明治四十一年三月三日付で、野村吉三郎大尉は、オーストリア駐在を仰せ付けられたのだが、この当時の、野村喜三郎大尉の海軍兵学校の主要な同期生を列挙してみる。
野村吉三郎大尉は、明治三十一年十二月に卒業した海軍兵学校二六期(五十九名)の次席(卒業成績)だった。
二六期の首席は、当時(明治四十一年九月)、海軍大学校(七期)学生だった木原静輔(きはら・しずほ)大尉(山口・海兵二六・首席・海大七・一等巡洋艦「日進」砲術長・装甲巡洋艦「吾妻」砲術長心得・装甲巡洋艦「生駒」砲術長心得・海軍大学校甲種学生・少佐・一等戦艦「敷島」砲術長・軍令部参謀兼教育本部員・予備役・大正六年四月死去・享年四十歳・中佐進級)。
二六期の次席は、当時、オーストリア駐在員だった野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)大尉(和歌山・海兵二六・次席・横須賀鎮守府参謀・防護巡洋艦「千歳」航海長・オーストリア駐在・少佐・ドイツ駐在・防護巡洋艦「音羽」副長・軍務局局員・大臣秘書官・中佐・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・ヨーロッパ出張・講和全権委員随員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・太平洋戦争開戦・枢密顧問官・終戦・日本ビクター社長・参議院議員・自由民主党参議院議員会長・昭和三十九年五月死去・享年八十六歳・従二位・旭日桐花大綬章・功二級)。
二六期の三席は、当時、海軍大学校(六期)学生だった小林躋造(こばやし・せいぞう)大尉(海兵二六・三席・海大六・首席・防護巡洋艦「厳島」砲術長・佐世保鎮守府参謀・海軍大学校甲種学生・少佐・戦艦「石見」砲術長・軍務局局員・大臣秘書官・英国駐在・米国駐在・中佐・装甲巡洋艦「磐手」副長・海軍大学校教官・大佐・巡洋艦「平戸」艦長・海軍省副官・在英国大使館附武官・少将・第三戦隊司令官・海軍省軍務局長・中将・ジュネーヴ会議全権随員・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・第一艦隊司令長官・大将・連合艦隊司令長官・軍事参議官・予備役・台湾総督・貴族院議員・国務大臣・終戦・昭和三十七年七月死去・享年八十四歳・勲一等旭日大綬章)。
二六期の四席は、当時、軍大学校(六期)学生だった吉武貞輔(よしたけ・さだすけ)大尉(山口・海兵二六・四席・海大六・防護巡洋艦「浪速」航海長・駆逐艦「春雨」艦長・海軍大学校甲種学生・少佐・装甲巡洋艦「浅間」航海長・佐世保予備艦隊参謀心得・呉鎮守府参謀・防護巡洋艦「矢矧」副長・中佐・装甲巡洋艦「八雲」副長・軍務局局員・大佐・軍令部参謀・海軍省軍需局第三課長・少将・予備役・昭和二十年二月死去・享年六十五歳)。
二六期の五席は、当時、軍令部員だった鈴木乙免(すずき・おつめん)大尉(福島・海兵二六・五席・一等戦艦「三笠」分隊長・軍令部部員・少佐・中佐・駐ロシア大使館附武官・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「音羽」<座礁・全損>・軍令部第五課長・大佐・予備役・昭和二十年十月死去・享年六十八歳)。
二六期の一〇席は、当時、伏見宮博恭王(中佐)附武官だった清河純一(きよかわ・じゅんいち)大尉(鹿児島・海兵二六・一〇席・海大五・首席・海軍大学校甲種学生・伏見宮博恭王(中佐)附武官・少佐・防護巡洋艦「音羽」副長・東伏見宮依仁親王(大佐)附武官・横須賀予備艦隊中佐参謀心得・軍令部参謀兼陸軍大学校兵学教官・中佐・海軍大学校教官・第二艦隊参謀・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・軍令部第一班第一課長・兼海軍大学校教官・欧米各国出張・国連海軍代表随員・少将・国連海軍代表・軍令部参謀兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・予備役・昭和十年三月死去・享年五十七歳・正四位・功四級)。
二六期の三五席は、当時、佐世保鎮守府附の長沢直太郎(ながさわ・なおたろう)大尉(岩手・海兵二六・三五席・三等駆逐艦「響」艦長・佐世保鎮守府附・少佐・装甲巡洋艦「磐手」分隊長・一等戦艦「霧島」水雷長・佐世保予備艦隊副官・佐世保鎮守府副官・中佐・巡洋艦「筑摩」副長・第一駆逐隊司令・第一四駆逐隊司令・海軍水雷学校教官・大佐・装甲巡洋艦「日進」艦長・海軍兵学校教頭兼監事長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・呉鎮守府参謀長・第二水雷戦隊司令官・海軍水雷学校校長・中将・鎮海警備府司令官・予備役・後備役・予備役・退役・終戦・昭和四十二年十二月死去・享年九十歳・功四級)。
以上、海軍兵学校二六期の主要人物七人の、進級状況を比較してみる。
六人のうち、二番の野村吉三郎大尉と、五番の鈴木乙免大尉、三五番の長沢直太郎大尉は、海軍大学校を卒業していない。
ちなみに、三番の小林躋造大尉と一〇番の清河純一大尉は、海軍大学校甲種学生の六期と五期を、それぞれ首席で卒業している。
野村吉三郎大尉は、明治三十一年十二月に卒業した海軍兵学校二六期(五十九名)の次席(卒業成績)だった。
二六期の首席は、当時(明治四十一年九月)、海軍大学校(七期)学生だった木原静輔(きはら・しずほ)大尉(山口・海兵二六・首席・海大七・一等巡洋艦「日進」砲術長・装甲巡洋艦「吾妻」砲術長心得・装甲巡洋艦「生駒」砲術長心得・海軍大学校甲種学生・少佐・一等戦艦「敷島」砲術長・軍令部参謀兼教育本部員・予備役・大正六年四月死去・享年四十歳・中佐進級)。
二六期の次席は、当時、オーストリア駐在員だった野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)大尉(和歌山・海兵二六・次席・横須賀鎮守府参謀・防護巡洋艦「千歳」航海長・オーストリア駐在・少佐・ドイツ駐在・防護巡洋艦「音羽」副長・軍務局局員・大臣秘書官・中佐・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・ヨーロッパ出張・講和全権委員随員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・太平洋戦争開戦・枢密顧問官・終戦・日本ビクター社長・参議院議員・自由民主党参議院議員会長・昭和三十九年五月死去・享年八十六歳・従二位・旭日桐花大綬章・功二級)。
二六期の三席は、当時、海軍大学校(六期)学生だった小林躋造(こばやし・せいぞう)大尉(海兵二六・三席・海大六・首席・防護巡洋艦「厳島」砲術長・佐世保鎮守府参謀・海軍大学校甲種学生・少佐・戦艦「石見」砲術長・軍務局局員・大臣秘書官・英国駐在・米国駐在・中佐・装甲巡洋艦「磐手」副長・海軍大学校教官・大佐・巡洋艦「平戸」艦長・海軍省副官・在英国大使館附武官・少将・第三戦隊司令官・海軍省軍務局長・中将・ジュネーヴ会議全権随員・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・第一艦隊司令長官・大将・連合艦隊司令長官・軍事参議官・予備役・台湾総督・貴族院議員・国務大臣・終戦・昭和三十七年七月死去・享年八十四歳・勲一等旭日大綬章)。
二六期の四席は、当時、軍大学校(六期)学生だった吉武貞輔(よしたけ・さだすけ)大尉(山口・海兵二六・四席・海大六・防護巡洋艦「浪速」航海長・駆逐艦「春雨」艦長・海軍大学校甲種学生・少佐・装甲巡洋艦「浅間」航海長・佐世保予備艦隊参謀心得・呉鎮守府参謀・防護巡洋艦「矢矧」副長・中佐・装甲巡洋艦「八雲」副長・軍務局局員・大佐・軍令部参謀・海軍省軍需局第三課長・少将・予備役・昭和二十年二月死去・享年六十五歳)。
二六期の五席は、当時、軍令部員だった鈴木乙免(すずき・おつめん)大尉(福島・海兵二六・五席・一等戦艦「三笠」分隊長・軍令部部員・少佐・中佐・駐ロシア大使館附武官・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「音羽」<座礁・全損>・軍令部第五課長・大佐・予備役・昭和二十年十月死去・享年六十八歳)。
二六期の一〇席は、当時、伏見宮博恭王(中佐)附武官だった清河純一(きよかわ・じゅんいち)大尉(鹿児島・海兵二六・一〇席・海大五・首席・海軍大学校甲種学生・伏見宮博恭王(中佐)附武官・少佐・防護巡洋艦「音羽」副長・東伏見宮依仁親王(大佐)附武官・横須賀予備艦隊中佐参謀心得・軍令部参謀兼陸軍大学校兵学教官・中佐・海軍大学校教官・第二艦隊参謀・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・軍令部第一班第一課長・兼海軍大学校教官・欧米各国出張・国連海軍代表随員・少将・国連海軍代表・軍令部参謀兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・予備役・昭和十年三月死去・享年五十七歳・正四位・功四級)。
二六期の三五席は、当時、佐世保鎮守府附の長沢直太郎(ながさわ・なおたろう)大尉(岩手・海兵二六・三五席・三等駆逐艦「響」艦長・佐世保鎮守府附・少佐・装甲巡洋艦「磐手」分隊長・一等戦艦「霧島」水雷長・佐世保予備艦隊副官・佐世保鎮守府副官・中佐・巡洋艦「筑摩」副長・第一駆逐隊司令・第一四駆逐隊司令・海軍水雷学校教官・大佐・装甲巡洋艦「日進」艦長・海軍兵学校教頭兼監事長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・呉鎮守府参謀長・第二水雷戦隊司令官・海軍水雷学校校長・中将・鎮海警備府司令官・予備役・後備役・予備役・退役・終戦・昭和四十二年十二月死去・享年九十歳・功四級)。
以上、海軍兵学校二六期の主要人物七人の、進級状況を比較してみる。
六人のうち、二番の野村吉三郎大尉と、五番の鈴木乙免大尉、三五番の長沢直太郎大尉は、海軍大学校を卒業していない。
ちなみに、三番の小林躋造大尉と一〇番の清河純一大尉は、海軍大学校甲種学生の六期と五期を、それぞれ首席で卒業している。