この十七名が、海軍兵学校二期生だが、権兵衛の卒業成績は十六番、日高壮之丞は十四番だった。だが、権兵衛と日高の二人だけが、後に海軍大将まで昇進した。
ちなみに、上村彦之丞は、二年七か月後の明治十年六月八日、第四期生としてようやく卒業したが、卒業成績は九名ちゅう九番だった。だが、上村も後に海軍大将になった。
海軍兵学寮を卒業した、権兵衛は、練習艦「筑波」で遠洋航海。明治九年九月までに帰港した。その後、そのまま「筑波」乗組みとなった。
明治九年十二月、山本権兵衛ら八名の海軍少尉補は、軍事研究のため、ドイツ海軍練習艦「ヴィネタ」乗組みを命ぜられた。明治十年の年明けに、「ヴィネタ」は出港し、ドイツに向かった。
二十四歳の山本権兵衛少尉補が、十七歳の美しい少女、トキを発見し、結婚の約束をしたのは、練習艦「筑波」で遠洋航海から帰ってきて、ドイツ海軍練習艦「ヴィネタ」に乗組むまでの間だった。
太平洋横断の遠洋航海から帰った山本少尉補らは、上陸すると、南品三丁目の海軍士官合宿所の村田屋によく行った。
その村田屋の道を隔てた向かいに箸屋という女郎屋があり、そこには、ほっそりして憂いを含んだ美しい少女の遊女が新しく現れた。
山本少尉補は一目見て、胸をうたれ、彼女を相方に指名した。
その娘は、山本少尉補の真摯な態度に安心して、身の上を語った。本名はトキ、十七歳で、新潟県中浦原郡菱潟村の漁師、津沢鹿助の三女で、家が貧しく、最近売られてきた。しかし、これからどうなるのか、とても不安だという。
悲哀と同情を覚えた山本少尉補は、心の底からトキを愛しく思い、一身をなげうってでも苦境から救い出し、妻に迎え、幸せにしようと決心した。
太田家の養子となった六歳下の弟、盛実と、同僚数名に考えを打ち明けた山本少尉補は、彼らの協力を得て、ある夜、ひそかにトキを縄でくくり、茶屋の二階から屋外に降ろし、赤坂付近の盛実の下宿にかくまった。
たちまち、トキをさらったのは山本少尉補の所業と発覚して、箸屋の主は怒った。だが、相手が贔屓になっている海軍士官の一人で、さらに、身請けしたいためと知った。
箸屋の主は、事を荒立てるより、示談にした方が得と悟り、山本権兵衛少尉補が身請け金四十円を数回に分けて支払う条件で、手を打った。当時海軍少尉の月給がほぼ四十円だった。
トキ(後、登喜子と改名)は、海軍士官の妻として必要な心得、知識、作法などを学びながら、山本少尉補がドイツ軍艦での修業を終えて帰って来るのを待つことになった。
明治十年一月二日、山本権兵衛ら八名の少尉補を乗せた、ドイツ海軍練習船「ヴィネタ」は、横浜港を出港、世界を半周する長い航海に出発した。
この航海の途中、明治十年五月、西郷隆盛の挙兵を知ったが、山本少尉補らは、国の命令がなければ、勝手に行動できないとの判断から、この練習船での実習を続けることにした。
山本少尉補は、ドイツ海軍練習船「ヴィネタ」での航海時実習中に、ドイツ士官や候補生に少しも屈するところがなく、随分喧嘩もした。
次の番の当直であるドイツ人候補生が起きて来ないのに癇癪を起した山本少尉補は、釣床のひもを解いて、いきなり甲板に落下させてやった。
明治十年十一月二日、練習艦「ヴィネタ」は北ドイツに入港した。山本少尉補ら八名は、日本公使館に行くために、十一月六日ベルリンに着いた。
山本少尉補は、そこで、官軍の陸軍大尉として西郷軍と戦っていた兄、吉蔵が六月二十四日、鹿児島西方の武大明神岳の激しい白兵戦で戦死し、西郷隆盛が鹿児島の岩崎谷で敗れて自決したことを知った。
当時の駐独公使は、青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・明倫館・ドイツ留学・外務省入省・駐独公使・プロイセン貴族令嬢エリザベートと結婚・帰国後条約改正取調御用掛・駐独公使・外務大輔・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣・駐独公使兼イギリス公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ポルトガル王国キリスト勲章・勲一等タイ王冠勲章等)だった。
青木周蔵公使は、日本公使館で、山本権兵衛ら八人の少尉補に、「任海軍少尉」の辞令を渡した。彼らは六月八日付けで海軍少尉に昇進していた。
ちなみに、上村彦之丞は、二年七か月後の明治十年六月八日、第四期生としてようやく卒業したが、卒業成績は九名ちゅう九番だった。だが、上村も後に海軍大将になった。
海軍兵学寮を卒業した、権兵衛は、練習艦「筑波」で遠洋航海。明治九年九月までに帰港した。その後、そのまま「筑波」乗組みとなった。
明治九年十二月、山本権兵衛ら八名の海軍少尉補は、軍事研究のため、ドイツ海軍練習艦「ヴィネタ」乗組みを命ぜられた。明治十年の年明けに、「ヴィネタ」は出港し、ドイツに向かった。
二十四歳の山本権兵衛少尉補が、十七歳の美しい少女、トキを発見し、結婚の約束をしたのは、練習艦「筑波」で遠洋航海から帰ってきて、ドイツ海軍練習艦「ヴィネタ」に乗組むまでの間だった。
太平洋横断の遠洋航海から帰った山本少尉補らは、上陸すると、南品三丁目の海軍士官合宿所の村田屋によく行った。
その村田屋の道を隔てた向かいに箸屋という女郎屋があり、そこには、ほっそりして憂いを含んだ美しい少女の遊女が新しく現れた。
山本少尉補は一目見て、胸をうたれ、彼女を相方に指名した。
その娘は、山本少尉補の真摯な態度に安心して、身の上を語った。本名はトキ、十七歳で、新潟県中浦原郡菱潟村の漁師、津沢鹿助の三女で、家が貧しく、最近売られてきた。しかし、これからどうなるのか、とても不安だという。
悲哀と同情を覚えた山本少尉補は、心の底からトキを愛しく思い、一身をなげうってでも苦境から救い出し、妻に迎え、幸せにしようと決心した。
太田家の養子となった六歳下の弟、盛実と、同僚数名に考えを打ち明けた山本少尉補は、彼らの協力を得て、ある夜、ひそかにトキを縄でくくり、茶屋の二階から屋外に降ろし、赤坂付近の盛実の下宿にかくまった。
たちまち、トキをさらったのは山本少尉補の所業と発覚して、箸屋の主は怒った。だが、相手が贔屓になっている海軍士官の一人で、さらに、身請けしたいためと知った。
箸屋の主は、事を荒立てるより、示談にした方が得と悟り、山本権兵衛少尉補が身請け金四十円を数回に分けて支払う条件で、手を打った。当時海軍少尉の月給がほぼ四十円だった。
トキ(後、登喜子と改名)は、海軍士官の妻として必要な心得、知識、作法などを学びながら、山本少尉補がドイツ軍艦での修業を終えて帰って来るのを待つことになった。
明治十年一月二日、山本権兵衛ら八名の少尉補を乗せた、ドイツ海軍練習船「ヴィネタ」は、横浜港を出港、世界を半周する長い航海に出発した。
この航海の途中、明治十年五月、西郷隆盛の挙兵を知ったが、山本少尉補らは、国の命令がなければ、勝手に行動できないとの判断から、この練習船での実習を続けることにした。
山本少尉補は、ドイツ海軍練習船「ヴィネタ」での航海時実習中に、ドイツ士官や候補生に少しも屈するところがなく、随分喧嘩もした。
次の番の当直であるドイツ人候補生が起きて来ないのに癇癪を起した山本少尉補は、釣床のひもを解いて、いきなり甲板に落下させてやった。
明治十年十一月二日、練習艦「ヴィネタ」は北ドイツに入港した。山本少尉補ら八名は、日本公使館に行くために、十一月六日ベルリンに着いた。
山本少尉補は、そこで、官軍の陸軍大尉として西郷軍と戦っていた兄、吉蔵が六月二十四日、鹿児島西方の武大明神岳の激しい白兵戦で戦死し、西郷隆盛が鹿児島の岩崎谷で敗れて自決したことを知った。
当時の駐独公使は、青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・明倫館・ドイツ留学・外務省入省・駐独公使・プロイセン貴族令嬢エリザベートと結婚・帰国後条約改正取調御用掛・駐独公使・外務大輔・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣・駐独公使兼イギリス公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ポルトガル王国キリスト勲章・勲一等タイ王冠勲章等)だった。
青木周蔵公使は、日本公使館で、山本権兵衛ら八人の少尉補に、「任海軍少尉」の辞令を渡した。彼らは六月八日付けで海軍少尉に昇進していた。