加治屋町の下級藩士の中から輩出した人材の続きは、次の通り。
大山巌(おおやま・いわお・一八四二年生・鹿児島・薩英戦争で砲台配属・戊辰戦争で新式銃隊隊長・会津戦争で薩摩藩二番砲兵隊長・維新後ジュネーヴ留学・西南戦争で攻城砲隊司令官・陸軍大将・日清戦争で第二軍司令官・元帥・日露戦争で満州軍総司令官・内大臣・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・英国メリット勲章・仏国レジオンドヌール勲章等)。
東郷平八郎(とうごう・へいはちろう・一八四八年生・鹿児島・薩英戦争・薩摩藩海軍・戊辰戦争・軍艦「春日」乗組・函館戦争・維新後コルベット「龍驤」見習士官・英国商船学校・海軍中尉・大尉・少佐・砲艦「第二丁卯」艦長・中佐・コルベット「大和」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・日清戦争・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日露戦争・大将・日本海海戦で大勝利・軍令部長・伯爵・元帥・東宮御学問所総裁・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級)。
ところで、「山本権兵衛」(山本英輔・時事通信社・昭和六十年・四刷)の著者、山本英輔(やまもと・えいすけ)海軍大将(鹿児島・海兵二四次席・海大五・ドイツ駐在武官・大佐・戦艦「三笠」艦長・少将・海軍大学校校長・中将・第五戦隊司令官・練習艦隊司令官・航空本部長・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・正三位・勲一等瑞宝章)は、山本権兵衛海軍大将のすぐ上の兄、山本吉蔵(陸軍大尉・西南戦争で戦死)の長男である。
「山本権兵衛」(山本英輔・時事通信社・昭和六十年・四刷)によると、山本権兵衛の父、山本五百助盛珉(やまもと・いおすけもりたか)は書画を能くして歌道に通じ、武芸でも槍術などは薩摩藩の中で指折りの達人だった。そして、藩の右筆(書記)となって出仕、長い間、藩主の書道指南を兼ね勤めた。
母は、旧姓池田、名を常子といい、温厚で貞淑な半面、忍耐強く義にあつかった。権兵衛は幼児から家庭で読書習字、武術の稽古をし、藩の造士館や演武館にも出入りして文武の道に励んだ。
父母の躾は厳しかった。権兵衛の異母姉・平田ゆき子の話によると、南国には珍しく、雪の降った朝のことだった。庭で槍術を稽古していた権兵衛は、まだ子供でもあり、寒さのあまり、かじかんだ手にホウホウと息をかけていた。
それを見た父、五百助が大いに怒り、裸足で庭に飛び下りるなり、「武士がそんなことで役に立つか」と、権兵衛を雪中にねじ伏せた。
ゆき子など女の子達も、寒中毎晩、井戸水を石鉢に汲み入れ、翌朝朝、この氷のような水で縁や棚をふかされた。
その半面、負けず嫌いで口が達者な権兵衛が、友達と喧嘩したりすると、五百助は習字本を書いてその友達に与え、仲直りをさせるというような、細かい所に気を配るところもあった。
五百助は、権兵衛の幼時、その前途に非常な関心を寄せ、「権兵衛はよく行けば、立派な人物になるが、一歩誤れば、どんな人間になるかわからん」とよく家人に言っていた。
「海軍の父 山本権兵衛」(生出寿・光人社・1989年)によると、薩摩藩士族の青少年は、その住居周辺の一定地域にある自治組織に入り、互いに助け合い、鍛え合い、学問・武道に励むことになっていた。
その自治組織の集団を郷中(ごうじゅう)というが、権兵衛は数え五、六歳の頃、脇差一本を腰に差して樋之口(てのくち)方眼の郷中に入った。
郷中は年齢によって、二ないし三組に分けられる。数え六、七歳から九歳が小稚児組(こちごぐみ)、十歳から十三、四歳が長稚児組(おさちごぐみ)、それ以上二十三歳までが二歳組(にせぐみ)となる。
彼らの教育、訓練を指導するのが、二歳組頭(郷中頭)と稚児頭である。
ちなみに、大山巌や西郷従道は権兵衛より十年早く、六、七歳で下加治屋町方眼の郷中稚児組に入った。
当時の加治屋町郷中の二歳頭は「敬天愛人」を信条とする二十二、三歳の巨漢、西郷隆盛だった。隆盛は、中国古典の「大学」「中庸」「論語」「孟子」や、書道、珠算などを、懇切丁寧に教えていたという。
稚児組の権兵衛は数え八、九歳の頃から、早くも大小両刀を差すようになった。権兵衛は幼いころから気性が激しく、力も強く、喧嘩が早かった。
喧嘩している子供らのところへ権兵衛が姿を現すと、「あっ、権兵衛がきた」と、子供たちは皆逃げてしまったという。
だが、権兵衛は喧嘩で刀を抜くことは絶えてなかった。権兵衛の知性は激情より強く、抑えることができる性格だった。権兵衛は浅慮蛮行ではなく、熟慮断行の男子だった。
文久二年、権兵衛が満十歳になった頃の樋之口方眼の二歳頭は、頭が切れ、人の面倒もよく見るが、時に凶暴性を発揮するので、さすがの権兵衛も彼を敬遠していた。
その二歳頭の実家の床柱は、時々二歳頭が抜刀して切りつけたため、無残に傷だらけだった。また、酒に酔うと始末が悪く、興奮して刀を振り回し、手当たり次第に斬りつける癖もあった。
大山巌(おおやま・いわお・一八四二年生・鹿児島・薩英戦争で砲台配属・戊辰戦争で新式銃隊隊長・会津戦争で薩摩藩二番砲兵隊長・維新後ジュネーヴ留学・西南戦争で攻城砲隊司令官・陸軍大将・日清戦争で第二軍司令官・元帥・日露戦争で満州軍総司令官・内大臣・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・英国メリット勲章・仏国レジオンドヌール勲章等)。
東郷平八郎(とうごう・へいはちろう・一八四八年生・鹿児島・薩英戦争・薩摩藩海軍・戊辰戦争・軍艦「春日」乗組・函館戦争・維新後コルベット「龍驤」見習士官・英国商船学校・海軍中尉・大尉・少佐・砲艦「第二丁卯」艦長・中佐・コルベット「大和」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・日清戦争・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日露戦争・大将・日本海海戦で大勝利・軍令部長・伯爵・元帥・東宮御学問所総裁・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級)。
ところで、「山本権兵衛」(山本英輔・時事通信社・昭和六十年・四刷)の著者、山本英輔(やまもと・えいすけ)海軍大将(鹿児島・海兵二四次席・海大五・ドイツ駐在武官・大佐・戦艦「三笠」艦長・少将・海軍大学校校長・中将・第五戦隊司令官・練習艦隊司令官・航空本部長・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・正三位・勲一等瑞宝章)は、山本権兵衛海軍大将のすぐ上の兄、山本吉蔵(陸軍大尉・西南戦争で戦死)の長男である。
「山本権兵衛」(山本英輔・時事通信社・昭和六十年・四刷)によると、山本権兵衛の父、山本五百助盛珉(やまもと・いおすけもりたか)は書画を能くして歌道に通じ、武芸でも槍術などは薩摩藩の中で指折りの達人だった。そして、藩の右筆(書記)となって出仕、長い間、藩主の書道指南を兼ね勤めた。
母は、旧姓池田、名を常子といい、温厚で貞淑な半面、忍耐強く義にあつかった。権兵衛は幼児から家庭で読書習字、武術の稽古をし、藩の造士館や演武館にも出入りして文武の道に励んだ。
父母の躾は厳しかった。権兵衛の異母姉・平田ゆき子の話によると、南国には珍しく、雪の降った朝のことだった。庭で槍術を稽古していた権兵衛は、まだ子供でもあり、寒さのあまり、かじかんだ手にホウホウと息をかけていた。
それを見た父、五百助が大いに怒り、裸足で庭に飛び下りるなり、「武士がそんなことで役に立つか」と、権兵衛を雪中にねじ伏せた。
ゆき子など女の子達も、寒中毎晩、井戸水を石鉢に汲み入れ、翌朝朝、この氷のような水で縁や棚をふかされた。
その半面、負けず嫌いで口が達者な権兵衛が、友達と喧嘩したりすると、五百助は習字本を書いてその友達に与え、仲直りをさせるというような、細かい所に気を配るところもあった。
五百助は、権兵衛の幼時、その前途に非常な関心を寄せ、「権兵衛はよく行けば、立派な人物になるが、一歩誤れば、どんな人間になるかわからん」とよく家人に言っていた。
「海軍の父 山本権兵衛」(生出寿・光人社・1989年)によると、薩摩藩士族の青少年は、その住居周辺の一定地域にある自治組織に入り、互いに助け合い、鍛え合い、学問・武道に励むことになっていた。
その自治組織の集団を郷中(ごうじゅう)というが、権兵衛は数え五、六歳の頃、脇差一本を腰に差して樋之口(てのくち)方眼の郷中に入った。
郷中は年齢によって、二ないし三組に分けられる。数え六、七歳から九歳が小稚児組(こちごぐみ)、十歳から十三、四歳が長稚児組(おさちごぐみ)、それ以上二十三歳までが二歳組(にせぐみ)となる。
彼らの教育、訓練を指導するのが、二歳組頭(郷中頭)と稚児頭である。
ちなみに、大山巌や西郷従道は権兵衛より十年早く、六、七歳で下加治屋町方眼の郷中稚児組に入った。
当時の加治屋町郷中の二歳頭は「敬天愛人」を信条とする二十二、三歳の巨漢、西郷隆盛だった。隆盛は、中国古典の「大学」「中庸」「論語」「孟子」や、書道、珠算などを、懇切丁寧に教えていたという。
稚児組の権兵衛は数え八、九歳の頃から、早くも大小両刀を差すようになった。権兵衛は幼いころから気性が激しく、力も強く、喧嘩が早かった。
喧嘩している子供らのところへ権兵衛が姿を現すと、「あっ、権兵衛がきた」と、子供たちは皆逃げてしまったという。
だが、権兵衛は喧嘩で刀を抜くことは絶えてなかった。権兵衛の知性は激情より強く、抑えることができる性格だった。権兵衛は浅慮蛮行ではなく、熟慮断行の男子だった。
文久二年、権兵衛が満十歳になった頃の樋之口方眼の二歳頭は、頭が切れ、人の面倒もよく見るが、時に凶暴性を発揮するので、さすがの権兵衛も彼を敬遠していた。
その二歳頭の実家の床柱は、時々二歳頭が抜刀して切りつけたため、無残に傷だらけだった。また、酒に酔うと始末が悪く、興奮して刀を振り回し、手当たり次第に斬りつける癖もあった。