はらはらして「伊勢」の乗組員が見ていると、「あっ」という間に日向機が海上に突入した。とたんに山口艦長の号令がかかった。「面舵いっぱい」。
「伊勢」は独断専行の行動をとる「不関旗」一旒を掲げ、搭乗員救助のために事故現場に急行した。だが、他艦と協同して搭乗員を捜索しても、ついに発見することはできなかった。
山口艦長の間髪を入れない果敢な処置に、日辻候補生は「おれに言った通りをやってみせてくれた」と思い、感動した。
日辻常雄候補生は後に、九七式大艇と二式大艇の飛行艇パイロットとして太平洋戦争の全期間を戦い抜いた。機長、分隊長、飛行隊長、教官として活躍した。終戦時海軍少佐。
戦後、日辻常雄氏は海上自衛隊に入り海将補で退職した。著書に昭和五十八年「最後の飛行艇」(今日の話題社)、平成五年「最後の飛行艇」(朝日ソノラマ文庫)がある。
昭和十三年五月半ば過ぎ、戦艦「伊勢」は呉軍港に入港、艦の整備、乗員の休養に入った。六月はじめから「伊勢」特別短艇員たちの特訓が再開された。七月一日に行われる後期の第一艦隊短艇協議に再優勝しするためである。
ある朝、呉軍港内で、「伊勢」の短艇員の山県少尉の第一クルーと日辻少尉の第二クルーが練習競漕をしていると、数隻の潜水艦が縦に並んで右から進んできた。
山県少尉と日辻少尉はかまわずに競漕を続けた。向こう見ずの二隻の短艇に衝突しそうになった潜水隊は、やむを得ずエンジンを停止した。
出港針路を妨害された潜水隊司令はカンカンに怒り、「伊勢」に抗議の信号を送った。しかし、報告を聞いた山口艦長は「潜水隊が特短を避ければ済むことじゃないかね」と言っただけだった。
呉軍港内には、ひとしきり、「伊勢の特短が潜水隊の出港をストップさせたんじゃと。勇ましいことやらかすもんじゃのう」という噂が広がった。
昭和十三年十一月十五日、山口多聞大佐は海軍少将に進級し、第五艦隊参謀長に補された。同日山口少将は戦艦「伊勢」を退艦し、香港に碇泊中の第五艦隊旗艦、重巡洋艦「妙高」(一三〇〇〇トン)へ向かった。
「妙高」には第五艦隊機関長として、昔馴染みの森田貫一大佐がいた。山口少将と森田大佐は顔を見合わせて笑った。
二、三日後、山口少将と森田大佐は広東の陸軍第二十一軍司令部に行き、軍司令官・古荘幹郎中将(陸士一四・陸大二一首席)以下参謀たちに挨拶し、作戦の打ち合わせを行った。
広東はすでに日本軍によって占領されていたが、まだ敵の抵抗は続いていた。その夜、山口少将と森田大佐は、陸軍側から市内の料亭で夕食の接待を受けた。ところがこの地域で出るはずのないフグの刺身が出てきた。
森田大佐は驚いて、第二十一軍の先任参謀に「どうしたんですかこれは、南支のフグなんて猛毒だけど、いいんですか」とたずねた。
すると先任参謀は「大丈夫ですよ、毎日博多からとりよせているんですから」と答えた。森田大佐が「毎日博多から・・・・・・」と念を押すと、「そうですよ、だから心配ないですよ」と言った。
森田大佐は、軍司令官以下が、自分らがフグを食いたいために、軍用機を利用して憚らないのだと察知して、イヤな気持ちになった。
翌日山口少将と森田大佐は、第二十一軍先任参謀の案内で、前線視察に出かけた。珠江河岸に行くと、陸軍の兵隊が輸送船からぞろぞろ上陸していた。
内地から来た兵で、内地へ帰る現地兵と交代するのだという。ところが、誰も小銃を持っていない。森田大佐は先任参謀に聞いてみた。「鉄砲はどうしたんですか」。
すると先任参謀は「ああ、鉄砲は内地へ帰る兵からもらうんですよ」と答えた。森田大佐はがまんがならなくなった。「なんだ、自分らだけフグ食って、兵隊は鉄砲も持っていないじゃないか」。先任参謀は黙っていた。
山口少将が森田大佐の肩をたたいた。「まあ、そういうなよ」。香港への帰り道、山口少将と森田大佐は、あんなことでは皇軍などといえるものではないと、がっかりしていた。
「伊勢」は独断専行の行動をとる「不関旗」一旒を掲げ、搭乗員救助のために事故現場に急行した。だが、他艦と協同して搭乗員を捜索しても、ついに発見することはできなかった。
山口艦長の間髪を入れない果敢な処置に、日辻候補生は「おれに言った通りをやってみせてくれた」と思い、感動した。
日辻常雄候補生は後に、九七式大艇と二式大艇の飛行艇パイロットとして太平洋戦争の全期間を戦い抜いた。機長、分隊長、飛行隊長、教官として活躍した。終戦時海軍少佐。
戦後、日辻常雄氏は海上自衛隊に入り海将補で退職した。著書に昭和五十八年「最後の飛行艇」(今日の話題社)、平成五年「最後の飛行艇」(朝日ソノラマ文庫)がある。
昭和十三年五月半ば過ぎ、戦艦「伊勢」は呉軍港に入港、艦の整備、乗員の休養に入った。六月はじめから「伊勢」特別短艇員たちの特訓が再開された。七月一日に行われる後期の第一艦隊短艇協議に再優勝しするためである。
ある朝、呉軍港内で、「伊勢」の短艇員の山県少尉の第一クルーと日辻少尉の第二クルーが練習競漕をしていると、数隻の潜水艦が縦に並んで右から進んできた。
山県少尉と日辻少尉はかまわずに競漕を続けた。向こう見ずの二隻の短艇に衝突しそうになった潜水隊は、やむを得ずエンジンを停止した。
出港針路を妨害された潜水隊司令はカンカンに怒り、「伊勢」に抗議の信号を送った。しかし、報告を聞いた山口艦長は「潜水隊が特短を避ければ済むことじゃないかね」と言っただけだった。
呉軍港内には、ひとしきり、「伊勢の特短が潜水隊の出港をストップさせたんじゃと。勇ましいことやらかすもんじゃのう」という噂が広がった。
昭和十三年十一月十五日、山口多聞大佐は海軍少将に進級し、第五艦隊参謀長に補された。同日山口少将は戦艦「伊勢」を退艦し、香港に碇泊中の第五艦隊旗艦、重巡洋艦「妙高」(一三〇〇〇トン)へ向かった。
「妙高」には第五艦隊機関長として、昔馴染みの森田貫一大佐がいた。山口少将と森田大佐は顔を見合わせて笑った。
二、三日後、山口少将と森田大佐は広東の陸軍第二十一軍司令部に行き、軍司令官・古荘幹郎中将(陸士一四・陸大二一首席)以下参謀たちに挨拶し、作戦の打ち合わせを行った。
広東はすでに日本軍によって占領されていたが、まだ敵の抵抗は続いていた。その夜、山口少将と森田大佐は、陸軍側から市内の料亭で夕食の接待を受けた。ところがこの地域で出るはずのないフグの刺身が出てきた。
森田大佐は驚いて、第二十一軍の先任参謀に「どうしたんですかこれは、南支のフグなんて猛毒だけど、いいんですか」とたずねた。
すると先任参謀は「大丈夫ですよ、毎日博多からとりよせているんですから」と答えた。森田大佐が「毎日博多から・・・・・・」と念を押すと、「そうですよ、だから心配ないですよ」と言った。
森田大佐は、軍司令官以下が、自分らがフグを食いたいために、軍用機を利用して憚らないのだと察知して、イヤな気持ちになった。
翌日山口少将と森田大佐は、第二十一軍先任参謀の案内で、前線視察に出かけた。珠江河岸に行くと、陸軍の兵隊が輸送船からぞろぞろ上陸していた。
内地から来た兵で、内地へ帰る現地兵と交代するのだという。ところが、誰も小銃を持っていない。森田大佐は先任参謀に聞いてみた。「鉄砲はどうしたんですか」。
すると先任参謀は「ああ、鉄砲は内地へ帰る兵からもらうんですよ」と答えた。森田大佐はがまんがならなくなった。「なんだ、自分らだけフグ食って、兵隊は鉄砲も持っていないじゃないか」。先任参謀は黙っていた。
山口少将が森田大佐の肩をたたいた。「まあ、そういうなよ」。香港への帰り道、山口少将と森田大佐は、あんなことでは皇軍などといえるものではないと、がっかりしていた。