また、連合艦隊参謀長は豊田副武(とよだ・そえむ)少将(大分・海兵三三・二十六番・海大一五・首席・二等巡洋艦「由良」艦長・海軍省教育局第一課長・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第二班長・連合艦隊参謀長・海軍省教育局長・中将・海軍省軍務局長・第四艦隊司令長官・第二艦隊司令長官・艦政本部長・大将・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部総長・功二級)だった。
連合艦隊航空参謀は、加来止男(かく・とめお)中佐(熊本・海兵四二・四十三番・海大二五・十番・連合艦隊航空参謀・海軍大学校教官・大湊航空隊司令・大佐・木更津航空隊司令・水上機母艦「千代田」艦長・航空技術廠総務部長・空母「飛龍」艦長・戦死・少将)だった。
昭和九年の連合艦隊司令長官・末次信正大将の下した年度教育方針の中に、「今後、事故によって飛行機を破損した者は、厳罰に処する方針である」というのがあった。
源田大尉は、飛行機事故に対する、連合艦隊司令長官の方針について、次のように考えた。
「飛行機は、重力に逆らって空中を飛んでいるのであるから、事故が多いのは自然の勢いである。誰も進んでけがをしたり、死にたいと思う者はいないのだから、事故の中には、過失とはいえ、大目に見なければならないものがある」
「『航空事故の調査と自己責任の追及とは、ハッキリ区別しなければならない』とは、航空事故調査の鉄則である。事故調査でいちいち責任を追及していたのでは、関係各方面に対する思惑が重なって、事故の真相は決して明らかにならないだろう」
「事故原因も突き止めることが出来なければ、同じような事故の再発を防止することはできないのである」。
以上のような、源田大尉の考えと同様に、末次連合艦隊司令長官の「事故に対しては、厳罰をもって臨む」という方針に対しては、母艦乗員の中に、異論を持つものが少なくなかった。
ちょっとした過失や、機材の故障で飛行機を破損した場合、いちいち処罰されるのでは、だれも前向きな姿勢で飛ぶものはいなくなるだろうと、源田大尉は思っていた。
ほかならぬ、連合艦隊司令長官・末次大将の下したこの方針に、内心では不服に思っていても、誰も口に出して言う者はいなかった。
当時、空母「赤城」の飛行隊長は、三和義勇(みわ・よしたけ)少佐(岡山・海兵四八・三十一番・海大三一・次席・霞ヶ浦航空隊副長兼教頭・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・戦死・少将)だった。
昭和九年に、空母「赤城」で行われた第一航空戦隊の研究会で、三和少佐が、立ち上がって、「連合艦隊司令長官の飛行機事故に対する方針には、納得しかねるものがある」という意味の所見を述べた。
第一航空戦隊司令官・山本五十六少将は、普通、議論が出尽くした後で、決断を下すのが例であったが、この時は、三和少佐の発言に直ちに応じて次の様に述べた。
「この訓示は長官自身の発意か、参謀長(豊田副武少将)がいったのか、あるいは、そこにいる加来参謀(後の空母「飛龍」艦長・ミッドウェーで運命を共にする)が書いたのか、その出所は知らないが、およそ犠牲の上にも犠牲を重ねて前進しつつある航空界において、飛行機を壊した者は厳罰に処するなどという考え方で、航空部隊の進歩など期待できるはずがない」
「私はこの方針には不賛成だ。こんな考え方をする者は罷めてしまえ、と言いたい。ただ、断っておくが、軍規違反による事故に対しては、処置はおのずから別である」。
山本司令官のこの発言の裏には「第一航空戦隊に関する限りは、事故懲罰の方針は採らないから、みんな安心して訓練に邁進せよ。連合艦隊司令長官に対する責任は自分がとる」という含みがあった。
源田実大尉は「ずいぶん思い切ったことを言う司令官」だと思ったが、同時に安心して思い切った訓練ができると感じた。
この空母「赤城」での研究会では、敵の空母に対する先制攻撃のやり方が問題になった。当時の攻撃手段は、第一に水平爆撃、第二に雷撃、第三に急降下爆撃だった。
この中で、日本海軍で実験研究に取り掛かっていた急降下爆撃が、敵空母の先制攻撃には最適であるというのが、当時の海軍航空界の定説だった。
当時日米ともに急降下爆撃としては、二座機を考えていた。同じ二座機で、日本は二五〇キロ爆弾、アメリカは二二五キロ爆弾とすれば、飛行機の設計、製作能力が同等であるとしても、航続力においてアメリカの上に出ることはできない。
連合艦隊航空参謀は、加来止男(かく・とめお)中佐(熊本・海兵四二・四十三番・海大二五・十番・連合艦隊航空参謀・海軍大学校教官・大湊航空隊司令・大佐・木更津航空隊司令・水上機母艦「千代田」艦長・航空技術廠総務部長・空母「飛龍」艦長・戦死・少将)だった。
昭和九年の連合艦隊司令長官・末次信正大将の下した年度教育方針の中に、「今後、事故によって飛行機を破損した者は、厳罰に処する方針である」というのがあった。
源田大尉は、飛行機事故に対する、連合艦隊司令長官の方針について、次のように考えた。
「飛行機は、重力に逆らって空中を飛んでいるのであるから、事故が多いのは自然の勢いである。誰も進んでけがをしたり、死にたいと思う者はいないのだから、事故の中には、過失とはいえ、大目に見なければならないものがある」
「『航空事故の調査と自己責任の追及とは、ハッキリ区別しなければならない』とは、航空事故調査の鉄則である。事故調査でいちいち責任を追及していたのでは、関係各方面に対する思惑が重なって、事故の真相は決して明らかにならないだろう」
「事故原因も突き止めることが出来なければ、同じような事故の再発を防止することはできないのである」。
以上のような、源田大尉の考えと同様に、末次連合艦隊司令長官の「事故に対しては、厳罰をもって臨む」という方針に対しては、母艦乗員の中に、異論を持つものが少なくなかった。
ちょっとした過失や、機材の故障で飛行機を破損した場合、いちいち処罰されるのでは、だれも前向きな姿勢で飛ぶものはいなくなるだろうと、源田大尉は思っていた。
ほかならぬ、連合艦隊司令長官・末次大将の下したこの方針に、内心では不服に思っていても、誰も口に出して言う者はいなかった。
当時、空母「赤城」の飛行隊長は、三和義勇(みわ・よしたけ)少佐(岡山・海兵四八・三十一番・海大三一・次席・霞ヶ浦航空隊副長兼教頭・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・戦死・少将)だった。
昭和九年に、空母「赤城」で行われた第一航空戦隊の研究会で、三和少佐が、立ち上がって、「連合艦隊司令長官の飛行機事故に対する方針には、納得しかねるものがある」という意味の所見を述べた。
第一航空戦隊司令官・山本五十六少将は、普通、議論が出尽くした後で、決断を下すのが例であったが、この時は、三和少佐の発言に直ちに応じて次の様に述べた。
「この訓示は長官自身の発意か、参謀長(豊田副武少将)がいったのか、あるいは、そこにいる加来参謀(後の空母「飛龍」艦長・ミッドウェーで運命を共にする)が書いたのか、その出所は知らないが、およそ犠牲の上にも犠牲を重ねて前進しつつある航空界において、飛行機を壊した者は厳罰に処するなどという考え方で、航空部隊の進歩など期待できるはずがない」
「私はこの方針には不賛成だ。こんな考え方をする者は罷めてしまえ、と言いたい。ただ、断っておくが、軍規違反による事故に対しては、処置はおのずから別である」。
山本司令官のこの発言の裏には「第一航空戦隊に関する限りは、事故懲罰の方針は採らないから、みんな安心して訓練に邁進せよ。連合艦隊司令長官に対する責任は自分がとる」という含みがあった。
源田実大尉は「ずいぶん思い切ったことを言う司令官」だと思ったが、同時に安心して思い切った訓練ができると感じた。
この空母「赤城」での研究会では、敵の空母に対する先制攻撃のやり方が問題になった。当時の攻撃手段は、第一に水平爆撃、第二に雷撃、第三に急降下爆撃だった。
この中で、日本海軍で実験研究に取り掛かっていた急降下爆撃が、敵空母の先制攻撃には最適であるというのが、当時の海軍航空界の定説だった。
当時日米ともに急降下爆撃としては、二座機を考えていた。同じ二座機で、日本は二五〇キロ爆弾、アメリカは二二五キロ爆弾とすれば、飛行機の設計、製作能力が同等であるとしても、航続力においてアメリカの上に出ることはできない。