陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

568.源田実海軍大佐(28)日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した

2017年02月10日 | 源田実海軍大佐
 大石中佐「ああ、そう言うけどだめなんだよ。ウチじゃそういうこと言ったって、源田君がわれわれの言うことを聞いてくれやしないよ。源田君はもっぱら母艦を集めて、戦闘機だけで守っていれば大丈夫、向こうはぜんぶ落とせる、攻撃は受けないと言って、自信満々なんだ」。

 中島少佐「そう言ったって、大型機に夾叉されたでしょう。運よく命中しなかったけれど、当たれば怪我しますよ」。

 大石中佐「そうなんだが、いくら言っても聞かなくて困るんだ」。

 中島少佐は、大石中佐の口ぶりから、これが源田と他の幕僚の関係をあらわしている、と思った。

 昭和十七年四月二十八日から三日間、連合艦隊は、戦艦「大和」に各司令長官、幕僚を集め、「連合艦隊第一段作戦戦訓研究会」を行なった。

 だが、この研究会について、連合艦隊作戦参謀・三和義勇大佐は、四月二十八日の日記に次のように記している。

 「勝ち戦の研究会は愉快なれども余り身(実)はなし、皆、勇者にして皆智者の如し。失敗も相当多かるべきに」。

 この研究会は、真珠湾で第二撃をやらなかったこと、米空母を捕捉できなかったこと、インド洋で英機動部隊を逸したこと、英爆撃機に奇襲されて「赤城」が危なかったことなども、真剣に検討されず、ほとんど通り一遍のものだったようである。

 それでも、二、三は注目すべきことがあった。

 第二航空戦隊司令官・山口多聞少将は、連合艦隊を再編して、空母を中心とする機動部隊三群にすべきであると主張した。

 これに賛成した、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は、「秦の始皇帝は阿房宮(あぼうきゅう)を作り、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」と公言した。

 続けて、源田中佐は「即刻航空主兵の思想に結集し、一切をあげて航空中心の軍備に徹底すべきだ」と論じた(淵田美津雄大佐の戦後の回想)。

 山本五十六大将が、この両人と同意見であることを知っている一同は、誰も反論しなかった。

 当時、第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」飛行隊長だった淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・空母「龍驤」飛行隊長・佐世保鎮守府参謀・空母「赤城」飛行隊長・第三航空戦隊参謀・空母「赤城」飛行隊長・中佐・横須賀航空隊教官・兼海軍大学校教官・第一航空艦隊参謀・連合艦隊航空甲参謀・大佐・海軍総隊兼連合艦隊航空参謀・戦後キリスト教伝道)は、次の様に考えていた。

 「日本艦隊の主戦兵力は、空母六隻を基幹とする南雲部隊だ。柱島に在泊している戦艦七隻は、もはや中核ではない。無用の長物的遊兵だ」

 「南雲部隊は、やらずもがなの南方作戦に使うべきではなかった。戦艦部隊は柱島に遊ばせておくべきではなかった」

 「これらを合体させて一つの有力な機動部隊を編成し、東方海面で、米国機動部隊と決戦すべきだった」。

 一方、連合艦隊参謀長・宇垣纒(うがき・まとめ)少将(岡山・海兵四〇・九番・海大二二・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・連合艦隊参謀・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・中将・第一戦隊司令官・第五航空艦隊司令長官・戦死)は、南雲機動部隊を次のように見ていた。

 「ハワイ海戦にせよ、ポートダ-ウィン、あるいはセイロン方面攻撃にせよ、多くは据物切りと言うべきで、敵に大海上航空部隊がいなかったから、多大の成果が得られたのだ」。

 これに対して、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)少将(石川・海兵四一・十四番・海大二四・装甲巡洋艦「磐手」副長・大佐・航空本部総務部第一課長・空母「鳳翔」艦長・支那方面艦隊参謀・軍令部第一部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第四連合航空隊司令官・第二四航空戦隊司令官・第一航空艦隊参謀長・第三艦隊参謀長・横須賀航空隊司令・南東方面艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)は次のように述べた。

 「海上航空部隊の攻撃は、十分な調査と精密な計画の下に切り下ろす一刀の下にすべてを集中すべきであり、そうしてきた」。