陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

42.石川信吾海軍少将(2) 東郷元帥がえらいけんまくで谷口大将を叱り、ふるえあがるほどだった

2007年01月05日 | 石川信吾海軍少将
 「真珠湾までの経緯~開戦の真相」(時事通信社)によると、石川中佐は、これら弾丸を充実するように、その問題の審議が軍令部長から海軍大臣宛てに提出されるように、事務を進めた。

 だが、谷口軍令部長はあまり関心を示さず、そのまま事務手続きが停滞した。

 このようなあいまいな状況は明らかに満州事変、上海事変に対する海軍の大方針が明確に決められていないために生ずる混乱であった。

 石川中佐は上司に向かって大方針の明示を要望するとともに、当時、軍事参議官であった、加藤寛治大将を訪ね、海軍として明確な方針決定が急務と意見を述べた。

 当時上海の事態は一層険悪になり、海軍は陸軍に派兵の要請をおこなった。陸軍は出動部隊に動員を命令した。

 その直後、海軍が陸軍の派兵取り消しを申し入れるという混乱が起きたので、陸軍参謀次長が海軍へ怒鳴り込むという一幕があった。

 その原因も谷口軍令部長のはっきりしない態度にあるとされていた。

 このような情勢に刺激されて海軍でも少壮血気な青年将校は、海軍首脳部に対して焦燥の気分が漂い始めた。

 昭和7年1月1月末か2月初めころ、霞ヶ浦航空隊の小園安名大尉以下約十名の若い将校が石川中佐を訪ねてきた。

 彼らは海軍首脳部の煮え切らない態度に憤慨し、谷口軍令部長に対して越軌の行動に出ようとする勢いだった。

 石川中佐は「君らの気持ちは分かるが、その問題は私に預けて、一日も早く立派な飛行将校になるよう、まず、当面の問題に全力を尽くせ」と伝えた。

 さらに「どうしても我慢ができないなら、今日から2週間は黙って静かにしているように」とさとして、帰隊させた。

 その夜、石川中佐は加藤大将を訪ねて、航空隊の若い将校たちの動揺を伝えた。

 ところが、加藤大将によると、軍事参議官会議で谷口大将はやめることに決まり、伏見宮が後任になられるとのことだった。

 そして加藤大将は「今日は東郷元帥がえらいけんまくで谷口大将を叱り、そばにいた私がふるえあがるほどだった。元帥があんなに怒られたのは、私もはじめてみたよ」と石川中佐に告げた。

 その後間もなく、昭和7年2月上旬、軍令部長と次長が更迭になり、伏見宮殿下が着任した。

 石川中佐は即日「弾丸更新ならびに充実」に関する海軍大臣宛商議案を提出し、新軍令部長の決裁を得て海軍省に送付した。

 だが海軍省首脳部は軍令部長の商議による経費3000万円を政府に要求する事は無理であるとの見解で、手続きに踏み切らなかった。今この予算を要求すれば、内閣の命運にまで影響するおそれがあるとのことだった。

 石川中佐は、もしそうであるならば、満州事変、上海事変をすみやかに終局させ、対米関係に紛争を生じないよう処理する事が必須の条件である。ところが事実はその反対の方向に向かっている。海軍は弾丸なしでどうして責任を負えるのかと主張した。

 満州・上海事変に関する臨時軍事費の審議される第61臨時議会は目前に迫っていた。石川中佐は軍備を担当する責任参謀として、このまま放置する事は出来なかった。

 残された手は現政府の中核の森格内閣書記官長と直接談判して善処してもらうより他はないと思った。

 石川中佐は議会開会の前日、官舎に森書記官長を訪ねた。石川中佐と森との一問一答が始った。

 石川中佐「先日、満州事変完遂の決意について政府は声明を発表したが、あれは外務省情報部の考えか、それとも真に政府の考えか」

 森「政府の真剣な決意だ」

 石川中佐「今朝の新聞ではアメリカ政府は満州事変を九カ国条約違反であると主張し、実力行使で変更された一切の事態は容認しないと断言したが、どう考えるか」

 森「政府は九カ国条約に爆弾をたたきつける決意で、あの声明を発表した」

 石川中佐「政府所信は分かったが、日米すでに攻略的には戦端をひらいたことになると思うが、どうか」

 森「そのとおりだ」

 石川中佐「後の始末は誰がする」

 森「そのための海軍じゃないか」(何を言っているかという調子)

 石川中佐「海軍首脳部でだれか後の始末を引き受けるといった人がいるのか」

 森「東方会議を開いて対満蒙政策を決定した時、ときの海軍大臣、岡田啓介が対米関係は引き受けると言った」

 森はどうだ、一本まいったかという顔つきで石川中佐をみつめた。