陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

510.永田鉄山陸軍中将(10)いや、今日は大隊の長である大隊長が、正座に着くべきだよ

2016年01月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 「二葉会」のメンバーは、陸士一五期から一七期までで、次の通り(氏名・陸士期・陸大期・最終階級)。

 中心メンバーの永田鉄山(陸士一六・陸大二三次席・中将)、小畑敏四郎(陸士一六・陸大二三恩賜・中将)、岡村寧次(陸士一六・陸大二五・大将)。

 そのほか、河本大作(陸士一五・陸大二六・大佐)、山岡重厚(陸士一五・陸大二四・中将)、土肥原賢二(陸士一六・陸大二四・大将)、板垣征四郎(陸士一六・陸大二八・大将)、小笠原数夫(陸士一六・陸大二八・中将)、さらに、磯谷廉介(陸士一六・陸大二七・中将)。

 さらに、東條英機(陸士一七・陸大二六・大将)、渡久雄(陸士一七・陸大二五恩賜・中将)、工藤義雄(陸士一七・陸大二七・少将)、松村正員(陸士一七・陸大二八・中将)。

 「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、「二葉会」は。バーデン・バーデンでの申し合わせを引き継いだが、その間、まず長州閥の打破に力を注いだ。

 永田、小畑、東條、山岡らの陸軍大学校教官時、長州出身者が陸大入学者から徹底して排除された。彼らが陸大教官だった大正十一年から十三年まで、陸大入学者には山口県出身者は全くいない。それまでは毎年平均して三名から五名の山口県出身者が入学していた。

 例えば、大正十二年の陸軍大学校の一次試験(筆記)をパスした山口県出身者は合格者一〇〇名中一七名だった。だが、二次試験(口述)では、合格者五〇名中に山口県出身者は全く含まれていない。口述試験で意図的な配点操作がなされたことが考えられる。

 ところで、「二葉会」にならって、昭和二年十一月から参謀本部作戦課の鈴木貞一と要塞課の深山亀三郎が中心となり中央の少壮幕僚から組織された「木曜会」が発足した。

 「木曜会」は「二葉会」より若い幕僚で構成されていた。「木曜会」のメンバーは、次の通り。

 幹事役の鈴木貞一(陸士二二期・陸大二九・中将)のほか、石原莞爾(陸士二一期・陸大三〇次席・中将)、村上啓作(陸士二二期・陸大二八恩賜・中将)、根本博(陸士二三期・陸大三四・中将)、土橋勇逸(陸士二四期・陸大三二・中将)、深山亀三郎(陸士二四期・陸大三二恩賜・中佐)ら十八名。

 後に、「木曜会」には、永田鉄山、岡村寧次、東條英機が加わった。そして昭和四年五月には、「二葉会」と「木曜会」は合流して「一夕会」ができた。だが、元の「二葉会」と「木曜会」は消滅したわけではなく、依然継続されていた。

 さて、大正十三年八月、永田鉄山中佐は、陸軍大学校兵学教官から、参謀将校の隊附勤務として松本の歩兵第五〇連隊に赴任した。

 当時、永田中佐の名は知れ渡っており、第五〇連隊では勿論、地方側でも、県出身の名士を迎えるというので、歓迎準備が進められた。

 永田中佐は、特に願い出て、自分の同期生が大隊長である大隊に専属して隊務に精勤した。その隊附当時のある日、永田中佐の所属大隊は行軍を行い、某地に宿営した。

 宿営地の村民は大隊の将校一同を招待して、歓迎会を行なった。その席上、同期の大隊長(少佐)は、階級が中佐である、自分より上級者の永田中佐に、上座に着くように勧めた。

 すると、永田中佐は、「いや、今日は大隊の長である大隊長が、正座に着くべきだよ」と言って、しきりに勧める大隊長の言を断固としてしりぞけ、上席には着かず、自ら大隊長の次席に座った。

 後日の話だが、永田中佐が陸軍省整備局動員課長として、各部隊の動員検査に赴いた際でも、最後に自分の所見を述べる時は、その部隊の隊長に敬意を表して、必ず上座を避けて、位置した、という。

 大正十四年二月陸軍省軍事課課員に転補された永田中佐は、五月徴兵令改正審議委員幹事、六月国本社評議員嘱託となり、バーデン・バーデンの密約以来持論であった国家総動員の構築を期すべく、陸軍省内に一局を設置して、これに当たらせることを発案した。

 永田中佐は極力これを実現すべく、立案をして、奔走し、その結果、遂に整備局が新設され、動員課、統制課の二課を置くことが決まった。

 大正十五年十月一日、永田中佐は初代の陸軍省整備局動員課長となり重任についた。四十二歳であった。

 もともと国家総動員の観念及び具体的業務は欧州の第一次世界大戦が生んだもので、永田鉄山の独創的なものではない。

だが、当時雑然として報道された国家総動員関係事項を、日本国の現状に合致するように組織化、体系化したのは、永田中佐だった。







509.永田鉄山陸軍中将(9)岩橋さん、それはあなた、議論に勝って、実行に負けてますよ

2015年12月25日 | 永田鉄山陸軍中将
 その頃の最高幹部、元帥、陸軍大臣、参謀総長、あるいは教育総監、また大将たちのリーダーシップが非常に欠けていた。私の当時の日記を見て見ると「統制なき陸軍かな」と書いてある。非常に傑出した人がいないということも一つですね。

 山縣有朋元帥が亡くなったという事が、ああいう重しになる人がいなくなったということが、軍の統制に影響を及ぼしているともいえる。だから、「桜会」の三月事件も、十月事件も、みな昭和六年のできごとですが、思い切って処分出来なかったのです。

 以上が戦後の、岡村寧次氏の回想だが、抽象的な言い回しもあるので、「バーデン・バーデンの密約」後の永田鉄山の軌跡とグループ結成の流れを、具体的に見てみる。

 「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、大正十二年四月、スイスから帰国した永田鉄山少佐の辞令は参謀本部附であったが、永田少佐は、教育総監部に留まるよう強く希望した。

 その永田少佐の希望をすぐに認めたのは、教育総監部本部長・宇垣一成中将だった。永田中尉が陸軍大学校を卒業して教育総監部第一課に入ったが、その直前の第一課長は宇垣大佐だった。その当時から、宇垣大佐は永田中尉に眼を向けていた。

 大正十二年八月永田少佐は中佐に進級し、陸軍大学校兵学教官を経て、大正十三年十二月陸軍省軍務局軍事課高級課員、大正十五年三月、作戦資材整備会議幹事を歴任した。

 有末精三元中将は、当時のことを次のように回想している。

 私共が陸軍大学を卒業し、その翌年私は参謀本部に転任したのですが、その時に永田さんは軍事課の高級課員、つまり中佐課員でした。

 その中佐課員であった時に、彼と同期(十六期)の岩橋次郎(いわはし・じろう)中佐(福岡・陸士一五・陸大二二・参謀本部編制動員課編制班長・中佐・歩兵第一二連隊附・大佐・参謀本部編制動員課長・陸軍省兵務局兵務課長・長崎要塞司令官・少将・予備役)が参謀本部の第一課におられた(永田中佐と陸士同期は、有末氏の記憶違い)。

 陸軍の制度としては編制、予算関係においては軍事課が一番の権限を持っておりました。参謀本部では作戦課が作戦計画をやる。そして編制関係は総務部の第一課がそれの主務であった。そして陸軍省(軍事課)との折衝の窓口であった。

 その岩橋さんは陸大の教官の時に病気をして少し休んでおられたから、進級は永田さんより遅れておられたが、この人も非常に頭のいい人でした。演習時は編制課と一緒に研究する機会が多かった。

 私共の班長は阿南惟幾(あなみ・これちか)少佐(東京・陸士一八・陸大三〇・陸軍大学校兵学教官・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・陸軍航空総監・陸軍大臣・自決)でした。

 岩橋さんは非常な雄弁家で、ある時永田軍事課高級課員と一論議して演習課にやって来て、「俺は永田と議論して勝った」と言う。何の話をしていたか判らないが、恐らく学校訓練かなんかの話ではなかったかと思います。

 すると、阿南さんが、「岩橋さん、それはあなた、議論に勝って、実行に負けてますよ、永田さんは名を捨てて実を取ったんじゃないか」と、私等のいるところで批評されたことがあります。その時の印象というものは、「ははあ、なるほど、永田さんという人は実行型の人なんだなあ」と思った。

 実際参謀本部の作戦課、編制課というものは「理想」を行うわけです。参謀本部だから、こういうふうに編制を持って行かなくてはと案を立てる。ところが、陸軍省はそれを実行して行くための予算を伴う。だから実行型にならざるを得ないのだ。

 私の受けた印象は、教育の問題についてとか思想問題について、非常に理想的に説明しておられるようで、まさに理想主義者である。しかしながら、実行面も決して忘れてはいない、という永田さんの性格を、そこに初めて、私はほんのりと感じたのです。

 以上が、有末精三元中将の回顧談だが、この当時から「バーデン・バーデンの密約」で、陸軍改革を誓い合い、同志的結束を保って来た、永田中佐、陸軍大学校兵学教官・小畑敏四郎中佐、歩兵第一三連隊附・岡村寧次中佐は、会合を重ねていた。

 つまり、国家総動員体制の確立に向けて精力的に行動していた。また、中央の少壮幕僚から同志を募り、さらなる会合を重ねて来ていた。

 昭和二年からは、集まった同志で定期的な会合を、渋谷のフランス料理店「二葉亭」で開くようになった。これが「二葉会」の始まりである。


508.永田鉄山陸軍中将(8)彼は陸軍の革新というより、国の革新まで最初から考えていました

2015年12月18日 | 永田鉄山陸軍中将
 さらに、十八期の山下奉文(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍省軍事調査部長・中将・第四師団長・陸軍航空総監兼陸軍航空本部長・関東防衛司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・マニラで死刑)、二十期の橋本群(広島・陸士二〇・砲工高一八恩賜・陸大二八恩賜・第一軍参謀長・参謀本部第一部長・中将・予備役)、草場辰巳(滋賀・陸士二〇・陸大二七・歩兵第一九旅団長・第二野戦鉄道司令官・中将・関東軍野戦鉄道司令官・関東防衛軍司令官・第四軍司令官・予備役・大陸鉄道司令官・自決)、これくらいのところでできたのが、「一夕会」なのです。

 この「一夕会」の最初の目的は、部内の人事の革新と、軍を国民と共にもっていこうということだった。あまりに軍が国民から離れていましたから。

 「同人会」「双葉会」というグループもできましたが、「双葉会」は我々(岡村寧次ら一夕会)の仲間です。また、「満蒙問題研究会」といったものを課長連中がつくらされていました。

 「一夕会」の連中もだんだん年を取って、少佐、中佐になると、みんな要職につくものですから青年将校時代からずっと中国研究一点張りでいったというのは、十五期の河本大作、十六期の私(岡村寧次)と磯谷廉介、板垣征四郎、土肥原賢二。

 十七期、十八期にもありますが、それに二十一期の石原莞爾(山形・陸士二一・六席・陸大三〇・次席・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・予備役)、二十三期の根本博(福島・陸士二三・陸大三四・第二一軍参謀長・中将・第三軍司令官・駐蒙軍司令官・北支那方面軍司令官)、これだけしかないんです。

 満州事変の前ごろ、だんだん中国の空気が険悪になってきて、関東軍が独断で何かやりそうだとか、いろんな流言が飛びますし、それで、前述の「時局満蒙対策研究会」をつくった。

 当たり前なら、参謀本部第二部支那班の重藤千秋(福岡・陸士一八・陸大三〇・陸軍大学校兵学教官・参謀本部支那課支那班長・歩兵大佐・参謀本部支那課長・第一一師団参謀長・少将・台湾守備隊司令官・中将・予備役)、陸軍省軍事課長の永田鉄山と、これだけでやればいいことを、事が重大だから、仕事に関係なしに、適任と認めたものを最高首脳部が指名した訳です。

 陸軍省では軍事課長の永田と、私は人事局の人事課長(補任課長)をしておりましたから、それに加わり、参謀本部第一課長の東條、欧米課長の渡久雄(東京・陸士一七・陸大二五恩賜・歩兵第六旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・戦死)、作戦課長の今村均(宮城・陸士一九・陸大二七首席・陸軍省兵務局長・中将・第二三軍司令官・第一六軍司令官・第八方面軍司令官・大将・戦犯で禁錮十年)、教育総監部の磯谷など、八人が指名された訳です。

 その委員長が参謀本部第二部長の建川美次少将(新潟・陸士一三・陸大二一恩賜・参謀本部第一部長・国際連盟陸軍代表・中将・ジュネーブ軍縮会議全権委員・第一〇師団長・第四師団長・予備役・「ソビエト」連邦在勤特命全権大使・大日本翼賛壮年団長)です。

 みんな課長は忙しいものですから、退庁後に集まって夕飯の弁当を食べながら研究したんです。事変の前後になってからは、ほとんど毎日やりましたね。

 事件が起きるたびに議論して、それを建川さんが統制していく。そしてできた案を大臣、総長に報告する。だから、この課長会は「一夕会」とは関係ないのです。

 以上が岡村寧次氏の回想だが、さらに、中村菊男氏の、「『桜会』の動きは『一夕会』に対抗する意味でできたのですか」という問いに対して、岡村寧次元陸軍大将は次のように、述べている。

 そうじゃないんです、あれはまたちがうんですね。階級が一段下ですから。「一夕会」とダブっているのもいますね。たとえば、根本は「桜会」に入っていましたね。

 「桜会」というのは、やはり陸軍の革新の機を起こしたのですが、橋本欣五郎は生粋の福岡だましいで、非常に積極的な男ですが、トルコ駐在武官として、この二、三年前に帰って来たんです。トルコにいた時に、ソビエトの革命、トルコの国内の革新を見てきて、どうしても日本も改革しなければいかんというので、彼は陸軍の革新というより、国の革新まで最初から考えていました。それに共鳴したのが「桜会」です。

 それから、二・二六事件を起こした者のうち、少尉、中尉はまた別なんです。私は人事局の課長を長くやっていまして、彼らを呼びつけて、話を聞いておりますが、これは純真なる気持ちで出発しているんです。

 彼ら若い将校は世間をまるで知りませんから、元気のない兵隊を呼んで聞いてみると、妹がどこかに売られていっているとか、家ではろくなものを食べていないとか、政治が悪いという事になるのですが、中・少尉の間にそういうグループが出来て来たのです。

 彼らは「桜会」に対して非常な反感を持っている。陸軍大学校を出て、参謀本部で威張っている奴が、ヨーロッパに行って来て、なんだ、……、我々こそが本当に純真なんだと……、これが二・二六を起こした。

507.永田鉄山陸軍中将(7)世界情勢の変化に、硬直した軍の上層部は対応できていない

2015年12月11日 | 永田鉄山陸軍中将
 「バーデン・バーデンの密約」が行われた、大正十年十月二十七日の時点で、永田鉄山少佐はスイス公使館附武官、小畑敏四郎少佐はロシア大使館附武官、岡村寧次少佐は欧州に出張中だった。会談の具体的内容の概略は次のようなものだった。

 まず、長州軍閥の打破であった。明治以来、日本陸軍は、山縣有朋ら長州閥により人事が行われて来た。この長州閥の構造を破壊しないと強力な国防国家は構築できない。

 次に、第一次世界大戦の結果、戦争はもはや軍事的戦略だけでは勝てず、国家総力戦の様相を示していた。陸軍としては、国家総動員体制構築のためどのように改革していくべきか。

 また、ソビエト共産主義国家の脅威である。軍事大国となったソビエトは、仮想敵国としても、その計り知れない軍事力にどう立ち向かうのか。

 この様な世界情勢の変化に、硬直した軍の上層部は対応できていない現状から、自分たちが結束し、思い切った陸軍の軍制改革を実現する。

 以上であるが、この「バーデン・バーデンの密約」について、当事者の一人である岡村寧次元陸軍大将は、その成り行きを、日記に次のように記している。

 「小畑と共に、午後十時五十分、バーデン・バーデン着。永田と堅き握手をなし、三人共に同一ホテルに投宿。快談一時に及び、隣室より小言を言われて就寝す。二十八日には付近を逍遥見物したが、夕食後、永田と飲みつつ三更帰泊就寝。翌二十九日、袂をわかちて小畑と共にベルリンに帰る」。

 さらに、「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、岡村寧次元陸軍大将は戦後、著者の中村菊男氏(慶応大学法学部教授・法学博士)との対談で、「バーデン・バーデンの密約」の中身について、また、統制派軍閥の発生と発展について、次のように証言している(要旨抜粋)。

 大正十年に南ドイツのバーデン・バーデンで、永田鉄山と小畑敏四郎と私とが革命のノロシをあげたというようなことが書いてある。それは大げさで、そのときは満州問題なんかという他国のことはいっさい考えませんで、陸軍の革新ということを三人で考えたのです。

 その時は本気になりました。その革新という意味は、正直に言って、第一は人事がそのことは閥なんですね。一種の長州閥で専断の人事をやってるのと、もう一つは、軍が統帥権によって、国民と離れておった。

 これを国民と共にという方向に変えなければいかん、三人で決心してやろうと言ったことは事実です。ヨーロッパに行ってその軍事状況を見たものですから。三人とも少佐時代で、これが始まりなんです。

 陸士同期生は、我々三人と、次の人々ですが、これはよほど後になってからです。

 小笠原数夫(福岡・陸大二八・関東軍飛行集団長・中将・陸軍航空本部総務部長)。

 磯谷廉介(兵庫・陸大二七・参謀本部第二部長・支那大使館附武官・陸軍省軍務局長・中将・関東軍参謀長)。

 板垣征四郎(岩手・陸大二八・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・大将・朝鮮軍司令官・第七方面軍司令官・A級戦犯で死刑)。

 土肥原賢二(岡山・陸大二四・奉天特務機関長・中将・第一四師団長・陸軍士官学校長・大将・東部軍司令官・第七方面軍司令官・教育総監・第一総軍司令官・A級戦犯で死刑)。

 黒木親慶(宮崎・陸大二四・士官学校教官・ロシア駐在・少佐・シベリア出兵で反革命派のセミョーノフ軍の顧問を務めたが、陸軍中央がセミョーノフ支援を中止したため解任、帰国・退役・三六倶楽部会長)、小野弘毅(歩兵第二一連隊長・歩兵第四連隊長・少将)。

 我々同期だけではいかんからというので、ちょうどライプチヒに留学しておった東條英機(岩手・陸士一七・陸大二七・陸軍省軍事調査部長・関東憲兵隊司令官・中将・関東軍参謀長・陸軍次官・陸軍航空総監兼陸軍航空本部長・陸軍大臣・大将・首相・兼参謀総長・A級戦犯で死刑)のところに私が行って説いて、まず、十六期、十七期で始まったわけです。

 それで、「自分より上の期の者でも加担してくれる人がいるよ」ということになって、十四期の小川恒三郎(新潟・陸士一四・陸大二三・歩兵第一旅団長・参謀本部第四部長・墜死・中将進級)、十五期の河本大作(兵庫・陸士一五・陸大二六・参謀本部支那課支那班長・歩兵大佐・関東軍高級参謀・第九師団司令部附・停職・予備役・満鉄理事・満州炭坑株式会社理事長・満州重工業理事・山西産業社長)、山岡重厚(高知・陸士一五・陸大二五・陸軍省軍務局長・陸軍省整備局長・中将・第九師団長・予備役・第一〇九師団長・善通寺師管区司令官)にも入ってもらった。

506.永田鉄山陸軍中将(6)派閥解消、人事刷新、軍制改革を断行する

2015年12月04日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田鉄山中尉は、陸軍大学校在学中の明治四十二年十二月八日、轟文子と結婚した。鉄山は二十五歳、文子は二十歳だった。文子は鉄山の母、順子(旧姓は轟)の弟、轟亨の娘で、鉄山とは従兄妹にあたる。媒酌人は、真崎甚三郎少佐(軍務局軍事課)だった。

 陸軍大学校を卒業して、大正二年八月永田中尉は歩兵大尉に進級した。二十九歳だった。その後、永田大尉は教育総監部勤務を経て、ドイツ駐在、デンマーク駐在、スェーデン駐在で、欧州の軍事研究を行った。

 大正六年九月帰国後、永田鉄山大尉は、教育総監部附として、臨時軍事調査委員会では委員として活動した。

 大正八年の頃、思想問題の研究を担当していた永田鉄山少佐は、渋谷に住む二、三の同僚と時々徒歩で帰ったが、その途中、たまたまデモクラシー問題の話になった時、同僚の一人が「そんな思想は日本にはいらないさ。放っておけば自然に消滅するよ」と意見を述べた。

 すると、永田少佐は「研究もしないで、そんなことを言うのは、あたかも噴火口の上にて乱舞するがごときものだ」と言った。永田少佐は、いろんな方面に関することでも、おろそかにせず、徹底して研究するのが信条であった。

 日本陸軍は昭和に入ると、派閥抗争が激化し、歴史的にはまさに軍閥興亡史とも呼ぶべき時代の潮流となっていく。この軍閥抗争の犠牲になったのが永田鉄山であり、栄光の階段の途中で転落してしまった。

 その派閥抗争の根源は、長州閥とその亜流である宇垣(一成)系であったと言える。この長州閥・宇垣系の後、少壮幕僚の集団から生成した新しい天皇制軍閥、あるいは統制派ともいうべき派閥が台頭して来た。

 その統制派軍閥の由来は、大正十年の「バーデン・バーデンの密約」に始まる。大正十年前後といえば、世界は「戦争と革命」に突入した時期である。ロシア革命、ドイツ革命、そしてトルコ革命と、ヨーロッパは不安と焦慮におおわれていた。

 日清・日露という二つの戦争を経験し、第一次世界大戦での日独戦争、シベリア出兵などによって、ようやく資本主義国家として世界列強の一国としての地位にのし上がった。

 「評伝・真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、この東洋の新興国家、日本の駐在武官として、動乱のヨーロッパに派遣されていたエリート中堅将校たちは、国家、民族の興亡をそれぞれの現地、現場において目撃した。

 数百年の伝統を誇る王朝も一朝にして打倒・崩壊される革命の恐ろしさ。日本もこのままの姿でいてよいものであろうか。このエリート将校たちは、全身に危機感をたぎらせながら、反革命の決意を新たにして、遠く想いを祖国の上に馳せた。

 折も折、彼らの憂鬱を一瞬にして吹き飛ばすような一大朗報が訪れた。若き皇太子のヨーロッパ親善訪問!健康上に理由で完全に象徴的天皇であった大正天皇。

 ところが、今、祖国を離れた異邦の地で、颯爽たる青年士官に成長した皇太子を目のあたりに迎えたエリート将校たちの感激と興奮は想像を絶するものがあった。

 「よしッ、この皇太子を盛り立てて、皇国の興隆をかけて、粉骨砕身しよう!」とエリート将校たちは決意を新たにした。「祖国日本に革命を起こしてはならない」。「祖国日本を強国にするため、天皇制国家体制を強化整備しなければならない」。

 この秘密結社的な盟約の初会合が、大正十年十月二十七日から、南ドイツの温泉保養地、バーデン・バーデンで行われた。

 当時、陸士一六期の三羽烏といわれた三名の少佐(当時)が、バーデン・バーデンで会合し、ホテルに二泊三日して、「派閥解消、人事刷新、軍制改革を断行する。軍の近代化と国家総動員体制の確立」などを、夜を徹して語り合い、強く誓い合った。また、同志的結束を図り、それを拡大していくこと。これが「バーデン・バーデンの密約」である。三名の少佐は次の通り。

 永田鉄山歩兵少佐(長野・陸士一六首席・陸士二三恩賜次席・歩兵少佐・スイス公使館附武官・教育総監部課員・中佐・陸軍大学校教官・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・昭和十年八月相沢中佐に斬殺される・正四位・勲一等)。

 小畑敏四郎歩兵少佐(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜六番・歩兵少佐・ロシア大使館附武官・参謀本部員・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校監事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・昭和二十二年一月死去・従三位・勲一等)。

 岡村寧次歩兵少佐(東京・陸士一六・陸大二五・八席・歩兵少佐・欧州出張・歩兵第一四連隊大隊長・歩兵中佐・参謀本部附・歩兵第一連隊附・歩兵大佐・歩兵第六連隊長・参謀本部戦史課長・陸軍省人事局補任課長・少将・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・第一一軍司令官・大将・北支那方面軍司令官・支那派遣軍総司令官・昭和四十一年九月死去・正三位・勲一等・功一級)。






505.永田鉄山陸軍中将(5)堀内連隊長は「永田という男は、始末の悪い奴だ」と漏らした

2015年11月27日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、渡辺大佐は少将に昇進、歩兵第三一旅団長として栄転して行き、その後任に、永田少尉と同郷の堀内文次郎(ほりうち・ぶんじろう)中佐(長野・陸士旧七期・参謀本部高級副官・歩兵第五八連隊長・歩兵大佐・少将・歩兵第二三旅団長・中将・従四位・勲二等・功三級)が連隊長に就任した。

 ある日、堀内連隊長が親しく、永田少尉に会った時、堀内連隊長が突然、「永田!お前は、酒と女をつつしめ!」と言った。永田少尉は恐縮して、「ハッ」と答えて、そのままその場を引き下がった。

 永田少尉は、もともと酒は相当に飲んだが、女に関する点では、決して耽溺するというような事は無かったので、連隊長の態度が腑に落ちなかった。だが、これには次のような仔細があった。

 永田少尉が以前、鎮南浦の某旅館に滞在していた時、給仕に出た旅館の美人従業員が、その後大連に移り、そこから永田少尉に手紙を出したのを見られた、のが原因だった。

 しかも、その当時の師団の高級副官が、永田少尉の兄、永田十寸穂少佐(歩兵中佐・大正二年死去)だった。このことから、永田十寸穂少佐が堀内中佐に耳打ちしたものと推察されたので、永田少尉は「とても頭が上がらずか(方言)」と、こぼしていたといわれる。
 
 明治四十年の正月、永田少尉ら同期生八名は、堀内連隊長の宿舎に飲みに行った。ところが堀内大佐(昇進)は不在で、従兵のみが留守番をしていた。

 そこで永田少尉らは、この従兵に命じて、勝手な大振る舞いをさせ、さらに、堀内大佐秘蔵の金口煙草までも吸い上げて、引き揚げた。

 後日、堀内大佐は、「若い将校は元気がある」と、誉め言葉だったが、そのあと、永田少尉らは大目玉を頂戴した。この行動を主導したのは、永田少尉だった。

 明治四十年春、歩兵第五八連隊は、韓国守備の任を終えて、内地へ帰還し、越後高田(新潟県)に駐屯した。

 ある日、永田鉄山中尉が担当する連隊教練の実施日だったが、前夜から豪雨が降り続いていた。予定の整列時刻が迫るが豪雨は止まず、しかも連隊本部からは中止とも何とも命令がなかった。

 この日の教練科目は、単に連隊内の連絡・協同動作の研究であって、強いて豪雨の中を敢行する必要はないものだった。

 だが、風変わりな堀内連隊長のことなので、下手に申し出ては、お目玉頂戴はまだしも、かえって藪蛇の恐れがあった。だから、心密かに教練中止を願っていても、誰一人堀内連隊長に伺いを立てる者はいなかった。

 そんな中、中隊長代理・永田中尉が、中隊に武装を整えさせ、舎内に待機するよう命令した。そして、永田中尉自身は、演習出場の服装も凛々しく、豪雨の中を、悠々と連隊長室に向かった。

 永田中尉は連隊長室に入ると、慇懃な敬礼をして、「中隊は演習出場の準備は、整っておりますが、予定通り整列させますか」と、堀内連隊長に伺った。

 永田中尉と降る雨を、まじまじと見つめた堀内連隊長は、「本日の連隊教練は取り止め」と言った。永田中尉は「ハア……」と言って、連隊長室を出ていった。その時の永田中尉は得意顔であった。

 その後姿を、苦笑しながら見つめ続けた堀内連隊長。永田中尉は全身ずぶ濡れだったので、連隊長室の永田中尉が立っていた所は、一面に雨水が溜っていた。後日、堀内連隊長は「永田という男は、始末の悪い奴だ」と漏らしたという。

 明治四十一年十二月、陸士十六期の同期生の中では、永田鉄山中尉、小畑敏四郎中尉、藤岡萬蔵中尉、谷実夫中尉の四人だけが、初めて陸軍大学校(二三期)に入学した。

 陸軍大学校の第三学年の時、永田中尉は健康を害して、講義をよく欠席した。同学年の時、近衛工兵連隊への隊附は健康不良のため、ついに実施されなかった。そして卒業前の参謀演習旅行には、病を押して九州の山野を駆け回った。だが、成績は優秀だった。

 陸軍大学校の試験を前にして、永田中尉は、悠々と試験科目外の中国語をやっていた。それを見た同期の小畑敏四郎中尉が「俺たちが惨めになるから、せめて試験勉強をするふりでもしてくれよ」と永田中尉に言った。それほど優秀だった。

 陸軍大学校(二三期)の卒業成績は、永田中尉は次席だった。首席は梅津美治郎(うめづ・よしじろう)中尉(大分・陸士一五・七席・陸大二三・首席・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部総務部長・スイス公使館附武官・支那駐屯軍司令官・中将・第二師団長・陸軍次官・第一軍司令官・関東軍司令官・大将・関東軍総司令官・参謀総長・大本営全権として降伏文書調印式に出席)だった。

504.永田鉄山陸軍中将(4)「ペンなら書く、筆では書かぬ」と、絶対に筆をとらなかった

2015年11月20日 | 永田鉄山陸軍中将
 それによると、永田候補生は、学科、術科、操行もみな一番であるが、惜しいことに、字だけが拙いとあった。幼年学校の考課にもこの事が記されてあった。

 全てに優秀な永田鉄山であったが、字だけは下手であった。後日、永田が地位を得て、揮毫を頼まれると、「ペンなら書く、筆では書かぬ」と、絶対に筆をとらなかった。

 従って、今日、永田鉄山中将の筆による揮毫は少なく、ただ一つ、永田が郷里の在郷軍人会・分会の班旗にその班名を書いたのがあるのみである。

 軍曹の袖章に星章を付けた襟の軍服を着た士官候補生、永田鉄山は、明治三十六年十二月一日、市ヶ谷台の陸軍士官学校に入校した。

 士官学校時代の永田生徒は、文武両道共に成績優秀だった。また、どんな時でも、どんな事があろうとも、常に余裕綽々たる態度であった。

 また、試験前には永田の机の前には次から次へと同期生の質問者が押し寄せてきて、永田自身の勉強ができないほどであったが、これを嫌がることなく、親切にこれら同輩に教えてやった。

 この約十一か月間の士官学校時代、元来あまり頑強ではなかった永田は、持前の負けじ魂で、押し通したが、そのため卒業を前にして遂に健康を害して、約二週間の転地療養を余儀なくするに至った。

 その療養から帰校し数日後に卒業試験を受けねばならなかった。だがその結果は、なんと、全科の首席は永田だった。

 卒業式当日、明治天皇の御臨幸を受け、首席の永田は御前講演の栄に浴し、恩賜の時計を拝受し、観兵式には中隊の先頭小隊長を勤めた。

 明治三十七年十月二十四日永田鉄山は陸軍士官学校(一六期)を首席で卒業した。永田ら八名は、歩兵第三連隊附となり、見習士官を一週間務めたあと、十一月一日歩兵少尉に任官した。永田鉄山少尉は、歩兵第三連隊補充大隊の第一中隊に配属された。

 補充大隊は大隊長・嵯坂七五郎少佐(後の退役大佐)の下に、六個中隊から編制されていたが、現役の中隊長は二名、士官学校出身の中隊附き士官はわずかに二名だった。士官学校卒業の永田少尉ら八名の帰隊が、どれほど期待されていたか言うまでもなかった。

 永田少尉は、補充兵教育に当たり、入隊した一年志願兵の教官に任命された。志願兵たちは、はちきれそうな元気いっぱいの永田少尉を、「金時少尉」と呼んだ。

 「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、当時の永田鉄山少尉は、真面目で知性的で、現実的な合理主義の一面があり、馴れ合いの徒党を組むことを嫌い、孤高の感じもあったが、その一方、酒も好き、女も好きで、器の大きさを感じさせたという。

 任官翌年の春のある日、当時の東京衛戍総督・佐久間左馬太(さくま・さまた)大将(山口県萩市・奇兵隊・長州藩諸隊亀山隊大隊長・戊辰戦争・維新後陸軍大尉・熊本鎮台参謀長・西南戦争では歩兵第六連隊長・少将・歩兵第一〇旅団長・中将・男爵・第二師団長・子爵・近衛師団長・中部都督・大将・東京衛戍総督・台湾総督・伯爵・正三位・勲一等)が突然、歩兵第三連隊の補充大隊を巡視した。

 その時、永田少尉は志願兵の小隊教練教育に当たっていた。永田少尉は志願兵相互の小隊指揮演練の猛訓練を二十分間行った後、「演習終わり、解散!」と命令して、そのまま何のこだわりもなく、颯爽と営門を出ていった。

 佐久間大将の巡視というので、他の中隊では中隊長以下総出で、必死で長時間に渡って演習が続けられたにもかかわらず、永田教官のこのあまりにも淡泊なやり方に志願兵たちは不審を抱いた。

 志願兵の一人が翌日、「少尉殿!昨日は他の中隊では平日以上に長く演習していましたのね、私達ばかりどうしてあんなに早く演習を終わったのですか?」と質問した。

 すると、ニコッと笑った教官の永田少尉は、「ナアーニ、誰がいようと、どんな偉い人が見ていようと、自分に満足が出来れば、わずか十分でも五分間でも好いのだ。あながち長時間の教練が良いというわけのものじゃないさ……」と事もなげに答えた。

 明治三十九年一月、歩兵第五十八連隊附として、永田鉄山少尉は韓国守備の任務に就いた。着任当時の連隊長は渡辺祺十郎(わたなべ・きじゅうろう)大佐(福島・歩兵第一二連隊長・陸軍戸山学校長・歩兵第二連隊長・歩兵第五五連隊長・歩兵第五八連隊長・少将・歩兵第三一旅団長・歩兵第三四旅団長)だった。


503.永田鉄山陸軍中将(3)情実や阿諛が大嫌いで、どこまでも正義と実力で行こう

2015年11月13日 | 永田鉄山陸軍中将
 明治二十八年八月二十六日鉄山が十一歳の時、父・志解理が死去した。父の臨終のとき、父の枕辺に行儀よく座っていた鉄山に、父・志解理は、苦しい息の下から、「鉄山!お前は必ず立派な軍人になれよ!……そしてお国のために……父も十万億土のあの世で喜ぶように……」。

 鉄山は「ハア、必ずともにお言葉を」と、父が臨終に残した遺言と、鉄山が誓った言葉とが、永田鉄山を軍人の道に進ませ、その栄光の階段を昇らせて行った。

 だが、永田鉄山は栄光の階段を上る途中、相沢中佐による突然の凶行で、落命した。このような突発的な事故の兆候は、若い頃より多々見られた。

 明治三十六年、永田鉄山は中央幼年学校の生徒であったが、当時なかなか「負けじ魂」の持ち主だった。夏のことだった。寝具を整頓する際、蚊帳をはずそうとした時、どうしたはずみか吊手の金具がはずれて、彼の眉間を強く打ち、裂傷を負った。

 休養室で治療を受けねばならぬほどだった。だが、この時、永田生徒は痛いとも何とも一言の弱音を吐かず、ジッと歯を食いしばったまま我慢をしていた。

 また、幼年学校在校中、郷里へ帰郷する途中、犀川にさしかかったが、あいにく渡し船がない。そこで鉄山はいきなり川に飛び込んで泳ぎだした。

 だが、流れが急なので、流されて溺れそうになった。その時、遠方でこれを見た百姓が飛び込んで助けてくれて、ようやく一命を取り止めたこともあった。

 陸軍大学校の学生時代、風呂屋に行って入浴中、衣類全部を何者かに着て行かれてしまった。風呂屋の使いが着物を家に取りに行ったが、ほかに着替えが見つからなかった。

 その時、ちょうど同期生の川上の依頼で、仕立屋から一重重ねの和服が出来てきていたので、それを借りて間に合わせた。

 幼年学校時代、負けぬ気の永田生徒は、趣味として囲碁を好み、日曜・休日等には、盛んに同志と戦ったが、腕前はそれほどでもなかった。

 後日のことだが、陸軍大学校の学生時代、勝負に夢中になり、学科時間まで及んだため、陸軍生活中ただの一度という処罰を喰らった。

 さて、中央幼年学校時代の永田鉄山は、「負けじ魂」を以って始終し、在校二年、首席で卒業し、御前講演の栄に浴し、「文武兼備の必要」と題して講演し、銀時計の下賜を受けた。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、明治三十六年五月永田鉄山は士官候補生として歩兵第三連隊に入隊し、六月五日に緋色の襟章に「3」の字を付けた。

 「永田! 腹退け!」。教練のとき、しばしばこの注意が永田候補生に与えられたほど、彼は腹の出た姿勢だった。特にそれが歩くときには、はなはだしく、一層反身になって下腹の出る癖があった。

 当時士官候補生たちは、「候補生の教練は型だけだ、まだまだ本物になってはおらぬ」と小言を喰らい、相当厳しく鍛えられた。永田候補生は、この「腹退け!」以外は余り注意を受けなくなった。

 士官候補生になって一か月ぐらいたったある日、予定の連隊教練が豪雨で中止になり、中隊は舎内で各個教練をするようにと予定が変更されたが、候補生にはその伝達がなかった。

 ようやく変更予定を知った候補生一同は、大急ぎで服装を整え、出場したが、遅刻した。その時、中隊附中尉が候補生を次のように叱責した。

 「士官候補生は、何故本日の連隊教練を知りつつ、その服装を週番士官に質さなかったか、単なる一兵卒ならば、ただ命令を待っておれば良い」

 「だが、いやしくも将校の卵たるものが、その辺の思慮が無くてどうする。また、週番下士官もこれを伝達したのだろう」。

 このことについて、永田候補生は、当日の日誌に次のように所感を書きこんでいる。当時の永田候補生の徹底主義の片鱗がうかがわれる。

 「……週番下士〇〇伍長は敢えてこれを通知したる事なく、何も恥ずる色なく、昨日午後四時これを通知した旨答え、後に至り四時は誤りにして一時なりとか、誰に通知したとか頗る曖昧なる言句を弄し全く其の職責を尽くさず、虚偽の報告をなせり」

 「而も中尉殿は深くこれを咎むることなかりき。予は思う、苟も伍長の職を奉ずるものが虚偽の申し立てをなし恬として顧みざるに、上官たるものが、これに対し厳に叱責を与え処分せざるは何の故にや、頗る怪訝に堪えざる所、斯くせざれば部下の信用を得る事能わずとせば、日本将校の威信も亦低卑なるものかな」。

 純情無垢の永田ら候補生が、要領の良い下士官に対するある種の反感の現れの一つとも見えるが、永田鉄山の主義は、情実や阿諛が大嫌いで、どこまでも正義と実力で行こうというものだった。

 隊附きも終わりに近づき、士官学校に入校しようとする頃、中隊の給養掛軍曹がそれとなく候補生らの成績の内容を漏らした。





502.永田鉄山陸軍中将(2)龜さやァ。亀の爪は虎の爪よりこわい

2015年11月06日 | 永田鉄山陸軍中将
 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、永田鉄山は、明治十七年一月十四日、永田志解理(しげり)の四男として、長野県諏訪郡上諏訪町本町に生まれた。

 永田家は代々医を業とした名門の家柄だった。父の永田志解理は、当時、郡立高島病院の院長で、名士で、「院長様、院長様」と呼ばれて敬われていた。人物も極めて温和で、人格者だった。

 家庭も裕福で、居宅も大きく、庭内から温泉も湧き出ていた。永田鉄山には、三人の異母兄と一人の異母姉があり、母(順子)の同じ二人の弟と二人の妹がいた。

 上諏訪町立高島尋常高等小学校では、永田鉄山は「鉄サー」と呼ばれ、院長様の息子として一目置かれていたが、鉄山はかなり腕白者だった。だが、決して意地悪ではなく、他人をいじめたり、迷惑をかけるということはなかった。

 明治二十六年、永田鉄山は高島尋常高等小学校の三年生だった。当時の同級生・浜亀吉氏は回顧して次のように述べている(要旨抜粋)。

 当時は机、腰掛は三人掛けで、私の右が永田、左が藤原咲平、互いに腕力家でした。ある日大喧嘩をしたことがあり、事の起こりは習字の時間にいたずらが過ぎて、永田がわしの白絣の着物に墨をくっつけた。

 それで私も負けずに組み付いて顔を引っ掻き、三筋のバラザキをこしらえてしまった。藤原の仲裁でその場はおさまったが、あとで林三郎先生に叱られ、二人ともおトマリをくわされた。

 しかし日を経るにしたがって仲良しになって、三年と四年級を卒業し、間もなく永田さんと別れることになり、送別会をした。

 それから十年の後、私は徴兵検査に合格したが、その時永田さんから「甲種砲兵合格を祝う、よって砲兵須知を贈る。大いに勉強し給え」という祝いの手紙に添えて、「砲兵須知」の本を頂いた。

 また、上京して新橋の「今朝」にコックとして働いていた時、藤原咲平君の紹介で、永田さんと「今朝」の一室で会食し、軍服を脱いでもらって、昔の同級生気分で語り合い、話に花が咲いた。

 その時、永田さんが「龜さやァ。亀の爪は虎の爪よりこわい、この顔のあとを見ろや」と言われて赤面した事を思い出す。

 昭和五年六月、参謀本部に行き、面会を求めた時は、藤原君から教えられた通り、取り次ぎ用箋に「三分間廊下にても拝顔を得、閣下の健勝を祈る」と書いて出したが受付で許されない。

 ところが、永田さんは用箋を見てすぐ「案内せよ」と下命し、取次の将校が狼狽し、三分間はおろか三十分も昔話をすることができた。これが閣下とのお別れだった。

 明治二十七年、日清戦争が起きた時、鉄サーは高等一年生だった。当時子供たちの間に戦争ごっこが流行っていた。

 日本海軍の第一遊撃艦隊を真似して、同級の岩波茂雄(岩波書店創立者)ら仲間と鉄サーが軍艦になって、敵艦となった子供たちと戦遊びをした。

 また鉄サーは仲間たちと、他のによく喧嘩に出掛け、石合戦も行った。子供ながらに、両軍とも智謀を廻らし、計略をし、迂回したり、挟み撃ちにしたりして、激しい戦いをして、日没頃まで遊んだ。鉄サーは、負けず嫌いだったので、いつも大将だった。

 このように腕白で勝気な鉄山であったが、反面、どことなく、やさしいというか、弱弱しい性格も、併せ持っていたという。

 学校からの帰り道、町の腕白どもが、小柄の弱い同級生をいじめている時、鉄山は中に飛び込んで弱いものを助けたりした。そして、腕白どもに、「弱い者いじめをやめて、一緒に陣取りをやろうや」と、当時子供たちの間で流行った陣取りゲームを共にやって遊んで仲良くさせた。

 永田鉄山の生涯持ち合わせた「義侠心」は、この少年時代から芽生えていた。また鉄山の性格は、極めて正直であり、実直であったが、それは少年時代から人目を引くほど顕著なものだった。

 小学校で、受け持ちの先生が生徒に手帖を渡して、自分の善悪の行いを毎日、白丸と黒丸を付けて提出するように命じた。毎夜、それを父の前で記入して、説明することになっていたが、鉄山は、いつも正直に書いて出したので、時には黒丸ばかりのこともあり、先生から訓戒を受けたこともあった。

 いつも厳格な鉄山の父・志解理は、この記入の時に限って何の小言も言わず、笑顔で聞くのみで、鉄山の思うがままに記入させた。



501.永田鉄山陸軍中将(1)当時の永田少将と小畑少将は、まさに犬猿の仲だった

2015年10月30日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和四十七年二月に刊行された「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)の永田鉄山刊行会のメンバーは、綾部橘樹元陸軍中将、有末清三元陸軍中将、片倉衷元陸軍少将、重安穐之助元陸軍少将、景山誠一元陸軍主計大佐らが名を連ねている。

 彼らは、まえがきに、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」というタイトルをつけて、生前の永田鉄山陸軍少将という人物を讃えている。その人物像を賞賛する象徴的記述は次のようなものである。

 「このような歴史の転換期に国民が求めるのは何か、それはいつの世にも強力なる指導者でなければならぬ。国民をグイグイ引っ張って明確にその進路を指し示す荒海の中の灯台のような存在、正にこうした存在こそは国民と軍との連帯のキーポイントを握る軍務局長永田鉄山その人であった」。

 さらに、「もし永田ありせば、大東亜戦争は起こらなかったであろう」とまで、述べている。だが、人物評というものは、実像と虚像が表裏一体となって伝わっているのが大勢である。ここでは、できるだけその真の人物像を掘り起こしながら実像に迫ってみる。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)所収、第三部「人間永田鉄山」・第七章「永田鉄山小伝」の中に、元陸軍少将・高嶋辰彦氏が「日本を動かした永田事件」と題して寄稿している。

 高嶋辰彦氏は、陸軍幼年学校(首席)、陸士三〇期首席、陸大三七期首席で、将来の陸軍大臣、参謀総長と期待された人物だった。

 昭和四年後半から昭和七年後半まで、高嶋大尉は、ドイツ駐在し、ベルリン大学やキール大学で修学・研究を行った。

 昭和七年末にドイツから帰国した高嶋大尉は、中央各部に帰朝挨拶を行なった。その時のことを「日本を動かした永田事件」で、次のように述べている。

 「中央で帰朝挨拶の際、参謀本部第三部長の小畑敏四郎少将に『ヨーロッパから観た日本の満州政策についての所見』を求められた」

 「そこで私は『ソ満国境付近の軍備充実第一主義よりも、満州国の中央政治の充実確立、民生の安定第一主義の方が、よいように感ずる』旨を答えたところ、それまでの対談姿勢から突然回転椅子を机の方に回して聴取を打ち切られた」

 「何故か判らなかったが強縮して退室した後に、永田第二部長に挨拶に行って、拙見が偶然にも第二部長の主張に近く、しかもこの問題が小畑、永田両部長の主張対立の中心点であったことを知った」。

 以上のような高嶋氏の記述にあるように、当時の永田少将と小畑少将は、いわば犬猿の仲だった。

 大正十年十月二十七日、ヨーロッパ出張中の岡村寧次少佐、スイス公使館附武官・永田鉄山少佐、ロシア大使館附武官・小畑敏四郎少佐の陸軍士官学校一六期の同期生三人が、南ドイツの温泉保養地バーデン・バーデンで軍の近代化など陸軍改革を誓い合った。

 これが「バーデン・バーデンの密約」で、以後、永田鉄山と小畑敏四郎は帰国後も会合を行い、同志的結束で心情的にも固く強い絆で結ばれていた。

 だが、この固く強い絆は二人が大佐に進級した頃から、次第に途切れていき、最後には思想的相違から、ついに妥協を許さないほどに対立したのである。

 <永田鉄山(ながた・てつざん)陸軍中将プロフィル>

 明治十七年一月十四日生まれ。長野県諏訪市出身。父・永田志解理(郡立高島病院院長)、母・順子の四男。永田家は代々医を業とした由緒ある家柄だった。
 明治二十三年(六歳)四月高島高等小学校(上諏訪町)入校。
 明治二十八年(十一歳)十月東京市牛込区の愛日高等小学校へ転校。
 明治三十一年(十四歳)九月東京地方幼年学校入校。
 明治三十四年(十七歳)七月東京地方幼年学校(恩賜)卒業、九月陸軍中央幼年学校入校。
 明治三十六年(十九歳)五月陸軍中央幼年学校(次席)卒業、士官候補生として歩兵第三連隊に入隊、十二月陸軍士官学校入校。
 明治三十七年(二十歳)十月二十四日陸軍士官学校(一六・首席)卒業、見習士官、歩兵第三連隊附、十一月一日歩兵少尉、歩兵第三連隊補充大隊附、十二月正八位。
 明治三十九年(二十二歳)一月十八日歩兵第五八連隊附(朝鮮守備として平壌駐屯)、四月日露戦役の功により勲六等瑞宝章及び金二百円を下賜、戦役従軍記章授与)。
 明治四十年(二十三歳)三月内地帰還(越後高田)、十二月二十一日歩兵中尉。
 明治四十一年(二十四歳)三月従七位、十二月陸軍大学校入校。
 明治四十二年(二十五歳)鉄山の母・順子(旧姓は轟)の弟、轟亨の娘、轟文子(二十歳)と結婚。従兄妹同士の結婚だった。媒酌人は、真崎甚三郎少佐(軍務局軍事課)。
 明治四十四年(二十七歳)十一月二十九日陸軍大学校(二三期)卒業、卒業成績は次席(首席は梅津美治郎)、歩兵第五八連隊附。
 明治四十五年(二十八歳)五月二十九日教育総監部第一課勤務。
 大正二年(二十九歳)五月正七位、八月歩兵大尉、歩兵第五八連隊中隊長、十月十九日軍事研究のためドイツ駐在、十一月勲五等瑞宝章。
 大正三年(三十歳)八月二十三日教育総監部附(日独国交断絶のため帰国)、九月二十四日母・順子死去、十一月九日東京着。
 大正四年(三十一歳)三月俘虜情報局御用掛、六月二十四日軍事研究のためデンマーク駐在、十一月スェーデン駐在、大正三年・四年の戦役(第一次世界大戦)の功により勲四等旭日小綬章及び金四百円下賜、従軍記章、大礼記念章授与。
 大正六年(三十三歳)九月十三日帰国、教育総監部附、十一月三日臨時軍事調査委員。
 大正七年(三十四歳)七月従六位、十月特別大演習東軍参謀。
 大正八年(三十五歳)四月十五日歩兵少佐。
 大正九年(三十六歳)六月十八日欧州出張、十一月大正四年・九年の戦役(第一次世界大戦)の功により金千四百五十円下賜、従軍記章、戦捷紀章授与。
 大正十年(三十七歳)六月十三日スイス在勤帝国公使館附武官、十月バーデン・バーデンの密約。
 大正十二年(三十九歳)二月五日参謀本部附、三月十七日補教育総監部課員、四月スイスより帰国、八月六日歩兵中佐、正六位、作戦資材整備会議幹事、九月八日関東戒厳司令部附、陸軍震災救護委員(横浜配給所)、勲三等瑞宝章、十月兼陸軍大学校兵学教官(参謀要務教育担当)。
 大正十三年(四十歳)八月歩兵第五八連隊附(松本)、十二月陸軍技術本部附兼陸軍省軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官。
 大正十四年(四十一歳)二月陸軍省軍事課課員、五月徴兵令改正審議委員幹事、六月国本社評議員嘱託。
 大正十五年(四十二歳)三月二日陸軍兵器本廠附(作戦資材整備会議専務)、十月一日陸軍省整備局動員課長。
 昭和二年(四十三歳)三月五日歩兵大佐、四月従五位。
 昭和三年(四十四歳)三月八日歩兵第三連隊長。
 昭和五年(四十六歳)四月二十五日妻・文子死去、八月一日陸軍省軍務局軍事課長兼陸軍通信学校研究部員、九月長野県人中央会名誉会員、十月支那へ出張。
 昭和六年(四十七歳)三月三月事件、四月兼陸軍自動車学校研究部員、国際連盟軍縮会議準備委員会幹事。六月十二日第一師団長・真崎甚三郎中将の仲人で宮内省大膳職・有川作次郎の娘、有川重(二十九歳)と再婚。十月「十月事件」起こる。
 昭和七年(四十八歳)四月十一日少将、参謀本部第二部長、五月上海へ出張、正五位、十月満州山海関、天津、済南、青島へ出張。
 昭和八年(四十九歳)六月「対支一撃論」の永田鉄山第二部長と「対ソ戦準備論」の小畑敏四郎第三部長が対立、八月一日歩兵第一旅団長。
 昭和九年(五十歳)二月勲二等瑞宝章、三月陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長、陸軍高等軍法会議判士、四月二十九日昭和六年・九年事変の功により勲二等旭日重光章及び金二千五百円を下賜・従軍記章授与、十月陸軍パンフレット事件、十一月士官学校事件。
 昭和十年(五十一歳)五月関東州及び満州国へ出張、七月十五日真崎甚三郎教育総監更迭、七月十九日相沢三郎中佐と面会、八月十二日相沢三郎中佐に斬殺される(相沢事件)、中将進級、従四位、正四位、勲一等瑞宝章、享年五十一歳、墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。