時恰も本邦の陸軍に在りては、参謀本部設立巳来学理上の研究漸次に勢力を得るに至り、我々が明治十七年の一個年間海外に在りし中に於て、学理の必要といふ風気を、希望以上の提訴にまで上進せしめたりき。
以上の「桂太郎自伝」において、欧州視察中に、桂太郎が自分と異色な存在である川上操六と努めて盟友的な親交を結んだことがわかる。
その結果、後の桂の陸軍軍制改革において、川上は協力を惜しまず、桂は思う存分な陸軍の新建設を行うことができた。
この大山陸軍卿ヨーロッパ視察団が、ドイツに長期間滞在したことは、この視察旅行の目的が、山縣有朋、大山巌ら陸軍主流が、ドイツ軍制をモデルとして、日本帝国陸軍の整備を考えていたことを示すものだった。
この使節団の成果としては、陸軍大学校の教官の雇い入れが依嘱されており、ヤコブ・メッケル少佐(ドイツ・プロイセン王国ケルン出身・プロイセン陸軍大学校卒・同大学校兵学教官・日本帝国陸軍大学校教官・帰国後ナッサウ歩兵第二連隊長・参謀本部戦史部長・陸軍大学校教官・少将・参謀本部次長・皇帝ヴィルヘルム二世の受けが悪く第八歩兵旅団長に左遷の辞令を受けるが依願退役・退役後音楽に親しみオペラを作曲・六十四歳で死去)を確保したことだった。
明治十八年一月、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団は帰国した。桂太郎大佐は、その年の五月、陸軍少将に昇進、陸軍省総務局長に就任、参謀本部御用掛も兼任することになった。三十七歳だった。
明治十九年三月、桂太郎少将は三十八歳で陸軍次官に就任し、陸軍大臣・大山巌中将の下で、陸軍の様々な官制改革と、部内統一実現に向けた任務を担った。
明治維新以来、日本帝国陸軍はフランス式の兵制でやってきたのだが、これを、ドイツ式を取り入れて、改革を行なったので、摩擦も多かった。
最初に、監軍を廃止し、新たに陸軍検閲条例と陸軍武官進級条例を改正しようとしたのだが、これが、政治問題化した。
監軍の廃止は、行政改革の大義名分を掲げての廃止だったが、前年の明治十八年五月に、監軍部条例が改正され、東部・中部・西部の監軍とその業務が規定され、明治天皇はその三監軍に陸軍の反主流派と目されていた次の三中将を任命してはどうかとの意見を表明していたのだ。
元老院議員・鳥尾小弥太中将、農商務大臣・谷干城中将、東京鎮台司令官・三浦梧楼中将(官職・階級は明治十九年当時)。
だが、この明治天皇の意見表明にもかかわらず、これが実現されないままに、監軍が廃止されることに、不透明さが見受けられたのだ。
しかも、監軍の職務の中の「軍隊の検閲」だけを切り取って条例化し、また、進級条例では、その十四条に進級は停年順序に従うことが明記されており、従来、薩長両藩出身者が優遇されて来た年功序列が温存されるものになっていた。
これより先の明治十八年三月、三浦梧楼中将は、ヨーロッパ視察から帰国した直後の士官学校長の立場から、陸軍教育総裁の設置、留学生の優遇措置、新規将校教育機関設置等、幹部将校養成の抜本的改革の意見書を、大山陸軍卿に提出していた。
さらに、明治十八年五月、紅葉館(芝区の高級料亭)で、鎮台条例改正に伴う人事異動に際会して各司令官、旅団長、参謀長等の将官が参集した席で、三浦中将は、「陸軍の枢要な地位を薩長出身者が独占している」と批判した。
これを聞いた、薩摩藩出身の若手将校が三浦中将に詰め寄り、大激論となった。三浦中将は、陸軍部内の薩長藩閥主流派支配の現状を改革することを訴えたのだった。
三浦中将には同志的結束に基づいた、学習院長・子爵・谷干城中将、参議・伯爵・鳥尾小弥太中将、仙台鎮台司令官・子爵・曽我祐準中将がいた。四将軍派である。
また、当時の政府の指導者・伯爵・伊藤博文(山口・初代内閣総理大臣・公爵・従一位・菊花章頸飾)、外務卿・伯爵・井上馨(山口・大蔵大臣・侯爵・従一位・菊花章頸飾)ら強力な政治家の後ろ盾があった。
さらに、三浦中将の背景には、「月曜会」に結集している多数の将校団がいた。
「月曜会」は、明治十四年一月に東京の長岡外史(ながおか・がいし)陸軍少尉(山口・陸士旧二期・陸大一・軍務局歩兵課長・歩兵大佐<三十九歳>・軍務局軍事課長・欧州出張・少将<四十四歳>・歩兵第九旅団長・参謀本部次長・歩兵第二旅団長・軍務局長・中将<五十一歳>・第一三師団長・第一六師団長・予備役・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・ドイツ赤十字社勲章等)の自宅に、十三名が集まり、学術研究のための組織として発足した。
こうした陸軍上層部の対立が顕在化している中での監軍廃止と二条例の発令は、明治天皇にも不信感を与えることになり、「このニ条例の発布を裁可しない」との意思が伝えられた。
また、参謀本部次長・曽我祐準中将もこれを激しく批判し、陸軍省との権限争いとなった。
「曽我祐準自叙伝」(曽我祐準・大空社・昭和63年)によると、著者の曽我祐準は後年、次のように回想している。
「彼是する内に図らず陸軍省と参謀本部との権限争議が起こり、余は漫(みだり)に屈服することが性質として出来ぬから、強硬の態度を取りて抵抗したので、七月は士官学校に逐はれた」。
以上の「桂太郎自伝」において、欧州視察中に、桂太郎が自分と異色な存在である川上操六と努めて盟友的な親交を結んだことがわかる。
その結果、後の桂の陸軍軍制改革において、川上は協力を惜しまず、桂は思う存分な陸軍の新建設を行うことができた。
この大山陸軍卿ヨーロッパ視察団が、ドイツに長期間滞在したことは、この視察旅行の目的が、山縣有朋、大山巌ら陸軍主流が、ドイツ軍制をモデルとして、日本帝国陸軍の整備を考えていたことを示すものだった。
この使節団の成果としては、陸軍大学校の教官の雇い入れが依嘱されており、ヤコブ・メッケル少佐(ドイツ・プロイセン王国ケルン出身・プロイセン陸軍大学校卒・同大学校兵学教官・日本帝国陸軍大学校教官・帰国後ナッサウ歩兵第二連隊長・参謀本部戦史部長・陸軍大学校教官・少将・参謀本部次長・皇帝ヴィルヘルム二世の受けが悪く第八歩兵旅団長に左遷の辞令を受けるが依願退役・退役後音楽に親しみオペラを作曲・六十四歳で死去)を確保したことだった。
明治十八年一月、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団は帰国した。桂太郎大佐は、その年の五月、陸軍少将に昇進、陸軍省総務局長に就任、参謀本部御用掛も兼任することになった。三十七歳だった。
明治十九年三月、桂太郎少将は三十八歳で陸軍次官に就任し、陸軍大臣・大山巌中将の下で、陸軍の様々な官制改革と、部内統一実現に向けた任務を担った。
明治維新以来、日本帝国陸軍はフランス式の兵制でやってきたのだが、これを、ドイツ式を取り入れて、改革を行なったので、摩擦も多かった。
最初に、監軍を廃止し、新たに陸軍検閲条例と陸軍武官進級条例を改正しようとしたのだが、これが、政治問題化した。
監軍の廃止は、行政改革の大義名分を掲げての廃止だったが、前年の明治十八年五月に、監軍部条例が改正され、東部・中部・西部の監軍とその業務が規定され、明治天皇はその三監軍に陸軍の反主流派と目されていた次の三中将を任命してはどうかとの意見を表明していたのだ。
元老院議員・鳥尾小弥太中将、農商務大臣・谷干城中将、東京鎮台司令官・三浦梧楼中将(官職・階級は明治十九年当時)。
だが、この明治天皇の意見表明にもかかわらず、これが実現されないままに、監軍が廃止されることに、不透明さが見受けられたのだ。
しかも、監軍の職務の中の「軍隊の検閲」だけを切り取って条例化し、また、進級条例では、その十四条に進級は停年順序に従うことが明記されており、従来、薩長両藩出身者が優遇されて来た年功序列が温存されるものになっていた。
これより先の明治十八年三月、三浦梧楼中将は、ヨーロッパ視察から帰国した直後の士官学校長の立場から、陸軍教育総裁の設置、留学生の優遇措置、新規将校教育機関設置等、幹部将校養成の抜本的改革の意見書を、大山陸軍卿に提出していた。
さらに、明治十八年五月、紅葉館(芝区の高級料亭)で、鎮台条例改正に伴う人事異動に際会して各司令官、旅団長、参謀長等の将官が参集した席で、三浦中将は、「陸軍の枢要な地位を薩長出身者が独占している」と批判した。
これを聞いた、薩摩藩出身の若手将校が三浦中将に詰め寄り、大激論となった。三浦中将は、陸軍部内の薩長藩閥主流派支配の現状を改革することを訴えたのだった。
三浦中将には同志的結束に基づいた、学習院長・子爵・谷干城中将、参議・伯爵・鳥尾小弥太中将、仙台鎮台司令官・子爵・曽我祐準中将がいた。四将軍派である。
また、当時の政府の指導者・伯爵・伊藤博文(山口・初代内閣総理大臣・公爵・従一位・菊花章頸飾)、外務卿・伯爵・井上馨(山口・大蔵大臣・侯爵・従一位・菊花章頸飾)ら強力な政治家の後ろ盾があった。
さらに、三浦中将の背景には、「月曜会」に結集している多数の将校団がいた。
「月曜会」は、明治十四年一月に東京の長岡外史(ながおか・がいし)陸軍少尉(山口・陸士旧二期・陸大一・軍務局歩兵課長・歩兵大佐<三十九歳>・軍務局軍事課長・欧州出張・少将<四十四歳>・歩兵第九旅団長・参謀本部次長・歩兵第二旅団長・軍務局長・中将<五十一歳>・第一三師団長・第一六師団長・予備役・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・ドイツ赤十字社勲章等)の自宅に、十三名が集まり、学術研究のための組織として発足した。
こうした陸軍上層部の対立が顕在化している中での監軍廃止と二条例の発令は、明治天皇にも不信感を与えることになり、「このニ条例の発布を裁可しない」との意思が伝えられた。
また、参謀本部次長・曽我祐準中将もこれを激しく批判し、陸軍省との権限争いとなった。
「曽我祐準自叙伝」(曽我祐準・大空社・昭和63年)によると、著者の曽我祐準は後年、次のように回想している。
「彼是する内に図らず陸軍省と参謀本部との権限争議が起こり、余は漫(みだり)に屈服することが性質として出来ぬから、強硬の態度を取りて抵抗したので、七月は士官学校に逐はれた」。