満州軍総司令官・大山巌(おおやま・いわお)元帥(鹿児島・討幕運動・ジュネーヴ留学・西南戦争・陸軍大臣・日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官・日露戦争では元帥として満州軍総司令官・内大臣・大勲位・功一級・公爵)も乃木大将の更迭に反対した。
大山元帥は、乃木大将更迭を進言する幕僚の意見を退けて、次のように言った。
「旅順のような困難な要塞を破るには、将兵がこの人のもとでなら喜んで死のうと思うようでなければできないものなのだ。乃木はその信望を得ている。乃木は必ずやり通すじゃろう」。
いよいよ第三次旅順総攻撃が行われることになった。この総攻撃の前に、山縣有朋総参謀長から乃木大将に、「今や旅順の攻略は一日を争う」などと、切々たる苦衷を訴える電報が届いた。
明治三十七年十一月二十二日には、第三軍に対して、明治天皇から「成功を望ム甚ダ切ナリ」という勅語が下された。さらに満州軍総司令官・大山元帥からも激励の言葉が送られて来た。国民からも多数の激励や非難の電報が届いた。
こうなると、乃木大将のプレッシャーは最大になり、痛苦にあえいだ。必死であった。今度こそ、最後の一兵になっても戦い抜かなければならなかった。
乃木大将は各師団に対して、悲壮な訓示を与えた。「乃木希典も必要とあらば予備隊の総兵力を率いて突撃する覚悟である」。事実乃木大将は、第三次攻撃が失敗に終わったら、残存兵力を率いて突撃、戦死しようと思っていた。
十一月二十六日、攻城砲の猛砲撃で、第三次旅順総攻撃の火ぶたが切られた。肉弾戦が繰り返され、多数の戦死者を出して、攻撃は失敗に終わった。乃木大将は二〇三高地攻略に集中することにした。
この時、満州軍総司令官・大山巌元帥は、総参謀長・児玉源太郎大将を作戦指導者として、第三軍に派遣することにした。
その命令を受けて、児玉大将は大山元帥に「私が行く以上は、必要な場合は私が総司令官に代わって乃木に命令を下す権限を与えてください」と言った。
大山元帥は黙然と目をつぶった。「児玉大将が乃木大将に代わって第三軍の指揮をとれば、乃木はおそらく自決するだろう。だが、それもこの戦いに勝つためには仕方がないことだ。陛下は乃木をご信任あそばせているが、目をつぶっていただくしかない。最後には乃木を殺すしかない」と考えた。そして児玉大将の申し出に承知した。
二〇三高地攻撃は開始された。突撃は何度も繰り返され、肉弾攻撃で多数が戦死した。乃木大将の次男・乃木保典少尉もこの攻撃で戦死した。乃木大将の長男・乃木勝典中尉は五月に戦死していた。
満州軍総参謀長・児玉大将が第三軍司令部に乗り込んできたのは明治三十七年十二月一日であった。児玉大将は、非常な不機嫌ですごい剣幕だった。第三軍司令部の幕僚たちはびくびくしていた。この時、第三軍司令官・乃木大将は前線の視察に出向いて、司令部にはいなかった。
児玉大将は幕僚室へずかずかと入っていくなり、兵站参謀・井上幾太郎(いのうえ・いくたろう)少佐(山口・陸士四・陸軍砲工学校・陸大一四・ドイツ私費留学・日露戦争第三軍参謀・ドイツ駐在・大佐・陸軍省軍務局工兵課長・軍務局軍事課長・少将・陸軍運輸部本部長・初代航空部本部長・中将・第三師団長・航空本部長・大将・予備役・帝国在郷軍人会会長)たちに勤務ぶりがたるんでいると言って、まず雷を落とした。
やりどころのない憤懣が八つ当たりになっていることはお互いに分っているが、どうしようもなかった。そのあと、児玉大将は、田中参謀を連れて高崎山に向かった。高崎山の司令部は敵弾を避けるために穴ぐらになっていた。
しばらくすると、乃木大将が、戦線視察を終えて、戻って来た。「やあ」と乃木大将のほうから言った。「うん」と児玉大将は簡単に答えて、お互いに挙手の礼を交わした。
児玉大将と乃木大将は、同じ長州(山口県)の出身であり、明治維新以後、国事を共にしてきた、何かと気の合う、仲の良い親友だった。今までもお互いに助け合ってきた仲だった。
だが、この時、非常な決意をもって乗り込んできていた児玉大将は乃木大将の顔を猛獣のような目で睨みつけた。二人は二畳ばかりの狭い穴ぐらの一室で、アンペラを敷いた上にあぐらをかいて、人を交えずに、向き合った。会談の内容は公表されていない。
だが、穴ぐらの外には、時々、怒号する声や、涙ぐむ声すら聞こえたという。あるときは、静かな声で話し合ったり、あるときは怒号のような激しさで論じ合っていたという。結局、児玉大将は、大山巌総司令官から許された、「乃木大将の代わりに、自分が命令する」という懐刀を取り出すことはしなかった。
大山元帥は、乃木大将更迭を進言する幕僚の意見を退けて、次のように言った。
「旅順のような困難な要塞を破るには、将兵がこの人のもとでなら喜んで死のうと思うようでなければできないものなのだ。乃木はその信望を得ている。乃木は必ずやり通すじゃろう」。
いよいよ第三次旅順総攻撃が行われることになった。この総攻撃の前に、山縣有朋総参謀長から乃木大将に、「今や旅順の攻略は一日を争う」などと、切々たる苦衷を訴える電報が届いた。
明治三十七年十一月二十二日には、第三軍に対して、明治天皇から「成功を望ム甚ダ切ナリ」という勅語が下された。さらに満州軍総司令官・大山元帥からも激励の言葉が送られて来た。国民からも多数の激励や非難の電報が届いた。
こうなると、乃木大将のプレッシャーは最大になり、痛苦にあえいだ。必死であった。今度こそ、最後の一兵になっても戦い抜かなければならなかった。
乃木大将は各師団に対して、悲壮な訓示を与えた。「乃木希典も必要とあらば予備隊の総兵力を率いて突撃する覚悟である」。事実乃木大将は、第三次攻撃が失敗に終わったら、残存兵力を率いて突撃、戦死しようと思っていた。
十一月二十六日、攻城砲の猛砲撃で、第三次旅順総攻撃の火ぶたが切られた。肉弾戦が繰り返され、多数の戦死者を出して、攻撃は失敗に終わった。乃木大将は二〇三高地攻略に集中することにした。
この時、満州軍総司令官・大山巌元帥は、総参謀長・児玉源太郎大将を作戦指導者として、第三軍に派遣することにした。
その命令を受けて、児玉大将は大山元帥に「私が行く以上は、必要な場合は私が総司令官に代わって乃木に命令を下す権限を与えてください」と言った。
大山元帥は黙然と目をつぶった。「児玉大将が乃木大将に代わって第三軍の指揮をとれば、乃木はおそらく自決するだろう。だが、それもこの戦いに勝つためには仕方がないことだ。陛下は乃木をご信任あそばせているが、目をつぶっていただくしかない。最後には乃木を殺すしかない」と考えた。そして児玉大将の申し出に承知した。
二〇三高地攻撃は開始された。突撃は何度も繰り返され、肉弾攻撃で多数が戦死した。乃木大将の次男・乃木保典少尉もこの攻撃で戦死した。乃木大将の長男・乃木勝典中尉は五月に戦死していた。
満州軍総参謀長・児玉大将が第三軍司令部に乗り込んできたのは明治三十七年十二月一日であった。児玉大将は、非常な不機嫌ですごい剣幕だった。第三軍司令部の幕僚たちはびくびくしていた。この時、第三軍司令官・乃木大将は前線の視察に出向いて、司令部にはいなかった。
児玉大将は幕僚室へずかずかと入っていくなり、兵站参謀・井上幾太郎(いのうえ・いくたろう)少佐(山口・陸士四・陸軍砲工学校・陸大一四・ドイツ私費留学・日露戦争第三軍参謀・ドイツ駐在・大佐・陸軍省軍務局工兵課長・軍務局軍事課長・少将・陸軍運輸部本部長・初代航空部本部長・中将・第三師団長・航空本部長・大将・予備役・帝国在郷軍人会会長)たちに勤務ぶりがたるんでいると言って、まず雷を落とした。
やりどころのない憤懣が八つ当たりになっていることはお互いに分っているが、どうしようもなかった。そのあと、児玉大将は、田中参謀を連れて高崎山に向かった。高崎山の司令部は敵弾を避けるために穴ぐらになっていた。
しばらくすると、乃木大将が、戦線視察を終えて、戻って来た。「やあ」と乃木大将のほうから言った。「うん」と児玉大将は簡単に答えて、お互いに挙手の礼を交わした。
児玉大将と乃木大将は、同じ長州(山口県)の出身であり、明治維新以後、国事を共にしてきた、何かと気の合う、仲の良い親友だった。今までもお互いに助け合ってきた仲だった。
だが、この時、非常な決意をもって乗り込んできていた児玉大将は乃木大将の顔を猛獣のような目で睨みつけた。二人は二畳ばかりの狭い穴ぐらの一室で、アンペラを敷いた上にあぐらをかいて、人を交えずに、向き合った。会談の内容は公表されていない。
だが、穴ぐらの外には、時々、怒号する声や、涙ぐむ声すら聞こえたという。あるときは、静かな声で話し合ったり、あるときは怒号のような激しさで論じ合っていたという。結局、児玉大将は、大山巌総司令官から許された、「乃木大将の代わりに、自分が命令する」という懐刀を取り出すことはしなかった。
江の島を非常に愛していたことからだそうです。