「源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、昭和十二年八月十五日から、九六式陸攻の渡洋爆撃が開始されたが、中国側の戦闘機に攻撃されて、強いはずの九六式陸攻が次々と撃墜された。
それで、さすがの大西大佐と源田大尉は、冷水を浴びせられたようになり、「戦闘機無用論」を口にしなくなった。
「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、「戦闘機無用論」を唱えた源田実は、この重大な過ちをどうとらえ、反省しているのか。源田実は自著「海軍航空隊、発進」の中で、次のように記している。
「日支事変勃発前においては、中攻(九六式陸上攻撃機)の出現と共に戦闘機無用論まで一部に出ていたのであるが、実戦の結果は、この見解が完全に誤りであることが立証せられた」
「開戦初頭の大きな損害は、悪天候に基づく低空爆撃に原因するものと考えられた。その後天候が回復して中高度ないしは高高度爆撃が実施せられるに至って、地上砲火による被害は激減したが、戦闘機による被害は、開戦当初ほどではなかったが、相変わらず高率をもって続いた」。
この源田の釈明について、「鷹が征く」の著者の碇義朗は、「まるで戦闘機無用論は他の誰かが言ったかのような表現であり、それも“一部にあった“どころか、戦闘機の数と要員の数まで減らすという海軍軍備の根幹にかかわる決定が実施に至っているのだ」と批判している。
また、戦後になっても、この事実を知る柴田武雄は、その過ちを認めない源田実の不誠実を非難したのである。
昭和十年頃、源田実大尉は海軍大学校も受験するつもりはなかった。戦闘機操縦者として、大成するため、海軍大学校など入りたいとは思わなかったのだ。
海軍大学校の入学試験は年に一回行われ、大尉になると受験資格ができる。だから、五年間大尉をやれば五回受験することが出来るが、少佐になると、最初の一年目しか受験できなかった。
昭和五年十二月に大尉になった源田大尉は、すでに大尉五年目だったが、それまでに一回も海軍大学校を受験したことは無かった。受けようという気がなかったのである。
ある日、横須賀航空隊副長・大西瀧治郎大佐は、分隊長・源田実大尉を呼んで、海軍大学校に入るよう説得した。
大西大佐自身は海軍大学校出身ではなかった。海軍大尉の時、海軍大学校の学科試験は合格・通過していたが、数日前に芸者を殴ったことにより、素行不良で次の口頭試問は受験不可とされ受験できなかったのだ。
大西大佐は源田大尉に次のように言った。
「源田、貴様がよく研究会等で文句をつけるように、海軍の航空政策に修正しなければならないことは、沢山あるだろう」
「これを修正しなければ、航空は進歩しないのだ。しかし、貴様の言うように、戦闘機だけに乗っていたのでは、航空政策の指導などはできないのだ」
「真に高効率の軍備を作り上げてもらいたいことだ。それには、馬鹿らしいようでも、一応海軍大学校に入り、将来しかるべきポストに就けるような基盤を作って置かなければならないのだ」。
源田大尉の尊敬する大戦略家である大西大佐の、言葉に、源田大尉は、納得して、海軍大学校を受験することにした。
海軍大学校の試験に合格した源田実大尉は、昭和十年十月三十一日、海軍大学校(甲種学生三五期)として入学した。三十一歳だった。
入学して半年後の昭和十一年四月頃、戦略教官から「対米作戦遂行上、最良と思われる海軍軍備の方式に関して論述せよ」という趣旨の対策課題が学生に出された。
この対策課題を考えているうちに、源田大尉は当時の海軍軍備に対する重大なる疑問が心の中で頭をもたげて来た。源田大尉は次のように考えた。
日本海軍は、戦艦中心主義が海軍戦略戦術思想の骨幹をなしていた。いわゆる大鑑巨砲主義である。この思想は、日清戦争、米西戦争などの海戦から逐次頭角を現し、日露戦争や第一次世界大戦の諸海戦を通じて、不動の海軍戦略思想となっていた。
大艦巨砲主義は、敵の艦船を撃沈して敵の戦力を消滅させるという、水上艦艇のみを対象にした戦闘では、絶対防御力の小さい艦艇を多数造るより、絶対防御力の大きい戦艦を造った方が有利であるという思想である。
それで、さすがの大西大佐と源田大尉は、冷水を浴びせられたようになり、「戦闘機無用論」を口にしなくなった。
「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、「戦闘機無用論」を唱えた源田実は、この重大な過ちをどうとらえ、反省しているのか。源田実は自著「海軍航空隊、発進」の中で、次のように記している。
「日支事変勃発前においては、中攻(九六式陸上攻撃機)の出現と共に戦闘機無用論まで一部に出ていたのであるが、実戦の結果は、この見解が完全に誤りであることが立証せられた」
「開戦初頭の大きな損害は、悪天候に基づく低空爆撃に原因するものと考えられた。その後天候が回復して中高度ないしは高高度爆撃が実施せられるに至って、地上砲火による被害は激減したが、戦闘機による被害は、開戦当初ほどではなかったが、相変わらず高率をもって続いた」。
この源田の釈明について、「鷹が征く」の著者の碇義朗は、「まるで戦闘機無用論は他の誰かが言ったかのような表現であり、それも“一部にあった“どころか、戦闘機の数と要員の数まで減らすという海軍軍備の根幹にかかわる決定が実施に至っているのだ」と批判している。
また、戦後になっても、この事実を知る柴田武雄は、その過ちを認めない源田実の不誠実を非難したのである。
昭和十年頃、源田実大尉は海軍大学校も受験するつもりはなかった。戦闘機操縦者として、大成するため、海軍大学校など入りたいとは思わなかったのだ。
海軍大学校の入学試験は年に一回行われ、大尉になると受験資格ができる。だから、五年間大尉をやれば五回受験することが出来るが、少佐になると、最初の一年目しか受験できなかった。
昭和五年十二月に大尉になった源田大尉は、すでに大尉五年目だったが、それまでに一回も海軍大学校を受験したことは無かった。受けようという気がなかったのである。
ある日、横須賀航空隊副長・大西瀧治郎大佐は、分隊長・源田実大尉を呼んで、海軍大学校に入るよう説得した。
大西大佐自身は海軍大学校出身ではなかった。海軍大尉の時、海軍大学校の学科試験は合格・通過していたが、数日前に芸者を殴ったことにより、素行不良で次の口頭試問は受験不可とされ受験できなかったのだ。
大西大佐は源田大尉に次のように言った。
「源田、貴様がよく研究会等で文句をつけるように、海軍の航空政策に修正しなければならないことは、沢山あるだろう」
「これを修正しなければ、航空は進歩しないのだ。しかし、貴様の言うように、戦闘機だけに乗っていたのでは、航空政策の指導などはできないのだ」
「真に高効率の軍備を作り上げてもらいたいことだ。それには、馬鹿らしいようでも、一応海軍大学校に入り、将来しかるべきポストに就けるような基盤を作って置かなければならないのだ」。
源田大尉の尊敬する大戦略家である大西大佐の、言葉に、源田大尉は、納得して、海軍大学校を受験することにした。
海軍大学校の試験に合格した源田実大尉は、昭和十年十月三十一日、海軍大学校(甲種学生三五期)として入学した。三十一歳だった。
入学して半年後の昭和十一年四月頃、戦略教官から「対米作戦遂行上、最良と思われる海軍軍備の方式に関して論述せよ」という趣旨の対策課題が学生に出された。
この対策課題を考えているうちに、源田大尉は当時の海軍軍備に対する重大なる疑問が心の中で頭をもたげて来た。源田大尉は次のように考えた。
日本海軍は、戦艦中心主義が海軍戦略戦術思想の骨幹をなしていた。いわゆる大鑑巨砲主義である。この思想は、日清戦争、米西戦争などの海戦から逐次頭角を現し、日露戦争や第一次世界大戦の諸海戦を通じて、不動の海軍戦略思想となっていた。
大艦巨砲主義は、敵の艦船を撃沈して敵の戦力を消滅させるという、水上艦艇のみを対象にした戦闘では、絶対防御力の小さい艦艇を多数造るより、絶対防御力の大きい戦艦を造った方が有利であるという思想である。