袁世凱は、傾聴していたが、袁世凱の心中までは判らなかった。だが、袁世凱は山本少佐を「先生」と敬意を込めて呼び、あくまで懇切丁寧に応対をした。
山本少佐が帰る時、袁世凱はわざわざ公使館の門外まで出てきて、見送った。この時、袁世凱は、山本少佐より七歳年下の二十七歳だった。
袁世凱は、大人物だったのである。袁世凱は中国では名家の出で、官僚を志し、科挙に二度挑戦したが、どうしても合格せず、軍人になることにした。
明治十四年、清王朝の重臣・李鴻章率いる淮軍(わいぐん=地方軍)に入隊し、朝鮮に渡った。その後、壬午事変(明治十五年七月二十三日)、甲申政変(明治十七年十二月四日)では、閔妃の要請の下で、巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清国に有利に導いた。
その功績で、袁世凱は、李鴻章の監督の下で、朝鮮公使として、内政にも干渉できるほどの、大きな権限を持った。袁世凱はまだ二十五歳の若さだった。
だが、明治二十七年七月~明治二十八年三月の日清戦争で、李鴻章は責任を問われ、失脚した。袁世凱は軍隊の近代化を痛感した。その後、袁世凱は、新国軍の洋式化の職務に就任し、大きな成果を挙げた。当時の袁世凱の改革した軍は新建陸軍と呼ばれた。
その後、西太后の信頼を得た袁世凱は、義和団の乱(明治三十三年六月二十日~明治三十四年九月七日)の功績で、力をつけ、明治三十四年に清国の北洋通商大臣兼直隷総督に就任した。
日露戦争(明治三十七年二月八日~明治三十八年九月五日)では、袁世凱は、部下の優秀な将校を多数蒙古の奥深く潜入させ、諜報活動をさせ、日本軍に協力した。
辛亥革命(明治四十四年十月十日~明治四十五年二月十二日)では、袁世凱は、清王朝から内閣総理大臣に任命され、革命の鎮圧を命じられたが、革命派と極秘に連絡を取り、清王朝を滅亡させた。
明治四十五年二月十二日、清王朝最後の皇帝・宣統帝が退位して清王朝は滅亡した。袁世凱は、新生中華民国の臨時大総統に就任した。
中華民国の大総統に就任した袁世凱は、その後、大正四年に帝政を復活させ、中華帝国の皇帝に即位した。だが、国民の反発や日本の非難により、大正五年三月に退位、六月に死去した。
以上が袁世凱の、清王国から中華民国、さらに中華帝国までの生涯の概要である。
明治二十年七月十一日、山本権兵衛少佐は、スループ「天城」艦長から、海軍大臣伝令使に転任となった。伝令使は後の秘書官である。
当時の海軍大臣は、西郷従道(さいごう・つぐみち)中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞<二十六歳>・陸軍少将<二十八歳>・陸軍中将<三十一歳>・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿<三十五歳>・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣<四十二歳>・元老・枢密顧問官・海軍大将<五十一歳>・侯爵・元帥<五十五歳>・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)だった。
海軍大臣・西郷従道中将と伝令使・山本権兵衛少佐は、建設中の呉と佐世保の鎮守府地域を視察するため、七月二十九日、東京を出発した。
視察後、二人は、八月半ば、長崎へ行って、数日滞在した。ある日、西郷海相が「今日は暇ができた。朝から丸山の『宝亭』に行って、おはんとゆるゆる話したか」と、誘った。
山本伝令使は「大いに賛成ごわす」と答えて、「いい機会だ。今まで問い質したいと思っていたことを、この際全て聞いてやろう」と考えたのだ。
『宝亭』の座敷で対座し、乾杯した後、山本伝令使は、山本海相に次の様に言った。
「質問が三つあいもす。一つは、征韓論の際、何故、南洲翁と進退を共にせんかったかでごわす。二つは、台湾征討軍のこつごわす。長崎出港まえ大久保(利通)氏から、出発を見合わすべしと内報があいもしたが、出発して台湾に向かったのは、どういうわけでごわすか」
「三つは、南洲翁引退後、政府の措置が宜しきを得ず、ついに翁にあのような最後を遂げさせもしたが、そいは深く遺憾とすべきではあいもはんか、東京に居残った者の罪ではなかかちゅうこつごわす」
「この三つは、かねていつかお尋ねしたか思めちょいもしたが、この機会に、ぜひご明解下さるよう、お願いもうす」。
山本少佐が帰る時、袁世凱はわざわざ公使館の門外まで出てきて、見送った。この時、袁世凱は、山本少佐より七歳年下の二十七歳だった。
袁世凱は、大人物だったのである。袁世凱は中国では名家の出で、官僚を志し、科挙に二度挑戦したが、どうしても合格せず、軍人になることにした。
明治十四年、清王朝の重臣・李鴻章率いる淮軍(わいぐん=地方軍)に入隊し、朝鮮に渡った。その後、壬午事変(明治十五年七月二十三日)、甲申政変(明治十七年十二月四日)では、閔妃の要請の下で、巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清国に有利に導いた。
その功績で、袁世凱は、李鴻章の監督の下で、朝鮮公使として、内政にも干渉できるほどの、大きな権限を持った。袁世凱はまだ二十五歳の若さだった。
だが、明治二十七年七月~明治二十八年三月の日清戦争で、李鴻章は責任を問われ、失脚した。袁世凱は軍隊の近代化を痛感した。その後、袁世凱は、新国軍の洋式化の職務に就任し、大きな成果を挙げた。当時の袁世凱の改革した軍は新建陸軍と呼ばれた。
その後、西太后の信頼を得た袁世凱は、義和団の乱(明治三十三年六月二十日~明治三十四年九月七日)の功績で、力をつけ、明治三十四年に清国の北洋通商大臣兼直隷総督に就任した。
日露戦争(明治三十七年二月八日~明治三十八年九月五日)では、袁世凱は、部下の優秀な将校を多数蒙古の奥深く潜入させ、諜報活動をさせ、日本軍に協力した。
辛亥革命(明治四十四年十月十日~明治四十五年二月十二日)では、袁世凱は、清王朝から内閣総理大臣に任命され、革命の鎮圧を命じられたが、革命派と極秘に連絡を取り、清王朝を滅亡させた。
明治四十五年二月十二日、清王朝最後の皇帝・宣統帝が退位して清王朝は滅亡した。袁世凱は、新生中華民国の臨時大総統に就任した。
中華民国の大総統に就任した袁世凱は、その後、大正四年に帝政を復活させ、中華帝国の皇帝に即位した。だが、国民の反発や日本の非難により、大正五年三月に退位、六月に死去した。
以上が袁世凱の、清王国から中華民国、さらに中華帝国までの生涯の概要である。
明治二十年七月十一日、山本権兵衛少佐は、スループ「天城」艦長から、海軍大臣伝令使に転任となった。伝令使は後の秘書官である。
当時の海軍大臣は、西郷従道(さいごう・つぐみち)中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞<二十六歳>・陸軍少将<二十八歳>・陸軍中将<三十一歳>・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿<三十五歳>・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣<四十二歳>・元老・枢密顧問官・海軍大将<五十一歳>・侯爵・元帥<五十五歳>・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)だった。
海軍大臣・西郷従道中将と伝令使・山本権兵衛少佐は、建設中の呉と佐世保の鎮守府地域を視察するため、七月二十九日、東京を出発した。
視察後、二人は、八月半ば、長崎へ行って、数日滞在した。ある日、西郷海相が「今日は暇ができた。朝から丸山の『宝亭』に行って、おはんとゆるゆる話したか」と、誘った。
山本伝令使は「大いに賛成ごわす」と答えて、「いい機会だ。今まで問い質したいと思っていたことを、この際全て聞いてやろう」と考えたのだ。
『宝亭』の座敷で対座し、乾杯した後、山本伝令使は、山本海相に次の様に言った。
「質問が三つあいもす。一つは、征韓論の際、何故、南洲翁と進退を共にせんかったかでごわす。二つは、台湾征討軍のこつごわす。長崎出港まえ大久保(利通)氏から、出発を見合わすべしと内報があいもしたが、出発して台湾に向かったのは、どういうわけでごわすか」
「三つは、南洲翁引退後、政府の措置が宜しきを得ず、ついに翁にあのような最後を遂げさせもしたが、そいは深く遺憾とすべきではあいもはんか、東京に居残った者の罪ではなかかちゅうこつごわす」
「この三つは、かねていつかお尋ねしたか思めちょいもしたが、この機会に、ぜひご明解下さるよう、お願いもうす」。