次に、各界からの出席者は、次の通り。
立作太郎(東京・東京帝国大学法科大学政治学科卒・東京帝国大学教授・東京帝国大学名誉教授・昭和十八年五月十三日死去・享年六十九歳)。
近藤廉平(徳島・慶應義塾・大学南校卒・日本郵船社長・男爵・貴族院議員・大正十年二月九日死去・享年七十三歳)。
深井英五(群馬・同志社英学校普通科卒・日本銀行理事・日本銀行総裁・貴族院議員・枢密顧問官・昭和二十年十月二十一日死去・享年七十三歳)、
喜多又蔵(奈良・市立大阪商業学校卒・日本綿花社長・鈴政式織機社長・昭和七年一月三十一日死去・享年五十五歳)。
その他、福井菊三郎(三井合名会社理事)などが出席している。
野村吉三郎大佐は、パリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)では、海軍委員として竹下勇中将を扶け重要な役割を果たすとともに、世界の巨頭を集めた会議全般の模様を、つぶさに見聞して大いに得るところがあった。
野村吉三郎は、後に当時を回想して、全権や出席者の人物像について次の様に語っている。
初めて世界的な舞台に端役ながら登場することが出来たので、私としては渾身の力を傾けて働いた心境である。
毎日が多忙をきわめる仕事の連続であったが、それでも偶々休養の一日を得ると年齢からいっても同輩格の吉田、松岡、有田等の外務省の連中や、陸海軍の同僚委員達が集まって大いに世界政局を論じ、また戦後の日本の国際的地位に就いて談論風発したが、時には花のパリでのお上り気分も大いに味わったものである。
こういう会議に一国を代表して出張しているとお互いに親近感を増すもので、後年には立場や考え方を異にした者もあるが、いずれもが胸襟を開いて語り合い共鳴するところも多かった。
吉田君にしろ松岡君にしろ乃至は畑君にしろ誰もが、その頃は躍進日本の将来を背負う者としての誇りを持ち、国家の将来に就いて相通ずる意見を抱いていた。
ところがその所信も、その後に続く永い時代の浪に揉まれ変化して行ったのも已むを得ないことである。
今、私の脳裏に蘇るものは首相吉田茂、元帥畑俊六、乃至は外相松岡洋介、重光葵ではなくして、これらの人々の少壮有為の鋭気に溢れた、その頃の面影である。
全権のうちでは流石に西園寺侯は元老の貫禄充分であった。日本内地でも新聞などが侯の乗船に味噌から醤油まで日本料理の材料を積み込み、料理人として大阪“灘万”の主人公や例のお花さんまで、わざわざ随行させたことを書き立てたので、大名行列と言う評判が高かったようだが、随員のなかにも冗談半分に侯の大名行列の費用を云々した者があった。
それがまた何時の間にか侯の耳に入っていたと見えて、随員一同と会食した席上で老侯は何気なく、「ワシの出張費用も贅沢に関する部分は自分持ちだ」という意味のことをチクリと言われたので、陰口を利いた男は兜を脱いでしまったものだ。
何といっても住友が後に控えているのだから、政府の出張旅費で賄うようなケチな真似をせず悠々と振舞って居られたようだ。
私が直接随行して行った牧野男は講和会議における日本側の事実上の中心人物だった。
この人は若い連中を集めていろいろと意見を述べさせることの好きな人だったが併し、どの意見にもそれが良いとか悪いとか絶対に言わない主義を堅持していた。
そうして後になるとチャンと採るべき意見は採り、日本の主張のなかに織り込み、また戦術として用いていた。そこで若い連中は冗談に「牧野さんはずるいな」とか「流石は慎重だな」と話し合ったものである。
とにかく責任感の強い人で一言一句もおろそかにしないところがあった。従って他の意見に対しても自分一人では可否を直ちに表明されなかったのであろう。
いずれにしても西園寺、牧野というような元老、大先輩の下で仕事をしたパリ講和会議は私に多くの教訓を与えて呉れ、且つ働き甲斐のある場であった。
以上が、野村吉三郎大佐が海軍委員として出席したパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)の全権や出席者についての回想である。
立作太郎(東京・東京帝国大学法科大学政治学科卒・東京帝国大学教授・東京帝国大学名誉教授・昭和十八年五月十三日死去・享年六十九歳)。
近藤廉平(徳島・慶應義塾・大学南校卒・日本郵船社長・男爵・貴族院議員・大正十年二月九日死去・享年七十三歳)。
深井英五(群馬・同志社英学校普通科卒・日本銀行理事・日本銀行総裁・貴族院議員・枢密顧問官・昭和二十年十月二十一日死去・享年七十三歳)、
喜多又蔵(奈良・市立大阪商業学校卒・日本綿花社長・鈴政式織機社長・昭和七年一月三十一日死去・享年五十五歳)。
その他、福井菊三郎(三井合名会社理事)などが出席している。
野村吉三郎大佐は、パリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)では、海軍委員として竹下勇中将を扶け重要な役割を果たすとともに、世界の巨頭を集めた会議全般の模様を、つぶさに見聞して大いに得るところがあった。
野村吉三郎は、後に当時を回想して、全権や出席者の人物像について次の様に語っている。
初めて世界的な舞台に端役ながら登場することが出来たので、私としては渾身の力を傾けて働いた心境である。
毎日が多忙をきわめる仕事の連続であったが、それでも偶々休養の一日を得ると年齢からいっても同輩格の吉田、松岡、有田等の外務省の連中や、陸海軍の同僚委員達が集まって大いに世界政局を論じ、また戦後の日本の国際的地位に就いて談論風発したが、時には花のパリでのお上り気分も大いに味わったものである。
こういう会議に一国を代表して出張しているとお互いに親近感を増すもので、後年には立場や考え方を異にした者もあるが、いずれもが胸襟を開いて語り合い共鳴するところも多かった。
吉田君にしろ松岡君にしろ乃至は畑君にしろ誰もが、その頃は躍進日本の将来を背負う者としての誇りを持ち、国家の将来に就いて相通ずる意見を抱いていた。
ところがその所信も、その後に続く永い時代の浪に揉まれ変化して行ったのも已むを得ないことである。
今、私の脳裏に蘇るものは首相吉田茂、元帥畑俊六、乃至は外相松岡洋介、重光葵ではなくして、これらの人々の少壮有為の鋭気に溢れた、その頃の面影である。
全権のうちでは流石に西園寺侯は元老の貫禄充分であった。日本内地でも新聞などが侯の乗船に味噌から醤油まで日本料理の材料を積み込み、料理人として大阪“灘万”の主人公や例のお花さんまで、わざわざ随行させたことを書き立てたので、大名行列と言う評判が高かったようだが、随員のなかにも冗談半分に侯の大名行列の費用を云々した者があった。
それがまた何時の間にか侯の耳に入っていたと見えて、随員一同と会食した席上で老侯は何気なく、「ワシの出張費用も贅沢に関する部分は自分持ちだ」という意味のことをチクリと言われたので、陰口を利いた男は兜を脱いでしまったものだ。
何といっても住友が後に控えているのだから、政府の出張旅費で賄うようなケチな真似をせず悠々と振舞って居られたようだ。
私が直接随行して行った牧野男は講和会議における日本側の事実上の中心人物だった。
この人は若い連中を集めていろいろと意見を述べさせることの好きな人だったが併し、どの意見にもそれが良いとか悪いとか絶対に言わない主義を堅持していた。
そうして後になるとチャンと採るべき意見は採り、日本の主張のなかに織り込み、また戦術として用いていた。そこで若い連中は冗談に「牧野さんはずるいな」とか「流石は慎重だな」と話し合ったものである。
とにかく責任感の強い人で一言一句もおろそかにしないところがあった。従って他の意見に対しても自分一人では可否を直ちに表明されなかったのであろう。
いずれにしても西園寺、牧野というような元老、大先輩の下で仕事をしたパリ講和会議は私に多くの教訓を与えて呉れ、且つ働き甲斐のある場であった。
以上が、野村吉三郎大佐が海軍委員として出席したパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)の全権や出席者についての回想である。