昭和九年十一月の異動で、米内中将は第二艦隊司令長官に就任した。米内中将は十一月十七日、横須賀在泊中の第二艦隊旗艦鳥海に着任した。
「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、幕僚室で、首席参謀・石川信吾中佐(海兵四二・海大二五)が軍縮問題や海軍のあり方について熱っぽい議論をするのを、米内司令長官は「うん、うん」と聞いている。
米内司令長官は、政治的見解は石川中佐と正反対らしいが、言下に反論したり決め付けたりは決してしない。何か言う時は、おやじが息子をさとすような調子で「君たち、日本の兵隊は強いと思っているだろうが、日露戦争中の例から見ると、ほんとうは意外に弱いよ」というようなことを、ぽつんと言った。
米内司令長官は、暑くても暑いといわず、寒くても寒いといわない。頑固なのか、我慢強いのか、それとも感覚がないのか、常人ではとうていできない芸当であった。
酒は好んで飲むという風には見えないが、注げばいくらでも飲んで辞退せず、始終、形をくずさないのが不思議であった。
食物も別にやかましいことはなかったが、特に豆腐は大好物であった。あるとき、上海の出の宴会で、米内司令長官は主賓で、豆腐の田楽をぺろりと平らげてしまった。
空になった米内司令長官の皿を取り替えて、豆腐の田楽を出すと、また平らげる。次から次に、豆腐の田楽を平らげて、七、八人分は食べたという。
昭和十年十二月二日付で、米内中将は横須賀鎮守府司令長官に補された。参謀長は井上成美少将(海兵三七恩賜・海大二二)である。翌年の昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が勃発した。
「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保坂安正康・文芸春秋)によると、二・二六事件が勃発した時、米内司令長官は、築地の芸者のところにいて、横須賀にはいなかったという。
事件の一報を聞いたのは、井上参謀長で、当の米内司令長官は、次の朝、連絡を受けて、あわてて横須賀線の一番列車で帰った。カミソリと言われた井上参謀長が万事心得ていて、あたかも米内長官が横須賀にいるように振舞って、事なきを得た。
朝九時頃のんびり鎮守府に現れた米内司令長官を見て、事情を知らない者達は、大きな事件が起きているのに動じない、器の大きな人だと感心したという話もある。後に大臣と次官で名コンビと言われた米内、井上の二人の関係は、この頃から確立されていた。
「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、横須賀鎮守府では、事件に対する長官の訓示を行うことになった。起案するのは先任参謀の役目だが、先任参謀・山口次平中佐(海兵四一)も副官らも、陸軍の決起部隊を、一体何と呼んでいいか見当がつかずにいた。
その時、米内長官は一言、「叛乱軍」と、少しもためらわずに言った。
そして「今回の叛乱軍の行動は、絶対に許すべからずものだ。横鎮管下各部隊の所轄長を参集させろ。それまでに、これを印刷に付しておくように」と自分で書いた訓示を副官・阿金一夫大尉(海兵五二・海大三六)に渡した。これで横須賀における海軍部隊の動揺は完全に抑えられた。
副官の阿金大尉は横須賀鎮守府で永野修身、末次信正、米内光政、百武源吾の四代の長官に仕えた。阿金大尉は歴代の司令長官や参謀長の感想を次の様に述べている。
「まあ、一番やかましかったのが末次さんで、自動車の中で『おまえ、日令読んだか』と参謀長を怒鳴りつけるところも見ました。また、昔、第一水雷戦隊司令官当時、艦長に白墨投げつけたのも見ています」
「そのあとの井上成美参謀長は、これまたさわったら切れそうな、剃刀みたいな感じで、ものを言いに行くのがこわかったですが、長官の米内さんときたら、二・二六事件のようなことでもなければ、普段はまことに穏やかな、いつもにこにこしていて、慈眼衆生を見る仏様の如き長官でしたな」
だが、米内司令長官は、締めるところは締めていた。近く首になる某大佐が、「葉隠」に関する所見を書いて、印刷の上隷下に配布したいと申し出た。
井上成美参謀長が「所轄長かぎり参考として閲読させるならよろしいと思います」と意見を付して米内長官に廻した。ところが米内長官は読後、「葉隠は自殺奨励だよ。危険だからいけない」と返したという。
横須賀で少将、中将級の海軍の宴会といえば、たいてい「小松」が使われた。米内長官もよくやってきた。米内長官は、酒は強かった。米内長官と双璧の美丈夫、横須賀工廠長の古市龍雄少将など、あだ名を「浅草紙」といい、酔うとくしゃくしゃになってしまうが、米内長官は少しも崩れなかった。
「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、幕僚室で、首席参謀・石川信吾中佐(海兵四二・海大二五)が軍縮問題や海軍のあり方について熱っぽい議論をするのを、米内司令長官は「うん、うん」と聞いている。
米内司令長官は、政治的見解は石川中佐と正反対らしいが、言下に反論したり決め付けたりは決してしない。何か言う時は、おやじが息子をさとすような調子で「君たち、日本の兵隊は強いと思っているだろうが、日露戦争中の例から見ると、ほんとうは意外に弱いよ」というようなことを、ぽつんと言った。
米内司令長官は、暑くても暑いといわず、寒くても寒いといわない。頑固なのか、我慢強いのか、それとも感覚がないのか、常人ではとうていできない芸当であった。
酒は好んで飲むという風には見えないが、注げばいくらでも飲んで辞退せず、始終、形をくずさないのが不思議であった。
食物も別にやかましいことはなかったが、特に豆腐は大好物であった。あるとき、上海の出の宴会で、米内司令長官は主賓で、豆腐の田楽をぺろりと平らげてしまった。
空になった米内司令長官の皿を取り替えて、豆腐の田楽を出すと、また平らげる。次から次に、豆腐の田楽を平らげて、七、八人分は食べたという。
昭和十年十二月二日付で、米内中将は横須賀鎮守府司令長官に補された。参謀長は井上成美少将(海兵三七恩賜・海大二二)である。翌年の昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が勃発した。
「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保坂安正康・文芸春秋)によると、二・二六事件が勃発した時、米内司令長官は、築地の芸者のところにいて、横須賀にはいなかったという。
事件の一報を聞いたのは、井上参謀長で、当の米内司令長官は、次の朝、連絡を受けて、あわてて横須賀線の一番列車で帰った。カミソリと言われた井上参謀長が万事心得ていて、あたかも米内長官が横須賀にいるように振舞って、事なきを得た。
朝九時頃のんびり鎮守府に現れた米内司令長官を見て、事情を知らない者達は、大きな事件が起きているのに動じない、器の大きな人だと感心したという話もある。後に大臣と次官で名コンビと言われた米内、井上の二人の関係は、この頃から確立されていた。
「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、横須賀鎮守府では、事件に対する長官の訓示を行うことになった。起案するのは先任参謀の役目だが、先任参謀・山口次平中佐(海兵四一)も副官らも、陸軍の決起部隊を、一体何と呼んでいいか見当がつかずにいた。
その時、米内長官は一言、「叛乱軍」と、少しもためらわずに言った。
そして「今回の叛乱軍の行動は、絶対に許すべからずものだ。横鎮管下各部隊の所轄長を参集させろ。それまでに、これを印刷に付しておくように」と自分で書いた訓示を副官・阿金一夫大尉(海兵五二・海大三六)に渡した。これで横須賀における海軍部隊の動揺は完全に抑えられた。
副官の阿金大尉は横須賀鎮守府で永野修身、末次信正、米内光政、百武源吾の四代の長官に仕えた。阿金大尉は歴代の司令長官や参謀長の感想を次の様に述べている。
「まあ、一番やかましかったのが末次さんで、自動車の中で『おまえ、日令読んだか』と参謀長を怒鳴りつけるところも見ました。また、昔、第一水雷戦隊司令官当時、艦長に白墨投げつけたのも見ています」
「そのあとの井上成美参謀長は、これまたさわったら切れそうな、剃刀みたいな感じで、ものを言いに行くのがこわかったですが、長官の米内さんときたら、二・二六事件のようなことでもなければ、普段はまことに穏やかな、いつもにこにこしていて、慈眼衆生を見る仏様の如き長官でしたな」
だが、米内司令長官は、締めるところは締めていた。近く首になる某大佐が、「葉隠」に関する所見を書いて、印刷の上隷下に配布したいと申し出た。
井上成美参謀長が「所轄長かぎり参考として閲読させるならよろしいと思います」と意見を付して米内長官に廻した。ところが米内長官は読後、「葉隠は自殺奨励だよ。危険だからいけない」と返したという。
横須賀で少将、中将級の海軍の宴会といえば、たいてい「小松」が使われた。米内長官もよくやってきた。米内長官は、酒は強かった。米内長官と双璧の美丈夫、横須賀工廠長の古市龍雄少将など、あだ名を「浅草紙」といい、酔うとくしゃくしゃになってしまうが、米内長官は少しも崩れなかった。