陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

697.梅津美治郎陸軍大将(37)東條君が陸軍大臣をやられると、部外から陸軍を破壊される虞(おそれ)がある

2019年08月02日 | 梅津美治郎陸軍大将
 また、人事局長の資格で、陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次(とみなが・きょうじ)中将(長崎・陸士二五・陸大三五・ソ連駐在・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・公主嶺戦車学校長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官兼人事局長事務取扱・第四航空軍司令官・待命・予備役・第一三九師団長・終戦・シベリア抑留・帰国・昭和三十五年一月死去・享年六十八歳)が陪席した。

 会議では、しばらく誰も発言する者がなかったので、発言資格がないのを承知で、陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将が次のように問題を切り出した。

 「この際、陸軍に与える動揺を少なくするために、依然大臣に東條大将を残した方がよいのではないでしょうか」。

 すると、参謀総長・梅津美治郎大将が、平素の慎重なのに反して、次の様に陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将の意見に対して反対意見を述べた。

 「東條君は総理をやったことだし、陸軍を支援するためには陸軍以外の地位からやってもらいたい。東條君が陸軍大臣をやられると、部外から陸軍を破壊される虞(おそれ)がある」。

 そのあと、しばらくして、参謀総長・梅津美治郎大将は、「阿南大将はどうだろう」と切り出した。

 これは、陸軍大臣は参謀総長と二者一体となって戦局打開に邁進しなければならないので、参謀総長・梅津美治郎大将としては、最も気心が分かっており、かつ最も信頼している阿南大将を推薦したものと思われる。

 ところが、阿南惟幾大将は当時第二方面軍司令官として、豪北方面にあって対米作戦に専念していた。

 この参謀総長・梅津美治郎大将の提案に対して、陸軍大臣・東條英機大将が、次のように述べて、反対した。

 「阿南君は最も適任と思うが、先に寺内元帥の首相就任のため内地に帰すことを断ったのと同じ理由で、いま阿南君を帰す訳にはいかない」。

 そこで、参謀総長・梅津美治郎大将は、「山下君はどうだろう」と提案した。

 山下奉文(やました・ともゆき)大将(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍大学校教官・在オーストリア国公使館附武官・歩兵大佐・軍事調査部・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍省権次調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・航空総監兼航空本部長・遣ドイツ視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・終戦・マニラ軍事裁判で死刑判決・昭和二十一年二月二十三日刑死・享年六十歳・従三位・勲一等旭日大綬章・功三級・勲一位景雲章等)は、当時第一四方面軍司令官だった。

 これに対しても、陸軍大臣・東條英機大将は、次のように述べて反対した。

 「かつて山下大将を蒙疆(もうきょう=内モンゴルの蒙古連合自治地域)の軍司令官に奏請(そうせい=天皇に決定を求める)したとき、陛下は二・二六事件に関係があったのではないかとの御下問もあり、私としては同意できない」。

 その後、二、三の名前が出たが、いずれも一致するに至らず、結局、陸軍大臣・東條英機大将が留任することに内定した。

 その時、秘書官が入って来て、組閣の大命が、次の二人に降下したことを告げた。

 朝鮮総督・小磯國昭(こいそ・くにあき)大将(栃木・陸士一二・陸大二二・航空本部部員(欧州出張)・歩兵大佐・陸軍大学校教官・歩兵第五一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍大学校教官・航空本部総務課長・陸軍省整備局長・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・大将・待命・予備役・拓務大臣・朝鮮総督・内閣総理大臣・内閣総辞職・終戦・A級戦犯・終身禁錮・昭和二十五年十一月巣鴨拘置所内で食道がんにより死去・享年七十歳・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・南洲国勲一位竜光大綬章)。

 軍事参議官・米内光政(よない・みつまさ)大将(岩手・海兵二九・六八番・海大一二・海軍大学校教官・軍令部参謀(欧州出張)・大佐・ポーランド共和国駐在員監督・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・戦艦「扶桑」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・中将・鎮海警備府司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・軍事参議官・議定官・予備役・内閣総理大臣・現役復帰・海軍大臣・終戦・昭和二十三年四月肺炎で死去・享年六十八歳・従二位・勲一等旭日大綬章・功一級・ドイツ鷲章大十字章等)。