陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

600.桂太郎陸軍大将(20)大山巌陸軍大臣が「月曜会」などを解散すべしとの内達を発した

2017年09月22日 | 桂太郎陸軍大将
 当時、陸軍内でエースと見られていた次のような高級将校も「月曜会」に名を連ねていた。陸軍次官・桂太郎少将(四十一歳)も入会していた。

 近衛歩兵第一旅団長・奥保鞏(おく・やすかた)少将(四十二歳・福岡・長州征討・陸軍大尉<二十六歳>・熊本鎮台中隊長・少佐<二十八歳>・歩兵第一一大隊長・歩兵第一三連隊大隊長・中佐<三十二歳>・歩兵第一四連隊長・歩兵第一〇連隊長・大佐<三十六歳>・近衛歩兵第二連隊長・少将<三十九歳>・近衛歩兵第一旅団長・東宮武官長・近衛歩兵第二旅団長・欧州出張・中将<四十八歳>・第一師団長・近衛師団長・東京防禦総督・英領印度出張・大将<五十七歳>・第二軍司令官・参謀総長・伯爵・元帥・正三位・大勲位菊花大綬章・功一級・レジオンドヌール勲章グラントフィシェ・レオボルト勲章グロースクロイツ等)。

 陸軍大学校長・児玉源太郎(こだま・げんたろう)大佐(三十六歳・山口・函館戦争・六等下士官<十八歳>・陸軍権曹長<十八歳>・陸軍准少尉<十九歳>・陸軍少尉<十九歳>・中尉<十九歳>・歩兵第一九番大隊副官・大尉<二十歳>・大阪鎮台地方司令副官心得・少佐<二十二歳>・熊本鎮台参謀副長・近衛参謀副長・歩兵中佐<二十八歳>・歩兵第二連隊長・大佐<三十一歳>・参謀本部管東局長・参謀本部第一局長・監軍部参謀長・兼陸軍大学校長・少将<三十七歳>・監軍部参謀長・欧州出張・陸軍次官・兼軍務局長・大本営留守参謀長・男爵・功二級・陸軍次官兼軍務局長・中将<四十四歳>・第三師団長・台湾総督・兼陸軍大臣・兼内務大臣・兼参謀本部次長・大将<五十二歳>・台湾総督兼満州軍総参謀長・兼参謀本部次長・子爵・参謀総長・兼南満州鉄道設立委員長・死去<五十四歳>・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級)。

 陸軍士官学校長・寺内正毅(てらうち・まさたけ)大佐(三十六歳・山口・戊辰戦争・陸軍少尉<十九歳>・大尉<二十五歳>・フランス公使館附武官・中佐<三十二歳>・大臣官房副長・大臣秘書官・歩兵大佐<三十五歳>・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将<四十二歳>・参謀本部第一局長事務取扱・男爵・功二級・欧州出張・歩兵第三旅団長・教育総監・中将<四十六歳>・教育総監・参謀本部次長・陸軍大臣・兼教育総監・大将<五十四歳>・子爵・功一級・陸軍大臣・兼韓国統監・兼朝鮮総督・伯爵・元帥・総理大臣・兼外務大臣・兼大蔵大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章オフィシェ・大韓帝国大勲位瑞星大綬章)。

 参謀本部第二局長・小川又次(おがわ・またじ)大佐(四十歳・福岡・小倉口の戦い・維新後兵学寮生徒・権曹長心得<二十二歳>・少尉心得<二十三歳>・陸軍少尉<二十三歳>・台湾征討軍・歩兵第一三連隊大隊長・西南戦争・少佐<二十九歳>・熊本鎮台参謀副長・清国派遣・中佐<三十三歳>・大阪鎮台参謀長・広島鎮台参謀長・歩兵大佐<三十六歳>・歩兵第三連隊長・参謀本部管西局長・参謀本部第二局長・少将<四十二歳>・歩兵第四旅団長・近衛歩兵第一旅団長・第一軍参謀長・男爵・功三級・近衛歩兵第二旅団長・中将<四十九歳>・第四師団長・戦傷・大将<五十七歳>・子爵・功二級・子爵・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級)。

 歩兵第一二旅団長・長谷川好道(はせがわ・よしみち)少将(三十九歳・山口・戊辰戦争・維新後大阪兵学寮生徒・陸軍少尉心得<二十歳>・陸軍大尉<二十一歳>・五番大隊長・少佐<二十二歳>・歩兵第一連隊長心得・中佐<二十三歳>・西南戦争・広島鎮台歩兵第一一連隊長・歩兵第二連隊長・大佐<二十八歳>・広島鎮台参謀長・大阪鎮台参謀長・中部監軍参謀長・少将<三十六歳>・歩兵第一二旅団長・男爵・功三級・中将<四十六歳>・第三師団長・近衛師団長・大将<五十四歳>・子爵・功一級・参謀総長・元帥<六十五歳>・伯爵・朝鮮総督・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・大韓帝国大勲位瑞星大綬章)。

 「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、桂太郎少将ら主流派は、「月曜会」に対抗するため、すでに将校の親睦と軍人精神の涵養を掲げて組織されていた「偕行社」を利用することにした。

 その機関紙「偕行社記事」に将校らに研究材料を与える内容を盛り込み、各種研究会の学術研究の成果も取り入れるとともに、将校団の互助組織としての機能も付加して遺族に平等な給付をする組織として将校たちの利益団体の側面を持たせた。

 桂太郎少将は偕行社の幹事長に就任して、偕行社を陸軍の公式な組織として位置づけ、「新進有為」の将校達の利益関心を吸収するべく努めた。

 明治二十一年七月、陸軍次官・桂太郎少将と、監軍部参謀長兼陸軍大学校校長・児玉源太郎大佐は、「月曜会」を退会した。これに続き、次の二名の参謀をはじめ多数の将校が退会した。

 監軍部参謀・鮫島重雄(さめじま・しげお)中佐(鹿児島・陸軍教導団・陸軍士官学校生徒・工兵少尉<二十六歳>・工兵大尉<三十二歳>・近衛師団参謀・工兵第三大隊長心得・工兵少佐<三十七歳>・陸軍大学校副幹事・監軍部参謀・近衛師団参謀・工兵大佐<四十五歳>・近衛師団参謀長・中部都督部参謀長・少将<四十八歳>・由良要塞司令官・東京湾要塞司令官・中将<五十五歳>・第一一師団長・第一四師団長・大将<六十二歳>・男爵・正五位・勲一等旭日大綬章・功二級)。

 監軍部参謀・田村怡与造(たむら・いよぞう)大尉(山梨・陸士旧二期・歩兵少尉<二十五歳>・ベルリン陸軍大学校入校<二十九歳>・歩兵大尉<三十一歳>・監軍部参謀・参謀本部第一局員・歩兵少佐<三十五歳>・大本営兵站総監部参謀・歩兵中佐<四十歳>・第一軍参謀副長・歩兵第九連隊長・ベルリン公使館附武官・歩兵大佐<四十三歳>・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・少将<四十六歳>・参謀本部総務部長・参謀本部第一部長・参謀本部次長・死去<五十歳>・中将・従四位・勲二等旭日重光章・功四級・ロシア帝国神聖アンナ第三等勲章等)。

 陸軍の実力派幹部や留学帰りの俊英の若手将校らが「月曜会」を抜けたことは、各地の師団や連隊にも波及し、十二月末までに五百三十五名が退会するに至った。

 こうした機運を醸成した上で、翌明治二十二年二月、近衛都督・小松宮彰仁親王をはじめ、各師団長が連名で、「『月曜会』など陸軍内の様々な会を偕行社に統一すべきである」との建言が提出され、それを受けて、二月二十四日、大山巌陸軍大臣が「月曜会」などを解散すべしとの内達を発した。

 これにより、陸軍大臣・大山巌中将、山縣有朋中将(欧州視察中)、陸軍次官・桂太郎少将、監軍部参謀長兼陸軍大学校校長・児玉源太郎大佐ら陸軍主流派は四将軍派を退けた。以後、山縣有朋を中心とした陸軍閥が創られていくのである。





599.桂太郎陸軍大将(19)実際には二条例をそのまま実現させたことで、陸軍主流派の勝利だった

2017年09月15日 | 桂太郎陸軍大将
 こうした状況の中で、大山巌陸軍大臣は、条例の実現のため、大臣辞任の覚悟を示して強硬に抵抗した。

 伊藤博文首相は、この問題を解決するため、二条例は明治十九年七月二十六日に公布することとし、監軍部再設置の方向でメッケル少佐に調査させることにした。

 同時に三浦中将の改革意見の一つである全国教育会議の設置を容れた形で陸軍教育会議条例を公布した。

 これによって、明治天皇や、参謀本部、さらに反主流派の三浦中将の意向に配慮したように見える。だが、実際には二条例をそのまま実現させたことで、陸軍主流派の勝利だった。

 大山陸軍大臣の強硬姿勢の背後には、陸軍内部だけではなく、薩長閥主流派の結束と、陸軍次官・桂太郎少将の組織力があったからである。

 伊藤首相から探査を依頼された、内閣書記官長・田中光顕(たなか・みつあき)陸軍少将(高知・戊辰戦争・岩倉使節団・西南戦争で征討軍会計部長・陸軍省会計局長<三十六歳>・少将・初代内閣書記官長・警視総監<四十六歳>・学習院長・子爵・宮内大臣<五十五歳>・伯爵・従一位・勲一等)は、七月二十三日の書簡で次のように報告している。

 「桂殿の方にては、川上(操六)少将、川崎(祐名)監督長、仁礼(景範)中将、樺山(資紀)中将等の薩人と結び、青木(周蔵)外務次官、野村(靖)逓信次官等と共に、屡々小集を催し、万事相談致居候由にこれあり」。

 事実、桂少将は、仁礼や樺山ら薩派の海軍将官や、青木、野村ら長州藩出身の有力官僚を結集して、支援体制をとっていた。

 明治十九年七月十日、反主流派の、近衛歩兵第一旅団長・堀江芳介(ほりえ・よしすけ)少将(山口・戊辰戦争・別働第二旅団参謀長・陸軍大佐<三十三歳>・参謀本部管東局長・兼近衛参謀長・戸山学校次長・少将<三十八歳>・戸山学校長・近衛歩兵第一旅団長・歩兵第六旅団長・欧州出張・予備役・元老院議官<四十四歳>・衆議院議員・錦鵄間祗侯<四十五歳>・阿月村(山口県柳井市)村長・従三位・旭日重光章)が名古屋鎮台の歩兵第六旅団長に左遷された。

 また、七月二十六日、陸軍士官学校校長から東京鎮台司令官に就任していた三浦梧楼中将が熊本鎮台司令官に左遷された。

 さらに、七月二十九日、参謀本部次長・曽我祐準中将が陸軍士官学校校長にされた。

 堀江少将と、曽我中将は、病気を理由に、三浦中将は戦術の早い変化について行けないことを理由に、転任を辞退した。

 明治天皇は、これを認めず、療養して服務するよう沙汰があった。だが、三人は再度辞表を提出したため、参謀本部長と陸軍大臣が連署して辞任願を受理するという手続きを経て休職となった。

 明治天皇が三人の辞任をすぐに認めなかったことは、陸軍主流派の左遷人事に異議を表明したことを意味している。

 だが、陸軍次官・桂太郎少将が密接にかかわった監軍廃止と二条例をめぐる事件は、陸軍内の批判派を要職から排除して、陸軍主流派が陸軍における主導権を確保したものであり、薩長両藩出身の特定の陸軍将官を頂点とする支配体制が整った。
 
 さらに明治二十二年二月十一日には、大日本帝国憲法が公布され、その第十一条で、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定され、いわゆる統帥大権が明記され、さらに第十二条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」の条文で、天皇が軍隊の編制と軍事費の決定に大きな発言権を持つことが明示された。日本の軍隊が天皇の軍隊であるという位置づけがされたのだ。

 また、明治二十三年の帝国議会の開設、立憲体制に移行する以前に、陸軍次官・桂太郎少将が処理しなければならない課題が残っていた。

 その一つは、陸軍内で大きな組織になっていた「月曜会」をどうするかということだった。

 「月曜会」は明治十七年に趣意書を頒布して以後、会員が急増し、翌年、機関誌として「月曜会記事」を創刊、東京では毎月会合を開いて研究発表や討議を重ねていた。

 地方に各支部も組織され、自主的な運営で、メッケル少佐の著述や兵術関係書なども発行し、若い将校らの研究意欲を刺激する集団だった。

 明治二十一年に曽我祐準中将が「月曜会」幹事に就任すると、休職中の三浦梧楼中将や予備役の谷干城中将、鳥尾小弥太中将も入会し、反主流派と目されていた四中将が勢揃いすることになった。

 明治二十一年二月における会員は、中将八名、少将十七名の名誉会員をはじめ、大佐級二十四名、中佐級三十二名、少佐級百三十一名、大尉級四十名、中尉級、少尉級を合わせて総計千六百七十名の多数が入会していた。

 「月曜会」は、学術団体として自主的に運用され、その人数の多さと佐官級、尉官九の横断的な組織と自由な活動は、陸軍主流派としては、無視し難いものだった。





598.桂太郎陸軍大将(18)薩摩藩出身の若手将校が三浦中将に詰め寄り、大激論となった

2017年09月08日 | 桂太郎陸軍大将
 時恰も本邦の陸軍に在りては、参謀本部設立巳来学理上の研究漸次に勢力を得るに至り、我々が明治十七年の一個年間海外に在りし中に於て、学理の必要といふ風気を、希望以上の提訴にまで上進せしめたりき。

 以上の「桂太郎自伝」において、欧州視察中に、桂太郎が自分と異色な存在である川上操六と努めて盟友的な親交を結んだことがわかる。

 その結果、後の桂の陸軍軍制改革において、川上は協力を惜しまず、桂は思う存分な陸軍の新建設を行うことができた。

 この大山陸軍卿ヨーロッパ視察団が、ドイツに長期間滞在したことは、この視察旅行の目的が、山縣有朋、大山巌ら陸軍主流が、ドイツ軍制をモデルとして、日本帝国陸軍の整備を考えていたことを示すものだった。

 この使節団の成果としては、陸軍大学校の教官の雇い入れが依嘱されており、ヤコブ・メッケル少佐(ドイツ・プロイセン王国ケルン出身・プロイセン陸軍大学校卒・同大学校兵学教官・日本帝国陸軍大学校教官・帰国後ナッサウ歩兵第二連隊長・参謀本部戦史部長・陸軍大学校教官・少将・参謀本部次長・皇帝ヴィルヘルム二世の受けが悪く第八歩兵旅団長に左遷の辞令を受けるが依願退役・退役後音楽に親しみオペラを作曲・六十四歳で死去)を確保したことだった。
 
 明治十八年一月、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団は帰国した。桂太郎大佐は、その年の五月、陸軍少将に昇進、陸軍省総務局長に就任、参謀本部御用掛も兼任することになった。三十七歳だった。

 明治十九年三月、桂太郎少将は三十八歳で陸軍次官に就任し、陸軍大臣・大山巌中将の下で、陸軍の様々な官制改革と、部内統一実現に向けた任務を担った。

 明治維新以来、日本帝国陸軍はフランス式の兵制でやってきたのだが、これを、ドイツ式を取り入れて、改革を行なったので、摩擦も多かった。

 最初に、監軍を廃止し、新たに陸軍検閲条例と陸軍武官進級条例を改正しようとしたのだが、これが、政治問題化した。

 監軍の廃止は、行政改革の大義名分を掲げての廃止だったが、前年の明治十八年五月に、監軍部条例が改正され、東部・中部・西部の監軍とその業務が規定され、明治天皇はその三監軍に陸軍の反主流派と目されていた次の三中将を任命してはどうかとの意見を表明していたのだ。

 元老院議員・鳥尾小弥太中将、農商務大臣・谷干城中将、東京鎮台司令官・三浦梧楼中将(官職・階級は明治十九年当時)。

 だが、この明治天皇の意見表明にもかかわらず、これが実現されないままに、監軍が廃止されることに、不透明さが見受けられたのだ。

 しかも、監軍の職務の中の「軍隊の検閲」だけを切り取って条例化し、また、進級条例では、その十四条に進級は停年順序に従うことが明記されており、従来、薩長両藩出身者が優遇されて来た年功序列が温存されるものになっていた。

 これより先の明治十八年三月、三浦梧楼中将は、ヨーロッパ視察から帰国した直後の士官学校長の立場から、陸軍教育総裁の設置、留学生の優遇措置、新規将校教育機関設置等、幹部将校養成の抜本的改革の意見書を、大山陸軍卿に提出していた。

 さらに、明治十八年五月、紅葉館(芝区の高級料亭)で、鎮台条例改正に伴う人事異動に際会して各司令官、旅団長、参謀長等の将官が参集した席で、三浦中将は、「陸軍の枢要な地位を薩長出身者が独占している」と批判した。

 これを聞いた、薩摩藩出身の若手将校が三浦中将に詰め寄り、大激論となった。三浦中将は、陸軍部内の薩長藩閥主流派支配の現状を改革することを訴えたのだった。

 三浦中将には同志的結束に基づいた、学習院長・子爵・谷干城中将、参議・伯爵・鳥尾小弥太中将、仙台鎮台司令官・子爵・曽我祐準中将がいた。四将軍派である。

 また、当時の政府の指導者・伯爵・伊藤博文(山口・初代内閣総理大臣・公爵・従一位・菊花章頸飾)、外務卿・伯爵・井上馨(山口・大蔵大臣・侯爵・従一位・菊花章頸飾)ら強力な政治家の後ろ盾があった。

 さらに、三浦中将の背景には、「月曜会」に結集している多数の将校団がいた。

 「月曜会」は、明治十四年一月に東京の長岡外史(ながおか・がいし)陸軍少尉(山口・陸士旧二期・陸大一・軍務局歩兵課長・歩兵大佐<三十九歳>・軍務局軍事課長・欧州出張・少将<四十四歳>・歩兵第九旅団長・参謀本部次長・歩兵第二旅団長・軍務局長・中将<五十一歳>・第一三師団長・第一六師団長・予備役・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・ドイツ赤十字社勲章等)の自宅に、十三名が集まり、学術研究のための組織として発足した。

 こうした陸軍上層部の対立が顕在化している中での監軍廃止と二条例の発令は、明治天皇にも不信感を与えることになり、「このニ条例の発布を裁可しない」との意思が伝えられた。

 また、参謀本部次長・曽我祐準中将もこれを激しく批判し、陸軍省との権限争いとなった。

 「曽我祐準自叙伝」(曽我祐準・大空社・昭和63年)によると、著者の曽我祐準は後年、次のように回想している。

 「彼是する内に図らず陸軍省と参謀本部との権限争議が起こり、余は漫(みだり)に屈服することが性質として出来ぬから、強硬の態度を取りて抵抗したので、七月は士官学校に逐はれた」。



597.桂太郎陸軍大将(17)我等両人にて陸軍を担ふべしとの考案は、相互の脳裡に固結するに及べり

2017年09月01日 | 桂太郎陸軍大将
 八月三十日、日本帝国と李氏は、済物浦(さいもっぽ)条約を締結し、日本軍による日本公使館の警備を約束し、以後、日本は朝鮮に軍隊を常駐させることになった。

 だが、朝鮮は清国の冊封国(さくほうこく=従属国)であるという清国をけん制する意図もあった、日本帝国の陸海軍の派遣は、清国との対立を顕在化した。これが後の日清戦争(明治二十七年七月~明治二十八年三月)へと繋がっていった。

 こうして、日本帝国は、軍備の拡張が緊急の課題となった。陸軍では、軍事体制の抜本的な整備と強化を急速に推し進めることが要請された。それには、陸軍首脳部の意識改革と意思統一が不可欠であった。

 桂太郎大佐は、そのための第一歩として、陸軍を統率する将官を選抜して、ドイツ、フランスに派遣し、軍事演習を実地に見学して軍隊指揮の知識を研鑽する必要があると建言した。

 これを受けて、各兵科の将校を選抜して、陸軍卿・大山巌中将がこれを率いてヨーロッパの軍事情勢を視察することが決定された。

 明治十七年二月、大山陸軍卿ヨーロッパ視察団は、横浜港を出発した。参謀本部管西局長・桂太郎大佐(三十六歳)のほかに、随行する将官と主要将校は、次の通り。

 士官学校長・三浦梧楼(みうら・ごろう)中将(三十八歳)は、弘化三年生まれ、山口県出身。明治四年七月陸軍大佐(二十四歳)、同年十二月陸軍少将(二十五歳)、東京鎮台司令官。第三局長、広島鎮台司令官、征討第三旅団司令長官。明治十一年十一月中将(三十二歳)。西部軍艦部長、陸軍士官学校校長、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(三十八歳)、子爵、東京鎮台司令官(三十九歳)、熊本鎮台司令官、学習院長、宮中顧問官、予備役、駐韓国特命全権大使(四十九歳)、入獄、出獄、枢密顧問官(六十四歳)、子爵、従一位、勲一等旭日桐花大綬章。

 東京鎮台司令官・野津道貫(のづ・みちつら)少将(四十三歳)は、天保十二年生まれ、鹿児島県出身。明治四年七月陸軍少佐(三十歳)。明治七年一月陸軍大佐(三十三歳)、近衛参謀長心得、征討第二旅団参謀長。明治十一年十一月少将(三十七歳)、第二局長。東京鎮台司令官、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(四十三歳)。明治十八年五月陸軍中将(四十四歳)、広島鎮台司令官。第五師団長、第一軍司令官。明治二十八年三月大将(五十四歳)、伯爵、功二級。近衛師団長、東部都督、教育総監(五十九歳)、第四軍司令官、元帥(六十五歳)、侯爵、正二位、大勲位菊花大綬章、功一級。

 近衛歩兵第一連隊長・川上操六(かわかみ・そうろく)大佐(三十六歳)は、嘉永元年生まれ、鹿児島県出身。明治四年七月陸軍中尉(二十三歳)、功二級。明治十一年十二月陸軍中佐(三十歳)、歩兵第一三連隊長、仙台鎮台参謀長。明治十五年二月陸軍歩兵大佐(三十四歳)、近衛歩兵第一連隊長、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(三十六歳)。明治十八年五月少将(三十七歳)、参謀本部次長、近衛歩兵第二旅団長、ドイツ留学、参謀次長。明治二十三年六月中将(四十二歳)、参謀本部次長、子爵(四十七歳)、シベリア出兵、参謀総長。明治三十一年九月大将(五十歳)。子爵、正三位、勲一等旭日大綬章、功二級。

 「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂太郎は、同じく大山陸軍卿ヨーロッパ視察団の随行を命ぜられた、川上操六大佐について、次の様に記している。

 此の時歩兵科の大佐として、川上近衛歩兵連隊長(操六・子爵)が随行を命ぜられけるが、之より前川上大佐は所謂実地的の人にて、我が学理的応用を為す考案とは殆ど正反対ありし。

 然るに大山陸軍卿は、到底川上と桂とを和熟せしめ、共に陸軍に従事せしむることを謀らざれば、一大衝突を来すべし、是非この両人を随行せしめんとする意志ありしと見えたり。

 又川上大佐も大に其点に見る所あり、我も亦大に川上大佐に見る所ありて、此の随行を命ぜらるゝと同時に、川上と我と両人の間に誓ひて、前に大山陸軍卿の意思ならむと思ふ如く、我々両人が将来相衝突することあれば、我が陸軍の為に一大不利益なれば、冀わくば将来相互に両人の肩頭に我が陸軍を担ふべしと決心し、互ひに長短相補ひ、日本帝国の陸軍のみを眼中に措かば、毫も蔕芥なきにあらずやと。

 我又曰、子は軍事を担当せよ、我は軍事行政を担当せんと。この時初めて二人の間に此誓約は成立たり。而して明治十七年の二[一]月、横浜を解纜するより、川上と船室を共にし、欧州巡回中も、殆ど房室を同くし、互ひに長短を補ふの益友となり、我は渠儂が欧州に於て必要とすべきものには、充分の便利を得る様に力を添え、兎に角我等両人にて陸軍を担ふべしとの考案は、相互の脳裡に固結するに及べり。

 伊仏独露墺等欧州大陸の軍事を視察し、又英国及び米国を視察し、明治十八年二月を以て帰朝したり。

 同年五月我は陸軍少将に任ぜられ、陸軍省総務局長に補せらる。川上も同時に陸軍少将に任じ、参謀本部次長に補せられたり。

 爾来我と川上と互ひに相提携して、大に軍事上に尽くすことを得たるの第一着なりき。是全く大山陸軍卿の処置の公平なりしのみならず、斯くあらざれば大に軍事上の進歩を計ること能はざりしなり。

 然るに我と川上とは新参将校中より擢用せられて、枢要の地位を占めたるより、物論囂々ともいふべきありさまなりし。






596.桂太郎陸軍大将(16)谷少将の采配の凡庸さに、「これは無能と言える」とまで、失望した

2017年08月25日 | 桂太郎陸軍大将
 三浦少将と鳥尾中将は山縣中将と同じ長州藩出身者で、奇兵隊でも山縣とともに戦った戦友でもあった。

 それにもかかわらず、藩士出身である、三浦少将と鳥尾中将は、足軽以下の中間という身分出身の山縣中将が、上司として君臨していることに、内心穏やかではなく、面白くなかった。山縣を追い出そうという陰謀もあったのである。

 これに対して、桂太郎少佐(三十一歳)は、上級藩士の出身だが、山縣中将に対する偏見はなく、従容と従っている。これは桂の忠実な性格と“ニコポン”主義によるものであった。

 明治十一年十一月に桂太郎少佐は歩兵中佐に進級した。三十歳だった。桂太郎中佐の軍制改革は進められ、明治十四年以降、明治政府の立憲体制への転換が起こり、ドイツの君主権の強大な立憲君主制を範とする方向付けが明確となった。

 明治十二年一月四日、参謀本部管西局長心得・桂太郎中佐のところへ、近衛参謀副長・児玉源太郎(こだま・げんたろう)少佐(二十七歳・山口・函館戦争・六等下士官<十八歳>・陸軍権曹長<十八歳>・陸軍准少尉<十九歳>・陸軍少尉<十九歳>・中尉<十九歳>・歩兵第一九番大隊副官・大尉<二十歳>・大阪鎮台地方司令副官心得・少佐<二十二歳>・熊本鎮台参謀副長・近衛参謀副長・歩兵中佐<二十八歳>・歩兵第二連隊長・大佐<三十一歳>・参謀本部管東局長・参謀本部第一局長・監軍部参謀長・兼陸軍大学校長・少将<三十七歳>・監軍部参謀長・欧州出張・陸軍次官・兼軍務局長・大本営留守参謀長・男爵・功二級・陸軍次官兼軍務局長・中将<四十四歳>・第三師団長・台湾総督・兼陸軍大臣・兼内務大臣・兼参謀本部次長・大将<五十二歳>・台湾総督兼満州軍総参謀長・兼参謀本部次長・子爵・参謀総長・兼南満州鉄道設立委員長・死去・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級)が訪ねてきた。

 児玉少佐は、西南戦争の時は、熊本鎮台参謀として出征していたので、当時の話が出た。当時の熊本鎮台司令長官は谷干城少将だった。

 当時、参謀・児玉少佐は、司令長官・谷少将と、作戦について、意見の相異から、対立していた。その時、児玉少佐は、谷少将の采配の凡庸さに、「これは無能と言える」とまで、失望した。

 桂中佐が「今頃、山縣さんのことを悪く言う者がいる。困ったことだ」と言うと、児玉少佐が、「誰が、悪口を言っているのですか」と聞き返した。桂中佐が「谷さん達だよ」と答えると、児玉少佐は「そうですか」と、うなずいた。

 明治十二年五月、児玉少佐は、西南戦争での連隊旗紛失事件で謹慎処分を受けた。児玉少佐にとっては不本意な処分だった。連隊旗を西郷軍に奪われた当事者は、歩兵第一四連隊長心得・乃木希典少佐だった。

 だが、乃木少佐は処罰を受けることはなかった。終戦後二年余りたって、この件で、児玉少佐が謹慎処分を受けたのだ。

 桂中佐は、「この処分に反対したのだが、強引にこの処分を迫った者がいた」と、児玉少佐に言って、桂中佐は「がまんしてくれ」と慰めた。

 当時の参謀本部長・山縣有朋中将を敵対視している、陸軍士官学校長・谷干城中将が、山縣中将が重用している桂中佐と仲の良い児玉少佐に対する嫌がらせともいえるものだった。

 明治十三年三月、桂中佐は、児玉少佐を呼び出して、「東京鎮台の連隊長をやってみるかね」と言った。児玉少佐は、それに応じた。

 同年四月、児玉少佐は中佐に昇進し、東京鎮台歩兵第二連隊長を命ぜられた。連隊旗紛失事件で謹慎処分を受けていた児玉少佐は、連隊長としてやっと軍人らしい道を歩めることになった。

 明治十五年二月、桂太郎中佐は歩兵大佐に昇進し、参謀本部管西局長に就任した。三十四歳だった。

 明治十五年七月二十三日、李氏の王族、興宣大院君(こうせんだいいんくん)らの陰謀により、扇動された大規模な朝鮮の兵士が、漢城(後のソウル)で反乱を起こした。壬午事変である。

 当時の朝鮮は、李氏朝鮮の第二十六代王・高宗の妃、閔妃(びんひ=明成皇后)の一族の高官が政権を担当していた。反乱兵士たちは、その政府高官や、日本人の軍事顧問、日本公使館員らを殺害した。

 これに対して、日本帝国は、軍艦五隻、歩兵第一一連隊の一個歩兵大隊、海軍陸戦隊を朝鮮に派遣した。




595.桂太郎陸軍大将(15)近衛砲兵大隊「竹橋部隊」を中心にした二百五十九名が反乱を起こした

2017年08月18日 | 桂太郎陸軍大将
 当時のプロイセン王国(ドイツ帝国)の首相は、オットー・フォン・ビスマルク(六十一歳・ゲッティンゲン大学卒・ベルリン大学卒・プロイセン連合州議会代議士・ドイツ連邦議会プロイセン全権公使・駐ロシア大使・名誉階級少佐・プロイセン王国首相<一八六二年~少将・中将~一八七二年・一八七三年~元帥騎兵上級大将~一八九〇年>・侯爵・ホーンエンツォレルン勲章・ハレ大学哲学博士・ゲッティンゲン大学法学博士・テュービンゲン大学政治学博士・ギーセン大学神学博士・イエナ大学医学博士)だった。

 プロイセン王国の参謀総長はヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ陸軍元帥(七十六歳・ドイツ連邦・シュヴェリーン公国出身・デンマーク幼年士官学校・デンマーク軍少尉・プロイセン軍入隊・陸軍第八近衛歩兵連隊・プロイセン陸軍大学卒・参謀本部参謀将校・大尉・トルコ駐在・第四軍参謀・少佐・ハインリヒ王子副官・第八軍参謀・参謀本部戦史課長・第四軍参謀長・中佐・大佐・フリードリヒ皇太子副官・少将・参謀総長代理・参謀総長<一八五八年~中将~大将~元帥~一八八八年>・ドイツ帝国議会議員・プロイセン貴族院終身議員・国防員会委員長・伯爵・プール・メリット勲章・黒鷲勲章・大鉄十字章)だった。

 桂少佐は、駐在武官としてドイツに滞在中、公の席では、ビスマルクと面会したこともあったが、親しく意見を交換するような機会はなかった。

 だが、参謀総長モルトケとはよく接近して、軍政についての意見を聞くことが多かった。

 当時七十代後半だったモルトケは、孫ほども年の離れた桂少佐を信頼して、その副官に命じて、いろいろと便宜をはかった。また自ら作戦等の軍事学を教授した。

 当時、ドイツ公使館に勤務していた木屋敬三郎は、当時の桂少佐について次のように述べている。

 「桂は非常によく勉強したらしく、当時有名であったウィーンのスタインの軍事政論(モルトケの戦術論)を購入し、それを、青木周蔵と共に毎夜のように研究した」

 「また、参謀本部の近隣に下宿して、毎日、ドイツの参謀本部に行き、研究を行った。ベルリン大学でワグネルの経済学の講義をも聴いたようである」。

 帰国するまで桂はドイツで軍事研究を続けた。それが彼を軍制の第一人者たらしめたことは言うまでもなかった。

 明治十一年七月十四日、ドイツから帰国した桂太郎少佐は、参謀本部設立を建言し、自らその中に入って、その整備に当たった。

 だが、その年の八月二十三日、現在の東京都千代田区の竹橋の西詰に駐屯していた近衛砲兵大隊「竹橋部隊」を中心にした二百五十九名が反乱を起こした。山砲二門も引き出した。「竹橋事件」である。動機は西南戦争における財政の削減、論功行賞についての不満だった。

 事前に情報を得ていた、当時の陸軍卿・近衛都督・山縣有朋中将は、待機していた近衛歩兵大隊を出動させ、たちまち、鎮圧した。

 この「竹橋事件」の背後には、陸軍部内で、陸軍卿・山縣中将(四十歳)と深刻な対立が生じていた次の四将軍(階級・年齢は事件当時)との確執があった。

 熊本鎮台司令長官・谷干城(たに・たてき)少将(四十一歳・高知・戊辰戦争・大軍監・維新後陸軍大佐<三十四歳>・兵部権大丞・陸軍裁判長・少将<三十五歳>・熊本鎮台司令長官・台湾蕃地事務参謀・中将<四十一歳>・東部監軍部長・陸軍士官学校長兼戸山学校長・学習院長・子爵・農商務大臣<四十八歳>・学習院御用掛・予備役・貴族院議員・子爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)。

 征討第三旅団司令長官・三浦梧楼(みうら・ごろう)少将(三十二歳・山口・戊辰戦争・陸軍大佐<二十四歳>・陸軍少将<二十五歳>・東京鎮台司令官・第三局長・広島鎮台司令官・征討第三旅団司令長官・中将<三十二歳>・西部軍艦部長・陸軍士官学校校長・大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行<三十八歳>・子爵・東京鎮台司令官<三十九歳>・熊本鎮台司令官・学習院長・宮中顧問官・予備役・駐韓国特命全権大使<四十九歳>・入獄・出獄・枢密顧問官<六十四歳>・子爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)。

 参謀本部御用掛・鳥尾小弥太(とりお・こやた)中将(三十一歳・山口・戊辰戦争・陸軍少将<二十四歳>・軍務局長・第六局長・大阪鎮台司令官・参謀局御用掛・中将<二十九歳>・陸軍大輔・参謀局長・近衛都督・参議・内閣統計院長・伯爵・枢密顧問官・予備役<四十一歳>・貴族院議員・枢密顧問官・伯爵・正二位・旭日大綬章)。

 別働第四旅団司令長官・曽我祐準(そが・すけのり)少将(三十八歳・福岡・海軍参謀・陸軍大佐<二十八歳>兵学寮権頭・少将<三十歳>・陸軍士官学校校長・兼東京鎮台司令官・別働第四旅団司令長官・熊本鎮台司令長官・大阪鎮台司令官・参謀本部次長・中将<四十歳>・子爵・仙台鎮台司令官・参謀本部次長・陸軍士官学校長・明宮御養育主任・予備役・東宮大夫・宮中顧問官<四十八歳>・貴族院議員・枢密顧問官・子爵・正二位・旭日大綬章)。






594.桂太郎陸軍大将(14)西郷と大山の了解を取り付けた上で、桂少佐は山縣に提案した

2017年08月11日 | 桂太郎陸軍大将
 明治七年二月、第六局が廃止され、参謀局が独立し、六月、参謀局条例が発令された。参謀局は、作戦計画や戦略を独自に立案し、戦時には、作戦を指示、実行し戦略を統括する。

 「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、参謀局の組織は局長に将官を任じ、参謀局の幕僚参謀官と各鎮台の幕僚参謀官を統括する。

 この参謀局の組織には、桂太郎大尉がドイツ留学中に修得したドイツ参謀本部の事例が参照して作られたと考えられる。

 さらに、もう一つ、桂少佐の提案により、公使館附武官の制度が創始され、公使館附武官が各国に派遣されることになった。

 桂少佐自身、ドイツに再び行き、軍制の研究に再び従事したい願望が、抑えがたいものになっていた。そんな時、台湾出兵の善後処理のため、清国との外交交渉が難航し断絶まで覚悟した事例をあげて、相手国の軍事状況を十分に認識していなければならないと主張した。

 それには、早急にヨーロッパの軍制や軍事事情を研究するために、一定のキャリアを持つ軍人を派遣する必要があるとして、公使館附武官の制度を提案したのである。

 さらに、桂少佐は、明治七年十二月末に台湾出兵から凱旋した西郷従道(さいごう・つぐみち)陸軍中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞<二十六歳>・陸軍少将<二十八歳>・陸軍中将<三十一歳>・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿<三十五歳>・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣<四十二歳>・元老・枢密顧問官・海軍大将<五十一歳>・侯爵・元帥<五十五歳>・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)にこの提案をまず話した。
 
 次に、大山巌(おおやま・いわお)陸軍少輔(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍大佐<二十八歳>・少将<二十八歳>・渡欧・普仏戦争等視察・陸軍少輔・第一局長・陸軍少将<三十二歳>・東京鎮台司令官・第一旅団司令官・攻城砲司令官・西南戦争鎮圧・中将<三十六歳>・参謀本部次長兼陸軍士官学校校長・陸軍卿・兼参謀本部長・伯爵・陸軍大臣<四十三歳>・兼海軍大臣・兼監軍・大将<四十九歳>・枢密顧問官・陸軍大臣・日清戦争で第二軍司令官・陸軍大臣・侯爵・陸軍大臣・元帥<五十六歳>・参謀総長・旭日桐花大綬章・日露戦争で満州軍総司令官・内大臣・公爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・フランス共和国レジオンドヌール勲章グランクロア・イギリス帝国メリット勲章・ロシア帝国白鷲大綬章等)に説明した。

 そのあと、桂少佐は、山縣有朋陸軍卿に建策して、同意を得た。薩派の陸軍省内の実力者、西郷と大山の了解を取り付けた上で、桂少佐は山縣に提案した。その手法は、桂少佐らしい根回しのやり方だった。

 しかも、翌明治八年三月三十日には、ドイツ公使館附武官に桂少佐が任命されたのは、素早い決定だった。これは桂少佐が、自薦してその志を達したのである。

 そして、四月二十八日付で、山縣陸軍卿は桂少佐に宛てた懇切な在外武官服務を論達したが、これは異例の措置だった。その諭達の内容は次の通り。

 「参謀科の将校を派遣するが、その立場は公使館の一員であるとともに武官としての廉潔節操を重んじ、陸軍の名誉を汚してはならない」

 「さらにその任務としては、当該国の兵制、軍法、軍事地理などの調査・研究をはじめ、その国をめぐる対外関係や利害関係の有無に至るまで調査すること」。

 この諭達を受けた桂少佐は、ドイツ公使館附武官として軍事行政の研究を最重要課題とし、その研究が終わるまでは帰朝を命じられないようにと、山縣陸軍卿に要望した上で、六月に出発した。

 桂少佐を迎えた駐独日本公使は長州藩の先輩でもあり、前回のドイツ留学中にも世話になった青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・維新後長州藩留学生としてドイツ留学<二十四歳>・外務省入省・駐独公使<三十歳>・兼オランダ公使・条約改正取調御用係・駐独公使・兼駐オランダ公使・兼駐ノルウェー公使・外務大輔<四十二歳>・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣<四十五歳>・駐独公使・兼駐英公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使<六十一歳>・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・デンマーク王国デュダブネログ勲章グランクロワー・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)だった。

 なお、当時留学生として、先輩の品川弥二郎(しながわ・やじろう・山口・禁門の変・戊辰戦争・奥羽鎮撫総督参謀<十九歳>・維新後渡欧・普仏戦争視察<二十一歳>・内務少輔・農商務大輔・駐独公使・宮内省御料局長・枢密顧問官・子爵<三十五歳>・内務大臣<四十二歳>・政治団体国民協会を組織・獨逸学協会学校(現・獨協学園)創立・旧制京華中学校(現・京華学園)創立・子爵・勲一等旭日大綬章)も滞在していた。

 また、山縣陸軍卿の養嗣子、山縣伊三郎(やまがた・いさぶろう・山口・勝津兼亮と山縣有朋の姉の間に生まれた次男・山縣有朋の養子・ドイツ留学・内務官僚・三重県知事<四十一歳>・地方局長・内務次官・逓信大臣<四十八歳>・貴族院議員・韓国副統監<五十二歳>・朝鮮総督府政務総監・文官朝鮮総督・枢密顧問官<六十四歳>・山縣家の分家として山縣男爵家を建てる・山縣公爵を継ぎ公爵・正二位・旭日桐花大綬章・大韓帝国瑞星大勲章・フランス共和国ドラゴンドランナン勲章グランクロワ等)が在留していた。

 さらに、後に山縣有朋のブレーンとなる、平田東助(ひらた・とうすけ・山形・藩校「興譲館」<現・山形県立米沢興譲館高等学校>・戊辰戦争・維新後慶應義塾<現・慶應義塾大学>入学・大学南高<現・東京大学>入校・岩倉使節団随行<二十二歳>・ドイツ留学・ベルリン大学<政治学>・ハイデルベルク大学<国際法・博士>・ライプツィヒ大学<商法>・内務省御用係<二十七歳>・大蔵省翻訳課長・少書記官・法制局専務・伊藤博文憲法調査団随伴<三十三歳>・貴族院議員<四十一歳>・兼枢密院書記官長・法制局長官<四十九歳>・錦鶏間祗侯<きんけいのましこう>・農商務大臣<五十二歳>・内務大臣・子爵・臨時外交調査会委員・臨時教育会議総裁・内大臣<七十三歳>・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)も在留していた。

 これらの人物は、後の桂太郎が長州派の藩閥政治家の嫡流として登場する上で、貴重な出会いとなったのである。








593.桂太郎陸軍大将(13)最新の軍事知識を仕入れてきた自分が、何で彼らの下で働かなければならないのか

2017年08月04日 | 桂太郎陸軍大将
 三好重臣(みよし・しげおみ)大佐(三十四歳・仙台鎮台司令長官)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は陸軍中将。監軍、枢密顧問官。子爵、正二位。

 山田顕義(やまだ・あきよし)少将(三十歳・駐清国特命全権大使)は、明治四年陸軍少将。最終階級は中将。司法大臣、枢密顧問官。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章。

 堀江芳介(ほりえ・よしすけ)少佐(二十九歳・陸軍教導団教官)は、明治四年陸軍中尉。最終階級は少将。歩兵第六旅団長、衆議院議員、錦鵄間祗侯。従三位、旭日重光章。

 国司順正(くにし・よりまさ)少佐(三十二歳・近衛歩兵第一連隊長)は、明治五年陸軍少佐。最終階級は少将。男爵、正四位、貴族院議員、錦鶏間祗。男爵、正四位。

 品川氏章(しながわ・うじあき)中佐(二十九歳・広島鎮台司令長官御用取扱)は、明治四年陸軍中佐。最終階級は少将。工兵会議議長、歩兵第一〇旅団長。正四位、勲二等。

 福原実(ふくはら・みのる)大佐(三十歳・陸軍省第四局副長)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は少将。沖縄県知事、貴族院議員。男爵、正三位、勲一等瑞宝章。

 福原和勝(ふくはら・かずかつ)大佐(二十八歳・陸軍教導団司令長官心得)は、明治六年陸軍大佐。最終階級は大佐(戦死)。初代在清国公使館附武官、第三旅団参謀長。

 以上のように、明治七年当時、桂太郎と同郷の長州藩出身者で、ほぼ同世代である有為な軍人たちは、すでに一様に出世していたのである。

 この様な状況であるから、陸軍卿・山縣有朋中将は、桂太郎に、「大尉に任ぜられたことは不満足かもしれないが、秩序を正す点からもやむを得ないが、了とせよ」と言ったのである。

 だが、この説得に対する、桂の返答は、次の様なものであった。

 「陸軍卿の言われるところは、自分の最も望むところです。秩序を軍隊に立てることは、自分が兵制を研究し、将来我が国の陸軍のため尽くさんとする主たる目的でした。むしろ自分を少尉に任ぜられた方が、かえって陸軍のためによいのではありませんか。その方が自分の目的と合致するのです。しかし、いったん任命があった以上は是非もありませんが、初任を大尉以上とすることはよろしくないと思います」。

 この桂の返答は、意外なものであり、山縣中将を喜ばせ、大いに感心させた。さだめし不平を言うだろうと思っていたのに、この言、桂の見どころの尋常でないと、山縣中将は見てとった。

 これ以降、初任として大尉になった者は、跡を絶つに至り、将校初任の方針が、ここに確立することになったのである。

 だが、「桂太郎―予が生命は政治である」(小林道彦・ミネルヴァ書房・平成18年)によると、次のように記してある。

 桂太郎は、自らの人事に恬淡としていたことになっているが、杉山茂丸によれば、実は内心ははなはだ面白くなかった。

 洋行前の同僚が遥か上官にいて「肩で風を切って」いるのに対して、賞典禄はもとより、県庁から借金までして私費留学をおこない、最新の軍事知識を仕入れてきた自分が、何で彼らの下で働かなければならないのか。桂はそんな不満をおくびにもださなかった(杉山茂丸『桂太郎伝』二二一~二二五頁)。

 杉山茂丸(すぎやま・しげまる)は、福岡県出身。福岡藩士・杉山三郎平の長男。日本の政治運動家、実業家。山縣有朋、井上馨、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅らの参謀役を務め、「政界の黒幕」などと呼ばれた。

 さて、山縣と桂が意気投合するようになった第一歩には、次の様なこともあった。任官の日に桂が、山縣と会ったとき、その日の話題に徴兵令発布の問題が上がった。

 山縣は内心相当の自信と覚悟とをもって徴兵令を出したのだが、それに賛成する者はほとんどなかったのである。

 ところが、桂は、ドイツを見てきた頭で、プロイセン軍制の認識から、陸軍の将来にとって徴兵令の制定は大きな意味を持つと、徴兵令の発布を喜ぶ旨を語った。

 これに山縣は意を強くした。山縣は、徴兵令を陸軍の基礎となるものと評価したのは桂ただ一人であると、喜んだ。山縣と桂の意気投合は、この日から始まった。

 桂は、同年の明治七年六月十日には、早くも少佐に昇進して、参謀局諜報提理に就任し、志願兵徴募を担当した。

 徴兵令施行後の期間が短く、徴兵だけでは不十分で、窮余の策として、志願兵徴募が行われた。徴兵制度を否定するような政策で難しい仕事だが、陸軍卿・山縣中将が、徴兵制を全面的に支持した桂への強い信頼によるものだった。









592.桂太郎陸軍大将(12)桂太郎をいきなり大佐にしても、誰も異議を差しはさむ者はいなかった

2017年07月28日 | 桂太郎陸軍大将
 岩倉大使一行がベルリンを去った後、その年の九月には、四年間のドイツ留学を終えた桂も帰国の途についた。パリを経て、マルセイユから横浜に帰着したのは明治六年十月だった。

 「桂太郎(三代宰相列伝)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎の帰国した頃の国内の事情は、征韓論が破れて、新たに岩倉具視、大久保利通を中心とした内閣のできた時だった。

 横浜に着いた桂太郎は、さっそく、伊藤博文や木戸孝允を訪問し、国内事情を聴いて、日本の近況を把握した。

 桂はいったん郷里に帰って再び上京して、木戸孝允邸に寄留することになった。その木戸の推薦によって、桂は陸軍に出仕することになった。

 明治七年一月十三日、桂太郎は、陸軍歩兵大尉に任じ、陸軍省第六局分課勤務を命ぜられた。これが桂の帝国陸軍の軍人として第一歩だった。

 だが、桂はすでに、戊辰戦争や奥羽戦争にも出て、軍人としての経験もある。たとえ一旦軍籍を離れて、一書生としてヨーロッパに私費留学したとはいえ、その研究はひたすら軍事、軍制についてであった。

 つまり、軍人としての修養を積んできたのだった。それらのことを考えれば、桂太郎をいきなり大佐にしても、誰も異議を差しはさむ者はいなかった。まして、かつて桂と同僚であった者で、すでに少将になっていた者もいたのだ。

 しかし、当時、初任は大尉以上なるべからずということになっていた。陸軍もだんだん秩序ができてきていたが、その規律を厳重にすることに政府も鋭意努めている時だった。情実などを努めて排し、万事規律に従って、事に処していくといく大方針もようやく確立しかけていた。

 この様な情勢と規律から、桂も初任であるからというので、大尉に任じられたのだった。ところが、この処置に対して、桂は不満を持つどころか、かえって、大いに喜んだと言われている。

 桂は任官の日に、陸軍卿・山縣有朋(やまがた・ありとも・山口・高杉晋作の奇兵隊創設時に入隊・奇兵隊軍監<二十五歳>・維新後各国の軍事制度を視察・徴兵令を定める・陸軍大輔<三十三歳>・陸軍中将<三十三歳>・陸軍卿<三十五歳>・参軍<三十九歳>・陸軍卿・参謀本部長・内務卿<四十五歳>・伯爵・内務大臣・内閣総理大臣<五十一歳>・陸軍大将・枢密院議長・第一軍司令官・陸軍大臣・元老・公爵・元帥<六十歳>・第二次山縣内閣・枢密顧問官・参謀総長・公爵・枢密院議長・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・国葬・ロシア帝国神聖アレクサンドルネフスキー大綬章・ドイツ帝国赤鷲大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロウ・大英帝国メリット勲章など)に会った。

 山縣は桂に言った。「我が陸軍も桂の留学中、漸次整頓し、秩序も立ってきた。大尉に任ぜられたことは不満足かもしれないが、初任は大尉以上としないという規律を乱すわけにはゆかない。秩序を正す点からもやむを得ないが、了とせよ」。

 山縣が「不満足かもしれないが」と言った背景には、この当時(明治七年)における、桂太郎と同郷の他の軍人たちの立身出世の現実があった。当時、桂太郎大尉は二十六歳だった。

 明治七年当時、長州藩(山口県)出身で、桂太郎と同世代の主要な陸軍軍人は次の通り。

 乃木希典(のぎ・まれすけ)少佐(二十六歳・名古屋鎮台大貳心得)は、明治四年陸軍少佐。最終階級は大将。宮内省御用掛、学習院長。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章、功一級。

 鳥尾小弥太(とりお・こやた)少将(二十七歳・陸軍省第六局長)は、明治四年陸軍少将。最終階級は中将。貴族院議員、枢密顧問官。子爵、正二位、勲一等旭日大綬章。

 三浦梧楼(みうら・ごろう)少将(二十五歳・陸軍省第三局長)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は中将。駐韓国特命全権大使、枢密顧問官。子爵、従一位、勲一等旭日桐花大綬章。

 長谷川好道(はせがわ・よしみち)中佐(二十四歳・歩兵第一連隊長心得)は、明治四年陸軍大尉。最終階級は元帥陸軍大将。参謀総長、朝鮮総督。伯爵、従一位、大勲位菊花大綬章。

 岡沢精(おかざわ・くわし)少佐(三十歳・近衛歩兵第一連隊大隊長)は、明治四年陸軍少佐。最終階級は大将。大本営軍事内局長、侍従武官長。子爵、正二位、勲一等旭日大綬章、功二級。

 佐久間左馬太(さくま・さまた)少佐(三十歳・西海鎮台付)は、明治五年陸軍大尉。最終階級は大将。東京絵衛戌総督、台湾総督。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章。

 山口素臣(やまぐち・もとおみ)少佐(二十八歳・近衛歩兵第一連隊第一大隊長)は、明治四年陸軍大尉。最終階級は大将。第五師団長、軍事参議官。男爵、正四位、勲一等旭日大綬章、功三級。

 滋野清彦(しげの・きよひこ)少佐(二十八歳・陸軍省第一局第三課長)は、明治四年陸軍少佐・最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校長、将校学校監。男爵、従三位、勲一等瑞宝章。







591.桂太郎陸軍大将(11)桂太郎は、大阪兵学寮を病気と称して退学した

2017年07月21日 | 桂太郎陸軍大将
 六月八日、フランス式陸軍修業として、桂太郎は東京留学を命ぜられ、開成所に入ることになった。開成所は、明治二年正月に、イギリス、フランスの二国の語学科が設置され、語学を修める者はここに入所することになっていた。

 外遊の希望は、欧州戦前から桂の心の中に強く宿っていたので、開成所入りは、その第一歩として、喜んでいた。

 だが、六月十九日、突然、藩より呼び出しがあって、山口へ行った。すると、七月二十日、第五大隊補助長として、東京へ転ずる旨の命令が下ったのである。

 これに対して、桂は、どこまでも、まず学生として語学を修め、その上で、外遊して兵学を修めたい志望であったので、藩に請うて官を辞し、東京へ上った。

 明治二年七月、明治維新後、修学の志が抑えがたくなっていた桂太郎は、東京に行く途中、京都で兵部大輔・大村益次郎(おおむら・ますじろう・山口・長州征伐と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し勝利・維新後明治政府の軍務官副知事・兵部省大輔(次官)<四十五歳>・日本陸軍を創設・大阪兵学寮設置・京都で刺客に襲われ重傷、治療を受けるが死亡<四十五歳>・従三位・孫が子爵を授爵・従二位)に面会した。

 「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、その時、大村益次郎が桂太郎に次のように語った。

 「戊辰戦争後の日本の課題の一つは軍制の改革であるが、兵権の統一には軍制の基礎を樹立する必要があり、それにはまず将校の養成を図らなければならない」

 「将校の養成の方法として、正規の教育としてまず語学所を横浜に設置し、語学を修めた人材をさらに六か年を期してヨーロッパに留学させる必要がある」

 「他方、当面の急に対応する変則の教育としては、大阪に青年舎を設置して速成の将校養成を図る」。

 さらに、大村は、桂に「海外遊学の志があるならば、正則の教育を選んではどうか」と助言した。桂は大きな希望を持った。

 桂が東京に着いて間もなく、大村が凶変にあって死亡したとの報に接した。桂は信じられなかった。

 明治二年十月、桂太郎は、大村死去の衝撃を振り払って、大村の忠告に従って横浜の語学所に入学した。だが、明治三年五月、横浜の語学所は、大阪の兵学寮に統合された。

 明治三年五月、桂太郎は、大阪兵学寮を病気と称して退学した。この兵学寮では官費留学の方法がないことを知ったのだ。これでは自腹を切る以外にほかはなかった。

 明治三年七月萩に帰り、洋行留学の許可を得た桂は、八月、自腹を切り、私費で留学しようと決心した。奥州戦で東北鎮定の功により、二百五十石を加増されていたので、これを留学費用に当てたのだ。

 最初、桂はフランス語を習い、フランスに留学しようとしていた。当時フランスは奥州第一の陸軍国で、武威を四方に張っていた。だから、この国に学ぼうと思っていた。

 九月日本を出港した。だが、桂が航海中、普仏の間に戦争が勃発し、目的地に着いた時には、フランスは連敗して、城下の盟(じょうかのちかい=屈辱的な降伏の約束)をする有様だった。

 そこで桂は直ちにベルリンに向かい、ドイツで学ぶことに目的を変更した。ドイツに留学した桂太郎は、まずドイツ語から徹底的に学んだ。その後、ベルリンでドイツ帝国陸軍のパリース少将に師事して軍事学を研究した。

 明治五年八月、アメリカ視察旅行を終えた欧米使節団の岩倉具視(いわくら・ともみ)特命全権大使一行がヨーロッパに渡り、ベルリンに着いた。

 一行の中には、大蔵卿・大久保利通(おおくぼ・としみち・鹿児島・維新の三傑・王政復古の後参与・維新後明治政府の太政官・参議・大蔵卿・岩倉使節団副使・征韓派の西郷隆盛を失脚させる・内務卿・台湾出兵後全権弁理大臣・西南戦争で政府軍を指揮・暗殺される・従一位・勲一等旭日大綬章)がいた。

 また、桂太郎の郷里の先輩として次の二人もいた。

 参議・木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎<かつら・こごろう>山口・長州藩の尊王攘夷派の中心人物・藩の外交担当者・維新後総裁局顧問専任<三十五歳>・参与・参議・文部卿<四十一歳>・文明開化を推進・封建的諸制度の解体に努める・三権分立国家の樹立を主張・権力闘争の新政府の中での精神的苦悩により心身を害し西南戦争半ばに「西郷もいいかげんにしないか」との言葉を残し病死<四十四歳>・遺族は侯爵の叙される・従一位・勲一等旭日大綬章)。

 工部大輔・伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口・松下村塾・イギリス留学<二十二歳>・長州藩外国応接係・高杉晋作の下で功山寺挙兵・維新後外国事務局判事・兵庫県知事<二十八歳>・工部卿<二十九歳>・宮内卿・岩倉使節団副使・征韓論で大久保利通を支持・大久保暗殺後内務卿<三十七歳>・憲法調査のため渡欧・大日本帝国憲法を起草制定・初代内閣総理大臣<四十四歳>・枢密院議長・第二次伊藤内閣・第三次伊藤内閣・立憲政友会初代総裁・第四次伊藤内閣・貴族院議長・初代韓国統監・枢密院議長・ハルピン駅で暗殺される<六十八歳>・公爵・従一位・大勲位菊花大綬章・菊花章頸飾・ロシア帝国アレクサンドルネフスキー勲章一等・フランス共和国レジオンドヌール勲章一等・大英帝国バス勲章一等など)。

 当時ドイツ留学中の桂太郎はこの一行に会って、ドイツの国情を説明したり、案内役をしたりした。