陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

520.永田鉄山陸軍中将(20)小畑敏四郎さんの方が、永田さんよりもよっぽど偉い

2016年03月11日 | 永田鉄山陸軍中将
 「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、荒木貞夫大将について、有末精三(ありすえ・せいぞう)元中将(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・陸軍省軍務局軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・戦後対連合軍陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長)は次のように述べている。

 荒木さんが陸軍大臣になって一番力を入れられたのは、やっぱり陸軍の皇道精神ですね。つまり、わが陸軍は単純なものじゃない、大元帥の本当の股肱としての陸軍なんだ、その精神をよく覚えていろという意味で、皇軍精神ということを非常に唱えたのです。

 その時分に、参謀本部に小畑敏四郎という人がいました。第三部長でしたが、荒木さんと非常に仲がいいから、直接陸軍省においでになるので、いろいろの話が出たんでしょう。

 やっぱり、陸軍省なら陸軍省で組織があってやっておるのに、参謀本部からしばしば来るので、省内の人にあまり面白くない感じを与えたことはあると思いますが、派閥という感じはなかった。

 それから、荒木さんは性格からいって非常に人を見込まれました。それだから、つい好き嫌いが出てくるんじゃないかと私は思うのです。

 その点、一番荒木さんが信頼されたし、何といったって、もののできるのは小畑敏四郎さんだという頭、これは変わらないでしょうね。

 今でも荒木さんは小畑敏四郎さんの方が、永田さんよりもよっぽど偉いと思っておられましょう。だから非常に小畑さんを重用されたという事は事実です。

 以上が有末精三元中将の回顧談だが、著者の中村菊男氏の「永田さんを嫌った理由というのは、どういうところにあるのでしょうか?」という質問に対して、有末精三元中将は次の様に答えている。

 「それは、ぼくにはわからないんですけれどもね。そのもとは、小畑さんとの関係じゃないかと思うのです」。

 「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、小畑敏四郎は土佐の出身で、小畑の父は維新の時、討幕に奔走した功により、明治政府より男爵を受けていた。

 小畑の長兄、小畑大太郎は、長く貴族院議員(男爵)をしており、また、小畑利四郎の夫人は衆議院議長・元田肇(後に枢密顧問官)の娘だった。

 こうした家門の関係から、小畑敏四郎は佐官時代から、貴族院方面の政治家と近づきがあり、近衛文麿とは、最も親しい間柄だった。

 この小畑敏四郎の頭脳と手腕を買ったのが、真崎甚三郎であり、荒木貞夫であった。そして小畑は荒木、真崎の皇道派陣営に飛び込んで、その謀将となり、中心人物となって、永田鉄山ら統制派と対立していく。「バーデン・バーデンの密約」から十年目のことである。

 このような背景もあり、荒木陸軍大臣は、永田大佐より、小畑大佐の方を重用した。中佐時代にすでに作戦課長をやっている小畑大佐を、陸軍大学校教官から再び参謀本部の作戦課長にするという異例な人事さえ、敢えて実施した。

 この人事は、さすがに周囲を驚かし、唖然とさせた。実は荒木陸軍大臣は、そのあとで、小畑大佐を参謀本部第一部長(作戦)に、永田大佐を第二部長(情報)にするつもりだった。

 当時の第一部長は古荘幹郎(ふるしょう・もとお)少将(陸士一四・陸大二一首席・近衛歩兵第二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第二旅団長・陸軍省人事局長・参謀本部総務部長・参謀本部第一部長・中将・第一一師団長・陸軍次官・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・兼第五軍司令官・第二一軍司令官・大将・軍事参議官・正三位・勲一等・功二級)だった。

 ところが、意外にも、小畑大佐は、「第一部長は今の古荘幹郎少将のままでいいです」と言って、第三部長(運輸通信)を希望したのである。

 小畑大佐は、古荘少将を前面に置いてロボットとして、作戦のことは裏で自分が牛耳るつもりだった。つまり影の第一部長になり、同時に第三部長に就任し、参謀本部を動かす、それが小畑大佐の考えだった。
 
 だが、このような、荒木、小畑の野望の前に、最大の”敵”として、頭角を現し、立ち塞がって来るのが陸軍の傑出した英才、永田鉄山と、その盟友、東條英機だった。
 
 永田大佐と小畑大佐は、それぞれ、第二部長、第三部長に就任して以後、その戦略思想の対立もあり、何かにつけて激突するようになっていく。

519.永田鉄山陸軍中将(19)やがて二人の関係は犬猿の仲になっていった

2016年03月04日 | 永田鉄山陸軍中将
 「十月事件」で「桜会」は解体され、中堅幕僚たちの動きも静まって行った。だが、彼ら中堅幕僚たちは、その後のいわゆる「統制派」を構成していく。

 「十月事件」は、その構成分子に三様の区別があった。第一は永田軍事課長ら中央軍部の幕僚であり、第二は、橋本中佐ら中央の幕僚と密接な関係にあった「桜会」に属する将校であり、第三は皇道派青年将校達だった。

 第一と第二は大川周明の指導、第三は北一輝、西田税の影響下にあった。第一、第二は国家社会主義的思想傾向を持ち、第三は天皇主権の絶対的信念下にあった。

 この革新派の思想的対立が「十月事件」以後、「血盟団事件」「五・一五事件」「神兵隊事件」そして「相沢事件」「二・二六事件」となって混乱を重ねていった。

 ところで、永田鉄山(昭和二年三月五日大佐に進級)と小畑敏四郎(昭和二年七月二十六日大佐に進級)は大佐時代に、徐々に交流がなくなり、手紙のやり取りもしなくなった。

 岡村寧次(昭和二年七月二十六日大佐に進級)は二人の仲を取り持つことに努力し続けたが、やがて二人の関係は犬猿の仲になっていった。

 この二人の関係について、鈴木貞一元中将は、戦後、次のように証言している。

 永田という人は、小畑とは非常な性格の相違があるのだが、非常に幅広く物を考えて行動する人で、そういう性格の持ち主であった。

 小畑という人は、とにかく統帥一点張りに物を考えてやっていく狭く深い考えで行く人である。私は両方に仕えているから知っているが、それが二人の性格の差であった。

 その差が、世間が騒ぐようなことになったんだが、本人同志は別に何という事はないように覚えている。ただ性格の差から物の考え方に相違ができているという程度で、世間でいうような派閥の関係とかそういうようなことは一つもない。

 以上が鈴木貞一元中将の見解だが、戦後の記述なので、意図的な配慮があるのだろうが、「性格の差」を素因とした一面的な見方でしか述べていない。

 実際は永田と小畑の、派閥的(統制派と皇道派)対立、軍歴(軍政畑と軍令畑)の違い、戦略(対支戦重視と対ソ戦重視)の相違など、もっと複雑多肢に渡った原因から来ている。

 二人の関係の悪化が顕著になって来たのは、昭和六年十二月、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・大六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・A級戦犯で終身刑・釈放)が犬養内閣の陸軍大臣に就任したことから始まった。

 それまでの永田大佐の軍歴は、昭和三年三月歩兵第三連隊長。昭和五年八月陸軍省軍事課長(~昭和七年四月)。

 小畑敏四郎大佐の軍歴は、昭和三年八月歩兵第一〇連隊長。昭和五年八月陸軍歩兵学校研究部主事。昭和六年八月陸軍大学校兵学教官(~昭和七年二月)。

 荒木貞夫中将が陸軍大臣に在任中(昭和六年十二月十三日~昭和九年一月二十三日)の二人の軍歴は次の通り。

 永田大佐は、昭和七年四月少将、参謀本部第二部長(情報)。昭和八年八月歩兵第一旅団長。

 小畑大佐は、昭和七年二月参謀本部作戦課長、四月少将、参謀本部第三部長(運輸・通信)。昭和八年八月近衛歩兵第一旅団長。

 「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、荒木貞夫中将は、参謀本部第一部長、陸軍大学校長、大六師団長(熊本)を歴任し、昭和六年八月教育総監部本部長に転補された。

 その際、東京着任時には、軍の革新将校が出迎えた。また、右翼の歓迎デモが計画されたほど、彼の東京入りは、革新陣営の大きな期待だった。

 そして間もなく、「十月事件」が計画されたが、そのクーデター計画では荒木中将は首相に予定されていた。「革新」における荒木中将の名声は確たるものがあった。

 この荒木中将を犬養内閣に推薦したのは、南次郎陸相だったが、これには教育総監・武藤信義大将の強い要請によるものだった。また、上原勇作元帥もわざわざ組閣本部に犬養を訪ねて、荒木中将の入閣を推薦した。

 青年将校らは、荒木中将の教育総監部本部長時代から、そのもとに集まっていたが、陸軍大臣になるにおよんで、完全にその傘下に入った。






518.永田鉄山陸軍中将(18)橋本氏がうんと言わなければ私は止めるわけにはいかん

2016年02月26日 | 永田鉄山陸軍中将
 しかし荒木に出てもらわないと治まらないかもしれない、ということで荒木が陸軍省にやって来て、それではひとつ説得をしてみましょうと言って、どこかの料理屋に行き説得した。

 だが、言う事を聞かない。荒木が担ぎ上げられて総理にでもならなければ、ということになってしまい、お手上げになってしまった。

 陸軍次官の部屋に参謀本部の関係課長、軍務局長以下課長連が集まり、十月事件の前後処置を講ずることになった。杉山が主宰して集めてやったのであるが、私も下働きで永田については言っていた。

 しかし、いくらやってもなかなか話が解決しない。みんな自分で責任を負う事がいやなんだ。参謀本部の各課長たちが……。

 そうこうしていると、夜が明けるという。永田が私を肘でつつくから、私が巻紙を貸してくれ、と言って次官の硯でもって巻紙に一筆書いた。

 それは要するに、このような外道な事を考えて動き出すことはいかん、君らの志は諒とするけれども、その行動は到底軍律上許すことはできない、それだから一時憲兵に渡すということを書いた。

 それで永田に見せたところ、それでいいだろうと永田が次官の前で読み上げ、次官もそれで結構結構と、それを担いで陸軍大臣をたたき起こして、そして陸軍大臣は内務大臣に先立って上奏する、ということになった。そういうことでも永田が中心になってそれを治めていたということです。

 荒木を担いで理想内閣を作るとワアワア騒いでいたその荒木が行って説得しても駄目であったということです。それでも荒木が十二月に陸相になったということは、永田も同意し推進したのは事実です。

 以上が鈴木貞一元陸軍中将の証言であるが、その後の「十月事件」に対する軍当局の処置には多くの疑問があった。橋本中佐以下十数名は数か所に軟禁はしたものの、料亭で毎日酒と御馳走が出され、馴染の芸者まで侍らせた。

 いわゆる「腫れ物に触る」というやり方だった。しかも約二週間で軟禁は解かれた。青年将校たちにとっては、当局の処断がこんなに簡単にすまされようとは、思いもよらぬ事だった。

 「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、「十月事件」で、荒木中将が、長勇少佐、橋本欣五郎中佐を説得した経過を、馬奈木敬信(まなき・たかのぶ)元中将(福岡・参謀本部ドイツ班長・歩兵大佐・オランダ駐在武官・歩兵第七九連隊長・少将・第二五軍参謀副長・ボルネオ守備軍参謀長・中将・第二師団長)が次のように証言している(要旨抜粋)。

 長君から「金竜亭で会いたい」という手紙を私(馬奈木少佐)は受け取った。参謀本部に帰ると、荒木中将から、「馬奈木よ、おれを長勇のもとに案内せよ」と電話があった。初めは、知らぬ、存ぜぬであったが、許されない。

 やむなく、しばらくの猶予を請い、長君に右の趣旨を電話したが、彼は峻拒したが、荒木将軍は私を促して自動車の人となり、十数分後には金竜亭に横付けとなった。

 荒木中将が着いたとき、長君は酒を飲んでいた。自動車の停まる音を聞いた彼は浴衣の上に羽織をひっかけ、袴を結びながら二階から階段を飛ぶように降り、玄関に平伏した。

 それが、荒木将軍が気に入ったらしい。酔っ払っても上官を迎える礼を知っていると(笑)お褒めの言葉を我々にもらされた。直ぐ二階に上がり、酒肴の準備を命じつつ、長君に対し「お前はいつ帰って来ていたか。帰ってきたら顔ぐらい出せよ」と言って、極めて物静かに語り、詰問するようなところはなった。

 自分で長君に酌をしながら、やがて、ころ合いになって、「ちょっと話があるからお前らさがれ」と女たちを退け、「長、お前何か考えているそうじゃないか」と切り出した。長は「何も考えておりません」「なにはともあれ、今考えていることを止めよ」と再言するや、長は答えて「それはできない、やります」と言う。

 「どうしてか」「それは私一人のことではない。私には相棒として橋本欣五郎中佐やその他の面々がいる。橋本氏がうんと言わなければ私は止めるわけにはいかん」と言った。「それじゃ、橋本が止めると言ったら止めるか」「それなら止めます」と答える。すぐ橋本中佐をよべとのことで、一時間後に現れた。

 荒木将軍は橋本中佐に、「長君は君のいう事なら聞くという事だが、君の計画していることを止めてもらいたい」と、一種の圧力をかけた。橋本中佐も、事ここに至っては万事休す、との結論に達し終幕となり、将軍は引き揚げた。




517.永田鉄山陸軍中将(17)「革命に利を以って誘うとは何事だ」と怒鳴り、大口論となった

2016年02月19日 | 永田鉄山陸軍中将
 この記事を書いた、参謀本部の松村秀逸砲兵大尉は、当時穏健派であった。

 だが、この「十月事件」勃発の前、参謀本部幕僚と青年将校たちは国家革命という共通認識が存在し、お互いに共同歩調で進むことも視野に入れてはいた。

 その後、橋本中佐らのやり方に対して、青年将校たちは不信感を抱き始めてきた。さらに、「湯水のごとく金を使っているが、どこから出ているのか」「酒と女に囲まれて、天下、国家を論じているが、不謹慎じゃないか」などと、批判し出した。

 橋本中佐らが検挙される前、十月十日に、神楽坂の料亭「梅林」に橋本中佐ら参謀本部幕僚と、在京部隊将校・戸山学校・砲工学校・歩兵学校ら青年将校らによる「顔合わせ」の集会が開かれた。

 だが、橋本中佐らのやり方は幕僚ファッショの確立であり、「天皇中心」は表面的なことであり、国家社会主義的傾向があった。軍首脳部による政権奪取だった。

 これに反して、北一輝、西田税の影響下にあった青年将校の革新論は国体主義に徹したものであったので、天皇中心の皇道政治の確立を目指す考えだった。

 この両者の思想の差異は革新理論の対立であり、この集会は、分裂の始まりとなった。つまり皇道派と統制派の対立となっていった。

 この集会に参加していた、末松太平中尉は、橋本中佐の腹心、天野中尉から、「橋本中佐がこの計画が成功した暁には、『鉄血章』をやると言っているので、しっかり努力してくれ」と耳打ち、唖然とした。

 怒り心頭に達した末松中尉は、仲間の菅波三郎中尉にこれを語り、激昂した二人は、橋本中佐に詰め寄り、「革命に利を以って誘うとは何事だ」と怒鳴り、大口論となった。

 また、「二・二六事件への挽歌」(大蔵栄一・読売新聞社)によると、十月十日に、神楽坂の料亭「梅林」に合流した青年将校は大広間に集まった。

 しばらく待っていると、橋本欣五郎中佐が入って来た。参謀肩章を吊った上衣のボタンをはずしたまま、彼は大広間の真ん中につっ立った。かと思った時、彼は軍刀を畳の上に投げ出して、倒れるように大の字に寝転んだ。「どうとでもしやがれ」と叫んで、瞑目したまましばらくじっとしていた。

 決行を目前にして、総指揮官である橋本中佐のこの奇妙な態度には、解し難いものがあった。参加者に対して二階級特進の恩典をほのめかして、前々から青年将校らの批判の的になっていた。

 このことがあって菅波三郎中尉ら青年将校グループと、橋本中佐を中心とする「桜会」のグループの間に思考方向、方法手段の差のほかに、感情的なミゾがますます大きく開いた。

 十月十七日、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐、参謀本部部員・長勇少佐ら中心人物は憲兵隊により一斉に検挙された。

 この時、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐は、責任を追及し、極刑を主張したが、責任は曖昧のままとなった。橋本中佐は重謹慎二十日、長勇少佐は同十日という軽いものに終わった。

 この「十月事件」に対する陸軍中央の当初の対応は、軍事課長・永田鉄山大佐らが主導したと言われている。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)の中で、鈴木貞一(すずき・ていいち)元中将(千葉・陸士二二・陸大二九・陸軍省新聞班長・歩兵大佐・陸軍大学校研究部主事兼教官・内閣調査局調査官・歩兵第一四連隊長・少将・第三軍参謀長・興亜院政務部長・中将・興亜院総務長官心得・予備役・国務大臣兼企画院総裁・大東亜建設審議会幹事長・貴族院議員・内閣顧問・大日本産業報国会会長・A級戦犯で終身禁錮・仮釈放・赦免)は次のように証言している(要旨抜粋)。

 この十月事件の後始末は参謀本部の人、特に渡とか東條などの課長がやらなければならない立場であった。ところが、それを永田が陸軍省に持ち込んだ。ということは当時永田はそれほどまでにそういう問題に対しても十六期、十七、八期あたりでは非常に群を抜いた力を持っていた、ということにほかならない。

 それで私と永田と色々話したんだが、とにかくこれは止めさせなくてはいかんと、そして参謀本部の課長などに厳に説得をして止めさせるようにしなさい、といったがやれない、それでいよいよ閣議にも取り上げられた。


516.永田鉄山陸軍中将(16)宇垣一成大将が陸軍大臣である以上、もうこの辺でおしまいだ

2016年02月12日 | 永田鉄山陸軍中将
 このあと、ただちに真崎大佐は、近衛歩兵第一連隊長に転出させられたのである。以後、田中義一大将、宇垣一成大将の勢力の強い間は、最優秀の序列にありながら、真崎大佐は参謀次長に就任するまで、一度も省部の要職に就く事は無かった。

 真崎大佐は、その後、近衛歩兵第一旅団長(少将)、陸軍士官学校本科長、陸軍士官学校幹事兼教授部長、陸軍士官学校校長(中将)、第八師団長を経て、昭和四年七月第一師団長に転補された。

 当時の第一師団には、参謀長・磯谷廉介大佐、歩兵第一連隊長・東條英機大佐、歩兵第三連隊長・永田鉄山大佐らが、おり、真崎中将の直接の部下になった。

 磯谷廉介大佐、東條英機大佐、永田鉄山大佐らは、真崎師団長を、軍人の神様のように崇拝していたという。彼らは、師団長官舎によく出入りして、真崎中将から薫陶を受けていた。彼らは、長州閥の打破を目指しており、その点で真崎中将を彼らのリーダーとして称賛していたのである。

 昭和六年に入り、宇垣一成大将が陸軍大臣である以上、もうこの辺でおしまいだと、真崎師団長は覚悟を決めていた。

 七月になり、八月異動の噂が立ち始め、真崎師団長はクビになり、待命だという。そんな馬鹿なことはないと、当時の磯谷参謀長、東條連隊長、永田軍事課長、岡村寧次補任課長らが、真崎中将の待命を阻止する運動を起こした。

 是が非でも真崎中将を助けねばという彼らの熱情に動かされて、とうとう参謀総長・金谷範三大将は「それなら台湾にでもやるか」と真崎甚三郎中将を八月の定期異動で台湾軍司令官にした。

 台湾に着任後、さすがの真崎甚三郎中将も、この台湾軍司令官が軍歴の最後だと思って奉公していた。だが、昭和六年十二月末の政変で、真崎中将の盟友、荒木貞夫中将が陸軍大臣に就任した。

 すると翌年昭和七年一月七日、真崎甚三郎中将を参謀次長に補すという発令がなされた。皇族である閑院宮参謀総長を補佐する事実上の参謀総長である、大参謀次長の任に就いたのである。荒木・真崎時代の幕開けであった。

 その前年の、昭和六年十月に「十月事件」が起きた。昭和六年九月十八日、柳条湖事件が起き、満州事変が勃発した。政府は、不拡大の方針を決定した。

 この政府決定に不満を抱いていた陸軍の「桜会」の橋本欣五郎中佐、長勇少佐らは、大川周明博士、北一輝らのグループと呼応してクーデターを計画した。軍隊を動かし、要所を襲撃、首相以下を暗殺、荒木貞夫中将を首班にした革新内閣を樹立するというもので、決行は十月二十四日と決めていた。

 当時、「桜会」の会員に参謀本部附・松村秀逸(まつむら・しゅういつ)砲兵大尉(熊本・熊本陸軍幼年学校・中央幼年学校・陸士三二・陸大四〇・関東軍参謀・陸軍省情報部長・砲兵大佐・内閣情報局第二部第一課長・大本営陸軍報道部長・内閣情報局第一局長・第五九軍参謀長・原爆で重傷・少将・戦後参議院議員・在任中に病死)がいた。

 松村秀逸は、その著書「三宅坂―軍閥は如何にして生れたか」(松村秀逸・東光書房・1952年)で、当時の「桜会」について、次のように述べている。

 「桜会には、急進派もあり、穏健派もあり、中間派もいた。最初は少人数だったが、そのうちに陸軍省、参謀本部、教育総監部の、いわゆる陸軍の中央三官衙におった中佐以下の将校を中心にして、それに、東京附近の部隊や、学校におった将校が集まって、夕食をともにしながら、時局談に花を咲かせていた」

 「集まった者も、四、五十人も出なかったし、穏健派が主力であって、世間でいう程過激なものではなかった。その中で、橋本欣五郎中佐を班長としたロシア班が急進派だった。通称、橋欣さんは、大使館附武官として、トルコに在勤、ケマルパシャの独裁を目のあたりに見、ロシアの五カ年計画や、ヒットラー、ムッソリーニの行動を側面から、眺めていたのである」

 「桜会を利用して、同志を集めようと企てておった模様で、コッソリ出席簿を作ったりして、御定連の中で、血の気の多い若い連中に呼びかけていたが、ことに会員拡大の方針をとってからは、参謀本部からは武藤章中佐や河辺虎四朗中佐の出席もあり、彼らは正面切って、橋欣さんの主張を論難、反ばくした」

 「そんな訳で、矯激組は一割そこそこの少数派で、会員の大部分は冷静で革新などということは、たいして興味を持った者は少なかった」

 「いつか、橋欣さんが大川周明博士を引っ張って来て、日本青年会館で講演をさせたりしたこともあったが、たいした共鳴者もなかったのが、事実である」。

515.永田鉄山陸軍中将(15)それはいかん、そんなことをしたら軍隊は毀れてしまう

2016年02月05日 | 永田鉄山陸軍中将
 山岡重厚中将が書き遺した「私の軍閥観」に「三月事件」として次のような記述がある(要旨抜粋)。

 私は当時教育総監部の先任課長をしていたが、三月十一日急に芝の飛行会館で会合があるから来てくれといわれ、出かけたところ、教育総監部からは私一人であった。

 だが、永田大佐、岡村大佐が来ていて、実はこういう計画で軍部内閣を造りたい。宇垣さんの承諾も得ている。是非賛成してくれないかというとんでもない相談である。

 私は「それは非常に乱暴だ。教育総監部の課長として賛成できない、いくら予算がとれぬとしても、また満州の日本人が困っているからといっても、兵馬の大権を犯して内閣をつぶし陛下に新たな軍部内閣を強要するのは軍を壊し、陛下の大権を犯す不逞行為だ。絶対に反対だ」と答えた。

 高知の男で大佐の小畑敏四郎という人も来ていて、私の意見に賛同し、直ちにやめろといったので、永田も、岡村も、それではやめようと土肥原賢二と岡村は直ちに参謀本部及び陸軍省の方へ中止の手続きを取った。

 この計画書は後で問題になったが、軍事課長の永田鉄山大佐の自筆のものであった。宇垣の意中を受けて軍務局長小磯国昭などが差し金を入れ永田が主になってやったと思う。

 この当時から永田の思想は危険であった。永田は非常な秀才だがドイツに留学して国家総動員法に心酔し、日本の国へも必ず取り入れねばならないと信じ込んでしまったのだ。

 ドイツの国家総動員法で強くいくと、議決をするとそれを上に出して決裁を受ける訳だが、この際上の者は自分の意思表示をして、これをやめさせることが出来ない仕組みになっており、全くのロボットでしかなくなる。

 この採決が美しき、合法的な同意表示であると認めておる。故に日本の統帥事項とか、憲法の天皇の大権とかにふれてくると、永田一派の国家総動員法の仕組みでは、天皇大権は意味がないことになる。

 これが天皇に軍部内閣を強要するという永田の思想の元である。ちょうどドイツ、イタリヤのファッショとでもいおうか、当時の最新のいわゆる合法的なハイカラ思想とされていた。これは決して永田だけでなく、軍部にも、官僚にも沢山あったようだ。

 以上が、山岡重厚中将が「私の軍閥観」で述べている、三月事件中止の経過であるが、三月事件の歯止めとなったのが、真崎甚三郎中将だった。

 真崎甚三郎中将は当時第一師団長(東京)だった。この三月事件のクーデター計画を三月十五日、磯谷廉介参謀長から報告を受けた真崎師団長は激怒した。(山岡中将は、三月十一日に中止に至ったと記しているが、徹底していなかったと思える)。

 真崎師団長は「それはいかん、そんなことをしたら軍隊は毀れてしまう。おれは警備司令官の命令があっても絶対に兵を出す事はできない。即刻陸軍省に行って、永田軍事課長にそう言ってくれ」と磯谷参謀長に命令した。

 磯谷参謀長は永田軍事課長の元に行き、「その計画の中止」を求める真崎師団長の意図を伝えた。第一師団が動かなければ駄目だった。それで、クーデター計画は、中止に至った。

 後に、皇道派の頂点に君臨した真崎教育総監を更迭させた、永田、東條ら統制派の中堅幕僚たちは、この三月事件当時は、真崎師団長を崇拝し、盛り立てようと必死だったのである。その経過は次のようなものであった。

 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、真崎甚三郎大佐が教育総監部第二課長から軍務局軍事課長に補されたのが、大正九年八月十日で、近衛歩兵第一連隊長に転出したのは大正十年七月十日である。

 陸軍の重要ポストにしては、真崎大佐の在任期間が一年とは異例の短い期間だった。当時の陸軍省の首脳は、田中義一陸軍大臣、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、軍事課高級課員・児玉友雄中佐(児玉源太郎大将の三男・後の中将)というように、上下を長州閥で固められていた真崎大佐は、サンドウィッチ状態で、思うように才幹を振えなかった。

 だが、真崎大佐早期転出の原因は、陸軍の機密費に関することだった。真崎大佐が軍事課長として着任した当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸軍大臣、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮高級副官の四人だった。

 この時、すでに大正七年分の機密費として七七〇万円が秘密裏に蓄積されつつあった。永田大佐の軍事課長というポストは、省内のすべてを知り尽くしている位のカナメの地位だった。

 軍事課長に就任した真崎大佐は、この機密費の不正蓄積についてのある感触を得た。持前の正義感から、真崎大佐は直ちに軍の機密費の適正な使用と管理についての意見書を提出した。






514.永田鉄山陸軍中将(14)永田大佐を快く思っていない一部の者が、鬼の首でも取ったように

2016年01月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 それで小磯軍務局長が大臣に取り次がねばならないので、兎に角一度読んでから意見を聞かしてくれと永田軍事課長に言った。

 翌日永田軍事課長に「昨日の書類を読んだか」と聞くと、永田課長は「やはり意見を書かねばならないのですか」というので、「そうじゃないのだ。意見を聞きたいのであって、別に意見を書いて出せと言うのじゃない」と言った。

 仕方がないので小磯軍務局長は、宇垣陸軍大臣に大川博士の提案書の原文と添え書きを提出した。

 だが、永田軍事課長は、何を勘違いしたのか、その日の午後、意見書をペンで書いて小磯軍務局長へ提出した。小磯軍務局長は参考のため、受理して、一読して、保管して置いた。

 これが、後日、時の軍務局長・山岡重厚少将が発見して、永田大佐を快く思っていない一部の者が、鬼の首でも取ったように騒ぎ立て、「三月事件は時の永田軍事課長が計画し、これを基礎として小磯軍務局長らが、踊ったのだろう」と勘違いして、怪文書まで出して攻撃した。

 以上の如く、永田軍事課長はこのクーデター計画に完全に無関係とは言えないが、当初より、小磯軍務局長に「暴力革命は反対である」と岡村寧次補任課長と共に、反対の急先鋒となっていたのは明らかだ。

 さらに、三月事件は、宇垣陸軍大臣が、大川博士の提案書を読んで「あんなばかなものが採用できるものか」という表現で、小磯軍務局長に言い、相手にしなかった。

 最終的には、宇垣陸軍大臣が「そんな気がないのだ」ということで、二宮参謀次長、小磯軍務局長らが、クーデターの決行を中止することに傾いたことで、三月事件は収束に向かった。

 以上が、「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)による、三月事件と永田軍事課長の関連を述べたものだ。

 ところが、「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、永田軍事課長が深く関わっていると主張している。著者の菅原裕氏は、相沢中佐の弁護人、鵜沢聡明弁護士の後任の弁護士であり、元東京弁護士会会長、東京裁判弁護人を務めた。

 この本によると、三月事件とは、昭和六年三月二十日を期して軍閥が武力をもって国内政治の支配権を獲得しようとしたものである、として次の様に記している。

 当時、陸軍省、参謀本部の首脳者だった陸軍次官・杉山元中将、軍務局長・小磯国昭少将、軍事課長・永田鉄山大佐、参謀本部支那課・根本博少佐、参謀次長・二宮治重中将、参謀本部部長・建川美次少将、同作戦課長・山脇正隆大佐、補任課長・岡村寧次大佐、ロシア課長・橋本欣五郎中佐らが、計画した。

 彼らは、民間の大川周明や右翼団体と結び、陸相・宇垣一成大将を擁立して折から開会中の議会を包囲して一挙に軍事政権を樹立しようとしたクーデター陰謀事件であった。

 それが同じ軍内の皇道派将校の正論に妨げられて、ついに行動中止のやむなきに至り、未遂に終わったものである。

 永田軍事課長のクーデター計画書は、陸軍省の最重要ポストである軍務局の中心的存在というべき軍事課長の永田鉄山大佐が、いわゆる三月事件といかなる関係にあったかを証明する最も重要な証拠である。

 これは永田軍事課長が直筆をもって認め、小磯軍務局長に提出し、小磯中将が軍務局長専用の金庫内に保管していたが、亊破れクーデターを中止したためこの行動計画書も実用に供されずそのまま金庫の奥深く保存されたままになっていた。

 軍務局長のポストはその後、小磯中将から山岡重厚中将に引き継がれたが、山岡新軍務局長が後日、金庫の中を検査した際、この計画書が発見されたのである。

 彼ら三月事件関係者の計画がここまで進捗していたことに驚愕し、ただちにこれを荒木陸相に提出した。荒木陸相はことの容易ならざることを知った訳だが、国際情勢のただならぬ秋、優秀な人材(三月事件関係者・統制派)を軍から失う事を恐れ、その処分を猶予し、従って書類も厳密に付したまま保管し続けた。

 また、この三月事件を阻止したのは、山岡重厚大佐と小畑敏四郎大佐、それに真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・教育総監・軍事参議官)であった。

513.永田鉄山陸軍中将(13)私はそんな非合法的処置には元々反対の意見を持っています

2016年01月22日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田鉄山中将を偲び刊行された「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)では、三月事件について、次のように述べている。

 この三月事件の主要計画参加者は次の通り。

 【参謀本部】

 参謀次長・二宮治重(にのみや・しげはる)中将(岡山・陸士一二・陸大二二恩賜・近衛歩兵第三連隊長・少将・英国大使館附武官・歩兵第二旅団長・参謀本部第二部長・中将・参謀次長・第五師団長・予備役・文部大臣)。

 第二部長・建川美次(たてかわ・よしつぐ)少将(新潟・陸士一三・陸大二一恩賜・参謀本部欧米課長・陸軍大学校兵学教官・少将・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・ジュネーブ軍縮会議陸軍代表・国際連盟陸軍代表・中将・ジュネーブ軍縮会議全権委員・第一〇師団長・第四師団長・予備役・「ソビエト」社会主義共和国連邦在勤特命全権大使・大日本翼賛壮年団長)。

 支那課長・重藤千秋(しげとう・ちあき)大佐(福岡・陸士一八・陸大三〇・参謀本部支那課長・歩兵第七六連隊長・第一一師団参謀長・少将・歩兵第一一旅団長・台湾守備隊司令官・中将)。

 陸軍大学校教官・橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)中佐(福岡・陸士二三・砲工二一・陸大三二・トルコ公使館附武官・参謀本部欧米課ロシア班長・砲兵中佐・陸軍大学校兵学教官・野戦重砲兵第二連隊附・砲兵大佐・野戦重砲兵第二連隊長・予備役・野戦重砲兵第一三連隊長・大政翼賛会常任理事・衆議院議員・A級戦犯・終身刑・参議院選挙で落選)。

 【陸軍省】

 陸軍次官・杉山元(すぎやま・げん)中将(福岡・陸士一二・陸大二二・陸軍省軍務局航空課長・軍事課長・少将・陸軍航空本部補給部長・国際連盟陸軍代表・軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・第一総軍司令官・自決)。

 軍務局長・小磯国昭(こいそ・くにあき)少将(山形・陸士一二・陸大二二・参謀本部編制動員課長・陸軍大学校兵学教官・少将・陸軍航空本部総務部長・陸軍省整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・予備役・拓夢大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯で終身刑・巣鴨拘置所で病死)。

 【民間】

 大川周明(おおかわ・しゅうめい)博士(山形・東京帝国大学文科大学<印度哲学専攻>卒業・インド独立運動支援・満鉄入社・満鉄東亜経済調査局編輯課長・拓殖大学教授・法学博士・法政大学教授大陸部部長・五一五事件で服役・A級戦犯容疑で起訴されるも精神障害で免訴・松沢病院に入院・退院後農村復興運動に従事)。

 以上が主要参加者であるが、この事件に永田鉄山軍事課長は、どのような役割を演じたのか、各種の説に分かれているが、多くの文書によると、永田軍事課長はワキ役であり、小磯軍務局長のクーデターの話を聞いて「こうした非合法手段には反対である」と言って消極的であったと言われている。
 
 小磯軍務局長の「葛山鴻爪」(小磯国昭・小磯国昭自叙伝刊行会・昭和三十九年)によると、三月事件発端の概略と永田軍事課長の関わりは次のように述べられている(要旨抜粋)。

 議会混乱、政局混乱の最中、昭和六年二月、大川周明博士が小磯軍務局長の自宅を訪ね、宇垣陸軍大臣への執拗なる面会取次ぎを依頼した。

 小磯軍務局長は二月二十六日、大臣室に宇垣陸軍大臣を訪ね「大川博士が大臣に再度面会を希望して聴かないのです。もう一度引見の上、今後面会を受ける必要がないようにされたら如何でしょう」と進言した。

 大川博士は政情改善案を宇垣陸軍大臣に提案しようとしていたが、議会襲撃などの過激なものだった。小磯軍務局長は、大臣に面会する前にその案を書面にして提出するよう求めた。参謀本部の二宮次長もそれに同意し、建川第二部長を呼んで協議し、建川第二部長も了承した。

 大川博士の提出した宇垣陸軍大臣に宛てた提案書は、半紙二枚に毛筆で自筆したもので、「政変を招来し強力なる政府を樹立する」という事が書かれ、その実行要領が記されていた。

 これを読んだ小磯軍務局長は、その内容が、大川博士の従来の大言壮語に比べても、これ程無責任極まるものは無いと考えた。

 小磯軍務局長が「こんな簡単な書き物を基礎として仕事ができるとは思われませんね」と言うと、大川博士は「御指示により如何様にも増補修正致します」と答えた。

 小磯軍務局長は「これを読んだだけでは何のことか分らない点が多々ありますので、このまま大臣に取り次ぐわけにいかないので、一々質問しますから説明してください」と言って、色々質問し、「私が解ったところだけ、別に原文に添えて大臣に提出します」と告げた。

 小磯軍務局長は、翌日陸軍省に登庁し、永田軍事課長を呼んで、大川博士問題の経過を語った。すると永田軍事課長は「そのことは薄々耳にしていましたが、私はそんな非合法的処置には元々反対の意見を持っています」と答えた。





512.永田鉄山陸軍中将(12)この頃から小畑大佐と永田大佐の亀裂はますます広がっていった

2016年01月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、この「一夕会」結成に対して、小畑大佐は反対していた。小畑大佐は「永田大佐は、二葉会結成当初の目標や理想の実現が遠くにあることにしびれを切らし、木曜会の若い将校等も仲間に入れて、自分達の栄達を実現しようとしている」と、永田大佐らに批判的な思いを持っていた。

 永田大佐の強い政治的能力により、さすがの小畑大佐も結局、「一夕会」結成に動かざるを得なかった。だが、この頃から小畑大佐と永田大佐の亀裂はますます広がっていった。

 一方、昭和六年九月、「桜会」が結成された。「桜会」は、次の二人が中心になって主導した。

 参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)中佐(岡山・陸士二三・砲工高等二一・陸大三二・トルコ公使館附武官・参謀本部ロシア班長・中佐・「桜会」結成・陸軍大学校教官・「十月事件」で謹慎処分・野重砲兵第二連隊附・大佐・野重砲兵第二連隊長・予備役・召集・野重砲兵第一三連隊長・衆議院議員)。

 参謀本部支那課・長勇(ちょう・いさむ)少佐(福岡・陸士二八・陸大四〇・歩兵第七四連隊長・大佐・第二六師団参謀著・第二五軍参謀副長・少将・第一〇歩兵団長・第三二軍参謀長・中将・沖縄で自決)。

 「桜会」は陸軍省や参謀本部の中佐以下の中堅幕僚二十名余りが参加した。翌昭和七年五月頃には一〇〇余名まで増えた。彼らは、反米、反中で、政党内閣を廃し、軍事政権を樹立するという国家改造構想を持っていた。

 昭和五年八月永田大佐は中央に戻り、軍務局軍事課長に補された。軍事課長に就任した永田大佐は、実務は非常に優秀で、突発事項が発生しても、激することも無く、水が流れる如く、淡々と事務処理をこなしていったといわれている。

 また永田軍事課長は、経済の動向にも眼を配る一方で、新鋭の官僚や財界人と積極的に親交していった。時には一緒になって、羽目を外して遊興することもあった。

 こんな軍人は珍しいと評価される反面、経済不況が続く暗い時代の中で、政党政治が行き詰まり、政治家は無力となり、不正が暴かれテロ事件まで発生している時、政・官・財界人と親しくするとは何事だという中傷や非難の声が出た。

 だが、この時期の永田軍事課長の実績の一つとして、欧米にはるかに遅れていた国産自動車の生産に、陸軍が積極的に協力するようにしたことがある。

 昭和六年九月十八日柳条湖事件が起き、満州事変が勃発したが、永田大佐の軍事課長としての仕事ぶりは、冷静沈着、物に動ぜず、常に余裕しゃくしゃくで、実にしっかりした腹の持ち主であったと言われている。

 満州事変勃発の翌日、陸軍省内は上を下への大騒動であった。そのような時、永田課長は課員を兵務課長のところへ差し向け、かねてよりの問題であった青年将校の檄文に対する処置の件を督促させた。

 当時の兵務課長は、永田大佐と陸士同期の、安藤利吉(あんどう・りきち)大佐(宮城県仙台市・陸士一六・陸大二六恩賜・歩兵第一三連隊長・第五師団参謀長・陸軍省兵務課長・英国大使館附武官・少将・歩兵第一旅団長・陸軍戸山学校長・中将・教育総監部本部長・第五師団長・南支那方面軍司令官・予備役・台湾軍司令官・大将・第一〇方面軍司令官・兼台湾総督・服毒自決・正三位・勲一等・功二級)だった。

 安藤大佐は、永田課長が差し向けた軍事課員の「青年将校の檄文に対する処置」の話を聞き終えると、「永田は、今時、そんな余裕があるのか!!」と反問したという。

 これは、永田大佐が軍事課長としての事務処理を、綿密周到に行い、このような大事件の時でも、それを省略することはしなかったという例である。

 時は前後するが、永田鉄山大佐が軍事課長在任中に三月事件(陸軍中堅幕僚によるクーデター未遂事件)が起きた。

 昭和六年三月、参謀本部の高級幕僚と陸軍省高官の一部が宇垣一成を担いで(首相とする)クーデター計画を実行に移そうとしたが、中止された。これが三月事件である。







511.永田鉄山陸軍中将(11)彼らも諸君と同じ我輩の部下だ。特殊扱いをするには忍びない

2016年01月08日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和二年三月五日永田鉄山中佐は歩兵大佐に進級した。四十三歳だった。翌年の昭和三年三月八日、麻布の歩兵第三連隊長に補された。将校の卵、士官候補生として初めて勤務した懐かしい母隊だった。

 元来歩兵第三連隊は、その徴募区の関係から、下士官兵は境遇や職務上のために、その統率が容易ではないと定評があった。だが、永田連隊長は、識見と才幹と人格を以って彼ら将兵を統御し連隊を一致団結させるとともに、兵士個々の天分を発揮させ士気を高揚させた。

 また歩三の将校団の気風は一種変わった特色があった。「荒武者」と呼ばれる相当頑固で手に負えない連中がいた。

 永田連隊長はこれらの将校たちの指導に特に意を用い、彼らの議論を傾聴し、どんなことでも一々これに明快なる判決を与え、理非に従って指導矯正すると共に、各々の長所を見出し、これを善用することに務めた。

 これにより、これら荒武者の将校たちも「永田連隊長はものの解った男だ」と敬服するようになり、職務を励むようになり、従順になった。

 さらには「連隊長のためには喜んで命を棄てる」という者まで出て来た。これは永田連隊長が根本のところで、推量豊かな才能と、清濁合わせ飲む腹を持っていたことによる。

 一方、永田連隊長は所命の事項に対する報告、意見具申等について、それがたとえ些細な事柄であっても、常に真剣にこれを傾聴したという。

 よく、太っ腹な部隊長に見られるような、その場限りの、お世辞的な「ヤ~御苦労!御苦労さん!」と、ろくろく報告を吟味しないで、おだてるような返答をすることは決してなかった。

 永田連隊長は部下の報告を謹厳な態度で傾聴し、その報告を仔細に検討した後で、賞すべきはこれを褒め、足らないところは懇切にこれを教示した。

 また、軽微な問題でも、理屈が通らなければ何事も承服しなかった。だから、命じられた者は一生懸命に所命の任務に当たったので、連隊全体的に成績が向上していった。

 一方、宴会等の場合、それが将校集会所で行われるときは、連隊長は将校団長たる存在を明らかにしたが、営外で行われる宴会では、連隊長はどこにいるのか判らぬ位で、部下との融和と、気配りに細心の注意を払った。

 昭和三年九月、連隊新兵舎が落成し、天皇陛下の御臨幸を仰ぐことになった。ところが当時は後備兵の召集期であり、召集者の中には、思想上の要注意人物も多数おり、ことに労働争議のリーダー格の全協系の幹部が十七、八名いた。

 これらの者を果たして、御観閲に参列させるべきかどうかが問題となった。御警備主任はこれらの者を参列させるべきではないと主張した。

 すると永田連隊長は「彼らも陛下の股肱(ここう・手足となって働く者)ではないか」と言った。御警備主任は「しかしながら、万一のことがあったら腹を切る位では済みません」と言って強固に反対した。

 これに対し、永田連隊長は「当連隊の兵として、今千歳一遇のこの光栄に遇う、彼らも諸君と同じ我輩の部下だ。特殊扱いをするには忍びないのだ。よろしく、このたびの光栄に浴せしむべきだ」と静かに説き諭すように言った。

 これにより要注意人物を含め連隊の全将兵に、御検閲の栄を得さしめた。行事は何ら事無く、全将兵は感激に浸ることができた。永田連隊長としては、差別扱いをすることで、彼らの思想の悪化を来すのを防いだ。

 昭和四年五月十九日、「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、「二葉会」と「木曜会」が合流して、「一夕会」が発足した。だが、「二葉会」と「木曜会」は消滅したわけではなく、存続はしていた。

 「一夕会」は第一回会合で、陸軍人事の刷新、満州問題の武力解決、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将軍の擁立、の三点を取決め、まず陸軍中央の重要ポスト掌握に向けて動いていく。

 歩兵第三連隊長永田鉄山大佐、歩兵第一〇連隊長・小畑敏四郎大佐、陸軍省人事局補任課長・岡村寧次大佐の三人が主導的地位にあり、ともに四十五歳であった。永田大佐がその中心的存在であった。