「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、真崎甚三郎は陸軍士官学校九期だが、この期から、真崎甚三郎を含め、本庄繁、阿部信行、荒木貞夫、松井石根(まつい・いわね・愛知・陸士九次席・陸大一八首席・歩兵第三五旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・台湾軍司令官・大将・中支那方面軍司令官・内閣参議・正三位・勲一等・功一級・戦犯で死刑)、林仙之(はやし・なりゆき・熊本・陸士九・陸大二〇・歩兵第三〇旅団長・陸軍士官学校長・中将・教育総監部本部長。第一師団長・東京警備司令官・大将)と、六人の大将が出ている。
昭和二年三月、真崎甚三郎少将は陸軍中将に昇進し、弘前の第八師団長に転出した。佐賀出身の真崎中将は、この時期、薩肥閥の有力な一人と目されていた。
その派閥の領袖で軍長老の上原勇作元帥(うえはら・ゆうさく・鹿児島・陸士旧三・フランス・フォンテンブロー砲工学校卒・陸軍砲工学校校長・工兵監・中将・男爵・第七師団長・第一四師団長・陸軍大臣・教育総監・大将・参謀総長・子爵・元帥・従一位・大勲位・功二級)らの後押しで、真崎少将の中将昇進が実施された。
昭和五年春、朝日新聞記者・高宮太平(福岡・朝日新聞社・陸軍記者・満州局次長・京城日報社長・内閣情報局嘱託・「米内光政」「天皇陛下」「軍国太平記」など著書多数・昭和三十六年死去)は陸軍担当記者になった。
当時、陸軍大派閥の長州閥を継いだ陸軍大臣・宇垣一成大将(うがき・かずしげ・岡山・陸士一・陸大一四恩賜・参謀本部第一部長・中将・第一〇師団長・陸軍次官・陸軍大臣・大将・朝鮮総督・外務大臣・拓殖大学学長・戦後参議院議員・正二位・勲一等・功四級)は、独自の派閥を形成して、政界にも影響力を持っていた。
昭和六年三月、橋本欣五郎中佐ら「桜会」が中心となったクーデター未遂事件が起きた。「三月事件」である。三月二十日決行の予定だった。
当時の陸軍次官・杉山元中将(すぎやま・げん<はじめ>・福岡・陸士一二・陸大二二・軍務局長・第一二師団長・参謀次長・陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・陸軍大臣・第一総軍司令官・自決)が関わっており、宇垣一成大将を首班にする計画だった。
さらにこのクーデターには、軍務局長・小磯国昭少将(こいそ・くにあき・栃木・陸士一二・陸大二二・陸軍省整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・拓務大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯・巣鴨拘置所内で死去・従二位・勲一等・功二級)、軍事課長・永田鉄山大佐(ながた・てつざん・長野・陸士一六首席・陸大二三次席・軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・軍務局長・刺殺される・中将)ら中央の幕僚が多数関わっていた。
ところが、真崎中将直系である教育総監部第二課長・山岡重厚大佐(やまおか・しげあつ・高知・陸士一五・陸大二四・教育総監部第二課長・少将・歩兵第一旅団長・軍務局長・整備局長・中将・第九師団長・予備役・第一〇九師団長・善通寺師管区司令官)、それに永田大佐と同期である陸軍歩兵学校研究部主事・小畑敏四郎大佐(おばた・としろう・高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜・参謀本部作戦課長・歩兵第一〇連隊長・陸軍歩兵学校研究部主事・陸大教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸大校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣)らがこのクーデター計画に反対した。
さらに三月十五日、クーデターのため兵を動かす予定の第一師団の師団長・真崎甚三郎中将は、参謀長・磯谷廉介大佐(いそがい・れんすけ・兵庫・陸士一六・陸大二七・歩兵第七連隊長・第一師団参謀長・教育総監部第二課長・陸軍省人事局補任課長・少将・参謀本部第二部長・軍務局長・中将・第一〇師団長・関東軍参謀長・予備役・香港総督・戦犯)からクーデター計画の情報を得て激怒した。
真崎師団長は断固反対の立場をとり、磯谷参謀長を永田軍事課長のもとに派遣して、その計画を中止するよう厳重に警告した。
真崎の手記「現世相に関する備忘録」(昭和十一年六月)によると、真崎は次のように記している。
「磯谷参謀長から十八日やるとの話……予は反対し司令官(参謀総長)の命ありても、不純の目的のために予は責任を以って兵を配置せず、直ちに永田に伝えよ」。
このような状況から、永田軍事課長は宇垣大将に進言し、クーデターは中止となった。
昭和六年八月の人事で、朝日新聞の高宮記者は、真崎甚三郎中将が退役を命ぜられると耳にした。同郷のよしみで陸軍次官・杉山元中将に確かめると、「真崎はクビだ」と断言した。
宇垣四天王と一人といわれる杉山中将は、「三月事件」における、真崎中将の態度に対して報復人事を画策していた。
だが、最も強硬に真崎甚三郎中将の退役を主張していたのは、宇垣大将の腹心である当時の陸軍大臣・南次郎大将(みなみ・じろう・大分・陸士六・陸大一七・軍務局騎兵課長・少将・騎兵第三旅団長・陸軍士官学校長・中将・騎兵監・第一六師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・陸軍大臣・関東軍司令官兼駐満州国大使・予備役・朝鮮総督・枢密院顧問・貴族院議員)であった。
昭和二年三月、真崎甚三郎少将は陸軍中将に昇進し、弘前の第八師団長に転出した。佐賀出身の真崎中将は、この時期、薩肥閥の有力な一人と目されていた。
その派閥の領袖で軍長老の上原勇作元帥(うえはら・ゆうさく・鹿児島・陸士旧三・フランス・フォンテンブロー砲工学校卒・陸軍砲工学校校長・工兵監・中将・男爵・第七師団長・第一四師団長・陸軍大臣・教育総監・大将・参謀総長・子爵・元帥・従一位・大勲位・功二級)らの後押しで、真崎少将の中将昇進が実施された。
昭和五年春、朝日新聞記者・高宮太平(福岡・朝日新聞社・陸軍記者・満州局次長・京城日報社長・内閣情報局嘱託・「米内光政」「天皇陛下」「軍国太平記」など著書多数・昭和三十六年死去)は陸軍担当記者になった。
当時、陸軍大派閥の長州閥を継いだ陸軍大臣・宇垣一成大将(うがき・かずしげ・岡山・陸士一・陸大一四恩賜・参謀本部第一部長・中将・第一〇師団長・陸軍次官・陸軍大臣・大将・朝鮮総督・外務大臣・拓殖大学学長・戦後参議院議員・正二位・勲一等・功四級)は、独自の派閥を形成して、政界にも影響力を持っていた。
昭和六年三月、橋本欣五郎中佐ら「桜会」が中心となったクーデター未遂事件が起きた。「三月事件」である。三月二十日決行の予定だった。
当時の陸軍次官・杉山元中将(すぎやま・げん<はじめ>・福岡・陸士一二・陸大二二・軍務局長・第一二師団長・参謀次長・陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・陸軍大臣・第一総軍司令官・自決)が関わっており、宇垣一成大将を首班にする計画だった。
さらにこのクーデターには、軍務局長・小磯国昭少将(こいそ・くにあき・栃木・陸士一二・陸大二二・陸軍省整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・拓務大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯・巣鴨拘置所内で死去・従二位・勲一等・功二級)、軍事課長・永田鉄山大佐(ながた・てつざん・長野・陸士一六首席・陸大二三次席・軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・軍務局長・刺殺される・中将)ら中央の幕僚が多数関わっていた。
ところが、真崎中将直系である教育総監部第二課長・山岡重厚大佐(やまおか・しげあつ・高知・陸士一五・陸大二四・教育総監部第二課長・少将・歩兵第一旅団長・軍務局長・整備局長・中将・第九師団長・予備役・第一〇九師団長・善通寺師管区司令官)、それに永田大佐と同期である陸軍歩兵学校研究部主事・小畑敏四郎大佐(おばた・としろう・高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜・参謀本部作戦課長・歩兵第一〇連隊長・陸軍歩兵学校研究部主事・陸大教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸大校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣)らがこのクーデター計画に反対した。
さらに三月十五日、クーデターのため兵を動かす予定の第一師団の師団長・真崎甚三郎中将は、参謀長・磯谷廉介大佐(いそがい・れんすけ・兵庫・陸士一六・陸大二七・歩兵第七連隊長・第一師団参謀長・教育総監部第二課長・陸軍省人事局補任課長・少将・参謀本部第二部長・軍務局長・中将・第一〇師団長・関東軍参謀長・予備役・香港総督・戦犯)からクーデター計画の情報を得て激怒した。
真崎師団長は断固反対の立場をとり、磯谷参謀長を永田軍事課長のもとに派遣して、その計画を中止するよう厳重に警告した。
真崎の手記「現世相に関する備忘録」(昭和十一年六月)によると、真崎は次のように記している。
「磯谷参謀長から十八日やるとの話……予は反対し司令官(参謀総長)の命ありても、不純の目的のために予は責任を以って兵を配置せず、直ちに永田に伝えよ」。
このような状況から、永田軍事課長は宇垣大将に進言し、クーデターは中止となった。
昭和六年八月の人事で、朝日新聞の高宮記者は、真崎甚三郎中将が退役を命ぜられると耳にした。同郷のよしみで陸軍次官・杉山元中将に確かめると、「真崎はクビだ」と断言した。
宇垣四天王と一人といわれる杉山中将は、「三月事件」における、真崎中将の態度に対して報復人事を画策していた。
だが、最も強硬に真崎甚三郎中将の退役を主張していたのは、宇垣大将の腹心である当時の陸軍大臣・南次郎大将(みなみ・じろう・大分・陸士六・陸大一七・軍務局騎兵課長・少将・騎兵第三旅団長・陸軍士官学校長・中将・騎兵監・第一六師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・陸軍大臣・関東軍司令官兼駐満州国大使・予備役・朝鮮総督・枢密院顧問・貴族院議員)であった。