さらに次の二人の第三課の課員も異動になった。
藤室良輔(ふじむろ・りょうすけ)中佐(広島・東京陸軍幼年学校首席・中央幼年学校首席・陸士二七首席・陸大三五首席・ドイツ駐在・陸軍大学校教官・歩兵大佐・参謀本部戦史課長・歩兵第七七連隊長・第二一軍参謀副長・少将・陸軍技術本部総務部長・総力戦研究所主事・陸軍技術本部第一部長・昭和十七年病死・享年四十九歳・中将)。
宮野正年(みやの・まさとし)少佐(広島・陸士三〇・陸大三七・ソ連駐在・陸軍教育本部総務部第二課長・歩兵大佐・支那派遣軍作戦課長・少将・陸軍予科士官学校幹事兼教授部長・第一五方面軍参謀副長・終戦)。
軍備充実予算をめぐる省部間の紛糾はこれで解決したが、参謀本部としては陸軍省のやり方にひどく腹を立てたものだった。
当時参謀本部作戦課課員だった今岡豊大佐(陸士三七・陸大四七・第七方面軍参謀・終戦)は、当時を振り返って、次の様に回想している。
梅津将軍のように、国軍の最も優れた能吏型の事務才能を有し、極めて慎重なる性格の持主が時に大局的判断によって思い切った決断を下すことがあるものだということを、はっきりと見せつけられた。
梅津美治郎中将が陸軍次官当時、陸軍大学校卒業徽章が廃止された。
「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)によると、その中で、陸軍大学校卒業徽章の廃止について触れている。
当時、陸軍省軍務局軍事課課員で、陸軍大学校卒業徽章の廃止を起草した山崎正男(やまざき・まさお)少将(京都・陸士三三・陸大四〇・軍務局軍事課課員・兵務局高級課員・兵務局兵備課長・歩兵大佐・第三九師団参謀長・東部軍高級参謀・第一二方面軍高級参謀・少将・第一二方面軍参謀副長・陸軍予科士官学校幹事)は、次の様に回想している。
従来は、陸軍大学校を卒業した者には、学校令第二十二条により、卒業証書及び卒業を証する徽章を授与されることになっていた。
そもそも学歴を服装の上に表すなどということは、全く意味がなく、なぜこのようなことが行われてきたか、実に了解に苦しむところである。
しかし、伝えられるところによると、次の経過によるものらしい。
(一)陸軍大学校の創設当初(明治二十年)に設けられたこの徽章は、当時、若い将校が酒色にふけり、陸軍大学校などに振り向きもしなかったので、明治天皇のご意図により、卒業者の名誉を表彰する方法として、設けられた。
(二)徽章の図案は、明治天皇の御発案による。
真偽のほどは別として、明治二十年頃には、以上のようなことがあったかもしれない。
爾来約五十年、この徽章は、確かに前記(一)の目的を達したであろうが、社会情勢の変化と人心の推移にともない、この徽章に対する考え方も変わって来た。すなわち、
(一)功利主義、出世主義が発達するにつれて、徽章によって若い将校を引きつけなくても、進んで受験勉強をするようになったこと。すなわち、徽章制定当時考えられた必要性が、だんだんと薄らいできたことである。
(二)必要性がなくなるばかりでなく、次の様な弊害が出てきた。
1、徽章をつけることによって、いたずらに気位が高くなり、かえって他のひんしゅくを買う。
2、陸大卒業者の人事上の優遇処置に対する他の将校の嫉妬心が、徽章によって、一層刺激される。
3、陸大卒業者に相応しい能力を備えていない場合、徽章をつけているとかえって、その他の将校の軽侮感をつのらせる。
(三)デモクラシー思想の浸透は、無意味な差別の存在を認めなくなり、創設の当初からあまり意味のなかったこの徽章も、有害無用視されるようになった。
以上のような経緯により、海軍は大正デモクラシー華やかなりし大正十年に早くもこれを廃止し、陸軍の廃止ももはや時期の問題だった。
藤室良輔(ふじむろ・りょうすけ)中佐(広島・東京陸軍幼年学校首席・中央幼年学校首席・陸士二七首席・陸大三五首席・ドイツ駐在・陸軍大学校教官・歩兵大佐・参謀本部戦史課長・歩兵第七七連隊長・第二一軍参謀副長・少将・陸軍技術本部総務部長・総力戦研究所主事・陸軍技術本部第一部長・昭和十七年病死・享年四十九歳・中将)。
宮野正年(みやの・まさとし)少佐(広島・陸士三〇・陸大三七・ソ連駐在・陸軍教育本部総務部第二課長・歩兵大佐・支那派遣軍作戦課長・少将・陸軍予科士官学校幹事兼教授部長・第一五方面軍参謀副長・終戦)。
軍備充実予算をめぐる省部間の紛糾はこれで解決したが、参謀本部としては陸軍省のやり方にひどく腹を立てたものだった。
当時参謀本部作戦課課員だった今岡豊大佐(陸士三七・陸大四七・第七方面軍参謀・終戦)は、当時を振り返って、次の様に回想している。
梅津将軍のように、国軍の最も優れた能吏型の事務才能を有し、極めて慎重なる性格の持主が時に大局的判断によって思い切った決断を下すことがあるものだということを、はっきりと見せつけられた。
梅津美治郎中将が陸軍次官当時、陸軍大学校卒業徽章が廃止された。
「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)によると、その中で、陸軍大学校卒業徽章の廃止について触れている。
当時、陸軍省軍務局軍事課課員で、陸軍大学校卒業徽章の廃止を起草した山崎正男(やまざき・まさお)少将(京都・陸士三三・陸大四〇・軍務局軍事課課員・兵務局高級課員・兵務局兵備課長・歩兵大佐・第三九師団参謀長・東部軍高級参謀・第一二方面軍高級参謀・少将・第一二方面軍参謀副長・陸軍予科士官学校幹事)は、次の様に回想している。
従来は、陸軍大学校を卒業した者には、学校令第二十二条により、卒業証書及び卒業を証する徽章を授与されることになっていた。
そもそも学歴を服装の上に表すなどということは、全く意味がなく、なぜこのようなことが行われてきたか、実に了解に苦しむところである。
しかし、伝えられるところによると、次の経過によるものらしい。
(一)陸軍大学校の創設当初(明治二十年)に設けられたこの徽章は、当時、若い将校が酒色にふけり、陸軍大学校などに振り向きもしなかったので、明治天皇のご意図により、卒業者の名誉を表彰する方法として、設けられた。
(二)徽章の図案は、明治天皇の御発案による。
真偽のほどは別として、明治二十年頃には、以上のようなことがあったかもしれない。
爾来約五十年、この徽章は、確かに前記(一)の目的を達したであろうが、社会情勢の変化と人心の推移にともない、この徽章に対する考え方も変わって来た。すなわち、
(一)功利主義、出世主義が発達するにつれて、徽章によって若い将校を引きつけなくても、進んで受験勉強をするようになったこと。すなわち、徽章制定当時考えられた必要性が、だんだんと薄らいできたことである。
(二)必要性がなくなるばかりでなく、次の様な弊害が出てきた。
1、徽章をつけることによって、いたずらに気位が高くなり、かえって他のひんしゅくを買う。
2、陸大卒業者の人事上の優遇処置に対する他の将校の嫉妬心が、徽章によって、一層刺激される。
3、陸大卒業者に相応しい能力を備えていない場合、徽章をつけているとかえって、その他の将校の軽侮感をつのらせる。
(三)デモクラシー思想の浸透は、無意味な差別の存在を認めなくなり、創設の当初からあまり意味のなかったこの徽章も、有害無用視されるようになった。
以上のような経緯により、海軍は大正デモクラシー華やかなりし大正十年に早くもこれを廃止し、陸軍の廃止ももはや時期の問題だった。