすると、こういう恥を与えられるのじゃ」と言った。

 書記が何回も財産家ということを繰り返していたので、乃木少将は不快に感じたのだった。そして次のように言った。

 「近頃は、地方の財産家に泊まることを無上の名誉の如く、心得ている不都合の者が大分増えてきたそうじゃ。それというのも、畢竟は、桂のような奴が増長しているからじゃ」。畢竟(ひっきょう)は、「つまるところ、結局」の意味で、桂は、当時の名古屋の第三師団長・桂太郎中将のことである。

 翌朝、石田副官は「奥山の半僧坊にお泊りになってはいかがでしょう。気賀よりは、さらに奥へ三、四里ありますが、俥(人力車)は通じますから」と乃木少将に言った。

 乃木少将は「奥山の半僧坊といえば、全国へ響いている。わしは、元来が、寺院が好きなのじゃから、それへ泊まれるようになれば、この上もないことじゃ」と了承した。

 そのあと、乃木少将は「しかし、先方へ使いを出すときに、信者並みの取り扱いで頼む、ということを、はっきり申し込んでおいてくれ」と石田副官に言った。石田副官は「ハイ、然るべく念を入れておきます」と答えた。

 乃木少将、石田副官の両人は俥で気賀(現在の浜松市北区)に入った。船着場のある気賀の町は相当に繁盛していて、周辺では屈指の町だった。郡役所で用務を果たした後、気賀半十郎の家には石田副官が出かけて、丁寧に挨拶をした。

 郡長が道案内をする、というのを、固く断って、両人は半僧坊へ向った。山門前で、俥を降りた両人は、急勾配の坂道を登り、宿坊の大玄関に着いた。乃木少将が楽しみにしていた住職は旅行に出て不在だった。

 番僧が二、三人玄関で乃木少将を迎えて、声をかけ挨拶した。乃木少将は丁寧に敬礼して、「かねて申し入れておいた通り、今晩はお世話になります」と言いながら、番僧の容子をじっと見つめた。

 住職がいないということに乃木少将は失望していた。大広間に入ると、金屏風を立てまわして、毛氈を敷いて、大きな座布団が二枚並べてあった。乃木少将たちを迎えるための特別な支度だということが分かった。

 乃木少将は「石田ッ、少し様子が変だぞ」と言った。石田副官が「左様ですか」と答えると、乃木少将は「君は何と言うて申し込んだのじゃ」と聞いた。

 石田副官が「閣下の仰せの通り信者並みにしてくれ、と申しておきました」と答えると、乃木少将は「しかし、これは信者並みではないぞ」と言い、「困った事を、やる人達じゃ」とつぶやいた。

 両人が立っているのを見て、番僧たちは、変な顔をしながら、「さあ、どうぞ、これへ」と座布団を指差した。

439.乃木希典陸軍大将(19)自分の泊まる家を他人に捜してもらうなぞ、わしは大嫌いじゃ

2014年08月22日 | 乃木希典陸軍大将
 明治十八年五月、乃木(三十七歳)と桂(三十八歳)は同時に陸軍少将に昇進しているが、昇進後、乃木は旅団長、ドイツ留学、その後再び旅団長だが、桂は陸軍省総務局長、陸軍次官、第三師団長と栄進している。

 中将昇進は、乃木は明治二十八年四月で、四十七歳のとき、桂は明治二十三年六月で、四十三歳で、乃木より五年も早く中将になっている。

 前述したが、明治二十四年六月、桂太郎中将は名古屋の第三師団長となり、名古屋の第五旅団長・乃木希典少将を配下に置き指揮する立場になった。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、乃木少将は桂中将が大嫌いで、桂中将も乃木少将を煙たがっていた。

 同じ長州人でも、その気質によって交情の良いものもあれば、悪いものもある。乃木少将は生一本に昔の武士道をそのまま襲う(受け継いで)てきた。だが、桂中将は時代の推移りに従って、上手に潜ってきた。

 明治陸軍の頂点は山縣有朋であるが、乃木少将は山縣に睨まれるほどではないが、あまり好かれてはいなかった。

 だが、桂中将は利口な人で、何事も山縣の気に合うように持ち掛けるので、山縣にいつも可愛がられていた。だから昇進も早かった。

 このように、桂中将と乃木少将は、立場も性格も信条も異なっていた。だから名古屋の師団長と旅団長は折り合いが悪かった。

 例えば、乃木少将が、名古屋城の天守閣の窓に、師団長の許可を得ずにガラス障子を入れたというような、些細な事で、乃木旅団長は桂師団長から譴責処分を受けた。

 ある日、徴兵管区の巡視を行うことになり、第五旅団長・乃木希典少将は石田清副官を伴って、浜松方面へ出かけた。乃木少将と石田副官は駅前の大米屋支店に来て、それから郡役所へ出かけた。

 徴兵の事務はすぐに終わり、大米屋支店へ帰って休息することにした。翌日は気賀(けが)へ行く予定だった。乃木少将は石田副官を相手に食事を済ませた。

 大米屋は、万事の設備が行き届いていて、評判の旅館だった。二階に庭があるというので、当時の人はそれだけでも、ひどく感心して、道中の人々は、この宿に泊まることを楽しみにしていた。乃木少将も今夜はこの宿に泊まった。

 さて、石田副官は、「明日の気賀は、評判の土地ですが、好い旅館がないので、郡長が非常に心配しまして、相当の家を見立てるつもりですが、充分には行き届かないので、予めお含み願いたいと申しておりますが、万事、郡長に一任しておきました」と述べた。

 乃木少将はこれを聞いて、「なぜ、そのようなことをする。泊まる家なぞ、どうでもよいじゃないか。いよいよ無いとなったら、毛布を被って草原へ寝ても、それまでの事じゃ。自分の泊まる家を他人に捜してもらうなぞ、わしは大嫌いじゃ」と、はなはだ不機嫌だった。

 石田副官は困って、「深い考えもなく、郡長に任せましたのは、小官が無念でございました。今度は注意いたしますから、この度だけは、お許し願います」と答えた。

 乃木少将は「頼んだ事は、もう取り返しがつかぬけれど、郡長なぞは、忙しい職務で、軍人の泊まる家を捜し回る暇はないはずじゃ。それを引き受けるのは、先方の礼儀で、我々へ好意を尽くしてくれるのであるから、すぐ辞退すべきものである。今頃は、そんなことで駆け歩いているのじゃろうが、まことに気の毒なものじゃ」と言った。

 しばらくすると、旅館の番頭がやって来て、「郡役所の書記で、大森と申すものが、お目にかかりたいと、控えておりますが、こちらへお通ししてもよろしゅうございますか」と言った。

 乃木少将は「それ見なさい。郡長だけでなく、書記までが夜中にかけ歩いて来る。気の毒な事じゃ」と言った。

 石田副官が、「書記には私が会ってまいりますから」と言うと、乃木少将は「イヤ、わしが会うことにする」と言った。

 案内されて乃木少将の前へ出ると、大森書記はもじもじしていて、容易に口が利けなかったので、「わしが、乃木じゃ」と乃木少将は言った。

 「へー」と大森書記は答えた。乃木少将は「いろいろと厄介をかけて相すまぬ。こういうことを頼むはずではなかったのじゃが、さぞ御迷惑であったろう」と言った。

438.乃木希典陸軍大将(18)乃木少将と桂中将は同じ長州出身でありながら犬猿の仲だった

2014年08月15日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木希典はドイツ留学後、論文を当時の陸軍大臣・大山巌中将に提出している。論文の一部によれば、ドイツ陸軍軍人にあっては、軍人はその制服の名誉を重んじ、常に制服を着用することによって、その挙措動作や礼節も軍紀から逸脱することがない。すべて制服着用が根源になっている、という。

 乃木少将はドイツ留学以後、日常軍服を着用し、帰宅しても脱がず、寝るときも、(乃木式といわれ、死に至るまで人を驚愕せしめたことだが)寝巻きを用いず、軍服のままで寝た。

 明治二十二年三月、一緒にドイツに行った川上少将操六少将が参謀次長になり、乃木希典少将は近衛歩兵第二旅団長になった。

 その後、明治二十三年七月乃木少将は名古屋の歩兵第五旅団長に転出された。この転任は常識的に見て左遷だった。

 ドイツ留学前の乃木少将は酒飲みで付き合いのいい、話せる男だった。だが帰国後性格が一変して、極めて話せない男になった。さらに、上司にもお上手が言えず、政治的には全く腕がなかったのだ。

 当時の陸軍大臣は大山巌(おおやま・いわお)大将(薩摩=鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い・会津戦争・薩摩藩二番砲兵隊長・ジュネーヴ留学・陸軍卿・西南戦争で親戚筋の西郷隆盛と戦う・陸軍大将・陸軍大臣・日清戦争では第二軍司令官・元帥・日露戦争では満州軍総司令官・陸軍大臣・内大臣・死去・従一位・大勲位・功一級・公爵)だった。

 また、陸軍次官は桂太郎(かつらたろう)中将(長州=山口・戊辰戦争・第二大隊司令・ドイツ留学・陸軍大尉・ドイツ駐在武官・日清戦争に第三師団長として出征・台湾総督・陸軍大臣・総理大臣・日露戦争・総理大臣(第二次組閣)・総理大臣(第三次組閣)・死去・従一位・大勲位菊花章頸飾・功三級・公爵)だった。

 乃木少将が名古屋の第五旅団長に就任したときの上官である第三師団長は、黒川通軌(くろかわ・みちのり)中将(伊予小松藩=愛媛・陸軍省六等出仕・陸軍裁判所長・軍馬局長・西南戦争に別働第四旅団長代理として出征・陸軍少将・広島鎮台司令官・中部監軍部長・中将・第三師団長・第四師団長・東宮武官長・予備役・男爵)だった。

 明治二十四年六月一日、黒川通軌師団長が第四師団長に転出し、陸軍次官の桂太郎中将が第三師団長に就任し、乃木第五旅団長の上司となった。

 乃木少将と桂中将は同じ長州出身でありながら犬猿の仲だった。乃木少将は桂中将が大嫌いで、とにかく折り合いが悪かった。年齢は桂中将が一歳年上だった。

 桂中将は弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれで、長州藩士・桂興一右衛門の長男。桂家は一二五石の上士で、いわば上級武士だった。母の実家も一八〇石で、裕福だった。
 
 一方、乃木少将は嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)生まれで、父の長州藩士・乃木希次の三男。乃木家は八〇石だった。

 ちなみに、高杉晋作の実家は長州藩士の名門で二〇〇石だった。吉田松陰の父・杉百合之助は石高二六石の下級の長州藩士、叔父・玉木文之進は四〇石取りの代官だった。伊藤博文の父は周防国束荷村(現・光市)の百姓だった。大村益次郎の父は医師。そして、明治陸軍を牛耳った山縣有朋の父は足軽以下の中間だった。

 桂太郎の第三師団長までの軍歴を見ると、明治三年(二十三歳)八月ドイツ留学。明治七年(二十七歳)六月陸軍歩兵大尉。明治八年(二十八歳)三月ドイツ駐在武官(少佐)。明治十二年(三十二歳)参謀本部管西局長(中佐)。明治十五年(三十五歳)大佐。明治十七年(三十七歳)参謀本部部員。明治十八年(三十八歳)五月少将、陸軍省総務局長。明治十九年(三十九歳)三月陸軍次官、明治二十三年(四十三歳)六月中将。明治二十四年(四十四歳)六月第三師団長となっている。

 乃木希典の第五旅団長までの軍歴は、明治四年(二十三歳)十一月陸軍少佐。明治八年(二十七歳)十二月熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得(小倉)。明治十年(二十九歳)西南戦争出征、四月陸軍中佐。明治十一年(三十歳)一月歩兵第一連隊長。明治十三年(三十二歳)四月歩兵大佐。明治十六年(三十五歳)二月東京鎮台参謀長。明治十八年(三十七歳)五月陸軍少将、歩兵第一一旅団長(熊本)。明治十九年(三十八歳)十一月ドイツ留学。明治二十二年(四十一歳)近衛歩兵第二旅団長。明治二十三年(四十二歳)七月歩兵第五旅団長。

 乃木は明治四年に少佐、明治十年に中佐になっているが、桂は明治七年に大尉、明治八年に少佐、明治十二年に中佐になっている。その後、乃木は明治十三年に大佐。桂は明治十五年に大佐になっている。

437.乃木希典陸軍大将(17)乃木少将の性行、容儀、嗜好、日常習慣といったものを全て一変させた

2014年08月08日 | 乃木希典陸軍大将
 「川上さんは愛嬌がいい。我々に分け隔てをせぬ」と褒める者がると、一方には「乃木さんの無愛嬌はどうだ、いつも苦虫を潰したような顔をして傲慢らしく構えてばかりいる」と貶す者がある。船中の日本人の間では、両少将の毀誉褒貶(きよほうへん=ほめたり、悪口をいったりすること)で持ちきった。

 汽船はシンガポールに入港し、次の寄港地、錫蘭(セイロン)目指して出港した。この汽船には体格の大きなドイツ人が二人いた。二人は長く日本にいて日本語も巧かった。

 この二人のドイツ人は日本の青年士官や書生に向って「どうだ、日本相撲を取らぬか。いつでも相手になるぞ」と、毎日のようにからかいに来た。

 この体格の大きなドイツ人に勝てる見込みはないので、恥をかいてはいけないと、誰一人相手になろうとする者がいなかった。

 二人のドイツ人は、それをよいことにして「あなた方、相撲取るよろしい、私負けません」と、無理やり引っ張り出そうとするので、日本の青年連中は閉口していた。

 こんなことが五日間続いた。その六日目に、乃木少将が聞きかねて、伊地知通訳を呼んで「ドイツ人はうるさくていけない。私が取るから、そう言って来い。若い連中がいながら、何故相手にならんのか」と言って、ドイツ人のところへ通訳を行かせた。

 伊地知通訳からこの事を聞いたドイツ人二人は大得意で、「日本人相撲弱い。私勝ちます」と、真っ先に甲板に踊り出た。

 乃木少将はシャツ一枚になって現れた。乗客から船員までことごとく甲板上に集まって、この面白い晴れの勝負を見物した。

 乃木少将は中肉で少しやせていた。それに比べて、ドイツ人は山のような大男だったので、日本人は皆手に汗を握った。「乃木さんつまらん事を言い出して、恥をおかきなさるような事はあるまいか」と危ぶみ思った。

 ドイツ人は傲然として、「さあ来い」と言わぬばかりに立ち上がった。乃木少将もそれに応じて立ち上がった。しばらく揉みあううちに、乃木少将はドイツ人を否というほど投げつけた。日本人は言うに及ばず、外国人までがヤンヤと拍手した。

 もう一人のドイツ人もシャツ一枚で飛びかかった。乃木少将はこれも見事に投げつけた。山のような大男も鉄を圧することはできなかった。身体は小さくても乃木少将は鉄だった。満身皆膽(きも=気力)だった。

 それ以後、乃木少将は船中の花形になった。日本人と聞いて軽蔑していた外国人まで急に敬意を払うようになった。横柄だの無愛想だのと陰口を言っていた者まで国威を輝かすのは乃木少将に限ると言って、畏服した。

 「乃木希典」(松下芳男・吉川弘文館)によると、ドイツに到着した、乃木少将、川上少将の二人は、軍事の研究に没頭し、ドイツの兵制と兵学の吸収に努めた。

 在ドイツ一年半、乃木少将は明治二十一年六月十五日に帰国した。四十歳だった。帰国後、乃木少将は心機一転、生まれ変わったような厳格な人間、それは後に乃木将軍として世間に知られているような謹厳にして、一事も疎かにしないといった厳格な人間、精神家に大きく傾斜した。

 乃木少将の性行、容儀、嗜好、日常習慣、といったものを全て一変させた。倫理性が一変したのだ。乃木少将は別人になって帰国したといっていい。

 この心機一転の心境について、推察すると、乃木は今までひたすら死所を求めていたが、すでに死所を失った今日、陸軍のために尽くすことが、君国に報いる道であると考え直したからであろう。

 後に、乃木希典将軍殉死後、同じ長州軍閥の田中義一陸軍大将は、昭和三年四月九日付の東京朝日新聞に、このドイツ留学後の乃木将軍の変わり方について次のように述べている。

 「乃木将軍は若い時代は陸軍きってのハイカラであった。着物でも紬の揃いで、角帯を締め、ゾロリとした風で、あれでも軍人か、と言われたものだ。ところが独逸留学から帰ってきた将軍は、友人が心配したとは反対に恐ろしく蛮カラになって、着物も愛玩の煙草入れも、みな人にくれてしまって、内でも外でも軍服を押し通すという変わり方である。それがあまりひどいのでその理由をきくと、「感ずるところあり」と言うのみでどうしても言わなかった。いまも知人仲間の謎になっている」。

436.乃木希典陸軍大将(16)客の青年士官たちは呆れて顔を見合わせるばかりだった

2014年08月01日 | 乃木希典陸軍大将
 それが若い乱暴な士官には喜ばれるはずはなかった。「今度の旅団長はケチケチ言っていけない」「なんだか横柄な面構えをしている」「あんな長官を戴いていちゃ幅が利かない」「一度困らしてやろうじゃないか」などなど、相談している向きもあった。

 そのような事を聞いた乃木将軍は大いに考えた。赴任後三か月たったある日、乃木少将は部下の大隊長、中隊長、小隊長等を招いて披露宴を開いた。

 それを聞いた青年士官等は「どうせ乃木さんの御馳走だ、美味い物のありそうなはずはない。例の塩鰯かなんかで冷酒を飲ますのだろう。今日こそウンと困らせてやろう」と申し合わせて出かけた。

 青年士官たちが乃木宅へ押しかけ、座敷に通されると、一間に長い大テーブルが一脚あって、その上に一升徳利が四、五本置いてあるだけだった。座布団さえもなかった。

 御馳走は何も無くて、人数だけの盃が載せてあった。招かれた青年士官たちは「さてこそ」と言わぬばかりにテーブルを囲んで座った。

 しばらくすると、乃木少将が軍服のまま出て来て、「今日は無礼講じゃ。大いに飲もう」と真面目に言って、テーブルの上にのし上った。その弾みに、佩剣がガチャリと鳴った。

 「ああ、酌をしよう」と徳利を取り上げて、乃木少将はテーブルの上から酌をした。さすがの青年士官たちも呆気に取られて、引き受けては飲み、また引き受けては飲んだ。

 乃木少将はテーブルの上を斡旋して、自分も満を引き(満杯の酒を飲み)、しまいには吟声や剣舞もやった。客の青年士官たちは呆れて顔を見合わせるばかりだった。

 しばらくすると、乃木少将はテーブルを降りた。「どうもこれでは面白くない。別間で飲み直そう。諸君こちらへおいでなさい」と前に立って襖を開けた。

 すると、次の間には、山海の珍味も山の如く積まれていた。「どうも今までは失礼した。これからくつろいで十分にやってくれたまえ」と、座布団の上へ招いて、ニコニコ笑いながら酌をした。

 招かれた青年士官たちは初めて乃木少将の意を知った。「今日こそウンと困らせてやろう」と相談した当てが外れ、「どうも狡いことをするよ」くらいで黙ってしまった。

 これを手始めにして、乃木少将は今までのやり方をすっかり変えてしまった。夜更けに連隊長や大中隊長の宅を叩いて、「おい飲ませろ」と促して歩いたり、中には自宅へ如何わしい女などを引き入れる者もいたが、何時旅団長が来るかも知れないと、謹慎するようになった。

 明治十九年十一月三十日、乃木少将は欧州派遣、ドイツ留学を命ぜられた。当時陸軍省は多くの外国人教師を雇っていたが、これら外国人には立派な邸宅を与えねばならず、高価な給料に加え相当な手当を要する場合が多かった。

 それで、いっそ外国人教師を解雇し、その費用で有為の将校を外国へ留学させることになった。文部省も賛成した。

 その最初の派遣生に、乃木少将と川上操六(かわかみ・そうろく)少将(鹿児島・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・陸軍中尉・近衛歩兵第三大隊長・参謀・少佐・西南戦争に歩兵第二連隊長心得で出征・中佐・歩兵第一三連隊長・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第一連隊長・欧米視察・少将・参謀本部次長・近衛歩兵第二旅団長・ドイツ留学・参謀次長・中将・参謀本部次長・陸軍上席参謀兼兵站総監・日清戦争・征清総督府参謀長・参謀総長・大将・死去・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級・子爵)が選ばれた。

 欧州への汽船には乃木少将、川上少将、通訳の大尉、主計官ら軍人以外にも官僚や、民間会社の重役、学者、若い通訳や医学生など種種雑多の人々が乗船しており、船中は大賑わいだった。

 川上少将は如才のない交際上手で、その上磊落な気性だったので、士官や書生が船に酔って船室の片隅でウンウンと唸っている側へ行って、「どうだ、苦しいか、苦しくても食事をしなければいけない。軟らかいものでも食って元気を付けろ」と親切にする。

 ところが、乃木少将はちっとも情けらしい言葉はかけなかった。はた目には、傲慢そうに見える身体を船室に横たえて「これくらいの暴風雨が何だ。こんな波に負けて食事のできないような者が、いざ国家の大事となった時何の役に立つ。良い修業だ、苦しめ、苦しめ、船酔いで死ぬ者は決してない」と豪語する。どんなに苦しむ者がいても、慰問らしいことは言わなかった。

 そのために、川上少将は船中の人望が大変よかったが、乃木少将はひどく評判が悪かった。「川上さんは親切だね」と言う者があると、次には「乃木さんは不親切極まる」と小言を言った。

435.乃木希典陸軍大将(15)児玉中佐は、「乃木はいくさが下手だ」と、大笑いした

2014年07月25日 | 乃木希典陸軍大将
明治十三年四月、第一連隊長・乃木希典中佐は歩兵大佐に昇進した。三十二歳だった。

同時に、二十八歳の児玉源太郎少佐が歩兵中佐に昇進し、東京鎮台歩兵第二連隊長(下総佐倉)を命ぜられた。

「殉死」(司馬遼太郎・文春文庫)によると、児玉源太郎は長州毛利家の分家である徳山毛利藩の旧藩士であり、乃木希典と同じ長州人だったが、藩閥の恩恵をあまり受けなかった。

児玉は戊辰の役で秋田、函館で転戦し、東京に帰りフランス式の教練を受けた。そのあと、正式に陸軍の辞令を受けたが、乃木が少佐だったのに比べて、児玉は下士官の最下級の伍長に任命された。

だが児玉は頑張り、伍長から四年後には曹長になった。そして、乃木が少佐になった明治四年八月に、児玉はやっと陸軍少尉に任官した。

だが、その後、児玉は、その偉大な才幹を認められ、少尉になって一か月後の明治四年九月に中尉、明治五年七月に大尉、明治七年十月には少佐に昇進した。

この稀代の戦術家と言われた児玉源太郎は、明治十年の西南の役では熊本鎮台の参謀として、作戦のほとんどを立案している。性格は快活で機敏、しかも二六時中しゃべり続けている饒舌家だった。

児玉は、背は五尺(約一五二センチ)ほどしかなく、真夏に裸で縁台に涼んでいる姿は、どうみても俥引き程度にしか見えなかったという。その後、明治十六年二月には、三十一歳で歩兵大佐に昇進している。

明治十三年四月児玉源太郎が第二連隊長になってから、東京鎮台の第一連隊と第二連隊の対抗演習が習志野で行われた。第一連隊長は乃木大佐、第二連隊長は児玉中佐だった。

ドイツ帝国のモルトケ参謀総長から派遣されたメッケル少佐が、明治十八年に、日本帝国の陸軍大学校の兵学教官として着任し、ドイツ式軍制を日本陸軍に制定した。

それ以前は、日本陸軍の軍制・戦術はフランス式だった。フランス式戦術はナポレオン戦術で、ナポレオンの十八番である中央突破を特に重視した戦術だった。

東京鎮台の第一連隊と第二連隊の対抗演習が始まると、第二連隊長・児玉源太郎中佐は、乃木希典大佐の指揮する第一連隊の展開の様子から見て、両翼攻撃の意図があるのを察知した。

そこで児玉大佐は第二連隊を軽快に運動させて、隊形を縦隊に変え、縦隊のまま、今まさに両手を広げたように展開を完了した第一連隊の中央に突進し、突破して分断し、その後包囲して、勝利した。

馬を進めつつ、首筋の蚊をたたきながら、児玉中佐は、「乃木はいくさが下手だ」と、大笑いした。確かに乃木の戦歴は、演習も含めて勝利が少なかったという。

当時軍人の間では、その乃木と児玉の対抗演習が話題になり、それで、「気転利かしたあの乃狐を、六分の小玉にしてやられ」という都々逸までできた。

気転は「希典」で乃木の名前、乃狐(野ギツネ)は「乃木」のことで、六分は一寸に満たない、つまり「小さな」。小玉は「児玉」のことだった。

だが、その中央突破というナポレオン戦術も、ドイツ人のメッケル少佐が陸軍大学校の兵学教官に着任後変更され、日本陸軍の戦術は、突破よりも、包囲を重視する傾向に変わった。

以後太平洋戦争の終わりまで、包囲重視は日本陸軍の作戦の根底にあった。日本陸軍の指導者は、ほとんど陸軍大学校卒業者だった。

明治十八年五月二十一日、乃木希典大佐は少将に昇進し、即日、歩兵第十一旅団長に任ぜられ、同時に熊本鎮台司令官となった。

「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、乃木少将が熊本へ赴任する時、母親の寿子、静子夫人、勝典、保典ら子供たちも同伴した。

当時、軍人間には、大酒でも飲んで秩序のない遊びをする様でなくては軍人ではない、というような乱暴な風儀があり、熊本にはそれが大いにあった。

乃木少将が赴任早々にも、「旅団長一杯飲ませて下さい」などと深夜にやって来る青年士官もおり、家族の困却も一通りではなかった。

どうにかしてその悪風を矯正したいと思った乃木少将は、まず自分から好きな酒もあまり飲まないようにして、ちょっとした間違いも容赦なくやかましく言うという態度で部下に臨んだ。

434.乃木希典陸軍大将(14)こういう事は早く披露しておくほうが良い。おいどんから吹いてやる

2014年07月18日 | 乃木希典陸軍大将
 麹町紀尾井町七番地に伊瀬知大尉の新宅はできていた。新宅披露の来賓には次の人々が招待されて出席したが、彼らは当時の絢爛たる明治の将星たちであった。

 主席の東京鎮台司令長官・野津鎮雄(のづ・しずお)陸軍少将(鹿児島・薩英戦争出征・戊辰戦争出征・陸軍大佐・少将・陸軍省第四局長・佐賀の乱出征・熊本鎮台司令長官代理・陸軍築造局長・東京鎮台司令長官・西南戦争出征・第一旅団司令長官・中将・中部監軍部長・死去・正三位・勲二等)。

 野津鎮雄少将の弟、野津道貫(のづ・みちつら)陸軍大佐(鹿児島・戊辰戦争出征・鳥羽伏見の戦い出征・会津戦争出征・函館戦争出征・陸軍少佐・中佐・陸軍省第二局副長・大佐・西南戦争出征・少将・陸軍省第二局長・東京鎮台司令長官・子爵・中将・広島鎮台司令長官・第五師団長・日清戦争出征・第一軍司令官・大将・伯爵・近衛師団長・東部都督・教育総監・第四軍司令官・日露戦争出征・元帥・侯爵・貴族院議員・大勲位菊花大綬章・正二位・功一級)。

 海軍卿・川村純義(かわむら・すみよし)海軍中将(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争出征・会津戦争出征・海軍大輔・海軍中将・西南戦争出征・海軍総司令官・海軍卿・枢密院顧問・死後海軍大将・従一位・勲一等・伯爵)。

 近衛参謀長・樺山資紀陸軍大佐(鹿児島・鳥羽伏見の戦い出征・陸軍少佐・台湾事変出征・中佐・熊本鎮台参謀長・西南戦争出征・陸軍大佐・近衛参謀長・警視総監・陸軍少将・海軍に転じ海軍大輔・海軍次官・海軍大臣・枢密顧問官・海軍軍令部長・日清戦争出征・海軍大将・伯爵・初代台湾総督・内務大臣・文部大臣・従一位・大勲位・功二級)。

 
 参議・西郷従道(さいごう・よりみち)陸軍中将(鹿児島・西郷隆盛の弟・戊辰戦争出征・太政官・陸軍少将・中将・陸軍卿代行・近衛都督・参議・陸軍卿・農商務卿・開拓使長官・伯爵・海軍大臣・内務大臣・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・従一位・大勲位・功二級)。

 
 伊瀬知大尉の新宅披露の来賓には、その外薩摩の多数の軍将たちも招かれていた。乃木中佐も、その一人として列席したのだ。奥には、湯地定基の妻とお七が来ていた。

 宴席が始まり、盃が一巡した時分に、伊瀬知大尉は主席の野津鎮雄陸軍少将の前に出て、挨拶の言葉を述べた後、「乃木中佐に、妻の世話を致しました」と話し、「特に見合いと言うと、乃木中佐が嫌いますので、今日の宴会を利用したのであります」と、言った。

 野津少将は「おいどん等は、それに立ち会った訳じゃな、ハッハハハハ」と笑った。そこで、伊瀬知大尉は「長州人ではありますが、彼は全くの別物で、特に将来のある軍将でありますから、閣下にこの媒酌を願いたいのですが、どうでありましょうか」と尋ねた。

 すると、野津少将は「よし、それはおいどんが引き受けた」と言って肯いた。伊瀬知大尉が「詳細の事は、明日申し上げるとして、陛下へのお願いも、閣下からよろしく御手続きを願います」と言うと、「よし。わかった。だが、今、ここで披露しておけ」と言った。

 「まだ、早いのでは」と伊瀬知大尉が言うと、「こういう事は早く披露しておくほうが良い。おいどんから吹いてやる」と言って気の早い野津少将は、立ち上がって、「オイ」と一同に声をかけた。列席者は、皆何事かと、箸を置いて、急に静かになった。

 
 野津少将は「今日は、伊瀬知の新宅祝いじゃが、それに加えて、もう一つめでたい事があるから、それを披露する。乃木中佐が、国元の湯地の娘を貰う事になったのじゃ。その媒酌はおいどんがする。お七ッつあんが、乃木中佐の妻になるのじゃから、実にめでたいことじゃ。前祝のしるしに、胴上げでもしてやれ」と言った。


 そこで、一同は乃木中佐を抑え込んだ。逃げ遅れた乃木中佐は、担ぎ上げられて、二、三度、畳に叩き付けられた。「見合いというものは、痛い」と乃木中佐は言った。

 こうして、明治十一年八月二十七日、芝櫻川町の乃木家で、結婚式が極めて質素に行われた。三々九度の式が済むと、宴席になった。

 乃木中佐は列席者たちと盛んに飲み、酔ったあげくに、とうとう相撲を取り始めた。夜も更けて、相撲を取った乃木中佐も、列席者も、そのまま寝込んでしまった。

 さすがに、お七も、これには、驚いた。新婚の第一夜が、このありさまであった。普通の娘なら、泣き出してしまっただろう。

 だが、男勝りの、お七は、負けぬ気を出して、着物を改め、金盥に水を汲んで来て、水にし浸した手拭いで、乃木中佐と友人の頭を冷やして回り、介抱した。

 翌朝、目覚めた客たちは、さすがに面目の悪いような様子で、すぐに帰ってしまった。乃木中佐も、起きて、周りを見回していたが、お七を見てしまった。

 お七が「お目覚めで御座いますか」と言うと、乃木中佐は「やあ、失敗した」と言った。お七は、顔が赤くなった。すると、乃木中佐は「これから連隊に行く」と言った。

 お七が「まだ、お早いでございましょう」と言いうと、「イヤ、早くてもよろしい」と言って、乃木中佐は、ずんずんと、家を出て行ってしまった。

433.乃木希典陸軍大将(13)まことにつまらぬものじゃ。ああいう事で、人間の生涯は極めたくはない

2014年07月11日 | 乃木希典陸軍大将
 鹿児島の城下に、医者を本業にしていて、儒学を教えていた、湯地定之という者がいた。長男の湯地定基は後に元老院議官から貴族院議員になっている。次男の定廉は海軍大尉で早死にしたが、三男の定監は海軍機関中将から貴族院議員になった。

 湯地定之には、娘も四人いて、四人目の娘が名を志知といい、お七と呼ばれていた。お七は安政六年十一月十七日生まれで、十四歳の時、東京へ移り、長男の湯地定基の家で女としての躾を厳しく受け、麹町女学校を卒業した。

 長男の湯地定基と伊瀬知大尉は、同国人という関係から、親しく交わって来た。伊瀬知大尉は、相談があるからといって、湯地定基を訪ねた。

 「お七さんに、この上もない相手があるのじゃが、相談に応じてくれまいか」と伊瀬知大尉が言うと、相手次第だし、生涯に関することだから、容易に定めることは出来ぬ。お七も嫁入る気があるかどうか、それを聞いてからにしたい」と湯地定基は答えた。

 さらに、湯地定基は「相手の名は聞かずともよいが、どういう身分の人か、というだけは、聞いておきたい」と問うたので、伊瀬知大尉は「陸軍中佐で、連隊長をしている人じゃ。年は三十一歳で、初婚だ」と答えた。

 「三十歳にもなって初婚というのはどういう理由か」と湯地定基が訊くと、「老母がいて、昔の武士気質の人で、普通の嫁を貰っても、容易に治まるまい、という懸念があって、いろいろ勧められても、今まで堪えていたので、遅れたのだ。その外に何の理由もない」と伊瀬知大尉は言った。

 「よく判りました。両三日のうちに、御返事を申し上げましょう」と湯地定基は言ってから、伊瀬知大尉に食事をすすめた。

 御馳走が出た。お七も杯盤(酒席の道具)の周旋(世話をする)をしていたが、その一挙一動が、テキパキとしていて、普通の女によく見る、やさし味には乏しいが、何となく淡泊としていて、気持ちが良い女性だった。

 三日後に湯地定基から来てくれとの手紙が届いたので、伊瀬知大尉は再び訪問した。湯地定基はお七に、「本人は良いようじゃが、母御というのが、余程むづかしい御方のように思われる。お前はどう思うか」と訊いた。

 すると、お七は「どうせ、お年寄りというのは、やかましいに極まっております。ほどよくお仕え申しましたら、左程のこともありますまい」と答えた。

 それで、湯地定基が伊瀬知大尉に、本人の身上について、聞いてみると、意外にも、「その本人というのは、乃木中佐である」と言うので、大いに喜んだ。

 次は、乃木中佐の方だった。伊瀬知大尉が、先方の家庭状況と、娘・志知(お七)の身上を話始めると、乃木中佐は「よく判った。それを定めてくれ」と言った。

 伊瀬知大尉が、あわてて、「まだ詳しいことは申し上げて御座いませぬ。年は…」と言いはじめると、乃木中佐は「もうよろしい。その上の事は聞かずとも、君がよい、と思ったら、それでよい。君を信じる」と言ったので、さすがに、伊瀬知大尉も驚いた。

 だが、伊瀬知大尉は、乃木中佐からこれほど信用されたなら、骨折りの甲斐があると思った。「それでは、お見合いの式を、どういう風にいたしますか。その点について…」と伊瀬知大尉がお見合いの段取りに入ると、乃木中佐は、「そんなことは、止めたらどうじゃ」と言った。

 伊瀬知大尉が驚いて、「見合いは止めるのですか?」と問い返すと、「俺も一度、友人のために、その式という者に立ち会って見たが、まことにつまらぬものじゃ。ああいう事で、人間の生涯は極めたくはない。虚礼のようなものじゃ」と言った。

 あわてて、伊瀬知大尉が「ごもっともでございますが、昔からの習慣ですから、やはり、一通りのことは、やっておくほうが良いと思います」と力説すると、乃木中佐は「君に任せるのじゃから、あえて反対はしないが、式をやるにしても、簡単にしてくれ」と答えた。

 見合いをどういう風にするか、伊瀬知大尉は悩んだ。乃木中佐は見合いを嫌っているので、都合のよい方法を考えなければならなかった。

 不意に思いついたのは、伊瀬知大尉の新宅が完成したので、郷里の先輩や親友を招いて、一夕の宴を張ることになっていたので、これを利用して、乃木中佐も招き、お七の方も呼んで、それとなく、見せ合えばよい、と考えた。

432.乃木希典陸軍大将(12)いやしくも、陸軍卿が、この位の事を知らないというのが、怪しからぬ

2014年07月04日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木中佐は、歩哨のなしたことは、適法の処置としてかえって賞賛した位だったから、陸軍省からどういうことを言ってきても、更に取り合わなかった。

 「陸軍卿と知らずして、これを咎めたことは、まず赦すとしても、すぐに陸軍卿であることを告げられてからも、なお頑強に拒んだのは、不穏当である。連隊長がこれに関して相當の警告を与えず、却って歩哨を賞賛した、というのは甚だ宜しくない」というのが、陸軍省の主張だった。

 これに対して乃木中佐は次のように述べた。

 「いやしくも、陸軍卿が、この位の事を知らないというのが、怪しからぬことである。いずれの衛門でも無断乗り入れはならぬ、となっているのだから、それを咎めたのは当然の処置であって、少しも差し支えない」

 「陸軍卿が馬車を降りて徒歩したのは、歩哨が命じたのではなく、陸軍卿が自ら行ったことであるから、それは問題にならぬ」

 だが陸軍省ではこれを問題にしただけに、そのままには済まされなかった。遂に乃木中佐に謹慎を命じた。乃木中佐は止むを得ずこの命令に服したが、心の不平は断ち切れなかった。

 謹慎中も乃木中佐は平気で外出したり、友人を迎えたりしてしきりに気を吐いていた。長州軍閥の一人であるべき立場にたっていながらも、反抗的気分をもつようになったのは、この件が一つの原因になった。元来負けぬ気の乃木中佐は、押し付けられて来られると、頭を下げることができなかった。

 明治十一年八月二十七日、第一連隊長・乃木希典中佐(三十歳)は鹿児島藩士・湯地定之の四女・シズ(静子・二十歳)と結婚した。静子は幼名を「お七」といい、東京の麹町女学校出身だった。

 三十歳まで独身でいた乃木中佐は、遂に母・壽子(ひさこ)から「どうじゃね、大概にして、妻を迎えなさい」と強く言われて、しぶしぶ、その気になった。

 母が「私が捜してもよい」と言うのを断って、「いえ、自分で捜します」と言って、妻を迎える決心をした。だが、乃木中佐は妻を選ぶことを深く考えてはいたのだ。

 乃木中佐は、連隊に出勤し、退勤の時間が来ると、連隊副官・伊瀬知好成(いせじ・こうせい)大尉(鹿児島・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第三連隊長・日清戦争・第一師団参謀長・少将・歩兵第一一旅団長・威海衛占領軍司令官・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・予備役・男爵・貴族院勅選議員・勲一等・功四級)を呼んだ。

 乃木中佐は、「外の事でも、一身上の事であるが、急に妻を迎えることになったのじゃ。これから捜すのじゃが、それを、君に頼みたいのじゃよ」と言った。

 伊瀬知大尉が「そういうことなら、小官なぞに仰せがなくとも、お国元のご友人やご親戚の間で、いくらでも、人がおられるでしょう」と言うと、乃木中佐は「イヤ、わしは、長州の女が大嫌いであるから、君に頼もうというのじゃ」と答えた。

 続けて、「こんなことまで、長州の者に世話をされるのが厭じゃから、君を煩わしたいと思うのじゃ」と言った。伊瀬知大尉が「なるほど」と言うと、「わしは、薩摩の女が好きなのじゃ。どうせ生涯を一つにするのなら、好きな女の方がよいからな」とも言った。

 伊瀬知大尉は、乃木中佐の事をよく判っていた。同じ長州人でも、乃木中佐は少し気風が変わっていて、何となく別物扱いをされていたのだ。それで、他国人の自分に、こういう相談をするのだろうと思った。

 伊瀬知大尉は、「薩摩の婦人は、他国の人には不向きであります」と言って、次のように説明をした。

 「ご承知でございましょうが、薩摩は昔から夫人に対する躾が全然違っておりましたから、夫人の教育なぞは、あまり重んぜられないで、あたかも男と同じように強い女を、勇ましい女を、といった調子に、育て上げるところから、ほとんど男か女か区別のつかぬような女が、多くおりまして、とても他国の人には、世話をすることのできないものと、小官は思っているのでおります」。

 ところが、これを聞いた乃木中佐は、「そ、それが、よいのじゃ。男女の別の、はっきりしないのがよい。そういうのを、見つけてくれ」と言ったのだ。

 このようにして、頼まれると、伊瀬知大尉も頗るうれしい感じがして、乃木中佐のために、一肌脱ぐ気になったのだ。当時、長州の軍人の中で最も有望視されていた乃木中佐から、薩摩の女を頼まれたことも嬉しかった。

431.乃木希典陸軍大将(11)「連隊長はいかん。自分の手柄話ばかりをする」と独り言のように言った

2014年06月27日 | 乃木希典陸軍大将
 明治十一年一月乃木希典中佐は東京に呼び戻され、歩兵第一連隊長を命ぜられた。栄進だった。明治十三年四月には三十二歳で歩兵大佐に昇進した。その後、明治十六年二月に東京鎮台の参謀長になっている。

 西南戦争後、三十歳で第一連隊長となった乃木中佐は、酒びたりになっていた。軍旗を奪われたこと、さらにそれを許されたことで、良心に責め立てられ、苦しめられた。

 その苦しみから逃れるために、毎夜のごとく酒をあおり、泥酔して自宅に帰ることもしない日もあった。好きだからではなく、泣きながら飲む酒だった。

 第一連隊長時代の乃木家は東京芝区西久保櫻川町にあった。極粗末な平屋建てで、五間しかなかった。それも門の柱は歪み、板塀は破れて庭は荒れたいままに荒れていた。

 家の内には少しの飾りも無かった。座敷の床の間には御尊影を掲げ奉って、一方には連隊旗が置いてあった。当時も連隊旗は連隊長の宅で保護することになっていて、伍長一名と兵卒四名とが交代で付ききっていた。

 その頃、政費節減の主意で、諸官庁に火鉢の支給を禁じたことがあった。だが、軍隊と官庁は事情が違った。官庁は昼間の勤務だが、軍隊には週番士官のように特別任務の者もいて、極寒の夜など火の気無しに務まりそうになかった。

 そこで、部下の大隊長が「せめてこれらの特別任務に当たる者だけへ賄いの焚き火だけでも許されたい」と願って出た。
 
 乃木連隊長はしばらく考えてから、「火鉢が無いと何故いかんか」と問うた。

 大隊長は「寒気の強い夜中などは手が凍えて、ボタンの取り外しにも困ることがあります」と答えた。

 すると乃木連隊長は「そりゃいかん。生きている者が凍えるわけはない。手が冷たかったら、卓子でも何でもコツコツ叩け。そうすれば自然に温まる」と言った。乃木連隊長自身も火鉢は用いなかった。

 ある日、五、六人の士官と、一人の面の皮の厚い、大酒飲みの少尉試補(少尉候補者)が、乃木連隊長の宅へ押しかけた。

 例のごとく、酒の宴になった。中の一人が「どうか後学のため戦争談をお聞かせ下さい」と言った。乃木連隊長は西南の役の実歴談が得意だった。

 そのうちに酔いはまわってきた。乃木連隊長は木の葉口の戦いから、田原坂方面の話に移った。実体験談だから、話にも実があった。聞く者も力瘤が入った。

 皆が息を詰めて聞いているとき、少尉試補のみは故意に顔を反けるようにして、「へん」と鼻先であしらうように、「連隊長はいかん。自分の手柄話ばかりをする」と独り言のように言った。

 すると乃木連隊長は忽ち容を正して、この男をじっと見た。そして真面目になって次のように言って詫びた。

 「そうか、わしが悪かった。お前方にはそういう風に聞こえるか。わしはただ戦(いくさ)話をするつもりでいるが、興に乗って話すのだから、お前方には手柄話をするように聞こえたか分からん。そんなつもりじゃない、以来は決してしないから許してくれ」。

 普通の上官なら、「わしに戦(いくさ)話をさせておいて、失礼なことを言うな。話を聞くのがいやなら、あっちへ行け」とでも言うところだが、乃木連隊長は形を改めて、侘びを言った。それで、流石の少尉試補も恥じ入ったという。

 当時、乃木中佐は、どうかすると、人から毛嫌いされ、同じ長州軍人の間でも何となく疎外されていた。ある日、陸軍卿の山縣有朋が、馬車を走らせて、乃木の第一連隊の営門を入ろうとした。

 これを見て、歩哨の一人が「待てッ」と、声をかけた。馭者は、これを尻目にかけて、馬に鞭を加え、威勢よく駆け込もうとした。

 すると歩哨は、「こらッ、待たんか」と言いながら、今度は銃剣を馬の鼻先へ突き出した。馬は驚いて、その足を止めた。

 「オイ、何をするのだ」「待てと言うのに、なぜまたんか」「陸軍卿が乗っておいでなさるのだぞ」「たとえ陸軍卿でも、無断乗り入れは許しませぬ」。

 この押し問答のうちに山縣卿は馬車から降りて徒歩で入ったが、これが問題となって、陸軍省では、やかましい交渉を始めた。