この海軍の定期異動について、著者の源田実は次のように述べている。
旧海軍の方式では、毎年、根こそぎ人の組み合わせが変わるので、チームが解体せられ、新人を持って新しいチームを作らねばならない。
以心伝心を重要視する戦闘機パイロットは、この点、はなはだ不便だった。戦闘機の編隊各機相互の支援協力は、空中戦闘上最大の要点だった。
従って、源田実中尉は、自分が転勤する場合、前年度に自分の列機として使った下士官パイロットを連れて転勤したことが数回あった。
しかし、反面、次の様な大きな利点もある。指揮官たる上司も部下たる下僚も、共に人間である。従って、合性というものがある。個人の性格の相異が、この合性に大きく影響する。
組織の上の鉄の規律で縛られているから、一応服従はするものの、どうしても心底から、尊敬の念を持ち得ないような指揮官も上司もいる。
その人が個人的にどうということはなくても、いわゆる、虫の好かない人間がいることは事実である。源田中尉自身にもそんな経験があるし、また、源田中尉の下の者で、上司たる源田中尉に対して、同様な感情を抱いた者もいる。
こんな状態で、上司と部下との関係を、数年間も続けて行くことは、上司はともかく、下にいる者にとっては、たまらないことである。
こんな場合、「どんなに嫌で苦しくても、一年間の我慢で足りる」となれば、部下としても辛抱し易く、下手をすれば、せっかく伸びる英才を腰折れにさせるようなこともなくて済むのである。
昭和七年、霞ヶ浦航空隊操縦教官・源田実大尉は、上海に派遣された。第一次上海事変における二月二十二日の、空中戦闘の模様を調査し、報告するためであった。
「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)第三章<源田とはこういう人間だ―その奇怪な性格と能力―>によると、この時のことを、著者の柴田武雄は、次の様に述べている(要旨抜粋)。
この空中戦闘は、航空母艦「加賀」の小谷進大尉率いる攻撃機隊三機と、生田乃木次大尉率いる戦闘機隊三機とが協力して、アメリカ軍、ロバート・ショートの操縦するボーイング戦闘機を撃墜したものだった。
帰って来た源田大尉は、霞ヶ浦航空隊の士官室で、得意のゼスチャーで、模型飛行機をあやつりながら、空中戦闘の模様を説明した。
著者の柴田武雄は当時、源田大尉と同じく、霞ヶ浦航空隊の操縦教官だった。柴田大尉も源田大尉の説明を聞いていたが、大して上手ではないと思った。
源田大尉の説明が終わり、司令、教官をはじめ、学生たちがぞろぞろ士官室を出始めた。ところが、不思議な現象が起きた。
学生の集団の中から、異口同音に、“源田さんは偉い”という、感極まったような言葉が、一斉に出て、ため息のようなものが混じって、異様な雰囲気を醸成した。
海軍兵学校時代から哲学や宗教に興味を持ち、研究し、行(ぎょう)のようなこともやっていた柴田大尉は、次の様に思った。
「一体これはどういう訳だ。ボーイングを撃墜したのは源田ではないし、たとえ源田の説明が学生たちには大変上手に聞こえたとしても、“源田さんは偉い”という言葉は、一体どこから出るのだ」。
そして、柴田大尉は、源田には不思議な力(一種の魔力)があるのだ、ということが、ハッキリわかった。魔力とは、その人の持っている純粋な力とはほとんど無関係なものに、意識的または無意識裡に転換して、人を感服・敬服させるような力である。
たとえば源田大尉の話術が相当優れたものであるとしても、それそのものをもって人を純粋に感服させるものではなく、それらとはほとんど無関係な、軍人としての(あるいは人間としての)偉さに転換して、人を敬服させるような不思議な力(一種の欺瞞力、その背景には、俺は偉いんだと思っている強い信念力等がある)を意味する。
驚くべきことに、柴田武雄は、この著書「源田実論」で全般に渡り源田実を批判した。中には、批判を通り越して、悪口、誹謗中傷とも、いえる激しく辛辣な論調で、詳細に記している。
勿論、これには、相当の理由があるのだが、基本的には、ともに海軍パイロットとしての道を歩みながら、その航空戦術思想の違いであった。さらに、戦術思想のみでなく、日常的な思考、物事のとらえ方まで、異なっていた。
旧海軍の方式では、毎年、根こそぎ人の組み合わせが変わるので、チームが解体せられ、新人を持って新しいチームを作らねばならない。
以心伝心を重要視する戦闘機パイロットは、この点、はなはだ不便だった。戦闘機の編隊各機相互の支援協力は、空中戦闘上最大の要点だった。
従って、源田実中尉は、自分が転勤する場合、前年度に自分の列機として使った下士官パイロットを連れて転勤したことが数回あった。
しかし、反面、次の様な大きな利点もある。指揮官たる上司も部下たる下僚も、共に人間である。従って、合性というものがある。個人の性格の相異が、この合性に大きく影響する。
組織の上の鉄の規律で縛られているから、一応服従はするものの、どうしても心底から、尊敬の念を持ち得ないような指揮官も上司もいる。
その人が個人的にどうということはなくても、いわゆる、虫の好かない人間がいることは事実である。源田中尉自身にもそんな経験があるし、また、源田中尉の下の者で、上司たる源田中尉に対して、同様な感情を抱いた者もいる。
こんな状態で、上司と部下との関係を、数年間も続けて行くことは、上司はともかく、下にいる者にとっては、たまらないことである。
こんな場合、「どんなに嫌で苦しくても、一年間の我慢で足りる」となれば、部下としても辛抱し易く、下手をすれば、せっかく伸びる英才を腰折れにさせるようなこともなくて済むのである。
昭和七年、霞ヶ浦航空隊操縦教官・源田実大尉は、上海に派遣された。第一次上海事変における二月二十二日の、空中戦闘の模様を調査し、報告するためであった。
「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)第三章<源田とはこういう人間だ―その奇怪な性格と能力―>によると、この時のことを、著者の柴田武雄は、次の様に述べている(要旨抜粋)。
この空中戦闘は、航空母艦「加賀」の小谷進大尉率いる攻撃機隊三機と、生田乃木次大尉率いる戦闘機隊三機とが協力して、アメリカ軍、ロバート・ショートの操縦するボーイング戦闘機を撃墜したものだった。
帰って来た源田大尉は、霞ヶ浦航空隊の士官室で、得意のゼスチャーで、模型飛行機をあやつりながら、空中戦闘の模様を説明した。
著者の柴田武雄は当時、源田大尉と同じく、霞ヶ浦航空隊の操縦教官だった。柴田大尉も源田大尉の説明を聞いていたが、大して上手ではないと思った。
源田大尉の説明が終わり、司令、教官をはじめ、学生たちがぞろぞろ士官室を出始めた。ところが、不思議な現象が起きた。
学生の集団の中から、異口同音に、“源田さんは偉い”という、感極まったような言葉が、一斉に出て、ため息のようなものが混じって、異様な雰囲気を醸成した。
海軍兵学校時代から哲学や宗教に興味を持ち、研究し、行(ぎょう)のようなこともやっていた柴田大尉は、次の様に思った。
「一体これはどういう訳だ。ボーイングを撃墜したのは源田ではないし、たとえ源田の説明が学生たちには大変上手に聞こえたとしても、“源田さんは偉い”という言葉は、一体どこから出るのだ」。
そして、柴田大尉は、源田には不思議な力(一種の魔力)があるのだ、ということが、ハッキリわかった。魔力とは、その人の持っている純粋な力とはほとんど無関係なものに、意識的または無意識裡に転換して、人を感服・敬服させるような力である。
たとえば源田大尉の話術が相当優れたものであるとしても、それそのものをもって人を純粋に感服させるものではなく、それらとはほとんど無関係な、軍人としての(あるいは人間としての)偉さに転換して、人を敬服させるような不思議な力(一種の欺瞞力、その背景には、俺は偉いんだと思っている強い信念力等がある)を意味する。
驚くべきことに、柴田武雄は、この著書「源田実論」で全般に渡り源田実を批判した。中には、批判を通り越して、悪口、誹謗中傷とも、いえる激しく辛辣な論調で、詳細に記している。
勿論、これには、相当の理由があるのだが、基本的には、ともに海軍パイロットとしての道を歩みながら、その航空戦術思想の違いであった。さらに、戦術思想のみでなく、日常的な思考、物事のとらえ方まで、異なっていた。