陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

215.山本五十六海軍大将(15)山本大将は大艦巨砲主義者を時代遅れの遺物として評価しなかった

2010年05月07日 | 山本五十六海軍大将
 昭和十六年十一月十三日、連合艦隊司令部は、南遣艦隊を除く各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀らを岩国海軍航空隊に参集させ、真珠湾攻撃の作戦命令の説明と打ち合わせを行った。

 山本五十六連合艦隊司令長官は、説明を行い、最後に「ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合には、出動部隊に「引き揚げを命じるから、その命令を受けた時は、たとえ、攻撃隊の母艦発進後であっても直ちに反転、帰航してもらいたい」と付け加えた。

 すると、先ず、機動部隊の司令長官・南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)が「出て行ってから帰って来るんですか? そりゃ無理ですよ。士気にも影響するし、そんなことは実際問題としてとてもできませんよ」と反対した。

 二、三の指揮官もこれに同調した。さらに南雲中将は「それでは、まるで、出かかった小便をとめるようなものですよ」と述べた。

 これに対し山本司令長官は「百年兵を養うは、何のためだと思っているか。もしこの命令を受けて、帰って来られないと思う指揮官があるなら、只今から出動を禁止する。即刻辞表を出せ」と言った。言葉を返す者は一人もいなかった。

 航空本部長から第四艦隊司令長官に変わった井上成美中将は、連合艦隊の作戦会議に顔を出すのはこれが初めてであった。

 一同勝栗とするめで祝杯を上げ、記念撮影をして解散になったあと、井上中将が岩国航空隊司令の部屋に入って見ると、岩国の深川という料亭で開かれる夜の慰労会までの時間を持て扱いかねたように、山本五十六大将が一人ぽつねんとソファに座っていた。

 「山本さん」と井上中将は声をかけた。続けて井上中将は「とんでもないことになりましたね。長谷川(清)さん(海兵三一・海大一二次席)は、大変なことになるぞ、工業力は十倍だぞ、と言っておられましたよ。だけど、大臣はどういうんですかね。発つとき、岩国に行ってきますと言って大臣にも挨拶をしたんですが、嶋田さんときたら、ニコニコして、ちっとも困ったような様子じゃありませんでしたよ」と山本司令長官に言った。

 すると山本司令長官は「そうだろ。嶋ハンはオメデタイんだ」と、悲痛な顔をして見せた。

 しかし、井上の知る限り、山本五十六が戦争反対を匂わす言葉を口にしたのは、これが最後であった。陛下の胸中はよく分かっているとはいえ、すでに聖断が下ったのであって、少なくとも公にはこの日以来、山本は一切の反戦論を口に出さなくなったといわれている。

 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が勃発した。山本五十六大将が指揮する日本の連合艦隊は機動部隊の奇襲作戦が成功し大戦果をあげた。

 「山本五十六の無念」(半藤一利・恒文社)によると、真珠湾奇襲作戦が成功した後、戦艦長門では、山本司令長官は再び作戦室に姿を見せた。

 作戦室では参謀長・宇垣纏少将と先任参謀・黒島亀人大佐(海兵四四・海大二六)が烈しく対立していた。

 元々、宇垣参謀長と、黒島先任参謀は、よく意見の相違があり、対立していた。だが、山本司令長官は黒島先任参謀を重用していたので、宇垣参謀長は連合艦隊司令部では浮いた存在だった。

 宇垣参謀長は海兵四〇期を百四十四人中九番という優秀な成績で卒業している、その後、海軍の主流とも言うべき砲術畑で経験を積み軍令系のポストを歴任した。当時の海軍では典型的なエリートコースだった。

 したがって、宇垣参謀長は大艦巨砲主義の忠実な信奉者だった。だから航空主兵主義の山本司令長官と、コチコチの大艦巨砲主義の宇垣参謀長は元来そりが合わなかった。

 真珠湾攻撃の後、昭和十六年十二月十日、マレー沖海戦で、基地航空部隊がイギリス戦艦二隻を撃沈した時も、宇垣参謀長の日記「戦藻録」には次のように記されている。

 「~又しても飛行機に功を脾肉の嘆ありとの通信あり。尤もなる次第なるも戦は永し。色々の状況は今後も起こるべし。主力艦の巨砲大に物を云うことありと知らずや」

 この時点でも、宇垣参謀長の大艦巨砲に対する信念はいささかも揺るがなかった。ところが、山本大将は大艦巨砲主義者を時代遅れの遺物として評価しなかった。

 また、宇垣参謀長は軍令部第一部長時代に日独伊三国同盟に賛成した者の一人だった。日独伊三国同盟に命を張って反対した山本司令長官とは対立の極にあった。

 だから、当初、宇垣が連合艦隊参謀長に予定された時には、山本司令長官が拒否して、この人事は流れている。

 海軍首脳としても、当時、連合艦隊参謀長としての適任者は、宇垣しかいなかったので、後に連合艦隊参謀長人事に宇垣を強行してしまった。

 だが、だが宇垣少将が参謀長に就任しても、連合艦隊司令部では、作戦は山本司令長官、黒島先任参謀、渡辺安次戦務参謀(海兵五一・海大三三)というラインが出来上がっており、宇垣参謀長はそのラインに食い込むことはできす、常に浮いた存在だった。

 とりわけ黒島先任参謀を山本長官は懐刀として重用していた。だが、宇垣参謀長は性格的に気が強く、自信家であった。

 その宇垣参謀長は、真珠湾攻撃が成功した後、その再攻撃に猛反対した。黒島先任参謀や他の参謀達はもう一度真珠湾を叩くべきだと主張していた。