「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、荒木貞夫大将について、有末精三(ありすえ・せいぞう)元中将(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・陸軍省軍務局軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・戦後対連合軍陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長)は次のように述べている。
荒木さんが陸軍大臣になって一番力を入れられたのは、やっぱり陸軍の皇道精神ですね。つまり、わが陸軍は単純なものじゃない、大元帥の本当の股肱としての陸軍なんだ、その精神をよく覚えていろという意味で、皇軍精神ということを非常に唱えたのです。
その時分に、参謀本部に小畑敏四郎という人がいました。第三部長でしたが、荒木さんと非常に仲がいいから、直接陸軍省においでになるので、いろいろの話が出たんでしょう。
やっぱり、陸軍省なら陸軍省で組織があってやっておるのに、参謀本部からしばしば来るので、省内の人にあまり面白くない感じを与えたことはあると思いますが、派閥という感じはなかった。
それから、荒木さんは性格からいって非常に人を見込まれました。それだから、つい好き嫌いが出てくるんじゃないかと私は思うのです。
その点、一番荒木さんが信頼されたし、何といったって、もののできるのは小畑敏四郎さんだという頭、これは変わらないでしょうね。
今でも荒木さんは小畑敏四郎さんの方が、永田さんよりもよっぽど偉いと思っておられましょう。だから非常に小畑さんを重用されたという事は事実です。
以上が有末精三元中将の回顧談だが、著者の中村菊男氏の「永田さんを嫌った理由というのは、どういうところにあるのでしょうか?」という質問に対して、有末精三元中将は次の様に答えている。
「それは、ぼくにはわからないんですけれどもね。そのもとは、小畑さんとの関係じゃないかと思うのです」。
「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、小畑敏四郎は土佐の出身で、小畑の父は維新の時、討幕に奔走した功により、明治政府より男爵を受けていた。
小畑の長兄、小畑大太郎は、長く貴族院議員(男爵)をしており、また、小畑利四郎の夫人は衆議院議長・元田肇(後に枢密顧問官)の娘だった。
こうした家門の関係から、小畑敏四郎は佐官時代から、貴族院方面の政治家と近づきがあり、近衛文麿とは、最も親しい間柄だった。
この小畑敏四郎の頭脳と手腕を買ったのが、真崎甚三郎であり、荒木貞夫であった。そして小畑は荒木、真崎の皇道派陣営に飛び込んで、その謀将となり、中心人物となって、永田鉄山ら統制派と対立していく。「バーデン・バーデンの密約」から十年目のことである。
このような背景もあり、荒木陸軍大臣は、永田大佐より、小畑大佐の方を重用した。中佐時代にすでに作戦課長をやっている小畑大佐を、陸軍大学校教官から再び参謀本部の作戦課長にするという異例な人事さえ、敢えて実施した。
この人事は、さすがに周囲を驚かし、唖然とさせた。実は荒木陸軍大臣は、そのあとで、小畑大佐を参謀本部第一部長(作戦)に、永田大佐を第二部長(情報)にするつもりだった。
当時の第一部長は古荘幹郎(ふるしょう・もとお)少将(陸士一四・陸大二一首席・近衛歩兵第二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第二旅団長・陸軍省人事局長・参謀本部総務部長・参謀本部第一部長・中将・第一一師団長・陸軍次官・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・兼第五軍司令官・第二一軍司令官・大将・軍事参議官・正三位・勲一等・功二級)だった。
ところが、意外にも、小畑大佐は、「第一部長は今の古荘幹郎少将のままでいいです」と言って、第三部長(運輸通信)を希望したのである。
小畑大佐は、古荘少将を前面に置いてロボットとして、作戦のことは裏で自分が牛耳るつもりだった。つまり影の第一部長になり、同時に第三部長に就任し、参謀本部を動かす、それが小畑大佐の考えだった。
だが、このような、荒木、小畑の野望の前に、最大の”敵”として、頭角を現し、立ち塞がって来るのが陸軍の傑出した英才、永田鉄山と、その盟友、東條英機だった。
永田大佐と小畑大佐は、それぞれ、第二部長、第三部長に就任して以後、その戦略思想の対立もあり、何かにつけて激突するようになっていく。
荒木さんが陸軍大臣になって一番力を入れられたのは、やっぱり陸軍の皇道精神ですね。つまり、わが陸軍は単純なものじゃない、大元帥の本当の股肱としての陸軍なんだ、その精神をよく覚えていろという意味で、皇軍精神ということを非常に唱えたのです。
その時分に、参謀本部に小畑敏四郎という人がいました。第三部長でしたが、荒木さんと非常に仲がいいから、直接陸軍省においでになるので、いろいろの話が出たんでしょう。
やっぱり、陸軍省なら陸軍省で組織があってやっておるのに、参謀本部からしばしば来るので、省内の人にあまり面白くない感じを与えたことはあると思いますが、派閥という感じはなかった。
それから、荒木さんは性格からいって非常に人を見込まれました。それだから、つい好き嫌いが出てくるんじゃないかと私は思うのです。
その点、一番荒木さんが信頼されたし、何といったって、もののできるのは小畑敏四郎さんだという頭、これは変わらないでしょうね。
今でも荒木さんは小畑敏四郎さんの方が、永田さんよりもよっぽど偉いと思っておられましょう。だから非常に小畑さんを重用されたという事は事実です。
以上が有末精三元中将の回顧談だが、著者の中村菊男氏の「永田さんを嫌った理由というのは、どういうところにあるのでしょうか?」という質問に対して、有末精三元中将は次の様に答えている。
「それは、ぼくにはわからないんですけれどもね。そのもとは、小畑さんとの関係じゃないかと思うのです」。
「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、小畑敏四郎は土佐の出身で、小畑の父は維新の時、討幕に奔走した功により、明治政府より男爵を受けていた。
小畑の長兄、小畑大太郎は、長く貴族院議員(男爵)をしており、また、小畑利四郎の夫人は衆議院議長・元田肇(後に枢密顧問官)の娘だった。
こうした家門の関係から、小畑敏四郎は佐官時代から、貴族院方面の政治家と近づきがあり、近衛文麿とは、最も親しい間柄だった。
この小畑敏四郎の頭脳と手腕を買ったのが、真崎甚三郎であり、荒木貞夫であった。そして小畑は荒木、真崎の皇道派陣営に飛び込んで、その謀将となり、中心人物となって、永田鉄山ら統制派と対立していく。「バーデン・バーデンの密約」から十年目のことである。
このような背景もあり、荒木陸軍大臣は、永田大佐より、小畑大佐の方を重用した。中佐時代にすでに作戦課長をやっている小畑大佐を、陸軍大学校教官から再び参謀本部の作戦課長にするという異例な人事さえ、敢えて実施した。
この人事は、さすがに周囲を驚かし、唖然とさせた。実は荒木陸軍大臣は、そのあとで、小畑大佐を参謀本部第一部長(作戦)に、永田大佐を第二部長(情報)にするつもりだった。
当時の第一部長は古荘幹郎(ふるしょう・もとお)少将(陸士一四・陸大二一首席・近衛歩兵第二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第二旅団長・陸軍省人事局長・参謀本部総務部長・参謀本部第一部長・中将・第一一師団長・陸軍次官・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・兼第五軍司令官・第二一軍司令官・大将・軍事参議官・正三位・勲一等・功二級)だった。
ところが、意外にも、小畑大佐は、「第一部長は今の古荘幹郎少将のままでいいです」と言って、第三部長(運輸通信)を希望したのである。
小畑大佐は、古荘少将を前面に置いてロボットとして、作戦のことは裏で自分が牛耳るつもりだった。つまり影の第一部長になり、同時に第三部長に就任し、参謀本部を動かす、それが小畑大佐の考えだった。
だが、このような、荒木、小畑の野望の前に、最大の”敵”として、頭角を現し、立ち塞がって来るのが陸軍の傑出した英才、永田鉄山と、その盟友、東條英機だった。
永田大佐と小畑大佐は、それぞれ、第二部長、第三部長に就任して以後、その戦略思想の対立もあり、何かにつけて激突するようになっていく。