陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

610.桂太郎陸軍大将(30)新内閣の考えを聞かないでは、留任できないとの意思を示した

2017年12月01日 | 桂太郎陸軍大将
 山縣元帥は、政党内閣に端を開くことを危惧し、「それは、国体に反し、欽定憲法の精神に悖(もと)る」と反論した。

 だが、伊藤首相は「辞任後の後継内閣首班は、多数の議員を擁する新党(憲政党)の領袖、大隈重信と板垣退助を奏請する」と主張した。

 山縣元帥が、それに反対すると、伊藤首相は「しからば、元老中から後継首相を推薦してはどうか」と言い、山縣元帥を名指しした。山縣元帥は、すぐに断った。

 伊藤首相は、その日のうちに参内し、自分の首相辞任と、勲位顕爵一切を辞退する上表を提出した。同時に後継首班に大隈と板垣を推薦した。

 また、元老中から選ばれる場合は、山縣元帥または黒田清隆(くろだ・きよたか)枢密院議長(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後樺太開拓次官<三十歳>・欧米旅行・陸軍中将<三十四歳>・参議兼開拓長官・征討参軍<三十七歳>・内閣顧問・伯爵・農商務大臣・首相<四十八歳>・予備役・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・内閣総理大臣臨時代理・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)を任命されるよう奏上した。

 六月二十五日元老を招集して御前会議が開かれた。だが、元老の中に後継首班の任を担う者はなく、大隈重信、板垣退助の両人に組閣の大命が下った。

 組閣は、憲政党の中の、旧進歩党派の大隈を首相に、旧自由党派の板垣を内務大臣することで進んだので、「隈板(わいはん)内閣」とも言われた。日本史上初の政党内閣となる。

 伊藤博文は、伊藤内閣の陸海両大臣の留任を奏上し、明治天皇がこれを受け容れ、桂太郎陸軍中将、西郷従道海軍元帥の両人に留任の勅諚が出された。

 だが、政党勢力と対抗する山縣系の桂太郎中将は、この憲政党の隈板内閣に対して、辞表を提出した。

 六月二十五日夜、侍従長・徳大寺実則(とくだいじ・さねつね・京都・尊王攘夷派の公卿・正二位・維新後明治政府参与<二十八歳>・権大納言・大納言・侍従長兼宮内卿<三十一歳>・内大臣兼侍従長<五十一歳>・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾)から、山縣有朋元帥に次のような下問があった。

 「桂からは辞表が出されている。山縣からは辞職しないという説明であったが、何かの手違いがあるのでは」。

 翌日、山縣元帥は、「辞表は却下すべきであると上答しておいた」と桂中将に知らせた。

 これに対して、桂中将は、山縣元帥への返書で、辞表捧呈は自分にとっては、止むを得ない処置であるとし、次の様に記している。

 「此上ハ第一陛下ノ思召、第二ハ将来我ガ陸軍ニ関スル事件ニ付、新内閣ノ意見ト小生ノ意見トノ調和如何ニテ最後ノ決心仕ルベク覚悟ニ御座候」。

 この文では、「新内閣の考えを聞かないでは、留任できないとの意思を示した」と述べている。

 だが、そのあとに、陸相留任は桂自身にとって容易なものではないが、最終的には、山縣元帥に、その取り扱いを任せる、との旨を記している。

 桂太郎中将は西郷従道元帥とともに、親任式直前に宮中で、大隈首相と板垣内相に面会した。そこで、大隈首相は、陸海軍の軍備拡充計画を全面的に認めることを確約したので、桂中将は、正式に留任することになった。

 明治三十一年六月三十日、日本憲政史上初の政党内閣、第一次大隈重信内閣が成立した。陸相と海相以外の全ての大臣には、憲政党員が就任した。

 陸軍大臣・桂太郎中将は、海軍大臣・西郷従道元帥と図って、できるだけ閣議には出席せず、本拠地である陸海軍を守って、「一歩たりとも我が根拠地を侵さしめざる」方針をとった。

 九月初旬、山縣元帥も書簡で桂中将を激励し、隈板内閣による制約を受けることなく、陸軍の改良計画は着々と推進する必要があると主張している。

 明治三十一年九月二十八日、桂太郎中将は、陸軍大将に昇進した。五十歳だった。

 この隈板内閣は、地租増徴を否定して、次年度予算を策定するために、各種の増税や新税の設定とともに、歳出削減を必要とし、臨時政務調査局で各省予算について削減額を提示した。



609.桂太郎陸軍大将(29)山縣元帥は「現職の首相は政党を組織するべきではない」と反対した

2017年11月24日 | 桂太郎陸軍大将
 十月十二日、桂中将は、松方首相宛てに、台湾総督の辞職願を提出した。だが、辞表は受理されないまま、宙に浮いていた。

 遂に、桂中将は、海軍大臣・西郷従道大将に立ち合いを頼み、共に官邸に行き、松方首相と会見した。桂中将は、「台湾総督就任は受けられない」と言ったが、松方首相の返事ははっきりしなかった。

 そのあと、桂太郎中将は、高島陸軍大臣を訪ね、台湾総督の留任はしない旨を告げた。すると高島陸軍大臣は「分かった。辞表は受理するよう取り図るが、今後、台湾統治について助言を頼む。また、後任の台湾総督を推薦してくれ」と言った。

 この言葉で、桂太郎中将は、表情を和らげ、了承した。後任については、第二師団長・乃木希典中将に内定することに決めた。

 明治二十九年十月十四日、桂太郎中将は、東京防禦総督に就任した。この官職は、明治二十八年一月、日清戦争に伴い、防務条例が公布され、東京の衛戍司令官とともに首都防衛の為に設置された。だが、平時は閑職だった。

 第二次松方内閣は、地租増徴法案を次年度予算案の中に入れて提出しようとしたため、与党の進歩党が離反して、内閣総辞職となった。

 明治三十年十二月二十九日、伊藤博文に組閣の大命が下った。伊藤首相は、中国情勢が緊迫している状況で、挙国一致の体制を作るため、進歩党、自由党の両党との提携を実現して、日清戦争後の経営を乗り切ろうとした。

 だが、大隈重信も、板垣退助も入閣を断り、挙国一致構想は出足から崩れた。

 伊藤博文首相は、入閣交渉に桂太郎中将を帯同し、また、桂中将自身にも入閣交渉をやらせた。桂中将は西郷従道海軍大将に海軍大臣留任の要請をし、成功した。桂中将は、伊藤首相の組閣参謀であった。

 明治三十一年一月十二日、第三次伊藤内閣が発足した。桂太郎中将は陸軍大臣に就任した。

 伊藤内閣には、井上馨が大蔵大臣、西園寺公望が文部大臣として入閣したが、有力な与党はなく、国民協会だけを与党とした官僚内閣であった。
 
 伊藤内閣は、前内閣に引き続き地租増徴法案を提出したが、法案は否決されたため、政府は衆議院を解散した。

 板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる進歩党も、共に藩閥内閣打倒を叫んで、ことごとく、政府と対立したのである。

 伊藤首相はこうした事態に対処するため、国策を遂行できる政党を結成して対抗する以外はないと考えた。だが、元老・山縣有朋元帥は政党結成に反対した。

 山縣元帥は、自分の息のかかった、陸軍大臣・桂太郎中将、内務大臣・芳川顕正(よしかわ・あさまさ・徳島・徳島藩士・維新後大蔵省・東京府知事<四十歳>・文部大臣・宮中顧問官・司法大臣<五十一歳>・内務大臣・逓信大臣・子爵・逓信大臣・内務大臣・伯爵・枢密院副議長・南洋協会初代会頭・伯爵・勲一等旭日桐花大綬章)ら山縣系閣僚にも、反対の意を伝えた。

 こうした伊藤首相の新党結成の動きに対応して、地租案反対で歩調を一致していた自由党と進歩党は、この際一挙に両党合同して、六月二十一日、憲政党を結成した。

 首相として政党結成に挫折した伊藤首相は、首相を辞任して、野に下って、政党結成を目指す考えを、陸軍大臣・桂中将に意見を問うた。

 これに対して、桂中将は、「戦後経営は是が非でも実現しなければならない。政党結成は断念して、諸元老を入閣させ、内閣を強化し、反対する衆議院を再三解散する覚悟で収拾すべきだ」と進言した。

 だが、伊藤博文首相は、六月二十四日、諸元老と会談して、新政党を結成して反対党と闘うと主張して、元老らの意見を求めた。

 山縣元帥は「現職の首相は政党を組織するべきではない」と反対した。すると伊藤首相は「首相を辞任する」と言い切った。

 さらに山縣元帥が、「元老の身分になっても、不可である」と言うと、伊藤首相は「官職・勲爵を辞して実行する。元老会議にはかる必要はない」と強弁した。


608.桂太郎陸軍大将(28)このような首相の下で、命を懸けて台湾総督などできない

2017年11月17日 | 桂太郎陸軍大将
 明治二十九年六月二日、桂太郎中将は、台湾総督に任命された。

 伊藤首相と、西郷従道海軍大臣が台湾の状況を視察することになり、桂太郎中将もこれに加わり、軍艦「吉野」に乗組んで出港、六月十二日台湾に到着した。視察後、六月二十七日長崎に帰着した。

 台湾総督に就任した桂中将は、現地に赴任前に、台湾統治計画を意見書として起草している。この意見書は、民生移管に伴う不可欠な施策を網羅しており、行政官としての資質を十分に示したものだった。

 だが、桂中将の台湾総督就任の期間は、結果として短期間で、任地に赴任できないまま終わった。これは、第二次伊藤博文内閣が、内閣改造に失敗して、伊藤博文が内閣を投げ出し、総辞職したためだ。

 明治二十九年九月十日、後継の内閣首班に薩摩閥の代表として、松方正義に大命が降下した。組閣に移り、陸軍大臣として、桂太郎が推挙された。

 この第二次松方内閣は、松隈(しょうわい)内閣とも呼ばれた。組閣が順調に進まず、進歩党との連携を余儀なくされたのだ。山縣有朋大将や薩摩閥はこれに反対していた。

 だが、進歩党からは、大隈重信(おおくま・しげのぶ・佐賀・長州藩に協力・尊皇派・維新後大蔵大輔<三十一歳>・参議兼大蔵卿<三十五歳>・大蔵大臣・立憲改進党結成・東京専門学校<現・早稲田大学>開設・伯爵<四十九歳>・外務大臣・憲政党結成・首相・早稲田大学総長・首相・侯爵・貴族院議員・侯爵・従一位・菊花章頸飾)のみが、松方内閣の外相に就任することで、合意した。

 そこで、山縣有朋大将が、進歩党を与党とする、この松隈(しょうわい)内閣に、桂中将が陸相として入閣することが必要であると、推薦したのだ。大隈らが軍政に関与するのを防ぐためだった。

 「軍人宰相列伝」(小林久三・光人社・平成15年)によると、山縣有朋大将は、長州藩の先輩で、桂太郎中将より九歳年上だった。

 山縣大将は、長州藩では、いわば足軽の子ではあったが、権力欲と、その政治的駆け引きには天性のものがあった。明治維新後、大久保利通の構想にそって陸軍を創設したのだ。

 軍政をドイツ式に変えることに成功した山縣大将は、フランス式に固執する反対派を陸軍内部から放逐して、現人神で大元帥の明治天皇を頂点とする軍隊を作り上げることに成功した。

 その一方で、政治の世界にも進出した山縣大将は、陸軍省と内務省を長州閥で支配し、政治の世界にも君臨してきた。山縣大将と、桂中将は、二人三脚を組んで軍政家の道を歩んできた。

 山縣大将は、桂中将を招いて、「国家経営上、最も困難な状況である」と述べ、「陸軍大臣になる者は、陸軍一般の成規及び行政に慣熟していなければ、目下の困難を処理することはできないのだ。貴公が陸軍大臣に就任しなければ、内閣ができないのだ」と桂中将を説得した。

 これに対し、桂中将は、「自分は台湾総督就任の際も、自信がなくその器ではないと固持しましたが、強い要望に屈して、これを受けました。受けた上は、台湾総督として、全力で経営に当たる決心でありますのに、今、それをひるがえすことはできませぬ」と応じなかった。

 だが、粘り強い山縣大将の勧めに、遂に桂中将は、台湾総督を辞任することにして、これを受諾した。松方正義首相もこれを受けて、桂太郎中将の陸軍大臣就任を内定した。

 ところが、その後、拓殖務大臣・高島鞆之助中将が陸軍大臣の地位を懇望し、松方首相に強引に働きかけてきたのだ。

 松方首相と高島中将は、共に薩摩藩出身の薩派である。松方首相は、桂中将の内定を取りやめ、高島中将の要求を受け入れてしまった。

 桂中将に対して、松方首相は、これまで通り台湾総督の任に留任することで、事態を収拾しようとした。だが、桂中将は、これに反発した。以前にも、第一次松方内閣の時、高島中将が陸相に就任し、桂中将は第三師団長に出されたいきさつもあった。

 松方首相は、長州閥の元老・井上馨(いのうえ・かおる・山口・第二次長州征伐・維新後大蔵省入省・大蔵大輔<三十五歳>・外遊・参議兼工部卿・外務卿<四十三歳>・伯爵・初代外務大臣<四十九歳>・農商務大臣・内務大臣・朝鮮公使・大蔵大臣・元老・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・大韓帝国李花大綬章等)に依頼して桂中将を説得してもらった。

 井上馨は、桂中将を訪ねて、台湾総督に留任してもらいたいと、説得したが、桂中将は「このような首相の下で、命を懸けて台湾総督などできない」と納得しなかった。


607.桂太郎陸軍大将(27)病床の桂太郎中将は、「三浦の、馬鹿野郎が……」と、苦々しく言った

2017年11月09日 | 桂太郎陸軍大将
 田庄台占領後、四月に入り、第三師団は第二期作戦のため、金州(きんしゅう)に集結したが、四月十七日、下関で日清講和条約が締結された。

 その後、四月二十三日、ロシア、ドイツ、フランスの三国が、日清講和条約の内容に干渉して来て、日本は遼東半島を放棄せざるを得なかった。だが、台湾は清国から割譲した。

 明治二十八年六月二十日、桂太郎中将は御用船で大連港を出港、帰国の途についた。六月二十三日、広島の宇品に到着、六月二十五日、名古屋に凱旋した。第三師団の残りの部隊も次々に帰還し、七月二十三日には全部隊が帰着した。

 桂太郎中将は、日清戦争の軍功により、功三級金鵄勲章を授与され、子爵を授けられた。一挙に華族に列せられた。

 だが、その後、七月下旬、桂中将は腹部の不調を感じ始めた。診察を受けると、医師は、肝臓炎だが、不治の病だと診断した。激痛が続き、遂に上京して、九月十一日、東京の日本赤十字病院に入院した。

 やがて重体となり、陸軍関係者、知人、友人たちも心配した。陸軍次官・児玉源太郎少将も見舞いに来たが、意識不明の桂中将を見て驚いた。児玉少将は三日間病床の桂中将に付き添った。

 四日目から、桂中将は意識が戻り、奇跡的に回復していった。肝臓炎は誤診で、胆汁下痢と診断されたが、病名ははっきりしなかった。

 明治二十八年十月八日、朝鮮で、閔妃が暗殺された。日清戦争後、閔妃がロシアと共謀して、日本の朝鮮単独支配に抵抗していると見た、駐韓国特命全権公使・三浦梧楼中将(予備役)が手をまわして暗殺した。大院君による親日政権樹立のためだった。

 暗殺の内情を知った、病床の桂太郎中将は、「三浦の、馬鹿野郎が……」と、苦々しく言った。日清戦争後、国際社会が、日本の一挙一動に注目している中で、無謀なことを断行した三浦の無知かげんに腹が立ったのだ。

 日本人による閔妃惨殺という、残忍な凶行に、世界各国は日本に対して非難を行なった。日本政府は、三浦公使らを召喚し、十月二十四日入獄させ、裁判にかけた。

 だが、明治二十九年一月二十日、全員無罪となり、釈放されたので、朝鮮民衆は騒ぎ出し、騒乱状態になり、親日政権は倒れた。結局、この事件により、朝鮮では反日感情がさらに高まった。

 明治二十九年五月、養生を続けて、病が癒えた桂太郎中将は、上京を命じられ、二代目の台湾総督に就任するよう、打診を受けた。

 初代台湾総督は、樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍大将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍少佐<三十四歳>・陸軍中佐<三十七歳>・陸軍省第二局次長・熊本鎮台参謀長・陸軍大佐<四十一歳>・近衛参謀長・陸軍少将<四十四歳>・警視総監・海軍大輔・海軍少将<四十七歳>・子爵・海軍中将<四十八歳>・海軍大輔兼軍務局長・海軍次官・欧米出張・海軍大臣<五十三歳>・予備役・枢密顧問官・現役復帰・軍令部長・海軍大将<五十八歳>・台湾総督・伯爵・功二級・枢密顧問官・内務大臣・文部大臣・枢密顧問官・議定官・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)だった。

 当時の内閣総理大臣・伊藤博文が、樺山海軍大将の後に、本格的な植民地行政を推進できる人材として、桂太郎中将に台湾総督の就任を要請した。伊藤首相は、桂中将を、長州閥の有能な軍人政治家であると評価していた。

 ところが、桂中将は、これを辞退した。大病の後で、台湾は当時、瘴癘(しょうれい=伝染病の熱病)の地とされており、さらに依然島民の反乱が続いている状況なので、台湾総督の就任に自信が持てなかったのだ。

 だが、伊藤首相と高島鞆之助拓殖務大臣は、桂中将に就任を懇請し、健康不良ならば、内地で十分療養した後に赴任してもよいとの条件を提示した。

 桂中将はこの時の心情を、五月十八日付の伊藤内閣の野村靖(のむら・やすし)内務大臣に宛てた書簡で次のように告白している。

 「全体小生ノ希望ハ今此ノ任務ニ就くハ好ザル事ニテ、他人ニ譲タク相考申候、ナゼト申ニ、第一二小生不幸ニモ昨年大病ヲ煩ヒ、マタ一ヶ年ヲ経過セザレバ身体上如何コレアルベキヤト相考候、第二ニ此ヤリチラシノ跡始末ハ小生ノ如キ弱腕ニテハ整理コレアルベキヤ、未ダ小生等ガ出テヤル時ニモコレアルマジク、所謂名望アル元勲ノ内ヨリ此任ニ当ル事ガ当然ナラン」。

 ここには、大病の後で健康に自信がないこと。さらに、日清戦争後の放漫な台湾政策の後始末をやるのは、元勲ら責任のあるものが担当すべきであろうという批判めいた考えがあった。

だが、桂中将は、この書簡の文末には「君国のためだから、他に人がいないのなら、敢えて辞せず」という趣旨を付け加えている。





606.桂太郎陸軍大将(26)大本営の冬営方針を無視しての作戦行動は、様々な障害に直面した

2017年11月03日 | 桂太郎陸軍大将
 だが、結果的には、第三師団は第一軍の作戦の中心となり、海城(かいじょう)占領から渤海(ぼっかい)湾方面への戦闘を展開することができた。これは桂中将の功名心が全面的に示された行動ともいえる。

 いよいよ冬期を迎えたので、参謀本部は第一軍を靉河・大洋河の地域で冬営させる方針を伝えた。だが、桂中将は、「冬営よりも積極的に満州(中国東北部)の要地を制圧する作戦を行うべきだ」と提案した。

 十一月三日、第一軍司令官・山縣有朋大将は、この桂中将の提案を容れ、次の三策を大本営に建策した。

 一、山海関付近に上陸。二、遼東半島に進出し第二軍と連合、氷結しない兵站基地を確保すること。三、直ちに奉天(ほうてん)城を攻撃すること。

 だが、大本営はこれを承認しなかったので、山縣大将は、冬営の方針を指示した。ところが、清国軍が岫巌(しゅうがん)に駐屯しているという情報が入って来たので、桂中将は第三師団の一個旅団を出動させ、十一月十八日、ここを占領して しまった。

 桂中将は、さらに北京(ぺきん)進撃を策定するためには、遼東半島の要地、海城(かいじょう)への攻撃が必要であると考え、これを上申した。山縣大将もこれを支持し、大本営も容認することにした。

 明治二十七年十二月十二日、桂中将は、柝木(たくぼく)城を攻撃して占領、本格的な海城攻撃の戦闘に突入した。

 だが、冬期を迎えて結氷した悪路の進撃は、兵馬ともに難渋を極め、冬の軍服は間に合わず、食糧輸送も遅れ、凍傷に悩むなど、困難続きだった。

 大本営の冬営方針を無視しての作戦行動は、様々な障害に直面した。ようやく十二月十三日、海城を攻略した。
 
 この海城は、北東に遼陽(りょうよう)があり、南西に蓋平(がいへい)を経て遼東半島の渤海沿岸に通じ、さらに西南方面で田庄台(でんしょうだい)・営口(えいこう)に至るという交通の要衝であり、四方城壁に囲まれた市街地をなしていた。

 そのため清国軍にとっても、この地を奪回すべく行動を起こし、海城の南西一二キロ余りの地にある紅瓦寨(こうがさい)に滞陣する清国軍との十二月十九日の戦闘はかつてない激しい戦闘となった。

 明治二十七年十二月十九日、第五旅団長・大迫尚敏(おおさこ・なおはる)少将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍御親兵・少尉<二十七歳>・中尉<二十七歳>・陸軍省・大尉<三十歳>・西南戦争・少佐<三十三歳>・熊本鎮台参謀・中佐<三十九歳>・歩兵第六連隊長・大佐<四十三歳>・第四師団参謀長・参謀本部第一局長・少将<四十八歳>・歩兵第五旅団長・日清戦争・男爵・功三級・参謀本部次長・中将<五十三歳>・第七師団長・日露戦争・功二級・大将<六十二歳>・子爵・学習院長・子爵・正三位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)からの急報で、午後から戦闘が開始された。

 この戦闘では、夕方になって、ようやく紅瓦寨を占領したが、日本軍の死傷者は四〇八名で、戦闘員の一割にも達した。また、凍傷患者は重軽症者を合わせて、一〇〇〇名を超え、冬期の作戦の困難さを体験することになった。

 一部の部隊を紅瓦寨に残して、第三師団の主力は海城に撤退したが、雪中における大部隊の夜間での撤収行動は困難を極め、最後の部隊が帰還したのは、十二月二十日午前十一時頃だった。さらに死傷者を収容するために三日間を費やした。

 この戦闘の報告は、明治天皇のもとにも達せられ、戦功を嘉(よみ)する勅語が下賜された。桂太郎中将は、将兵を集めて、「わが第三師団は、帝国陸軍の先頭に立った」と述べ、第三師団万歳を唱えた。

 だが、半日の戦闘で多数の犠牲を払った上、この日以後、七十日余りも海城で籠城しなければならなくなったのである。

 海城の第三師団の兵力は、一個旅団分に過ぎなかった。これに対し、包囲する清国軍は、二~三万人の大軍だった。だから、第三師団は戦闘を仕掛けることができずに、籠城を続けたのだ。

 明治二十八年二月になって、第一軍司令部は、ようやく第三師団と第五師団に出撃命令を出した。二月二十八日、第三師団は籠城から抜け出し、積雪を踏んで進撃を開始した。大きな抵抗もなく、遼陽南方の鞍山站(あんざんたん)を占領した。

 その後、牛荘(ぎゅうそう)城を攻撃し、激しい市街戦になったが、三月四日、日本軍は場内に突入、五日、清国軍は降伏した。その後、第三師団が主力となって田庄台も占領した。







605.桂太郎陸軍大将(25)第一軍司令部では、この桂中将の独断変更を憤慨する者が多かった

2017年10月27日 | 桂太郎陸軍大将
 この間に、先発していた第五師団の各部隊は北上して平壌(ぴょんやん)に迫っており、元山(うぉんさん)に先発していた第三師団の一部部隊も半島を横断して、平壌の背面をめざし進撃した。

 明治二十七年九月十五日、平壌の戦いが開始され、日本軍は激しい戦闘の後、翌日十六日には、清国軍が退却した。第五師団は、平壌を占領した。

 この戦闘は、第一軍司令部が軍司令官・山縣大将とともに出陣し、また第三師団の主力も京城に到着したにもかかわらず、山縣軍司令官の命令を待たず、第五師団が攻撃を急いで開始したものだった。

 第五師団長は野津道貫(のづ・みちつら)中将(鹿児島・鳥羽伏見の戦い・会津戦争・函館戦争・維新後藩兵三番大隊付教頭・御親兵・陸軍少佐<三十歳>・二番大隊付・中佐<三十一歳>・陸軍省第二局副長・大佐<三十三歳>・近衛参謀長心得・征討第二旅団参謀長・少将<三十七歳>・第二局長・東京鎮台司令長官・大山巌陸軍卿外遊随行・子爵・中将<四十四歳>・広島鎮台司令官・第五師団長・第一軍司令官・大将<五十四歳>・伯爵・功二級・近衛師団長・東部都督・教育総監・軍事参議官・第四軍司令官・元帥<六十五歳>・侯爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功一級・レジオンドヌール勲章コマンドゥ―ル等)だった。

 この平壌の戦いは、第五師団長・野津中将が、功名を焦る感情が作用して、攻撃を急いだものと、思われた。桂中将も第三師団を率いて平壌攻撃に参加したかったのである。

 桂中将は、後年、この平壌の戦いについて、「第五師団長は、軍の到着を知りつつ、平壌を攻撃し、苦戦の後、辛うじて平壌を占領するを得たり」と述べており、野津中将の行動に批判的な言葉を残している。

 十月に入って、第三師団は平壌を出発して北進し、十月下旬には第一軍の全軍が鴨緑江(おうりょっこう)岸に到着した。

 鴨緑江渡河作戦の第一陣は第三師団が担い、十月二十四日、架橋を成功させ、翌朝から次々に対岸に渡り、清国領土内に進出、たちまち虎山(こざん・遼寧省)を占領した。

 この渡河作戦の前夜に詠んだ桂太郎中将の次の一首が残されている。

 「をちこちの敵の砦は燈も消えて かわかぜさむく身にしみにけり」。

 十月下旬の朝鮮半島の北端で、国境の大河鴨緑江河畔の夜は、すでに冬の寒さだった。桂中将にとって、清国領土へ進攻する第一陣の指揮官として、身の引き締まる思いを歌に託した。

 清国領土内の進撃は、山縣軍司令官は、第五師団を戦線の左方に配置し、九連城(きゅうれんじょう)攻撃を命じ、第三師団を右方に配置、北上することを命じた。

 だが、この配置の進撃では、「第三師団は、決戦に参加できず、後方守備の駐屯部隊にまわることになる」と桂中将は考え、不満が増してきた。

 九連城はほとんど清国軍の抵抗なく占領したため、第五師団の一部は通天溝(つうてんこう)に向かって進撃を続けた。またしても野津道貫中将の第五師団に先を越された。遂に桂中将は、左方に突っ切る決心をした。

 桂中将は、第三師団主力を持って、安東(あんとう)県目指して進撃を開始した。これにより、第五師団と第三師団の位置が交差して、第三師団は戦線の左方に進出することになった。

 これは命令違反だった。この変化を修正するため、第一軍司令部は、命令を伝達したが、第三師団長・桂中将は、予定を変更せずに、安東県へ進撃を続けた。

 第一軍司令部では、この桂中将の独断変更を憤慨する者が多かったが、軍司令官・山縣大将は、平壌攻撃時の野津中将の第五師団独断攻撃を容認していたので、今回の桂中将の命令無視も、罰することができなかった。

 この第三師団の行動について、当時、第三師団参謀長心得だった木越安綱(きごし・やすつな)中佐(金沢・陸士旧一・西南戦争・陸軍少尉<二十三歳>・陸軍士官学校教官・中尉<二十六歳>・ドイツ陸軍大学卒業・歩兵大尉<二十九歳>・陸軍大学校教授心得・監軍部参謀・少佐<三十四歳>・近衛歩兵第四連隊附・陸軍外山学校教官・第三師団参謀・中佐<三十九歳>・第三師団参謀長心得・日清戦争・大佐<四十歳>・第三師団参謀長・軍務局軍事課長・少将<四十四歳>・台湾陸軍補給廠長・台湾総督府陸軍幕僚参謀長・軍務局長・歩兵第二三旅団長・兼韓国臨時派遣隊司令官・中将<五十歳>・後備第一師団長・第五師団長・アメリカ出張・男爵・第六師団長・第一師団長・陸軍大臣・貴族院議員・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・レジオンドヌール勲章コマンドゥ―ル等)は、後に次のように回顧している。
 
 「各所からの攻撃が非常であって、軍司令部からも睨まれ、一時は立場もない位で……」。

604.桂太郎陸軍大将(24)桂中将の強引な工作が功を奏し、他の師団を出し抜いたのだ

2017年10月20日 | 桂太郎陸軍大将
 七月二十三日午前二時、日本軍(混成第九旅団)は大院君を護衛して、漢城に向かい、王宮を攻撃、守備隊の抵抗を排除して、王宮内に入り、国王高宗を確保し、親日政権(大院君による第三次政権)を樹立した。

 七月二十五日、大院君は、清国と朝鮮間の伝統的な宗属関係の破棄を宣告した。さらに、牙山に駐留する清国軍の撤退要求を日本大使に伝えた。

 当時の日本大使は大鳥圭介(おおとり・けいすけ・兵庫・幕府伝習隊歩兵隊長・幕府陸軍歩兵奉行(将官級)・五稜郭で官軍に降伏・維新後特赦で出獄・新政府大蔵小丞<三十九歳>・欧米各国歴訪・陸軍大佐<四十一歳>・工部省工作局長・工部大学校校長<四十四歳>・工部技監・東京学士院会員・元老院議員・学習院長兼華族所学校校長・駐清国特命全権公使<五十六歳>・朝鮮公使・枢密顧問官・男爵・正二位・旭日大綬章)だった。

 大鳥大使は、大院君に朝鮮の近代化を建言したりして、日清戦争開戦直前の困難な外交交渉にあたった。朝鮮の反日派から射撃されたりした。

 明治二十七年七月二十五日に豊島沖海戦があり、二十九日には成歓の戦いが行われた後、八月一日、日本と清国は宣戦布告をした。日清戦争の勃発である。

 第三師団長・桂太郎中将は、日清開戦になることを予想して、第三師団の派遣を希望し、期待して待っていた。

 八月四日第三師団に対して充員命令が下った。充員命令とは、動員にあたり、各部隊の要員を充足するために、在郷軍人を招集せよという命令。

 この時、桂太郎中将は、郷土の先輩、枢密顧問官・野村靖(のむら・やすし・山口・松下村塾・第二次長州征討・維新後岩倉具視使節団として渡欧<二十九歳>・神奈川県権令・県令・駅逓総監・逓信次官・子爵<四十五歳>・枢密顧問官・駐仏公使・内務大臣<五十二歳>・逓信大臣・皇室養育掛長・子爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)宛ての書で、次の様に述べている。
 
 「陳者四日当師団充員の命令を拝受し爾来日夜準備仕居申候、完整の上は定めしどの方面にか進発仕るべき事と其命令を待居申候……一師団の強卒にて方面に当たる武官の名誉此上なく候」。

 この文では、ようやく出動準備の命令がくだったことに、桂中将が期待をふくらませていることが伺える。また、その興奮する心境も吐露している。

 また、以前、桂中将が総務局長の時、その下で課長だった郷土の後輩、第四師団参謀長・真鍋斌(まなべ・たけし)大佐(山口・陸軍生年学舎・陸軍少尉<二十一歳>・陸軍省第一局第三課・西南戦争・総務局武学課長・総務局第三課長・歩兵第三連隊長・大佐<四十歳>・軍務局第一軍事課長・第四師団参謀長・陸軍省人事課長・少将<四十六歳>・歩兵第九旅団長・留守第五師団長・中将<五十四歳>・予備役・男爵・貴族院議員・陸軍参政官・男爵・正三位・勲一等旭日大綬章・功二級)に宛てた手紙で次のように記している。

 「生に取りては、此度の任務、実に名誉の至なり。如何となれば、参謀本部在勤中は、殊に此方面に関する軍機に参与し、今自ら其の実行の先頭に立たんとす」。

 これは、桂中将が参謀本部時代に、自ら清国に対する作戦の策定にあたったことを思い出しながら、その作戦を実行する立場になったことを名誉に思っているという文である。

 だが、第三師団への出動命令はなく、師団からは騎兵一個小隊、山砲、工兵の各一個大隊が引き抜かれて、元山に向かって出発し、第五師団の指揮下に入った。

 師団として出動を願っていた桂中将は、焦燥にかられて、八月十六日、参謀次長・川上操六中将に宛てて、第三師団の準備はすでに整っていることを伝え、「何卒、速やかに出発の命令これあり候被致度候」と、催促がましい手紙を出した。

 直ぐに応答はなく、しばらく経ってから川上中将から、大磯で会見したいとの書が桂中将に届き、桂中将と川上中将の会談が行われた。

 だが、その間の八月二十六日に、第三師団への出動命令が届いた。桂中将の強引な工作が功を奏し、他の師団を出し抜いたのだ。先発の第五師団に次いで、第三師団が出動することになった。

 九月一日、第三師団は、第五師団とともに、軍司令官・山縣有朋大将が指揮する第一軍の主力として編成され、名古屋を出発した。

 第三師団は九月八日に広島の宇品港から乗船し、十二日に朝鮮の仁川(じんせん)に上陸、十三日に京城(けいじょう=ソウル)に到着した。


603.桂太郎陸軍大将(23)「非常臨時の措置は止むを得なかったが、越権行為は免れない」と辞表を提出した

2017年10月13日 | 桂太郎陸軍大将
 明治二十四年六月一日、桂太郎中将は、第三師団長の辞令を受けた。桂中将は陸軍次官兼軍務局長を辞任して第三師団長(名古屋)に転任することになった。

 その次の陸軍次官兼軍務局長に就任したのは、岡沢精(おかざわ・くわし)少将(山口・戊辰戦争・維新後陸軍大阪第二教導隊・四等軍曹<二十七歳>・御親兵大隊長・准中尉<二十七歳>・大尉<二十七歳>・少佐<二十七歳>・御親兵五番大隊長・近衛歩兵第一連隊大隊長・別働第一旅団参謀長・東京鎮台参謀長・大佐<三十六歳>・西部監軍部参謀・近衛参謀長・少将<四十一歳>・歩兵第八旅団長・陸軍次官兼軍務局長・将校学校監・監軍部参謀長・大本営軍事内局長兼侍従武官・中将<五十一歳>・男爵・侍従武官長・大将<六十歳>・侍従武官長・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・功二級)だった。

 第三師団長転任の辞令を受けた後、桂太郎中将は、六月五日には名古屋の師団司令部に到着し、直ちに命課布達式を行った。そして九日には師団長として、初訓示を行なった。

 この素早い着任は、桂中将として考えのあってのことだった。師団長が新たに任命された時は、一週間以内に着任し、職務に就かねばならない規定があった。

 だが、当時、規定より二、三倍も長い日数をかけて、ようやく赴任する師団長も多々見られたのである。病気であるとか、事故であるというような理由をつけていた。

 師団長たるもの、これでは、あまりにだらしないと、桂中将は思っていたのだ。師団長として多数の将兵の上に立つ者が、規則を破るようでは、どうして部下の指導ができようかと。

 七月中旬以降、第三師団長・桂太郎中将は、第三師団管下の、愛知・静岡・三重・岐阜・福井・石川・富山の七県に展開する各衛戍地の軍隊を検閲した。

 桂中将が着任した、その年の十月二十八日、濃尾(のうび)地震が発生した。震度七(マグニチュード八・四)という大地震で、岐阜県、愛知県にまたがる濃尾平野を中心に甚大な被害が出た。死者七〇〇〇人以上、負傷者一七〇〇〇人以上、家屋全壊一四〇〇〇〇戸以上、半壊八〇〇〇〇戸以上という大被害だった。

 名古屋市も被害が多く、死者一八七名、負傷者二七七名、家屋全壊一〇五二戸、半壊一〇九七戸だった。

 名古屋城内にあった第三師団司令部も、頑丈な建物であったが、半壊して、司令部として使うことができないほどだった。
 
 第三師団長・桂太郎中将は、この前例を見ない驚くべき大地震に対して、第三師団長としてどう対処するべきか、熟考した。

 師団条例の規定によると、地方の擾乱(じょうらん=騒乱)、もしくは事変のあった時、師団長は地方官の要請によって、はじめて兵を出すことができる、となっていた。

 だが、桂中将は考えた。地方鎮護のために常設せられている軍隊は、このような災害が起きた時に、臨機の処置をとることは当然ではないだろうか。
 
 それは師団長の決心いかんによって決めてよいだろう。全て師団長の責任でやれば良い。条例どうり、地方官の要求を待って、行動したのでは間に合わない。

 桂中将は、旅団(約五〇〇〇名)の出動命令を下し、地震災害の市民保護、人命救助、火災消火の任務を与えた。衛生隊も組織して派遣した。

 軍隊の派遣について、桂中将は、十月三十日に具体的な報告を陸軍大臣・高島鞆之助中将に、提出した。

 さらに救助活動が一段落した後、上京の命を受けた桂中将は、十一月二十四日、上京し、高島陸軍大臣に、地震災害の状況を報告し、「非常臨時の措置は止むを得なかったが、越権行為は免れない」と辞表を提出した。

 師団長は天皇直轄の親補職で天皇が任命するので、高島陸軍大臣は参内して事情を奏上した。明治天皇は、「桂の処置は機宜に適した行動であった」と嘉賞され、辞表は却下された。

 第三師団長・桂中将に対して、十二月、岐阜県の村民から、翌明治二十五年十月には名古屋市民を代表して市長から、十二月には愛知県知事から感謝状が贈られた。

 明治二十七年六月一日、朝鮮政府が甲午農民戦争の鎮圧のために清国へ出兵を依頼したとの電文が日本政府に入った。

 六月二日に閣議が開かれ、日本も公使館と居留民の保護を名目に朝鮮に出兵することを決定した。政府は広島の第五師団を動員、混成旅団を編成して九日、朝鮮に向けて出港させた。

 以後、日本と清国は外交交渉が決裂した。日本側は、大院君(李氏朝鮮末期の王族・閔妃と対立)に接触し、摂政にすることを約束した。










602.桂太郎陸軍大将(22)豪放的な高島中将と緻密な桂中将は、性格的にも合わなかった

2017年10月06日 | 桂太郎陸軍大将
 これは、板垣退助に連なる土佐派と言われる自由党グループが、民党側から離脱して、政府と妥協が実現したのだ。

 三崎亀之助代議士は、土佐派と同調して、山縣内閣の予算案成立に協力したことで、自由党を脱党した(その後、復党)。

 ところが、その削減額の中で、陸軍省所管の削減額は、当初の予算査定では七〇万円だったのが、最終的に三〇万円に過ぎなかったのである。これには、桂太郎中将の政治対策が功を奏した。

 桂中将は、前述したように、議員の理解を求めるため、各派各党と交渉した。特に衆議院では、自由党、改進党、大成党などの所属の予算委員を各個に自邸に招いて、懇切丁寧に、根気よく予算の説明をした。

 その論法は、たんに予算内容の技術的なことばかりではなく、陸軍創設以来の歴史を説き、軍政改革の沿革、軍備充実の目的など、大局からも説得するという手法だった。

 あくまでも熱意と懇切を以て議員に理解を得ようとすることに全力を挙げた。話し合いによって理解を勝ち得るというやり方は、桂中将の得意とする戦法だったのである。

 三〇万円の削減で済んだ陸軍予算の成立における陸軍次官兼軍務局長・桂太郎中将の手腕は、陸軍部内だけでなく、政治家、官僚にも認められ、注目されるところとなった。

 山縣内閣は、明治二十四年度予算修正案を通過させたが、法案は、六件だけしか可決しなかった。さすがに山縣有朋首相の自信も揺らぎ始めた。

 薩長藩閥内閣と位置付けられた、山縣内閣は、自由党、立憲改進党などの野党から、藩閥政治であると批判、抵抗されたのだ。

 こうして明治二十四年四月、第一次山縣内閣は総辞職した。

 山縣有朋のあとの首相は、松方正義(まつかた・まさよし・鹿児島・薩摩藩御軍艦掛<三十一歳>・維新後長崎裁判所参議・日田県知事・民部大丞<三十五歳>・大蔵省官僚・内務卿<四十五歳>・フランス視察・参議兼大蔵卿・日本銀行創設・初代大蔵大臣<五十歳>・総理大臣<五十六歳>・日露戦争準備のため米国欧州を訪問・日本赤十字社社長・枢密顧問官・内大臣・国葬・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・イギリス帝国聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロスなど)だった。第一次松方内閣である。

 大山巌陸軍大臣が辞任したあとの陸軍大臣には、高島鞆之助(たかしま・とものすけ)中将(鹿児島・薩摩藩士・戊辰戦争・維新後侍従<二十七歳>・侍従番長・陸軍大佐<三十歳>・第一局副長・教導団長・長崎警備隊指揮官・少将<三十三歳>・別働第一旅団司令長官・フランス・ドイツ出張・熊本鎮台司令官・大阪鎮台司令官・中将<三十九歳>・西部監軍部長・子爵・大阪鎮台司令官・第四師団長<四十四歳>・陸軍大臣<四十七歳>・枢密顧問官・台湾副総統・拓殖務大臣・陸軍大臣・予備役・枢密顧問官・子爵・正二位・旭日桐花大綬章・レジオンドヌール勲章コマンドゥール)が就任した。

 桂太郎中将は山縣有朋大将と共に辞任すると表明した。桂中将自身は部隊指揮官を望んでいたと言われている。

 当時桂中将は、陸軍内において大きな権限と発言力をもっていたが、その軍歴は在外公使館勤務のほかは、参謀本部や陸軍省に身を置いて、陸軍中将まで昇進した。

 将兵を指揮、統率するという軍務を経験していないことは、軍人としては異例の経歴だった。桂中将自身もこのことを意識しており、軍指揮官としてもその能力を発揮しなければならないと、師団長の職を希望したのだ。

 だが、陸軍部内では、「桂中将は、大山陸相の後任の陸軍大臣に就任できると思っていたが、自分より三歳年長の高島中将が陸軍大臣の椅子を奪ったので次官を辞めたのだろう」との流言が飛んだ。

 薩摩の豪放的な高島中将と緻密な桂中将は、性格的にも合わなかった。「高島中将も、桂中将を遠ざけたいと思っていたので、名古屋の第三師団長へ追いやったのだ。つまりこの人事は左遷だ」との噂も流れた。

 だが、「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂中将は第三師団長転出について、次の様に記している。

 「世人或は高島子が陸軍大臣となりしを以て、我が辞職したるなりとか、或は我と高島子との間に行違ひありしなど伝説するものありしかども、其事実全く然らず」

 「素より当時の順序としては、高島子が大山伯の後を襲うことは適当にして、又已(やむ)を得ざりし事ならんと思はる。此事も世の伝説の事実を誤るを懼れ特に玆(ここ)に記す」。













601.桂太郎陸軍大将(21)もし事実であれば、強迫手段をとって減額を取り消させる

2017年09月29日 | 桂太郎陸軍大将
 明治二十二年十二月二十四日、山縣有朋中将を首班とする内閣が発足した。第一次山縣内閣である。陸軍大臣は引き続き、大山巌中将で、桂太郎少将も陸軍次官として留任した。

 明治二十三年三月、陸軍次官・桂太郎少将は、兼任という形で初代軍務局長に就任した。その年の六月には陸軍中将に進級した。

 明治二十三年十一月、第一回帝国議会が開かれた。「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)及び「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、山縣有朋首相は、施政方針演説の中で、軍事費予算について、次の様に述べた(要旨)。

 「国家独立のためには主権線を守ると同時に、その主権線の安全と緊密に関係する地域である利益線を守る必要がある」

 「そのためには陸海軍に巨額の予算をあてなければならない。予算歳出額の大部分を占めるものは陸海軍に関する経費である」。

 山縣首相は、予算案中における陸海軍の比重が大きいことと、その重要性を強調したのだ。

 この山縣内閣が、明治二十四年度の歳出予算案として提出した政府原案は、八三〇七万五八三五円だった。

 予算案は十二月九日から衆議院予算委員会で審議され、自由党と立憲改進党を中心とする民党側は、政費節減、民力休養をスローガンに官吏の俸給、旅費などの人件費や庁費を大幅に削減する方針をとった。

 十二月十三日、陸軍次官兼軍務局長・桂太郎中将は、明治二十四年度予算案委員会に出席した。

 桂中将は、大山巌陸軍大臣に代わって、陸軍編制の一覧表と定員表を提示して、陸軍の組織を説明し、さらに明治十九年の官制改革によって師団編成に改められ、輜重兵の編制もようやく終わった。当面、連発銃の製造費の確保と砲兵配備、北海道の屯田兵の改革に着手していると説明した。

 予算委員会は、各省の予算を審議し、十二月二十七日に七八八万七三四円削減する査定表を決定した。

 この査定案には、憲法六十七条に規定された政府の同意なしに廃除・削減できない項目が含まれていたため、政府と民党側の対立が続くことになった。

 明治二十四年度政府予算案の中で、軍事費は、二〇六七万円を占め、陸軍側は臨時費を含め一三〇一万円、海軍は同じく七六六万円であった。

 予算委員会の査定案の削減率は、陸軍五・七パーセント、海軍六・二パーセントだった。内務省や外務省の二〇パーセントを越す削減率に比べると、かなり低く、民党側でも軍事費については政府案の大部分を認めるという姿勢をとっていた。

 衆議院予算委員会の模様は極秘であったが、十二月二十五日、報知新聞は、陸軍は、七〇万円余、海軍は三〇万円余の減額であると報道した。

 桂中将は、この記事を読んで、参謀次長・川上操六中将に、この記事の情報の真疑の確認を依頼し、もし事実であれば、強迫手段をとって減額を取り消させる必要があると主張した。

 桂中将は、議会での審議開始を前にして、陸軍省予算を担当する衆議院の議員を与野党の別なくそれぞれ自邸に招いて陸軍の予算案について説明した。

 議会では、提出された予算案の削減額をめぐって、衆議院と山縣有朋内閣の政府はまさに正面衝突となり、予算不成立に終わるかと思われた。

 その時、三崎亀之助(みさき・かめのすけ)代議士(香川・東京帝国大学法科卒業・忠愛社入社・「明治日報」記者・外務省入省<二十六歳>・書記官・米国公使館駐在・ワシントン駐在・外務省参事官・弁護士・香川県選出衆議院議員<三十二歳>・内務省県治局長・貴族院議員<三十八歳>・横浜正金銀行支配人・同銀行副頭取<四十二歳>)が政府と交渉を始めた。

 なんとかして予算は成立させたいということで、三崎亀之助代議士は、そのための特別委員九名を挙げるという動議を提出したのだ。動議は一一七名対一五〇名で可決された。

 最終的に、削減額は六三一万二〇〇〇円ということで、衆議院を通過し、貴族院もこれを承認して予算は成立した。