だが、勝者の各国はかつてない総力戦に疲れ、永続的な平和を願う機運が生まれ、アメリカ大統領ウィルソンの提案で一九二〇年(大正九年)、「国際連盟」が発足した。
日本は、戦争中は笑いが止まらぬ好景気だったが、戦争が終結すると、不況が襲来し、総予算の規模を縮小しなければならなくなった。
財政膨張の最大要因は軍事費であった。なかでも莫大な使途は造艦費だった。虎視眈々と東洋進出をねらうアメリカの建艦運動との競争だった。
経済恐慌は各国に吹き荒れ、特に大戦のため多くの艦船を失ったイギリスでは深刻だった。イギリスは東洋に多くの権益を持っている。大戦で無傷の日本を牽制する必要があった。
大正十年十一月十二日、軍縮会議が米国ワシントンで開催され、五大国が主力艦の軍縮について討議することになった。
この会議の日本全権は海軍大臣・加藤友三郎大将(広島・海兵七次席・海大一・首相・元帥・子爵・大勲位菊花大綬章)だった。
加藤友三郎大将は軍備費拡大のため国民は物価高にあえぎ、日本はとうてい一等国という生活水準ではないことを知っていた。アメリカの無制限な軍備拡大を防ぐためにもなんとしても軍縮会議を成功させたいと願っていた。
当時、岡田啓介中将(福井・海兵一五・海大二)は艦政本部長という造艦の責任者だった。岡田中将はかねてから加藤友三郎大将の人格、識見に傾倒していただけに、軍縮会議の成功を祈っていた。
アメリカのヒューズ全権は「アメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率を五・五・三に抑えたい」と発言した。
激しい怒りを表したのは主席随員の加藤寛治(かとう・ひろはる)中将(福井・海兵一八首席・海軍大学校校長・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長)と次席随員の末次信正大佐(山口・海兵二七・海大七首席・教育局長・軍令部次長・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)だった。
加藤寛治中将は対米戦略の専門家で、末次信正大佐とともに、絶対に十・十・七でなければならないと主張していた。彼らには、艦隊拡張派といわれる軍令部の後押しもあった。
加藤寛治中将は「十・十・七が受諾されないならば、日本は会議を脱退してもよい」と全権・海軍大臣・加藤友三郎大将に激しく迫った。
だが、加藤友三郎大将は、会議の決裂が、各国の無制限建艦運動になることを危惧してアメリカ案を受諾した。
加藤友三郎大将は「無益な戦争を国際法によって回避し、産業、貿易等を振興し、国民の生活を安定させるのが得策だ」と考えていた。
もちろん、加藤友三郎大将も日本の増艦希望も述べ、比率の改正を提案したが、アメリカ、イギリスともに日本の東洋制圧を防ぐための会議であるから、引き下がるはずもなかった。
全権・加藤友三郎大将は何度も本国に会議の状況を報告した。軍縮派の岡田啓介中将は、これらの通信から会議の成立を嬉しく思った。
岡田中将は、幕末越前藩の財政建て直しをはかったという由利公正の「民富みて、国富む」の国富論を思い出していた。加藤友三郎大将の意見と全く同感だった。
だが、煮え湯を飲まされた思いの、主席随員・加藤寛治中将(軍令部出仕・海大校長)、次席随員・末次信正大佐(軍令部作戦課長)ら軍令部艦隊拡張派は、日本の外交的後退と憤激した。
ワシントン会議で軍縮案を呑んで無念の帰国をした加藤寛治中将は、艦隊派に同調していた東郷平八郎元帥(鹿児島・英国商船学校卒・連合艦隊司令長官・日本海海戦で勝利・海軍軍令部長・東宮御学問所総裁・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・伯爵・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)を訪ねた。
このとき、東郷元帥は加藤寛治中将に「寛治どん、軍備に制限はあっても、訓練に制限はごわはんじゃろ」と言った。東郷元帥は日露戦争の日本海海戦前の猛訓練を思い出していたのだ。
ワシントン会議から大正十一年三月に帰国した加藤寛治中将は、五月、軍令部次長に就任した。
日本は、戦争中は笑いが止まらぬ好景気だったが、戦争が終結すると、不況が襲来し、総予算の規模を縮小しなければならなくなった。
財政膨張の最大要因は軍事費であった。なかでも莫大な使途は造艦費だった。虎視眈々と東洋進出をねらうアメリカの建艦運動との競争だった。
経済恐慌は各国に吹き荒れ、特に大戦のため多くの艦船を失ったイギリスでは深刻だった。イギリスは東洋に多くの権益を持っている。大戦で無傷の日本を牽制する必要があった。
大正十年十一月十二日、軍縮会議が米国ワシントンで開催され、五大国が主力艦の軍縮について討議することになった。
この会議の日本全権は海軍大臣・加藤友三郎大将(広島・海兵七次席・海大一・首相・元帥・子爵・大勲位菊花大綬章)だった。
加藤友三郎大将は軍備費拡大のため国民は物価高にあえぎ、日本はとうてい一等国という生活水準ではないことを知っていた。アメリカの無制限な軍備拡大を防ぐためにもなんとしても軍縮会議を成功させたいと願っていた。
当時、岡田啓介中将(福井・海兵一五・海大二)は艦政本部長という造艦の責任者だった。岡田中将はかねてから加藤友三郎大将の人格、識見に傾倒していただけに、軍縮会議の成功を祈っていた。
アメリカのヒューズ全権は「アメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率を五・五・三に抑えたい」と発言した。
激しい怒りを表したのは主席随員の加藤寛治(かとう・ひろはる)中将(福井・海兵一八首席・海軍大学校校長・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長)と次席随員の末次信正大佐(山口・海兵二七・海大七首席・教育局長・軍令部次長・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)だった。
加藤寛治中将は対米戦略の専門家で、末次信正大佐とともに、絶対に十・十・七でなければならないと主張していた。彼らには、艦隊拡張派といわれる軍令部の後押しもあった。
加藤寛治中将は「十・十・七が受諾されないならば、日本は会議を脱退してもよい」と全権・海軍大臣・加藤友三郎大将に激しく迫った。
だが、加藤友三郎大将は、会議の決裂が、各国の無制限建艦運動になることを危惧してアメリカ案を受諾した。
加藤友三郎大将は「無益な戦争を国際法によって回避し、産業、貿易等を振興し、国民の生活を安定させるのが得策だ」と考えていた。
もちろん、加藤友三郎大将も日本の増艦希望も述べ、比率の改正を提案したが、アメリカ、イギリスともに日本の東洋制圧を防ぐための会議であるから、引き下がるはずもなかった。
全権・加藤友三郎大将は何度も本国に会議の状況を報告した。軍縮派の岡田啓介中将は、これらの通信から会議の成立を嬉しく思った。
岡田中将は、幕末越前藩の財政建て直しをはかったという由利公正の「民富みて、国富む」の国富論を思い出していた。加藤友三郎大将の意見と全く同感だった。
だが、煮え湯を飲まされた思いの、主席随員・加藤寛治中将(軍令部出仕・海大校長)、次席随員・末次信正大佐(軍令部作戦課長)ら軍令部艦隊拡張派は、日本の外交的後退と憤激した。
ワシントン会議で軍縮案を呑んで無念の帰国をした加藤寛治中将は、艦隊派に同調していた東郷平八郎元帥(鹿児島・英国商船学校卒・連合艦隊司令長官・日本海海戦で勝利・海軍軍令部長・東宮御学問所総裁・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・伯爵・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)を訪ねた。
このとき、東郷元帥は加藤寛治中将に「寛治どん、軍備に制限はあっても、訓練に制限はごわはんじゃろ」と言った。東郷元帥は日露戦争の日本海海戦前の猛訓練を思い出していたのだ。
ワシントン会議から大正十一年三月に帰国した加藤寛治中将は、五月、軍令部次長に就任した。