陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

680.梅津美治郎陸軍大将(20)君のやったことには、その行為には同意しない。しかし私の言ったことは取り消す

2019年04月05日 | 梅津美治郎陸軍大将
 【片倉衷の追悼談】

 翌年、林内閣ができました時に、私は、組閣に際していろいろやりましたので、梅津次官は最後に非常に怒りまして、「片倉少佐のやった行動はどうもけしからん」。

 それで阿南兵務局長、磯谷軍務局長、また石本軍務課長、町尻軍事課長等皆さんを集めて、「あなた方はどうですか」と聞かれた。

 ところが皆さんは、私から連絡報告を受けているので、何れも私を支持して、「同意です。同意です。同意です」ということになった。

 私は「閣下、気に入らなければ、軍法会議に付して下さい。喜んで受けます」と申し上げた。

 「みんながそういうなら、私の言ったことは取り消す。しかし私は、君のやったことには、その行為には同意しない。しかし私の言ったことは取り消す」と言われ、それは御破算になりました。

 そこで私は、梅津さんが私に対して、非常に信頼しないかと思ったのです。ところが豈に図らんや、私が関東軍の第四課長になって、絶えず次官のところに連絡に行くと、私の申し上げることは悉く是認された。

 修正されたことはひとつもありません。他の局課長は非常にうるさい。私は他の局課長にはいかないで直接に次官のところに行く。(以下略)

 以上が、片倉衷元陸軍少将の回想。

 昭和十二年二月二日、林内閣が発足した。内閣総理大臣と、陸軍大臣は次の通り。

 内閣総理大臣・林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)大将(石川・陸士八・陸大一七・英独駐在・久留米俘虜収容所長・歩兵大佐・歩兵第五七連隊長・臨時軍事調査委員・少将・陸軍士官学校予科長・フランス出張・国連陸軍代表・歩兵第二旅団長・中将・東京湾要塞司令官・陸軍大学校長・教育総監部本部長・近衛師団長・朝鮮軍司令官・大将・教育総監・陸軍大臣・予備役・内閣総理大臣・内閣参議・昭和十八年死去・享年六十六歳・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功四級・大韓帝国勲三等八卦章等)。

 陸軍大臣・中村孝太郎(なかむら・こうたろう)中将(石川・陸士一三・陸大二一・在スウェーデン公使館附武官・参謀本部庶務課高級課員・歩兵大佐・歩兵第六七連隊長・陸軍省高級副官・少将・歩兵第三九旅団長・朝鮮軍参謀長・陸軍省人事局長・支那駐屯軍司令官・中将・第八師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・東京警備司令官・東部防衛司令官・大将・朝鮮軍司令官・東部軍司令官・予備役・軍事保護院総裁・終戦・昭和二十二年死去・享年六十六歳・正四位・功四級)。

 林銑十郎大将は、周囲の強硬論に左右されやすく、参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にすることができる」と言っていた
参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐が、容易に参謀本部内の意見を、思うままに纏め得たのは、もとより独特の能力にもよるが、主として参謀次長兼総務部長・西尾寿造中将の無気力と、更に遠慮なく申せば、参謀総長殿下が甘く利用されたのだ、と判断せざるを得ない。

 当時の軍務局長は後宮淳(うしろく・じゅん)少将(京都・陸士一七・陸大二九・関東軍附・歩兵大佐・歩兵第四八連隊長・関東軍附・満州国交通部顧問兼特務部鉄道主任・少将・参謀本部第三部長・陸軍省人事局長・軍務局長・中将・第二六師団長・第四軍司令官・南支那方面軍司令官・支那派遣軍総参謀長・大将・中部軍司令官・高級参謀次長・兼航空総監兼航空本部長・第三方面軍司令官・戦後日本郷友連盟会長)だった。

 昭和十二年七月七日、北京西南方向の盧溝橋で日本軍と中国軍の間で突発的戦闘が起きた。この盧溝橋事件を発端として大規模の志那事変に拡大した。

 昭和十二年秋、陸軍次官・梅津美治郎中将は、支那事変不拡大派の次の二人をともに転出させた。

 昭和十二年九月参謀本部第一部長・石原莞爾少将(三月少将進級)を関東軍参謀副長に、十月軍務局長・後宮淳中将(八月中将進級)を第二六師団長に。

 軍務局では、特に陸軍次官・梅津美治郎中将の信任の厚い軍務課長・柴山兼四郎(しばやま・けんしろう)大佐(茨城・陸士二四・陸大三四・輜重兵第一八大隊長・輜重兵大佐・軍務局軍務課長・天津特務機関長・少将・漢口特務機関長・輜重兵学校長・中将・輜重兵監・第二六師団長・南京政府最高顧問・陸軍次官・予備役・終戦・戦犯で禁錮七年・第三回参議院議員選挙で落選・軍人恩給全国連合会会長・昭和三十一年死去・享年六十六歳)は絶対不拡大派だった。

 また軍事課長・田中新一(たなか・しんいち)大佐(陸士二五・陸大三五・軍務局兵務課高級課員・歩兵大佐・兵務局兵務課長・軍務局軍事課長・駐蒙軍参謀長・少将・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長・第一総軍司令部附・終戦・戦後「田中作戦部長の証言」芙蓉書房出版・昭和五十一年死去・享年八十三歳・功三級)は積極的な拡大派だった。