陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

351.辻政信陸軍大佐(11)君と辻君が一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ

2012年12月13日 | 辻政信陸軍大佐
 引き続き土居明夫中将が、死の直前に書き残したメモは次の通り。

 「一度は余を慰留したが、余は自ら自宅に引きこもり出動せず。余が出た後、服部はすぐ辻を補充して南方作戦一色となった」

 「支那総軍付から台湾軍まで南方作戦を研究中であった。これで日本の方向は決した」。

 以上が、土居明夫元中将の回想だが、服部作戦班長がなぜ土居作戦課長に嫌がらせをしたのか。さらに突っ込んだ土居明夫元中将の回想が、子息に語ったテープに次のように吹き込まれていた。

 「俺が作戦課長のときに服部が来て、辻を作戦課に呼びたいといってきたんだ。俺は絶対にいかんといったんだ。『君と辻君が一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ』とね」

 「ところが服部らは俺を追い出す運動をやったんだ。服部や辻は気脈を通じていて、ノモンハンの責任も取らずに、逆にその責任を云々する俺を追い出しにかかった」

 「俺は自ら第一線転属を願い出て、牡丹江に出たが、そしたら服部はすぐに辻を呼んで二人のコンビで南方作戦をやったんだ」

 「我々みたいに外国に居った者とちがって、彼らは参謀本部、陸軍省、支那派遣軍、関東軍などに根をはっていて、同志で気脈を通じ、全体の空気を作っていくんだ。俺としてはこの壁をやぶれなかった」。

 つまり、土居課長の追い出しは、辻引き入れのための服部工作だったということになる。作戦部長の田中少将は、服部と同じ仙台地方幼年学校の先輩であり、武断派であることも共通しており、使いやすさにおいても、田中部長が服部を選んだといえる。

 昭和十六年十二月、辻政信中佐は、第二十五軍作戦主任参謀としてマレー、シンガポール攻略戦に参加した。

 「悪魔的作戦参謀・辻政信」(生出寿・光人社NF文庫)によると、昭和十七年一月一日、河村部隊の歩兵第四十一連隊第二大隊第七中隊は、カンパルへゆく山の西麓ちかくで、信岡大尉を中心にして、後方の予備隊の手で届けられた正月の餅を、一人一個ずつ、食べていた。

 だが、その餅を食い終わった瞬間、敵の砲弾が炸裂して、信岡中隊長以下、数人が戦死してしまった。

 隊員たちは深い悲嘆に沈んだが、第二小隊長・上部少尉が指揮して、全員が一人用のタコツボを掘って入り、射撃を再開した。

 そのとき、戦闘帽をかぶり、無精ヒゲを生やし、丸い黒枠のメガネをかけた作戦主任参謀・辻政信中佐がたけだけしい狼のように平然と歩いて来て、怒鳴った。

 「なにをぼやぼやしとる、そんなことで、中隊長の弔い合戦ができるか」

 みんなタコツボの中に入り込んで首をすくめているのに、辻中佐は敵弾が飛んでくる方に背を向けて立ち、「勇敢な兵隊にはチョコレートをやる。取りに来い」と言った。

 何人かがタコツボを出て、辻中佐のところへゆき、チョコレートをもらった。その一人の樽田篤麿上等兵は辻中佐からするどく聞かれた。「小隊長はどこにいるか」。

 樽田上等兵が「あそこにおられます」と、五、六メートル先のタコツボを指すと、辻中佐は「ああ、この小隊長はだめだ。おまえが、小隊長をやれ」と、聞こえよがしの大声を出した。

 たまげた小隊長は、軍刀を抜いて立ち上がり、「突撃」と号令をかけて飛び出し、全員それに続いた。

 辻中佐は、中隊長が戦死して闘志を失った隊員たちに気合をかけ、立ち直らせようとしたのだろう。だが、これは越権的行為だった。

 一月一日、日本軍はカンバルの英軍を攻撃するために、カンバル東側の山地に踏み入った。だが、戦車は小川の橋が爆破されて進めなくなり、歩兵部隊の将兵は、疲労と英軍火砲の猛射で動けず、そのまま夜となった。

 後方のゴム林内の第五師団司令部に戻った作戦主任参謀・辻中佐は、海上機動部隊の渡辺支隊(歩兵第一一連隊主力ほか)が、今朝、英軍機に襲撃され、メリンタムに退避したことを知った。

 「このさい、渡辺支隊を陸上に戻してテロクアンソンに向かわせ、近衛師団の吉田支隊とともに、カンパルの英軍の退路を遮断させるべきだ」と辻中佐は判断した。