「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、大正6年陸軍砲工学校を卒業する際、遠藤少尉は校長始め学校職員から員外学生として東京帝国大学に進むよう勧告された。
当時陸軍の制度として、砲工学校高等科を成績良く卒業した若干名は無試験で大学の工科に入校する資格を与えられ、大学の課程終了のまま工学士として技術方面の職に就くようになっていた。
校長ならびに職員が遠藤少尉にその道を進むよう勧めた理由は次のようなものであった。
「陸軍大学校に進む道もあろうが、帝大員外学生の道が開けたのだ。この道に進む人数は少数故、競争なしに中将までの進級は約束づけられている。その既得権益を放棄して未知の世界に行くのは賢明ではなかろう」
遠藤少尉は当時骨相学者として有名であった石榴子の門を叩いた。身分を隠し性格を見てもらったところ「特徴は権力に対する反抗心の強いところ」ということだった。
結局あまり参考にならず、遠藤少佐は自分の好きな道に行く事に決め、陸軍大学校の道を選んだ。
大正8年遠藤中尉は陸軍大学校に入学した。第三学年の時満州旅行の帰途、朝鮮通過の列車内で、学友の一人が酩酊し、命令伝達に来た学校副官に侮辱的言辞を弄した。
遠藤中尉はその学友を後ろから抱きかかえて止めようとしたのを、副官は遠藤中尉が酩酊悪口した如く勘違いして報告、これが卒業直前の教官会議で問題になった。
この問題は事前に学生間にも漏れ、遠藤中尉に事情を釈明すべしと忠言するものもいたが、酩酊した当人が進んで自主するものと思い、敢えて釈明しなかった。だが当人は遂に出なかった。
彼は参謀総長の女婿であった程の優秀な成績の持ち主であったから酩酊事件で傷つくのがいやだったのかも知れないが、遠藤中尉としては迷惑な事だった。
幸い教官会議に列席していた高橋捨治郎教官(遠藤中尉と同連隊出身で遠藤中尉が見習い士官の時の中隊長)が、遠藤中尉の性格と、酒を飲まないのを知っており弁護して、遠藤中尉は無事卒業(恩賜)できた。
皮肉にも参謀総長の女婿の彼は、卒業後間もなく身持ち悪く大尉で停職、満州事変で遠藤少佐が関東軍参謀の時、就職を求めて訪ねてきた。遠藤少佐は彼を満軍参謀に世話した。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤の参謀本部作戦課の勤務は長い。最初は大正12年12月から大正15年3月まで。その後フランス国駐在、海軍軍縮会議陸軍随員補佐を経て昭和4年12月から昭和7年8月まで遠藤は参謀本部作戦課に勤務する。
昭和6年9月18日午後10時過ぎ、奉天北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。
関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。これが満州事変の発端となった柳条湖事件である。
「将軍の遺言・遠藤三郎日記」(毎日新聞社)によると関東軍と中央陸軍首脳との間に思想上の食い違いがあり、連絡のため中央部から参謀本部第二部長・橋本虎之助少将、遠藤少佐、今井武夫大尉、西原一策少佐が関東軍に派遣された。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和6年9月28日午後4時頃一行は奉天に到着した。駅には軍の下級副有留大尉一人だけが出迎えたので意外な事であった。一行は軍幕僚の宿舎藩陽館に案内され、誰もいない殺風景な応接間に通された。
当時陸軍の制度として、砲工学校高等科を成績良く卒業した若干名は無試験で大学の工科に入校する資格を与えられ、大学の課程終了のまま工学士として技術方面の職に就くようになっていた。
校長ならびに職員が遠藤少尉にその道を進むよう勧めた理由は次のようなものであった。
「陸軍大学校に進む道もあろうが、帝大員外学生の道が開けたのだ。この道に進む人数は少数故、競争なしに中将までの進級は約束づけられている。その既得権益を放棄して未知の世界に行くのは賢明ではなかろう」
遠藤少尉は当時骨相学者として有名であった石榴子の門を叩いた。身分を隠し性格を見てもらったところ「特徴は権力に対する反抗心の強いところ」ということだった。
結局あまり参考にならず、遠藤少佐は自分の好きな道に行く事に決め、陸軍大学校の道を選んだ。
大正8年遠藤中尉は陸軍大学校に入学した。第三学年の時満州旅行の帰途、朝鮮通過の列車内で、学友の一人が酩酊し、命令伝達に来た学校副官に侮辱的言辞を弄した。
遠藤中尉はその学友を後ろから抱きかかえて止めようとしたのを、副官は遠藤中尉が酩酊悪口した如く勘違いして報告、これが卒業直前の教官会議で問題になった。
この問題は事前に学生間にも漏れ、遠藤中尉に事情を釈明すべしと忠言するものもいたが、酩酊した当人が進んで自主するものと思い、敢えて釈明しなかった。だが当人は遂に出なかった。
彼は参謀総長の女婿であった程の優秀な成績の持ち主であったから酩酊事件で傷つくのがいやだったのかも知れないが、遠藤中尉としては迷惑な事だった。
幸い教官会議に列席していた高橋捨治郎教官(遠藤中尉と同連隊出身で遠藤中尉が見習い士官の時の中隊長)が、遠藤中尉の性格と、酒を飲まないのを知っており弁護して、遠藤中尉は無事卒業(恩賜)できた。
皮肉にも参謀総長の女婿の彼は、卒業後間もなく身持ち悪く大尉で停職、満州事変で遠藤少佐が関東軍参謀の時、就職を求めて訪ねてきた。遠藤少佐は彼を満軍参謀に世話した。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤の参謀本部作戦課の勤務は長い。最初は大正12年12月から大正15年3月まで。その後フランス国駐在、海軍軍縮会議陸軍随員補佐を経て昭和4年12月から昭和7年8月まで遠藤は参謀本部作戦課に勤務する。
昭和6年9月18日午後10時過ぎ、奉天北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。
関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。これが満州事変の発端となった柳条湖事件である。
「将軍の遺言・遠藤三郎日記」(毎日新聞社)によると関東軍と中央陸軍首脳との間に思想上の食い違いがあり、連絡のため中央部から参謀本部第二部長・橋本虎之助少将、遠藤少佐、今井武夫大尉、西原一策少佐が関東軍に派遣された。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和6年9月28日午後4時頃一行は奉天に到着した。駅には軍の下級副有留大尉一人だけが出迎えたので意外な事であった。一行は軍幕僚の宿舎藩陽館に案内され、誰もいない殺風景な応接間に通された。