そこで、山本大佐は、日頃考えているところの大筋を、あれやこれやと打ち明けた。見ると、今度は、山縣陸軍大将は苦虫を噛むような顔で聴き入っていた。一段落すると、山縣陸軍大将は、次の様に問うた。
「このごろ、貴下が海軍本省に在って種々の改革を企て、何か術策を弄して事を誤る恐れがあると、何某からしきりに告げてきている。また、新聞などにも色々風説が出ているようである。もとより一方的な意見では判断のしようもないが、このことについてはどう思うか」。
山本大佐は、このような非難攻撃にも、見にやましいところさえ無ければ、いちいち釈明する必要はないと思っていたので、次の様に答えた。
「自分は何もやましいところがないから、一身上の蔭口などは少しも意に介せず、捨て置いてきた。しかし、何某らが貴下にまで告げ来たったとは、初めて聞くことではあり、このため海軍諸般の改革まで影響を及ぼすようなことがあっては遺憾なので、自分の真に意のあるところを申し上げる」。
続いて、山本大佐は、それらの山縣陸軍大将の耳に届いている風評に、一つ一つ反証を挙げて説明をした。
山縣陸軍大将は、大きくうなずいて、「よく事の真相は分かった。では、今回改革しようとする制度の大要を、ここで聞かせてもらえないか」と言った。
山本大佐は、五年前、欧米各国視察の時調査した列国海軍制度の状態から、進んで現下の情勢に及び、我が国の将来に対する国防の大計からみて今回断行すべき海軍制度改革諸案の綱領を説明、この成案を得るまでは数か月の研究調査がなされていることを、述べた。
じっくり聞いていた、山縣陸軍大将は、「諒解した。あんたなら海軍整理はやれるだろう」と言った。
この会談後、枢密院議長・山縣陸軍大将は、内閣に出て、各大臣に次の様に語ったと言われている。
「自分は、山縣権兵衛の人となりについて、これまで巷間に伝えられている話や人々の情報を聞き、実は大いに疑惑を抱いていた。大奸物なのではないかと想像していたのだが、今回親しく会見して色々語り合い、よく観察したところ、自分の疑惑は氷解し、世間の風評も全く根拠がないことを悟って、案に相違の感があった」
「また識見力量にも富み、幾多の経験を有することが想見される。自分はこの会見により、かねて同氏に対する予の抱懐せる暗雲を釈然一掃することができ、大いに満足した」。
山本大佐について、よく知らなかった閣僚も、この山縣陸軍大将の言明を聞いて、その人格の概要を知った。
明治二十八年三月八日、山本権兵衛大佐は少将に進級し、海軍省軍務局長に就任した。
明治三十年一月のある夜、砲艦「磐城」航海長である青年士官が、海軍省軍務局長・山本権兵衛少将の自宅に、突然現れた。
彼は、広瀬武夫(ひろせ・たけお)大尉(鹿児島・一五期・六四番・コルベット「比叡」で遠洋航海・少尉・測量艦「海門」甲板士官・日清戦争・大尉・ロシア留学・ロシア駐在武官・少佐・日露戦争で戦死・中佐・従六位・軍神)と名乗った。
身長一七〇センチ、筋骨隆々とした、ごつい髭面の男だった。何事かと、いぶかる山本権兵衛少将の鋭い眼を直視しながら、広瀬大尉は次の様に言った。
「私は財部彪と同期(海軍兵学校一五期)です。財部は閣下のお嬢さんとの婚約について、権勢につくのはよくない、と悩んでおります。あいつは自力でも必ず大成する男です」
「それが閣下の女婿になれば、たとえ自力で昇進しても、七光りのせいだと言われます。そうなれば、我々同期の者も残念至極です。どうか、この縁談は破談にしてください。お願いします」。
広瀬大尉の態度は真摯で、情理もあった。山本少将も、怒鳴りつけるわけにもいかなかった。しかし、長女いねの、またと無い良縁を放棄することもできなかった。山本少将は気を落ち着けて、次の様に答えた。
「その心配は無用だ。この縁談がまとまっても、俺は財部を特別扱いにはせん。世間の噂など気にするな。しかし、君の心配ももっともだ。この問題は財部自身の気持ちをよく聞いた上で善処しよう」。
「このごろ、貴下が海軍本省に在って種々の改革を企て、何か術策を弄して事を誤る恐れがあると、何某からしきりに告げてきている。また、新聞などにも色々風説が出ているようである。もとより一方的な意見では判断のしようもないが、このことについてはどう思うか」。
山本大佐は、このような非難攻撃にも、見にやましいところさえ無ければ、いちいち釈明する必要はないと思っていたので、次の様に答えた。
「自分は何もやましいところがないから、一身上の蔭口などは少しも意に介せず、捨て置いてきた。しかし、何某らが貴下にまで告げ来たったとは、初めて聞くことではあり、このため海軍諸般の改革まで影響を及ぼすようなことがあっては遺憾なので、自分の真に意のあるところを申し上げる」。
続いて、山本大佐は、それらの山縣陸軍大将の耳に届いている風評に、一つ一つ反証を挙げて説明をした。
山縣陸軍大将は、大きくうなずいて、「よく事の真相は分かった。では、今回改革しようとする制度の大要を、ここで聞かせてもらえないか」と言った。
山本大佐は、五年前、欧米各国視察の時調査した列国海軍制度の状態から、進んで現下の情勢に及び、我が国の将来に対する国防の大計からみて今回断行すべき海軍制度改革諸案の綱領を説明、この成案を得るまでは数か月の研究調査がなされていることを、述べた。
じっくり聞いていた、山縣陸軍大将は、「諒解した。あんたなら海軍整理はやれるだろう」と言った。
この会談後、枢密院議長・山縣陸軍大将は、内閣に出て、各大臣に次の様に語ったと言われている。
「自分は、山縣権兵衛の人となりについて、これまで巷間に伝えられている話や人々の情報を聞き、実は大いに疑惑を抱いていた。大奸物なのではないかと想像していたのだが、今回親しく会見して色々語り合い、よく観察したところ、自分の疑惑は氷解し、世間の風評も全く根拠がないことを悟って、案に相違の感があった」
「また識見力量にも富み、幾多の経験を有することが想見される。自分はこの会見により、かねて同氏に対する予の抱懐せる暗雲を釈然一掃することができ、大いに満足した」。
山本大佐について、よく知らなかった閣僚も、この山縣陸軍大将の言明を聞いて、その人格の概要を知った。
明治二十八年三月八日、山本権兵衛大佐は少将に進級し、海軍省軍務局長に就任した。
明治三十年一月のある夜、砲艦「磐城」航海長である青年士官が、海軍省軍務局長・山本権兵衛少将の自宅に、突然現れた。
彼は、広瀬武夫(ひろせ・たけお)大尉(鹿児島・一五期・六四番・コルベット「比叡」で遠洋航海・少尉・測量艦「海門」甲板士官・日清戦争・大尉・ロシア留学・ロシア駐在武官・少佐・日露戦争で戦死・中佐・従六位・軍神)と名乗った。
身長一七〇センチ、筋骨隆々とした、ごつい髭面の男だった。何事かと、いぶかる山本権兵衛少将の鋭い眼を直視しながら、広瀬大尉は次の様に言った。
「私は財部彪と同期(海軍兵学校一五期)です。財部は閣下のお嬢さんとの婚約について、権勢につくのはよくない、と悩んでおります。あいつは自力でも必ず大成する男です」
「それが閣下の女婿になれば、たとえ自力で昇進しても、七光りのせいだと言われます。そうなれば、我々同期の者も残念至極です。どうか、この縁談は破談にしてください。お願いします」。
広瀬大尉の態度は真摯で、情理もあった。山本少将も、怒鳴りつけるわけにもいかなかった。しかし、長女いねの、またと無い良縁を放棄することもできなかった。山本少将は気を落ち着けて、次の様に答えた。
「その心配は無用だ。この縁談がまとまっても、俺は財部を特別扱いにはせん。世間の噂など気にするな。しかし、君の心配ももっともだ。この問題は財部自身の気持ちをよく聞いた上で善処しよう」。