陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

516.永田鉄山陸軍中将(16)宇垣一成大将が陸軍大臣である以上、もうこの辺でおしまいだ

2016年02月12日 | 永田鉄山陸軍中将
 このあと、ただちに真崎大佐は、近衛歩兵第一連隊長に転出させられたのである。以後、田中義一大将、宇垣一成大将の勢力の強い間は、最優秀の序列にありながら、真崎大佐は参謀次長に就任するまで、一度も省部の要職に就く事は無かった。

 真崎大佐は、その後、近衛歩兵第一旅団長(少将)、陸軍士官学校本科長、陸軍士官学校幹事兼教授部長、陸軍士官学校校長(中将)、第八師団長を経て、昭和四年七月第一師団長に転補された。

 当時の第一師団には、参謀長・磯谷廉介大佐、歩兵第一連隊長・東條英機大佐、歩兵第三連隊長・永田鉄山大佐らが、おり、真崎中将の直接の部下になった。

 磯谷廉介大佐、東條英機大佐、永田鉄山大佐らは、真崎師団長を、軍人の神様のように崇拝していたという。彼らは、師団長官舎によく出入りして、真崎中将から薫陶を受けていた。彼らは、長州閥の打破を目指しており、その点で真崎中将を彼らのリーダーとして称賛していたのである。

 昭和六年に入り、宇垣一成大将が陸軍大臣である以上、もうこの辺でおしまいだと、真崎師団長は覚悟を決めていた。

 七月になり、八月異動の噂が立ち始め、真崎師団長はクビになり、待命だという。そんな馬鹿なことはないと、当時の磯谷参謀長、東條連隊長、永田軍事課長、岡村寧次補任課長らが、真崎中将の待命を阻止する運動を起こした。

 是が非でも真崎中将を助けねばという彼らの熱情に動かされて、とうとう参謀総長・金谷範三大将は「それなら台湾にでもやるか」と真崎甚三郎中将を八月の定期異動で台湾軍司令官にした。

 台湾に着任後、さすがの真崎甚三郎中将も、この台湾軍司令官が軍歴の最後だと思って奉公していた。だが、昭和六年十二月末の政変で、真崎中将の盟友、荒木貞夫中将が陸軍大臣に就任した。

 すると翌年昭和七年一月七日、真崎甚三郎中将を参謀次長に補すという発令がなされた。皇族である閑院宮参謀総長を補佐する事実上の参謀総長である、大参謀次長の任に就いたのである。荒木・真崎時代の幕開けであった。

 その前年の、昭和六年十月に「十月事件」が起きた。昭和六年九月十八日、柳条湖事件が起き、満州事変が勃発した。政府は、不拡大の方針を決定した。

 この政府決定に不満を抱いていた陸軍の「桜会」の橋本欣五郎中佐、長勇少佐らは、大川周明博士、北一輝らのグループと呼応してクーデターを計画した。軍隊を動かし、要所を襲撃、首相以下を暗殺、荒木貞夫中将を首班にした革新内閣を樹立するというもので、決行は十月二十四日と決めていた。

 当時、「桜会」の会員に参謀本部附・松村秀逸(まつむら・しゅういつ)砲兵大尉(熊本・熊本陸軍幼年学校・中央幼年学校・陸士三二・陸大四〇・関東軍参謀・陸軍省情報部長・砲兵大佐・内閣情報局第二部第一課長・大本営陸軍報道部長・内閣情報局第一局長・第五九軍参謀長・原爆で重傷・少将・戦後参議院議員・在任中に病死)がいた。

 松村秀逸は、その著書「三宅坂―軍閥は如何にして生れたか」(松村秀逸・東光書房・1952年)で、当時の「桜会」について、次のように述べている。

 「桜会には、急進派もあり、穏健派もあり、中間派もいた。最初は少人数だったが、そのうちに陸軍省、参謀本部、教育総監部の、いわゆる陸軍の中央三官衙におった中佐以下の将校を中心にして、それに、東京附近の部隊や、学校におった将校が集まって、夕食をともにしながら、時局談に花を咲かせていた」

 「集まった者も、四、五十人も出なかったし、穏健派が主力であって、世間でいう程過激なものではなかった。その中で、橋本欣五郎中佐を班長としたロシア班が急進派だった。通称、橋欣さんは、大使館附武官として、トルコに在勤、ケマルパシャの独裁を目のあたりに見、ロシアの五カ年計画や、ヒットラー、ムッソリーニの行動を側面から、眺めていたのである」

 「桜会を利用して、同志を集めようと企てておった模様で、コッソリ出席簿を作ったりして、御定連の中で、血の気の多い若い連中に呼びかけていたが、ことに会員拡大の方針をとってからは、参謀本部からは武藤章中佐や河辺虎四朗中佐の出席もあり、彼らは正面切って、橋欣さんの主張を論難、反ばくした」

 「そんな訳で、矯激組は一割そこそこの少数派で、会員の大部分は冷静で革新などということは、たいして興味を持った者は少なかった」

 「いつか、橋欣さんが大川周明博士を引っ張って来て、日本青年会館で講演をさせたりしたこともあったが、たいした共鳴者もなかったのが、事実である」。