軍刀の柄に手をかけたまま長沢少将は言った。
「花谷がやめるか、私がやめるか、対決しよう」
栗田高級副官は二人をさえぎった。
「ぬいたら終わりですぞ」
宿舎の周りは竹やぶであった。竹やぶの中に二枚のむしろを敷いて、師団長と歩兵団長は向かい合って座り、論戦で対決することになった。
二人はにらみ合っていたが、やがて、目をそらせた。
そのまま無言でいたが、少しして花谷師団長が言った。
「おれが悪かった。あやまる」
その後、花谷中将は、昭和20年7月9日第39軍参謀長、7月14日第18方面軍参謀長をつとめ、終戦を迎えた。
「丸別冊、回想の将軍・提督」(潮書房)の中に、「ビルマ戦線の将軍群像」と題して、元ビルマ方面軍参謀、前田博元陸軍少佐が寄稿している。
その中で、前田氏は花谷師団長の容姿を次のように述べている。
「容姿全体が、闘魂の固まりとして私の目に映った。私なりに、その精悍な面貌から、花谷さんを『アラカンの鬼将軍』とお呼びしたくなった」
またその作戦結果について
「アキャブ方面守備の大任を見事に果たし、とくにインパール主攻勢方面に対する陽動作戦として、プチドン、モンドウ付近の敵に対する攻勢は猛烈を極め、英軍をして二個師団の増援を求めさせた程の戦果をおさめた」
と評価している。
「丸別冊、軍司令官と師団長」(潮書房)の中に、元ビルマ第三十三軍参謀・野口省己元陸軍少佐が「ビルマ戦の将軍たち」と題して寄稿している。
その中で、片倉衷参謀が
「花谷は物事をかくしだてできない性格なので、重要な機密にわたることは知らせなかった」
と述べている。
野口元少佐は辻政信参謀から、花谷師団長にどう仕えたらいいか、次のように教えられた。
「こちらも軍服を脱ぐが、相手にも軍服を脱がせる覚悟で体当たりすることだ」
「花谷さんという人は、案外小心で、自分の地位とか、権威の保持に汲きゅうとしているので、相手と心中する覚悟でぶつかれば、相手はコロリと参り、虎は変じて猫のようにおとなしくなる」
「戦死」(文春文庫)によると、戦後の花谷師団長は「曙会」という憂国同志と称する人々の集まる会を主宰していた。
晩年は東京の代々木八幡の商店街の二階のひと間に住んでいた。
花谷元中将が病気になってから、病院に入院した。福富繁元参謀は斉藤元高級参謀を案内して病院に見舞いに行った。
看護婦は
「もうおわかりにならないでしょう」
と病勢が進んでいることを告げた。
二人が声をかけると、目を開いた。
何か答えたが、入れ歯をはずしていたので、発音がわからなくて、
「わかいな」
というように聞こえた。
花谷元師団長が亡くなったのは、昭和三十二年八月二十八日であった。病死で、肺臓ガンであった。六十三歳だった。
葬儀は東京都港区の高野山東京別院で行なわれた。葬儀委員長は満州時代付き合いのあった十河信二国鉄総裁であった。
友人代表として挨拶したのは、元参謀本部第二部長・有末精三元中将だった。
政界、財界からは多くの花輪や生花がおくられた。
その中にひときわ注目をあびた花輪があった。その贈り主は、故人と浅からぬ縁故のあった、時の総理大臣・岸信介であった。
(「花谷正陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「井上成美海軍大将」が始まります)。
「花谷がやめるか、私がやめるか、対決しよう」
栗田高級副官は二人をさえぎった。
「ぬいたら終わりですぞ」
宿舎の周りは竹やぶであった。竹やぶの中に二枚のむしろを敷いて、師団長と歩兵団長は向かい合って座り、論戦で対決することになった。
二人はにらみ合っていたが、やがて、目をそらせた。
そのまま無言でいたが、少しして花谷師団長が言った。
「おれが悪かった。あやまる」
その後、花谷中将は、昭和20年7月9日第39軍参謀長、7月14日第18方面軍参謀長をつとめ、終戦を迎えた。
「丸別冊、回想の将軍・提督」(潮書房)の中に、「ビルマ戦線の将軍群像」と題して、元ビルマ方面軍参謀、前田博元陸軍少佐が寄稿している。
その中で、前田氏は花谷師団長の容姿を次のように述べている。
「容姿全体が、闘魂の固まりとして私の目に映った。私なりに、その精悍な面貌から、花谷さんを『アラカンの鬼将軍』とお呼びしたくなった」
またその作戦結果について
「アキャブ方面守備の大任を見事に果たし、とくにインパール主攻勢方面に対する陽動作戦として、プチドン、モンドウ付近の敵に対する攻勢は猛烈を極め、英軍をして二個師団の増援を求めさせた程の戦果をおさめた」
と評価している。
「丸別冊、軍司令官と師団長」(潮書房)の中に、元ビルマ第三十三軍参謀・野口省己元陸軍少佐が「ビルマ戦の将軍たち」と題して寄稿している。
その中で、片倉衷参謀が
「花谷は物事をかくしだてできない性格なので、重要な機密にわたることは知らせなかった」
と述べている。
野口元少佐は辻政信参謀から、花谷師団長にどう仕えたらいいか、次のように教えられた。
「こちらも軍服を脱ぐが、相手にも軍服を脱がせる覚悟で体当たりすることだ」
「花谷さんという人は、案外小心で、自分の地位とか、権威の保持に汲きゅうとしているので、相手と心中する覚悟でぶつかれば、相手はコロリと参り、虎は変じて猫のようにおとなしくなる」
「戦死」(文春文庫)によると、戦後の花谷師団長は「曙会」という憂国同志と称する人々の集まる会を主宰していた。
晩年は東京の代々木八幡の商店街の二階のひと間に住んでいた。
花谷元中将が病気になってから、病院に入院した。福富繁元参謀は斉藤元高級参謀を案内して病院に見舞いに行った。
看護婦は
「もうおわかりにならないでしょう」
と病勢が進んでいることを告げた。
二人が声をかけると、目を開いた。
何か答えたが、入れ歯をはずしていたので、発音がわからなくて、
「わかいな」
というように聞こえた。
花谷元師団長が亡くなったのは、昭和三十二年八月二十八日であった。病死で、肺臓ガンであった。六十三歳だった。
葬儀は東京都港区の高野山東京別院で行なわれた。葬儀委員長は満州時代付き合いのあった十河信二国鉄総裁であった。
友人代表として挨拶したのは、元参謀本部第二部長・有末精三元中将だった。
政界、財界からは多くの花輪や生花がおくられた。
その中にひときわ注目をあびた花輪があった。その贈り主は、故人と浅からぬ縁故のあった、時の総理大臣・岸信介であった。
(「花谷正陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「井上成美海軍大将」が始まります)。