陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

589.桂太郎陸軍大将(9)地蔵堂の陰からいきなり二人が現れた。抜刀していた

2017年07月07日 | 桂太郎陸軍大将
 駅舎の明かりで見ると、その二人は覆面をしていた。彼らも早駕籠を求めたが、断られた。「我らは水戸藩士だ。御三家の御用を優先するは定法である」と横柄に割り込んできた。

 その時、「おや、貴殿は中村氏ではないか」と木梨が一人に声をかけた。「いや、拙者は早坂源次郎、人違いでござろう」と相手は言いながら、ひどく狼狽していた。

 そして、急に反り返る態度を改め、「火急の用にて福山まで参るところ、なにとぞ、お譲り願いたい」と慇懃に頭を下げた。

 「拙者らも急いでおる」と桂が口を尖らせた。だが、「分かり申した。先に行かれるがよい」と木梨が、あっさり彼らに譲ってしまった。

 「かたじけない」。早坂と名乗る男は、連れの者を促して、二挺の駕籠に乗り込み慌てて出発した。

 「なぜです」と、桂は木梨を責めた。木梨は「あいつは確かに中村だ。覆面はしておるが、鼻の横に大きな黒子(ほくろ)があるのが何よりの証拠。下関の攘夷戦に京都からやって来た浪士隊に加わっていた水戸浪士の一人だ。その後、新選組に入ったと聞いている」と言った。

 「やはり我々を尾行してきたのでしょうか」と桂が聞くと、「目的はそれだよ」と、木梨は桂が背負っている詔勅の包みを指さした。

 木梨は「おそらく待ち伏せて、奪うつもりであろう。油断するな。返り討ちにしてくれる」と言った。木梨精一郎は太郎より二つ年上の二十三歳。背も高く剣の腕も確かなようだ。

 桂も、剣術、槍、乗馬と一通りの武術は修めているが、木梨ほどの自信はなかった。しかし、戦うしかあるまいと覚悟を決め、子供のころからの負けぬ気が燃え上がった。

 木梨が「何だ、怖いのか」と言うと、「武者震いですよ。しかし、まだ人を斬ったことがありませんのでね」と桂が答えた。「拙者もないが、ここはやるしかないぞ」「そうです、やるしかない」。「柄袋をはずして、刀の鯉口を切っておけ」「承知」。

 桂太郎と木梨精一郎は腹ごしらえをして、明石を出発した。一時間ばかりも歩いた頃、道端にある地蔵堂の陰からいきなり二人が現れた。抜刀していた。

 すかさず、木梨は居合腰に構えて突進し、抜き打ちに斬り払った。早坂と名乗っていた武士は、木梨の一撃をかろうじて受けたが、二の太刀で前頭を斬りさけられ、その場にぶっ倒れた。

 同時に桂は、正眼に構えているもう一人に、猛然と打ちかかっていった。「桂、おれに任せろ」。背面にまわった木梨が声をかけたので、敵が驚いて振り向こうとする一瞬の隙をねらって突き出した桂の剣尖が深々と相手の胸を刺しつらぬいた。のけぞる男の肩に、木梨が上段から浴びせかけた。

 「止めをさしておこう」。木梨はまだ呻き声をあげている二人の喉を刺して、「浪人には違いないが、水戸藩士とほざいておったから、念のためだ。あとあと面倒なことになってもいけぬからな」と言った。

 桂と木梨は、そのまま歩いて行くうちに、夜が明けた。川辺におりて顔を洗い、衣服に着いた血を、拭いおとして人影のない街道に出た。
 
 「初めて人を殺しました」と桂が言うと、「おぬしは四境戦争に従軍して、敵を殺しただろう」と木梨が言った。

 「それとこれとは違いますよ」と桂が言うと、「とにかく詔勅を奪われないために、止む無くということだ。難しく考えるな」と、木梨が答えた。藩を目指して、二人はひたすら歩いて行った。

 慶応四年三月四日、桂太郎は小姓役を辞めて、長州藩の第四大隊二番隊の司令になった。
「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、桂太郎は、第四大隊二番隊の司令として、藩兵一〇六人、雑兵三〇人を率いることになった。

 「桂太郎(三代宰相列伝)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)及び「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文藝春秋・平成27年)によると、第四大隊二番隊司令・桂太郎は、奥羽鎮撫使の警衛を命ぜられた。

 この第四大隊二番隊というのは、伏見鳥羽の戦の当時は、備後尾道におり、のち福山に進軍し、福山藩を下してから、神戸に至って、備前兵と共にその守備に当たっていたのが、さらに大阪に移ったものであった。

 この二番隊は長州藩の中間組から編成されていたが、年を取って世間ズレした者が多く、議論家や不平家が多く、当時、その統率は極めて難しいことで知られていた。

 最初の隊長は、藩にあった際、排斥され、そのために自殺した。二代隊長・深栖多門、補助長官・桑原謙造も、神戸に滞陣中、反抗を受けて排斥をくい、職を去っていた。