この記事を書いた、参謀本部の松村秀逸砲兵大尉は、当時穏健派であった。
だが、この「十月事件」勃発の前、参謀本部幕僚と青年将校たちは国家革命という共通認識が存在し、お互いに共同歩調で進むことも視野に入れてはいた。
その後、橋本中佐らのやり方に対して、青年将校たちは不信感を抱き始めてきた。さらに、「湯水のごとく金を使っているが、どこから出ているのか」「酒と女に囲まれて、天下、国家を論じているが、不謹慎じゃないか」などと、批判し出した。
橋本中佐らが検挙される前、十月十日に、神楽坂の料亭「梅林」に橋本中佐ら参謀本部幕僚と、在京部隊将校・戸山学校・砲工学校・歩兵学校ら青年将校らによる「顔合わせ」の集会が開かれた。
だが、橋本中佐らのやり方は幕僚ファッショの確立であり、「天皇中心」は表面的なことであり、国家社会主義的傾向があった。軍首脳部による政権奪取だった。
これに反して、北一輝、西田税の影響下にあった青年将校の革新論は国体主義に徹したものであったので、天皇中心の皇道政治の確立を目指す考えだった。
この両者の思想の差異は革新理論の対立であり、この集会は、分裂の始まりとなった。つまり皇道派と統制派の対立となっていった。
この集会に参加していた、末松太平中尉は、橋本中佐の腹心、天野中尉から、「橋本中佐がこの計画が成功した暁には、『鉄血章』をやると言っているので、しっかり努力してくれ」と耳打ち、唖然とした。
怒り心頭に達した末松中尉は、仲間の菅波三郎中尉にこれを語り、激昂した二人は、橋本中佐に詰め寄り、「革命に利を以って誘うとは何事だ」と怒鳴り、大口論となった。
また、「二・二六事件への挽歌」(大蔵栄一・読売新聞社)によると、十月十日に、神楽坂の料亭「梅林」に合流した青年将校は大広間に集まった。
しばらく待っていると、橋本欣五郎中佐が入って来た。参謀肩章を吊った上衣のボタンをはずしたまま、彼は大広間の真ん中につっ立った。かと思った時、彼は軍刀を畳の上に投げ出して、倒れるように大の字に寝転んだ。「どうとでもしやがれ」と叫んで、瞑目したまましばらくじっとしていた。
決行を目前にして、総指揮官である橋本中佐のこの奇妙な態度には、解し難いものがあった。参加者に対して二階級特進の恩典をほのめかして、前々から青年将校らの批判の的になっていた。
このことがあって菅波三郎中尉ら青年将校グループと、橋本中佐を中心とする「桜会」のグループの間に思考方向、方法手段の差のほかに、感情的なミゾがますます大きく開いた。
十月十七日、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐、参謀本部部員・長勇少佐ら中心人物は憲兵隊により一斉に検挙された。
この時、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐は、責任を追及し、極刑を主張したが、責任は曖昧のままとなった。橋本中佐は重謹慎二十日、長勇少佐は同十日という軽いものに終わった。
この「十月事件」に対する陸軍中央の当初の対応は、軍事課長・永田鉄山大佐らが主導したと言われている。
「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)の中で、鈴木貞一(すずき・ていいち)元中将(千葉・陸士二二・陸大二九・陸軍省新聞班長・歩兵大佐・陸軍大学校研究部主事兼教官・内閣調査局調査官・歩兵第一四連隊長・少将・第三軍参謀長・興亜院政務部長・中将・興亜院総務長官心得・予備役・国務大臣兼企画院総裁・大東亜建設審議会幹事長・貴族院議員・内閣顧問・大日本産業報国会会長・A級戦犯で終身禁錮・仮釈放・赦免)は次のように証言している(要旨抜粋)。
この十月事件の後始末は参謀本部の人、特に渡とか東條などの課長がやらなければならない立場であった。ところが、それを永田が陸軍省に持ち込んだ。ということは当時永田はそれほどまでにそういう問題に対しても十六期、十七、八期あたりでは非常に群を抜いた力を持っていた、ということにほかならない。
それで私と永田と色々話したんだが、とにかくこれは止めさせなくてはいかんと、そして参謀本部の課長などに厳に説得をして止めさせるようにしなさい、といったがやれない、それでいよいよ閣議にも取り上げられた。
だが、この「十月事件」勃発の前、参謀本部幕僚と青年将校たちは国家革命という共通認識が存在し、お互いに共同歩調で進むことも視野に入れてはいた。
その後、橋本中佐らのやり方に対して、青年将校たちは不信感を抱き始めてきた。さらに、「湯水のごとく金を使っているが、どこから出ているのか」「酒と女に囲まれて、天下、国家を論じているが、不謹慎じゃないか」などと、批判し出した。
橋本中佐らが検挙される前、十月十日に、神楽坂の料亭「梅林」に橋本中佐ら参謀本部幕僚と、在京部隊将校・戸山学校・砲工学校・歩兵学校ら青年将校らによる「顔合わせ」の集会が開かれた。
だが、橋本中佐らのやり方は幕僚ファッショの確立であり、「天皇中心」は表面的なことであり、国家社会主義的傾向があった。軍首脳部による政権奪取だった。
これに反して、北一輝、西田税の影響下にあった青年将校の革新論は国体主義に徹したものであったので、天皇中心の皇道政治の確立を目指す考えだった。
この両者の思想の差異は革新理論の対立であり、この集会は、分裂の始まりとなった。つまり皇道派と統制派の対立となっていった。
この集会に参加していた、末松太平中尉は、橋本中佐の腹心、天野中尉から、「橋本中佐がこの計画が成功した暁には、『鉄血章』をやると言っているので、しっかり努力してくれ」と耳打ち、唖然とした。
怒り心頭に達した末松中尉は、仲間の菅波三郎中尉にこれを語り、激昂した二人は、橋本中佐に詰め寄り、「革命に利を以って誘うとは何事だ」と怒鳴り、大口論となった。
また、「二・二六事件への挽歌」(大蔵栄一・読売新聞社)によると、十月十日に、神楽坂の料亭「梅林」に合流した青年将校は大広間に集まった。
しばらく待っていると、橋本欣五郎中佐が入って来た。参謀肩章を吊った上衣のボタンをはずしたまま、彼は大広間の真ん中につっ立った。かと思った時、彼は軍刀を畳の上に投げ出して、倒れるように大の字に寝転んだ。「どうとでもしやがれ」と叫んで、瞑目したまましばらくじっとしていた。
決行を目前にして、総指揮官である橋本中佐のこの奇妙な態度には、解し難いものがあった。参加者に対して二階級特進の恩典をほのめかして、前々から青年将校らの批判の的になっていた。
このことがあって菅波三郎中尉ら青年将校グループと、橋本中佐を中心とする「桜会」のグループの間に思考方向、方法手段の差のほかに、感情的なミゾがますます大きく開いた。
十月十七日、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐、参謀本部部員・長勇少佐ら中心人物は憲兵隊により一斉に検挙された。
この時、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐は、責任を追及し、極刑を主張したが、責任は曖昧のままとなった。橋本中佐は重謹慎二十日、長勇少佐は同十日という軽いものに終わった。
この「十月事件」に対する陸軍中央の当初の対応は、軍事課長・永田鉄山大佐らが主導したと言われている。
「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)の中で、鈴木貞一(すずき・ていいち)元中将(千葉・陸士二二・陸大二九・陸軍省新聞班長・歩兵大佐・陸軍大学校研究部主事兼教官・内閣調査局調査官・歩兵第一四連隊長・少将・第三軍参謀長・興亜院政務部長・中将・興亜院総務長官心得・予備役・国務大臣兼企画院総裁・大東亜建設審議会幹事長・貴族院議員・内閣顧問・大日本産業報国会会長・A級戦犯で終身禁錮・仮釈放・赦免)は次のように証言している(要旨抜粋)。
この十月事件の後始末は参謀本部の人、特に渡とか東條などの課長がやらなければならない立場であった。ところが、それを永田が陸軍省に持ち込んだ。ということは当時永田はそれほどまでにそういう問題に対しても十六期、十七、八期あたりでは非常に群を抜いた力を持っていた、ということにほかならない。
それで私と永田と色々話したんだが、とにかくこれは止めさせなくてはいかんと、そして参謀本部の課長などに厳に説得をして止めさせるようにしなさい、といったがやれない、それでいよいよ閣議にも取り上げられた。