昭和十五年初頭、大本営作戦課課員・今岡豊(いまおか・ゆたか)少佐(陸士三七・陸大四七・関東軍参謀・大佐・第七方面軍高級参謀・終戦)は、梅津関東軍司令官隷下の参謀部作戦課兵站班長として転任した。
梅津美治郎中将が関東軍司令官に親補された経緯について、昭和十四年九月当時、大本営作戦課課員であった今岡豊少佐は、次の様に述べている。
昭和十四年八月二十七日、平沼内閣は独ソ不可侵条約の成立による「複雑怪奇」の言を残して総辞職し、その後継内閣は、内大臣の推薦によって阿部信行陸軍大将に組閣の大命が下された。
そして天皇は、阿部大将に対して、「陸軍大臣は梅津(美治郎中将)、畑(俊六大将)のなかから選ぶように」とのお言葉があった。
当時の内大臣は湯浅倉平(ゆあさ・くらへい・山口・旧制山口高等学校・東京帝国大学法科大学政治学科卒・内務省・岡山県知事・静岡県知事・内務省警保局長・貴族院議員・警視総監・内務次官・朝鮮総督府政務総監・会計検査院長・宮内大臣・内大臣・昭和十五年肺気腫で死去・享年六十六歳・正二位・旭日桐花大綬章)だった。
この辺りのことを内大臣・湯浅倉平は、八月三十一日朝、原田熊雄(はらだ・くまお・学習院高等科・京都帝国大学卒・男爵・日本銀行・加藤高明総理大臣秘書官・住友合資会社・西園寺公望私設秘書・貴族院男爵議員・昭和二十一年脳血栓で死去・享年五十七歳・男爵・従三位・勲三等)に次の様に話をしている。
「総理親任の時に(親任は誤りで、組閣を命ぜられた時)、陛下は非常に陸軍のよくないことをつくづく慨歎されたあとで……『新聞に伝えるような者を大臣にもってきても自分は承諾する意思はない』と仰せられ極めて厳粛な御態度で『どうしても梅津か畑を大臣にするようにせよ。たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所にもってきても、自分にはこれを許す意思はない。なお政治は憲法を基準にしてやれ』と仰せられた」。
この時は、陸軍大臣には畑大将が選ばれた。どうして畑大将になったかは明らかではないが、梅津将軍が戦地の軍司令官をしていることも幾分関係があったのかも知れない。
梅津美治郎中将が、関東軍司令官兼駐満州国大使に着任して間もない、昭和十四年九月十日、支那大陸からノモンハン事件のため満州に転用された第五師団長が関東軍司令官・梅津美治郎中将に申告に来た。
その第五師団長は今村均(いまむら・ひとし)中将(宮城・陸士一九・陸大二七首席・軍務局課員・歩兵大佐・軍務局徴募課長・参謀本部作戦課長・歩兵第五七連隊長・習志野学校幹事・少将・歩兵第四〇旅団長・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・歩兵学校幹事・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・教育総監部本部長・第二三軍司令官・第一六軍司令官・第八方面軍司令官・大将・終戦・戦犯・釈放・昭和四十三年死去・享年八十二歳)だった。
関東軍司令官・梅津美治郎中将は、第五師団長・今村均中将に次の様に述べた。
「第五師団はご苦労様です。自分も急に転職の電命を受け、一昨日山西から飛行機でここに着き、戦況の大体は承知し得た」
「かつてお互いに心配し合った関東軍参謀たちの気分は満州事変の時のものが、まだ残っていたのか、こんな不準備のうちにソ連軍に応じてしまい。関東軍以外の君の師団までも煩わさなければならないことに導いてしまった」
「中央は重光駐ソ大使に訓電の上、彼我停戦して各旧態勢に復帰することを提議している。同大使の折衝が成功すればよいと祈っている」
「しかし万一、彼がこれに応ぜず攻勢を続ける場合は、断乎応戦する決意を示すことが、彼を自重させ停戦協定に応ぜしめることにもなる」
「第五師団は戦力を統一し、敵に大打撃を与えるよう速やかに戦闘態勢を整えられたい。ともかく早く参謀を交戦中の蘇州軍司令部に派遣し、必要の連絡を取ることにし給え」。
これに対し、第五師団長・今村均中将は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に、幕僚の作戦指導について、次の様にお願いした。
「ただ一点お願いしておきたいことは、先遣した連絡参謀の言によれば、第一線軍または師団の責任指揮官をさしおき、関東軍参謀が挺身第一線に進出する事はよいとして、これが部隊に直接攻撃を命じたり、叱咤したりして、多くの損害をこうむらしめていると前線の責任者は痛憤している、とのことである」
「もしそのようなことが真であり、私の師団にもやって来て職分でないことを致しましたら、私はこれを取り押さえて軍司令部に送り届ける決意をしているので、この点諒承ありたい」。
梅津美治郎中将が関東軍司令官に親補された経緯について、昭和十四年九月当時、大本営作戦課課員であった今岡豊少佐は、次の様に述べている。
昭和十四年八月二十七日、平沼内閣は独ソ不可侵条約の成立による「複雑怪奇」の言を残して総辞職し、その後継内閣は、内大臣の推薦によって阿部信行陸軍大将に組閣の大命が下された。
そして天皇は、阿部大将に対して、「陸軍大臣は梅津(美治郎中将)、畑(俊六大将)のなかから選ぶように」とのお言葉があった。
当時の内大臣は湯浅倉平(ゆあさ・くらへい・山口・旧制山口高等学校・東京帝国大学法科大学政治学科卒・内務省・岡山県知事・静岡県知事・内務省警保局長・貴族院議員・警視総監・内務次官・朝鮮総督府政務総監・会計検査院長・宮内大臣・内大臣・昭和十五年肺気腫で死去・享年六十六歳・正二位・旭日桐花大綬章)だった。
この辺りのことを内大臣・湯浅倉平は、八月三十一日朝、原田熊雄(はらだ・くまお・学習院高等科・京都帝国大学卒・男爵・日本銀行・加藤高明総理大臣秘書官・住友合資会社・西園寺公望私設秘書・貴族院男爵議員・昭和二十一年脳血栓で死去・享年五十七歳・男爵・従三位・勲三等)に次の様に話をしている。
「総理親任の時に(親任は誤りで、組閣を命ぜられた時)、陛下は非常に陸軍のよくないことをつくづく慨歎されたあとで……『新聞に伝えるような者を大臣にもってきても自分は承諾する意思はない』と仰せられ極めて厳粛な御態度で『どうしても梅津か畑を大臣にするようにせよ。たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所にもってきても、自分にはこれを許す意思はない。なお政治は憲法を基準にしてやれ』と仰せられた」。
この時は、陸軍大臣には畑大将が選ばれた。どうして畑大将になったかは明らかではないが、梅津将軍が戦地の軍司令官をしていることも幾分関係があったのかも知れない。
梅津美治郎中将が、関東軍司令官兼駐満州国大使に着任して間もない、昭和十四年九月十日、支那大陸からノモンハン事件のため満州に転用された第五師団長が関東軍司令官・梅津美治郎中将に申告に来た。
その第五師団長は今村均(いまむら・ひとし)中将(宮城・陸士一九・陸大二七首席・軍務局課員・歩兵大佐・軍務局徴募課長・参謀本部作戦課長・歩兵第五七連隊長・習志野学校幹事・少将・歩兵第四〇旅団長・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・歩兵学校幹事・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・教育総監部本部長・第二三軍司令官・第一六軍司令官・第八方面軍司令官・大将・終戦・戦犯・釈放・昭和四十三年死去・享年八十二歳)だった。
関東軍司令官・梅津美治郎中将は、第五師団長・今村均中将に次の様に述べた。
「第五師団はご苦労様です。自分も急に転職の電命を受け、一昨日山西から飛行機でここに着き、戦況の大体は承知し得た」
「かつてお互いに心配し合った関東軍参謀たちの気分は満州事変の時のものが、まだ残っていたのか、こんな不準備のうちにソ連軍に応じてしまい。関東軍以外の君の師団までも煩わさなければならないことに導いてしまった」
「中央は重光駐ソ大使に訓電の上、彼我停戦して各旧態勢に復帰することを提議している。同大使の折衝が成功すればよいと祈っている」
「しかし万一、彼がこれに応ぜず攻勢を続ける場合は、断乎応戦する決意を示すことが、彼を自重させ停戦協定に応ぜしめることにもなる」
「第五師団は戦力を統一し、敵に大打撃を与えるよう速やかに戦闘態勢を整えられたい。ともかく早く参謀を交戦中の蘇州軍司令部に派遣し、必要の連絡を取ることにし給え」。
これに対し、第五師団長・今村均中将は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に、幕僚の作戦指導について、次の様にお願いした。
「ただ一点お願いしておきたいことは、先遣した連絡参謀の言によれば、第一線軍または師団の責任指揮官をさしおき、関東軍参謀が挺身第一線に進出する事はよいとして、これが部隊に直接攻撃を命じたり、叱咤したりして、多くの損害をこうむらしめていると前線の責任者は痛憤している、とのことである」
「もしそのようなことが真であり、私の師団にもやって来て職分でないことを致しましたら、私はこれを取り押さえて軍司令部に送り届ける決意をしているので、この点諒承ありたい」。