永田鉄山中尉は、陸軍大学校在学中の明治四十二年十二月八日、轟文子と結婚した。鉄山は二十五歳、文子は二十歳だった。文子は鉄山の母、順子(旧姓は轟)の弟、轟亨の娘で、鉄山とは従兄妹にあたる。媒酌人は、真崎甚三郎少佐(軍務局軍事課)だった。
陸軍大学校を卒業して、大正二年八月永田中尉は歩兵大尉に進級した。二十九歳だった。その後、永田大尉は教育総監部勤務を経て、ドイツ駐在、デンマーク駐在、スェーデン駐在で、欧州の軍事研究を行った。
大正六年九月帰国後、永田鉄山大尉は、教育総監部附として、臨時軍事調査委員会では委員として活動した。
大正八年の頃、思想問題の研究を担当していた永田鉄山少佐は、渋谷に住む二、三の同僚と時々徒歩で帰ったが、その途中、たまたまデモクラシー問題の話になった時、同僚の一人が「そんな思想は日本にはいらないさ。放っておけば自然に消滅するよ」と意見を述べた。
すると、永田少佐は「研究もしないで、そんなことを言うのは、あたかも噴火口の上にて乱舞するがごときものだ」と言った。永田少佐は、いろんな方面に関することでも、おろそかにせず、徹底して研究するのが信条であった。
日本陸軍は昭和に入ると、派閥抗争が激化し、歴史的にはまさに軍閥興亡史とも呼ぶべき時代の潮流となっていく。この軍閥抗争の犠牲になったのが永田鉄山であり、栄光の階段の途中で転落してしまった。
その派閥抗争の根源は、長州閥とその亜流である宇垣(一成)系であったと言える。この長州閥・宇垣系の後、少壮幕僚の集団から生成した新しい天皇制軍閥、あるいは統制派ともいうべき派閥が台頭して来た。
その統制派軍閥の由来は、大正十年の「バーデン・バーデンの密約」に始まる。大正十年前後といえば、世界は「戦争と革命」に突入した時期である。ロシア革命、ドイツ革命、そしてトルコ革命と、ヨーロッパは不安と焦慮におおわれていた。
日清・日露という二つの戦争を経験し、第一次世界大戦での日独戦争、シベリア出兵などによって、ようやく資本主義国家として世界列強の一国としての地位にのし上がった。
「評伝・真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、この東洋の新興国家、日本の駐在武官として、動乱のヨーロッパに派遣されていたエリート中堅将校たちは、国家、民族の興亡をそれぞれの現地、現場において目撃した。
数百年の伝統を誇る王朝も一朝にして打倒・崩壊される革命の恐ろしさ。日本もこのままの姿でいてよいものであろうか。このエリート将校たちは、全身に危機感をたぎらせながら、反革命の決意を新たにして、遠く想いを祖国の上に馳せた。
折も折、彼らの憂鬱を一瞬にして吹き飛ばすような一大朗報が訪れた。若き皇太子のヨーロッパ親善訪問!健康上に理由で完全に象徴的天皇であった大正天皇。
ところが、今、祖国を離れた異邦の地で、颯爽たる青年士官に成長した皇太子を目のあたりに迎えたエリート将校たちの感激と興奮は想像を絶するものがあった。
「よしッ、この皇太子を盛り立てて、皇国の興隆をかけて、粉骨砕身しよう!」とエリート将校たちは決意を新たにした。「祖国日本に革命を起こしてはならない」。「祖国日本を強国にするため、天皇制国家体制を強化整備しなければならない」。
この秘密結社的な盟約の初会合が、大正十年十月二十七日から、南ドイツの温泉保養地、バーデン・バーデンで行われた。
当時、陸士一六期の三羽烏といわれた三名の少佐(当時)が、バーデン・バーデンで会合し、ホテルに二泊三日して、「派閥解消、人事刷新、軍制改革を断行する。軍の近代化と国家総動員体制の確立」などを、夜を徹して語り合い、強く誓い合った。また、同志的結束を図り、それを拡大していくこと。これが「バーデン・バーデンの密約」である。三名の少佐は次の通り。
永田鉄山歩兵少佐(長野・陸士一六首席・陸士二三恩賜次席・歩兵少佐・スイス公使館附武官・教育総監部課員・中佐・陸軍大学校教官・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・昭和十年八月相沢中佐に斬殺される・正四位・勲一等)。
小畑敏四郎歩兵少佐(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜六番・歩兵少佐・ロシア大使館附武官・参謀本部員・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校監事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・昭和二十二年一月死去・従三位・勲一等)。
岡村寧次歩兵少佐(東京・陸士一六・陸大二五・八席・歩兵少佐・欧州出張・歩兵第一四連隊大隊長・歩兵中佐・参謀本部附・歩兵第一連隊附・歩兵大佐・歩兵第六連隊長・参謀本部戦史課長・陸軍省人事局補任課長・少将・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・第一一軍司令官・大将・北支那方面軍司令官・支那派遣軍総司令官・昭和四十一年九月死去・正三位・勲一等・功一級)。
陸軍大学校を卒業して、大正二年八月永田中尉は歩兵大尉に進級した。二十九歳だった。その後、永田大尉は教育総監部勤務を経て、ドイツ駐在、デンマーク駐在、スェーデン駐在で、欧州の軍事研究を行った。
大正六年九月帰国後、永田鉄山大尉は、教育総監部附として、臨時軍事調査委員会では委員として活動した。
大正八年の頃、思想問題の研究を担当していた永田鉄山少佐は、渋谷に住む二、三の同僚と時々徒歩で帰ったが、その途中、たまたまデモクラシー問題の話になった時、同僚の一人が「そんな思想は日本にはいらないさ。放っておけば自然に消滅するよ」と意見を述べた。
すると、永田少佐は「研究もしないで、そんなことを言うのは、あたかも噴火口の上にて乱舞するがごときものだ」と言った。永田少佐は、いろんな方面に関することでも、おろそかにせず、徹底して研究するのが信条であった。
日本陸軍は昭和に入ると、派閥抗争が激化し、歴史的にはまさに軍閥興亡史とも呼ぶべき時代の潮流となっていく。この軍閥抗争の犠牲になったのが永田鉄山であり、栄光の階段の途中で転落してしまった。
その派閥抗争の根源は、長州閥とその亜流である宇垣(一成)系であったと言える。この長州閥・宇垣系の後、少壮幕僚の集団から生成した新しい天皇制軍閥、あるいは統制派ともいうべき派閥が台頭して来た。
その統制派軍閥の由来は、大正十年の「バーデン・バーデンの密約」に始まる。大正十年前後といえば、世界は「戦争と革命」に突入した時期である。ロシア革命、ドイツ革命、そしてトルコ革命と、ヨーロッパは不安と焦慮におおわれていた。
日清・日露という二つの戦争を経験し、第一次世界大戦での日独戦争、シベリア出兵などによって、ようやく資本主義国家として世界列強の一国としての地位にのし上がった。
「評伝・真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、この東洋の新興国家、日本の駐在武官として、動乱のヨーロッパに派遣されていたエリート中堅将校たちは、国家、民族の興亡をそれぞれの現地、現場において目撃した。
数百年の伝統を誇る王朝も一朝にして打倒・崩壊される革命の恐ろしさ。日本もこのままの姿でいてよいものであろうか。このエリート将校たちは、全身に危機感をたぎらせながら、反革命の決意を新たにして、遠く想いを祖国の上に馳せた。
折も折、彼らの憂鬱を一瞬にして吹き飛ばすような一大朗報が訪れた。若き皇太子のヨーロッパ親善訪問!健康上に理由で完全に象徴的天皇であった大正天皇。
ところが、今、祖国を離れた異邦の地で、颯爽たる青年士官に成長した皇太子を目のあたりに迎えたエリート将校たちの感激と興奮は想像を絶するものがあった。
「よしッ、この皇太子を盛り立てて、皇国の興隆をかけて、粉骨砕身しよう!」とエリート将校たちは決意を新たにした。「祖国日本に革命を起こしてはならない」。「祖国日本を強国にするため、天皇制国家体制を強化整備しなければならない」。
この秘密結社的な盟約の初会合が、大正十年十月二十七日から、南ドイツの温泉保養地、バーデン・バーデンで行われた。
当時、陸士一六期の三羽烏といわれた三名の少佐(当時)が、バーデン・バーデンで会合し、ホテルに二泊三日して、「派閥解消、人事刷新、軍制改革を断行する。軍の近代化と国家総動員体制の確立」などを、夜を徹して語り合い、強く誓い合った。また、同志的結束を図り、それを拡大していくこと。これが「バーデン・バーデンの密約」である。三名の少佐は次の通り。
永田鉄山歩兵少佐(長野・陸士一六首席・陸士二三恩賜次席・歩兵少佐・スイス公使館附武官・教育総監部課員・中佐・陸軍大学校教官・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・昭和十年八月相沢中佐に斬殺される・正四位・勲一等)。
小畑敏四郎歩兵少佐(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜六番・歩兵少佐・ロシア大使館附武官・参謀本部員・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校監事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・昭和二十二年一月死去・従三位・勲一等)。
岡村寧次歩兵少佐(東京・陸士一六・陸大二五・八席・歩兵少佐・欧州出張・歩兵第一四連隊大隊長・歩兵中佐・参謀本部附・歩兵第一連隊附・歩兵大佐・歩兵第六連隊長・参謀本部戦史課長・陸軍省人事局補任課長・少将・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・第一一軍司令官・大将・北支那方面軍司令官・支那派遣軍総司令官・昭和四十一年九月死去・正三位・勲一等・功一級)。