昭和15年、当時長沙付近で戦闘中であった第十一軍の第十三師団が陳誠将軍の指揮する十数個師団に囲まれ、全く孤立、苦戦に陥っているのを視察するため遠藤飛行団長は単身、部下の左高中尉機に搭乗し師団司令部に向かった。
師団司令部から数百メートル北にある飛行場は、すでに迫撃砲弾が打ち込まれているのが見えたが、強行着陸した。司令部付近にも小銃弾が飛んできていた。
師団長の内山英太郎中将は遠藤飛行団長の手を取り涙を浮べながら「どうか一兵一銃でもよいから空輸してもらいたい」と切願した。
内山中将は遠藤少将より五期先輩の砲兵であり、共に仙台幼年学校を母校とする旧知の間柄であった。また遠藤少将がフランス国駐在の時、内山中将は私費留学でフランスに来て遠藤と親しく付き合った。
内山中将の父は明治天皇の名侍従武官長と唱われた男爵内山大将であり、弟の勇次郎は遠藤少将と幼年学校の同期生であった。
遠藤は基地に帰り、歩兵部隊と軽機関銃分隊のピストン輸送を行った。また部下の全戦隊に第十三師団周辺の敵を攻撃させた。敵はその後撤退を始めた。
内山中将は戦後も遠藤を「命の恩人」と言って感謝していたが、昭和49年春に亡くなった。
第十一軍司令官阿南大将も大変喜んだ。遠藤飛行団長が漢口を離れ南方に転進する時、阿南軍司令官は幕僚を伴い飛行場まで見送りに来て第三飛行団の功績を称えた。
阿南大将は、遠藤少将に「軍に対し積極果敢と言わんよりは寧ろ軍を指導する気迫を以って協力された」と激賞し、その愛刀を贈った。なかなかの名刀で遠藤は戦後も保存して阿南大将の在りし日を偲んでいた。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤少将は昭和16年10月18日東條大将組閣の情報を聞いた。その時の感想を次のように述べている。
「東條大将は能吏型ではありましたが、統帥者としてはとかくの問題が有った人で、旅団長時代には既に影が薄かったようにさえ聞いておりました。それが関東憲兵司令官の時、その能吏ぶりが高く評価され関東軍参謀長となり、さらに陸軍次官、航空本部長兼航空総監を経て陸軍大臣という具合にトントン拍子に栄進しましたが、私はそれさえ不思議に思っておりましたのに今度は総理大臣です。いくら人材払底とはいえ驚かざるを得ませんでした」
続いて、次のようにも述べている。
「私は東條大将を近衛首相の後継者に内奏した木戸内府の真意は恐らく当時主戦論の急先鋒と目されておった、武藤章軍務局長、富永恭次人事局長、田中信一作戦部長のいわゆる陸士二十五期(遠藤より一期上)の三羽烏であり、東條大将はこれ等の突き上げで主戦論を唱えているものの、総理になって戦争の全責任を自分の双肩に負わされる様になれば、戦争に踏み切る程太っ腹は持つまいとの判断にあったのではないかと思いました」
また、遠藤少将は日中戦争が始って、陸軍は参謀総長に閑院元帥の宮を、海軍は軍令部総長に伏見元帥の宮を迎えた事を次のように批判している。
「その真意は両宮殿下の指導を仰ぐのが目的ではなく、皇族を担いで統帥部の微力、無能をカムフラージュして権威を高めるにあったと思われます」と。
昭和17年3月21日遠藤飛行団長はシンガポールの第三飛行集団参謀長から「貴官は陸軍航空士官学校幹事に4月1日発令される」と知らされた。
遠藤少将は戦争の前途を思うとき、部下戦場に残してひとり内地に帰り、直接戦争と関係のない職場に転ずる事に不満があった。
3月28日、遠藤は視察に来た参謀総長・杉山元元帥に対し、今回の転任に対し率直に苦情を述べた。
ところが杉山元帥は「航空士官学校は中将若しくは大将の職である。君はそこで飼い殺しだ」と遠藤に言った。
遠藤は直接戦争に関係ある職をと希望したが「既に上奏して御裁可ずみだから仕方がない」との返答だった。
航空士官学校幹事を経て遠藤少将は昭和17年12月陸軍中将昇進と同時に陸軍航空士官学校校長を拝命した。
「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、昭和18年、陸軍当局は「敵性語廃止」と英語教育禁止を命じる。
だが校長の遠藤中将はその支持を無視する。「だって教官が失業するもんな」と後年よく周囲を笑わせた。
遠藤は「時代の狂気」に押し流されない合理主義と反骨を併せ持っていたのだ。
同じ時期海軍兵学校校長の井上成美中将は「自国語しか話せない海軍士官など、どこへ行っても通用せん」と英語を寧ろ奨励した事はよく知られている。
師団司令部から数百メートル北にある飛行場は、すでに迫撃砲弾が打ち込まれているのが見えたが、強行着陸した。司令部付近にも小銃弾が飛んできていた。
師団長の内山英太郎中将は遠藤飛行団長の手を取り涙を浮べながら「どうか一兵一銃でもよいから空輸してもらいたい」と切願した。
内山中将は遠藤少将より五期先輩の砲兵であり、共に仙台幼年学校を母校とする旧知の間柄であった。また遠藤少将がフランス国駐在の時、内山中将は私費留学でフランスに来て遠藤と親しく付き合った。
内山中将の父は明治天皇の名侍従武官長と唱われた男爵内山大将であり、弟の勇次郎は遠藤少将と幼年学校の同期生であった。
遠藤は基地に帰り、歩兵部隊と軽機関銃分隊のピストン輸送を行った。また部下の全戦隊に第十三師団周辺の敵を攻撃させた。敵はその後撤退を始めた。
内山中将は戦後も遠藤を「命の恩人」と言って感謝していたが、昭和49年春に亡くなった。
第十一軍司令官阿南大将も大変喜んだ。遠藤飛行団長が漢口を離れ南方に転進する時、阿南軍司令官は幕僚を伴い飛行場まで見送りに来て第三飛行団の功績を称えた。
阿南大将は、遠藤少将に「軍に対し積極果敢と言わんよりは寧ろ軍を指導する気迫を以って協力された」と激賞し、その愛刀を贈った。なかなかの名刀で遠藤は戦後も保存して阿南大将の在りし日を偲んでいた。
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤少将は昭和16年10月18日東條大将組閣の情報を聞いた。その時の感想を次のように述べている。
「東條大将は能吏型ではありましたが、統帥者としてはとかくの問題が有った人で、旅団長時代には既に影が薄かったようにさえ聞いておりました。それが関東憲兵司令官の時、その能吏ぶりが高く評価され関東軍参謀長となり、さらに陸軍次官、航空本部長兼航空総監を経て陸軍大臣という具合にトントン拍子に栄進しましたが、私はそれさえ不思議に思っておりましたのに今度は総理大臣です。いくら人材払底とはいえ驚かざるを得ませんでした」
続いて、次のようにも述べている。
「私は東條大将を近衛首相の後継者に内奏した木戸内府の真意は恐らく当時主戦論の急先鋒と目されておった、武藤章軍務局長、富永恭次人事局長、田中信一作戦部長のいわゆる陸士二十五期(遠藤より一期上)の三羽烏であり、東條大将はこれ等の突き上げで主戦論を唱えているものの、総理になって戦争の全責任を自分の双肩に負わされる様になれば、戦争に踏み切る程太っ腹は持つまいとの判断にあったのではないかと思いました」
また、遠藤少将は日中戦争が始って、陸軍は参謀総長に閑院元帥の宮を、海軍は軍令部総長に伏見元帥の宮を迎えた事を次のように批判している。
「その真意は両宮殿下の指導を仰ぐのが目的ではなく、皇族を担いで統帥部の微力、無能をカムフラージュして権威を高めるにあったと思われます」と。
昭和17年3月21日遠藤飛行団長はシンガポールの第三飛行集団参謀長から「貴官は陸軍航空士官学校幹事に4月1日発令される」と知らされた。
遠藤少将は戦争の前途を思うとき、部下戦場に残してひとり内地に帰り、直接戦争と関係のない職場に転ずる事に不満があった。
3月28日、遠藤は視察に来た参謀総長・杉山元元帥に対し、今回の転任に対し率直に苦情を述べた。
ところが杉山元帥は「航空士官学校は中将若しくは大将の職である。君はそこで飼い殺しだ」と遠藤に言った。
遠藤は直接戦争に関係ある職をと希望したが「既に上奏して御裁可ずみだから仕方がない」との返答だった。
航空士官学校幹事を経て遠藤少将は昭和17年12月陸軍中将昇進と同時に陸軍航空士官学校校長を拝命した。
「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、昭和18年、陸軍当局は「敵性語廃止」と英語教育禁止を命じる。
だが校長の遠藤中将はその支持を無視する。「だって教官が失業するもんな」と後年よく周囲を笑わせた。
遠藤は「時代の狂気」に押し流されない合理主義と反骨を併せ持っていたのだ。
同じ時期海軍兵学校校長の井上成美中将は「自国語しか話せない海軍士官など、どこへ行っても通用せん」と英語を寧ろ奨励した事はよく知られている。