その時、石原莞爾中将は、知人に発送した挨拶の中で、支那事変勃発について、次の様に述べている。
「今次支那事変勃発の時、作戦部長の重職にあった私は、申し上げようもない重任を感じております。『事変はとうとう君の予言の如くなった』とて、私の先見である如く申す人も少なくありません」
「そう言われて私はますます苦しむ以外ありません。当時、部内を統制する徳と力に欠けていた我が身を省みて、身のおき所に苦しむ次第であります」。
正に彼の告白の如く、彼は部下であった参謀本部作戦課長・武藤章(むとう・あきら)大佐(熊本・陸士二五・陸大三二恩賜・関東軍第二課長・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・中支那方面軍参謀副長・北支那方面軍参謀副長・少将・陸軍省軍務局長兼陸軍省調査部長・中将・近衛師団長・近衛第二師団長・第一四方面軍参謀長・終戦・戦犯で絞首刑・享年五十五歳・ドイツ鷲勲章功労十字星章ほか)などの議論を制し得なかった。
また、陸軍省では、軍務局軍事課長・田中新一大佐以下の一撃論をも無視することができず、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、徒にヒステリックに「支那の戦争は止めよう」と叫ぶばかりであった。
このことから、逐次、参謀本部のエリートたち、陸軍次官・梅津美治郎中将を頂点とする陸軍省のエリートたちの信頼を失いつつあった。
次第に参謀本部第一部長・石原莞爾少将に代わって、ヘゲモニーは、冷静にしてソの心中をはかり知ることを得ない典型的官僚である陸軍次官・梅津美治郎中将の握るところになりつつあった。
このような状況になり、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、自らが参謀次長として招いた多田駿中将の眼にも、その困憊(こんぱい=困って疲れ果てること)と疲労が目立つようになった。
そして彼自らが希望したか、又は参謀次長・多田駿中将、或いは陸軍次官・梅津美治郎中将いずれの主導性かは別として、人事的に参謀本部を追われる運命になった。
昭和十三年六月、近衛文麿首相が、板垣征四郎(いたがき・せいしろう)中将(岩手・陸士一六・陸大二八・第一〇師団司令部附・支那出張・歩兵大佐・歩兵第三三連隊長・関東軍高級参謀・関東軍第二課長・少将・満州国執政顧問・欧州出張・満州国軍政部最高顧問・関東軍参謀副長・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・支那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第一七方面軍司令官・第七方面軍司令官・終戦・昭和二十三年十二月戦犯で絞首刑・享年六十三歳・勲一等・功三級・ドイツ鷲勲章大十字章)を陸軍大臣に迎える方針を強行した。
板垣中将よりも先任序列の陸軍次官・梅津美治郎中将(大分・陸士一五・陸大二三首席)としては、陸軍次官に留任する訳には行かなかった。
そこで、後任の東條英機(とうじょう・ひでき)中将(岩手・陸士一七・陸大二七・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・軍事調査委員長・軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長・中将・関東軍参謀長・陸軍次官・兼航空本部長・航空総監・陸軍大臣・大将・内閣総理大臣・内閣総理大臣兼参謀総長・予備役・終戦・昭和二十三年十二月戦犯で絞首刑・享年六十四歳・従二位・勲一等・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章等)に席を譲った。
東條英機中将がこの時次官に就任したことは、将来の大東亜戦争への道にもつながる重要人事であった。
その点から、この時の梅津中将から東條中将への陸軍次官の交代が、いかなる経緯だったのか、極めて重要な問題なので、考察されなければならない。
当時の陸軍省人事局長・阿南惟幾(あなみ・これちか)少将(大分・陸士一八・陸大三〇・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監兼航空本部長・陸軍大臣・自決・終戦・勲一等・功三級)は次の様に述べている。
「東條次官は、磊落な板垣新陸相が、“自分は陸軍省のことは一切分からないので、練達の東條を次官に迎えよ”と言った」。
しかし、他の一説として、梅津中将が、板垣中将が陸軍大臣に着任する前に、東條中将を決定し、いわば満州派に対抗する統制派として布石を打ったと言われている。
「今次支那事変勃発の時、作戦部長の重職にあった私は、申し上げようもない重任を感じております。『事変はとうとう君の予言の如くなった』とて、私の先見である如く申す人も少なくありません」
「そう言われて私はますます苦しむ以外ありません。当時、部内を統制する徳と力に欠けていた我が身を省みて、身のおき所に苦しむ次第であります」。
正に彼の告白の如く、彼は部下であった参謀本部作戦課長・武藤章(むとう・あきら)大佐(熊本・陸士二五・陸大三二恩賜・関東軍第二課長・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・中支那方面軍参謀副長・北支那方面軍参謀副長・少将・陸軍省軍務局長兼陸軍省調査部長・中将・近衛師団長・近衛第二師団長・第一四方面軍参謀長・終戦・戦犯で絞首刑・享年五十五歳・ドイツ鷲勲章功労十字星章ほか)などの議論を制し得なかった。
また、陸軍省では、軍務局軍事課長・田中新一大佐以下の一撃論をも無視することができず、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、徒にヒステリックに「支那の戦争は止めよう」と叫ぶばかりであった。
このことから、逐次、参謀本部のエリートたち、陸軍次官・梅津美治郎中将を頂点とする陸軍省のエリートたちの信頼を失いつつあった。
次第に参謀本部第一部長・石原莞爾少将に代わって、ヘゲモニーは、冷静にしてソの心中をはかり知ることを得ない典型的官僚である陸軍次官・梅津美治郎中将の握るところになりつつあった。
このような状況になり、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、自らが参謀次長として招いた多田駿中将の眼にも、その困憊(こんぱい=困って疲れ果てること)と疲労が目立つようになった。
そして彼自らが希望したか、又は参謀次長・多田駿中将、或いは陸軍次官・梅津美治郎中将いずれの主導性かは別として、人事的に参謀本部を追われる運命になった。
昭和十三年六月、近衛文麿首相が、板垣征四郎(いたがき・せいしろう)中将(岩手・陸士一六・陸大二八・第一〇師団司令部附・支那出張・歩兵大佐・歩兵第三三連隊長・関東軍高級参謀・関東軍第二課長・少将・満州国執政顧問・欧州出張・満州国軍政部最高顧問・関東軍参謀副長・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・支那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第一七方面軍司令官・第七方面軍司令官・終戦・昭和二十三年十二月戦犯で絞首刑・享年六十三歳・勲一等・功三級・ドイツ鷲勲章大十字章)を陸軍大臣に迎える方針を強行した。
板垣中将よりも先任序列の陸軍次官・梅津美治郎中将(大分・陸士一五・陸大二三首席)としては、陸軍次官に留任する訳には行かなかった。
そこで、後任の東條英機(とうじょう・ひでき)中将(岩手・陸士一七・陸大二七・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・軍事調査委員長・軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長・中将・関東軍参謀長・陸軍次官・兼航空本部長・航空総監・陸軍大臣・大将・内閣総理大臣・内閣総理大臣兼参謀総長・予備役・終戦・昭和二十三年十二月戦犯で絞首刑・享年六十四歳・従二位・勲一等・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章等)に席を譲った。
東條英機中将がこの時次官に就任したことは、将来の大東亜戦争への道にもつながる重要人事であった。
その点から、この時の梅津中将から東條中将への陸軍次官の交代が、いかなる経緯だったのか、極めて重要な問題なので、考察されなければならない。
当時の陸軍省人事局長・阿南惟幾(あなみ・これちか)少将(大分・陸士一八・陸大三〇・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監兼航空本部長・陸軍大臣・自決・終戦・勲一等・功三級)は次の様に述べている。
「東條次官は、磊落な板垣新陸相が、“自分は陸軍省のことは一切分からないので、練達の東條を次官に迎えよ”と言った」。
しかし、他の一説として、梅津中将が、板垣中将が陸軍大臣に着任する前に、東條中将を決定し、いわば満州派に対抗する統制派として布石を打ったと言われている。