陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

250.山口多聞海軍中将(10)やい、多聞丸、よくも俺たちをひでぇ目にあわせやがったな

2011年01月07日 | 山口多聞海軍中将
 大西少将が「貴様のところのあの飛行機はなんだ。・・・・・・」と言っているのは、一連空の二一型九六陸攻のことで、「じゅうたん爆撃をするべきじゃないか」というのは、次の様なことと推察される。

 六月上旬までの攻撃は、飛行場と軍事施設に限っていた。だが、市街には多数の対空砲台が設置されており、それによる味方の被害が増大してきたし、また飛行場や軍事施設を爆撃するぐらいでは効果が少ない。

 だから市街地もひっくるめてじゅうたん爆撃をし、敵の戦意を喪失させるべきだ。そのためにイギリスやアメリカの軍事施設に爆弾が落ちても仕方がない。それでイギリスやアメリカに文句を言われたって大したことにはならない。

 これに対して山口少将が「各国大使館もあることだし・・・・・・」と言っているのは、無差別爆撃をやって米英の領事館や軍艦まで爆破するなら、対米英戦の決意がなければならないが、中央(海軍省・軍令部)にはそこまでの肝がない。だから、そういうものは避けて爆撃しなければならない、ということだった。

 さて、七月十日近くになると、新型の中国戦闘機隊が高度八千メートルぐらいで陸攻隊を待ち伏せて襲ってくるようになり、味方の被害が増加し始めた。

 それでも山口少将は爆撃続行を主張した。だが、今度は大西少将が山口少将をおさえにかかった。「あと一週間もすれば零戦隊が到着する。そうすれば援護戦闘機をつけて爆撃することができる。犠牲の多い裸攻撃を急いでやることはねえだろう」

 すると山口少将は「いや、蒋介石政権を屈服させるには、敵に立ち直る余裕を与えてはいかん。犠牲が出ても攻撃を続行すべきだ」と言った。

 言い出せば、両方あとに引かない。だが、決定権は山口少将にあった。一連空の参謀が大西少将のところへ来て言った。「山口司令官はどうしても重慶攻撃を中攻(陸攻)単独でやると言われます」。

 これに対し、大西少将は「そうか、どうしてもやるというならやりゃよかろう。だが、俺は元々航空の生抜きだ。山口の参謀長としてやっているが、本来は二連空の司令官だ。おれにも覚悟があるといっとけ」

 一連空の参謀は仕方がなくて帰っていった。しばらくすると、山口少将本人が現れて、大西少将の肩を叩いて言った。「大西、やはり一週間のばそうよ」。

 このことについて、大西少将は後に「今から思うと、山口のほうが一枚上だったよ」と、人に語ったという。「おれにも覚悟がある」というのは、山口少将の参謀長をやめて、二連空は俺の思い通りにやる、ということであろう。

 特攻隊待望の新鋭零式艦上戦闘機六機が、横山保大尉(海兵五九)に率いられ、横須賀から大村、上海を経由して漢口基地上空に姿を現したのは七月十五日だった。

 だが、当分は実用実験飛行を繰り返して整備しなければならないので、すぐに出撃させることはできなかった。

 結局、陸攻隊は、大西少将の意見もあったが、零戦の整備完了を待っているわけにもいかず、単独の重慶攻撃を再開した。

 昭和十五年八月十九日、横山大尉が率いる零戦一一型十二機は、一、二連空の陸攻五十四機とともに重慶に出撃した。零戦が実戦に参加したのは、このときが史上初であった。この時は、敵戦闘機はすでに零戦の威力を知っており、一機も姿を見せなかった。

 翌日、八月二十日には、新藤三郎大尉(海兵六〇)が、零戦十二機を率いて、陸海合計百八機の攻撃隊とともに出撃したが、やはり敵戦闘機は一機も現れなかった。

 五月中旬以来三ヶ月にわたる一〇一号作戦も、ついに作戦終了の九月五日となった。蒋介石政権を打倒する目的を果たさないまま、大本営海軍部は作戦の打ち切りを決定し、一、三連空は、九月六日、二連空を漢口に残して、それぞれ、鹿屋、高雄、海南島の原隊へ帰っていった。

 鹿屋基地に帰った搭乗員や整備員たちは、久しぶりに羽をのばして、飲み、遊び、寝た。鹿屋にはうまいすき焼きを食わせる「あみ屋」という肉屋があった。「あみ屋」の主人は、顔立ち、体つきが山口多聞少将にそっくりだった。

 ここで、すき焼きを食い、一杯飲んだ搭乗員たちは、漢口の一〇一作戦で、山口少将に酷使されたことを語り合い、店の主人をつかまえ、「やい、多聞丸、よくも俺たちをひでぇ目にあわせやがったな」と、そのはげ頭や、丸々太った太鼓腹を、ぴしゃぴしゃ叩いて喜んだという。

 昭和十五年十一月一日、山口少将は空母部隊の第二航空戦隊司令官として、佐世保軍港沖のブイに繋泊(けいはく)している旗艦の空母「飛龍」(二〇一六五トン)に着任した。

 第二航空戦隊は連合艦隊第二艦隊(重巡部隊)に所属し、空母「飛龍」、「蒼龍」(一八五〇〇トン)と、第十一駆逐隊(駆逐艦三隻)で編成されていた。

 「飛龍」は、新鋭中型空母で、昭和十四年七月五日、横須賀海軍工廠で完成され、全長二百二十二メートル、幅二十二メートル、公試排水量二〇一六五トン、一五二〇〇〇馬力、最大速力三十四・六ノット(時速約六十四キロ)、乗員約千百名、搭載飛行機数は常用五十七機、補用十六機。所属は佐世保鎮守府だった。